22. 雪辱と反攻 3
――母上を、護れなかった。
クライドは頭が真っ白になった。自分の放った魔術が消されたことだけは分かったが、視界が真っ白に染まり母の無事を確認できない。それでも、クラーク公爵の攻撃は容赦なくベリンダの命を奪えるだけのものだった。
やがて視力が戻って来る。そこに見えた光景に、クライドは目を疑った。
「は、はうえ――、」
死んだに違いないと覚悟したベリンダは生きていた。床に座り込み小刻みに震え今にも失神しそうだったが、彼女は滂沱と流れる涙をそのままに、クラーク公爵を凝視していた。
もしかして手加減をしたのかと、信じられない気持ちでクライドは父親に目を向ける。クラーク公爵は苛立たし気に眉根を寄せていた。どうやら本気でベリンダを殺すつもりだったらしい。確かにクライドも、ベリンダが殺されると信じて疑わなかった。それではなぜ、母は無事なのか――。一見したところ、彼女は怪我一つ負っていない様子だった。
「リリアナ、か」
答えは意外なところから齎された。低い公爵の声に、クライドは愕然とする。父が名を呼んだのに応えるように、誰もいないはずの場所にリリアナが姿を現す。簡素な室内着を纏う妹は静かに微笑を浮かべて、ベリンダを庇うように立っている。そしてその目は真っ直ぐに、クラーク公爵を捉えていた。
*****
時間は少しばかり遡る。王都近郊の屋敷から王都の公爵邸に転移したリリアナは、姿を消して目当ての人物を探した。
(――まだ間に合いますわ)
フォティア領の屋敷から公爵邸を訪れた母はどうやら父の執務室に居るらしい。騒ぎは聞こえないが、居場所の探知はリリアナの得意分野だ。姿を消したまま執務室に近づく。中には三人分の気配があった。それでも人の声は一切聞こえない。どうやら防音の結界を張っているようだとリリアナは見当を付けた。だが、その程度はリリアナにとって妨げにならない。姿と気配を消したまま、結界に揺らぎを与えないよう気を遣いながら転移の術で室内に侵入し、念を入れて物陰に隠れた。
部屋の中はまさに修羅場だった。リリアナはわずかに目を瞠る。ベリンダが眦を吊り上げ激昂している。対峙するクラーク公爵は冷酷な表情で、妻であるはずのベリンダを煩わしそうに眺めていた。
「知っているのよ、お義父様を殺したのは貴方だって。二人目の子だって貴方のせいで死んだ。リリアナを産ませるために、貴方は躊躇いもなくあたくしのお父様とお母様も殺したのよ――ッ!!」
クライドは呆然としている。それでも話の内容を理解しようと努力しているのは立派だ。父に真偽のほどを質しているが、公爵は呆れ果てた様子で「真実か否かは、そこまで重要なことか?」と尋ね返している。
(当然、重要ですわよ。お父様ったら何を仰っているのかしら)
クラーク公爵は自分の正義を疑わずに、むしろクライドの無理解を糾弾している。
リリアナは父親に対して呆れを隠せなかった。この世界には冤罪と言う概念はあるが、その悲劇性が正確に理解されているとは言い難い。それでも三大公爵家の当主ともあろう者が気軽に口にして良い内容ではなかった。
「国のためだと言いながら、貴方がしていることは神をも恐れぬ悪事よ、この人殺し!!」
これまで、ベリンダはずっとエイブラムを避けて来た。彼女が夫を見る目には、嫌悪と侮蔑、憎悪に加えて畏怖も含まれていた。だが今この時、彼女は恐怖を乗り越え全ての怒りをエイブラムにぶつけようとしていた。
一方でエイブラムは、ベリンダの放った言葉を耳にした瞬間、憤怒の表情を浮かべる。リリアナは眉根を寄せた。父が怒る要素がすぐには分からない。だが続いて語られた台詞に、リリアナは顔から血の気が失せるのを感じた。
「勇者と賢者と魔導士を創れば良い」
まさか、とリリアナは理解する。それは禁術だった。否、確かに研究した者も過去には居る。だがいずれも構築された術式は使い物にならず、そして神の領域を侵すものだとして禁術に指定されてからは研究することすら許されないものとされた。そのため、過去の先人たちが残した研究資料は全て焚書の対象となり、そしてごく僅かに残された資料は禁書として王宮の書庫深くに保管されている。
(お父様は、人間を創るおつもりですのね)
だから、エイブラムは激怒したのだ。ベリンダの「神をも恐れぬ悪事」という言葉は的を射ている。だが彼は自分を神にも等しい存在だと認識しているに違いない。そうでなければ、英雄を創りだそうなどと考えるはずがない。自分よりも目下の者に糾弾されるなど、気位が高い公爵には許し難い侮辱だ。
案の定、公爵はベリンダを殺害しようと魔術を使う。クライドは母を護ろうと動くが、彼の魔術はエイブラムによって消滅させられる。
その光景は、リリアナが想像した前世のゲームシナリオで存在していたかもしれない過去そのままだった。
(【無効化】)
エイブラムの魔術と、それを消滅させるリリアナの魔術がぶつかり合う。部屋の中が真っ白になった。二人の膨大な魔力が拮抗している証左だ。エイブラムの魔力量はある程度多いと思っていたし、それを魔術として使いこなす技術も備わっているだろうと予想はしていた。それでもリリアナと張るほどだとは思ってもいなかった。
どうにか攻撃魔術を消滅させる。クライドとベリンダが無事であることを確かめて、リリアナはほっと安堵の息を吐く。今この場で起こっている出来事に自分が干渉することで、記憶にあるゲームのシナリオから大幅にずれることは間違いない。そうなればリリアナが未来を予測する有力な情報の一つが失われてしまう。しかし、リリアナは今回ばかりは傍観者を気取るつもりはなかった。
やがて魔術の残滓が消える。正体を勘付かれることはないかというリリアナの期待は、あっさりとクラーク公爵本人に裏切られた。
「リリアナ、か」
確信を持った声に、リリアナは諦める。魔術を使えることはクライドにも秘密にし続けるつもりだった。だがクラーク公爵が自分の名を口にしてしまった今、クライドはこの場にリリアナがいると信じるだろう。姿を消したまま公爵と戦っても、兄は今後ずっとリリアナに疑惑の目を向け続けるに違いない。それに、今となってはライリーの婚約者候補から外れる道はほぼ閉ざされている。声が出ると声高に叫ぶ必要もないが、隠し続ける必要性も失われていた――魔術が使えない振りをすることもない。
致し方ないと、リリアナは覚悟を決める。そして母と父の間を塞ぐように立って姿を現した。クライドが愕然としている気配を感じながら、リリアナは微笑を浮かべて父を注視する。少しでも隙を見せれば殺されると、リリアナは直感した。
「いつの間に魔術を使えるようになった」
楽し気に問うクラーク公爵は先ほどまでの不機嫌を何処かに忘れ去ったかのようだ。違和感を覚えながらも、リリアナは言葉を探す。どう答えるべきか判断が付かない。逡巡の結果、彼女は答えないことにした。必要以上に情報を与える必要はない。
「お父様も、いつの間に刺客などお雇いになりましたの?」
「リリー、声が――」
驚いたようにクライドが目を瞠った。しかしリリアナはクライドを一瞥もしない。微笑みの中で、双眸は鋭く父親の顔を捉えていた。
「公爵家の“影”では、エアルドレッド公爵邸に侵入は果たせなかったのかしら」
沈黙が落ちる。クライドは勿論、エイブラムも言葉を失った。どうやらリリアナの問いは不意を突くことに成功したらしい。呆然としていたクライドは「まさか――父上?」と呟く。エアルドレッド公爵の死が父親の仕業であると、リリアナの問いだけで悟ったらしい。一方で衝撃から立ち直ったエイブラムは楽し気に低く笑い出した。
「なるほど、お前は見抜いたか――どうやった?」
ずっと執務椅子に座っていた公爵が立ち上がり、大きな机を回って前に出て来る。その全身には未だ青白い炎を纏わりつかせ、いつでも攻撃ができるように準備を整えていた。
リリアナは可愛らしく小首を傾げる。笑みを深めて「さあ」と呟いた。
「ねえお父様、わたくし、これでも怒っておりますのよ」
「怒っている?」
意外なことを聞いた、というようにクラーク公爵は片眉を上げた。リリアナは「ええ」と頷く。
リリアナは怒りという感情が良く分からない。そもそも喜怒哀楽が他の人と比べると著しく薄いと自覚している。他人や物に関する執着も薄い。ただ、エアルドレッド公爵が暗殺されたことを思い出す度に腹の底から湧き上がる灼熱の“何か”が憤りだと言うのであれば、まさしく彼女は今この瞬間も腹を立てていた。いっそエアルドレッド公爵殺害を企てた目の前の男に報復してやりたいと思うほどには、一歩間違えれば制御を失う強い感情だ。ただ、幸いにもその怒りの上には薄い膜のようなものがある。リリアナの頭にはどこか冷静な部分があって、第三者のように自分の言動を眺めていた。
公爵は愉快でたまらないというように口角を上げた。
「それは良い。怒りと悲しみを蓄えればお前は一層強くなる」
リリアナは眉根を寄せる。しかし父の言説に惑わされるわけにはいかなかった。エイブラムに有利になるよう進めないためにも、感情で相手を揺さぶるべきだ。激情は判断を狂わせる。
先ほど彼がベリンダに向けた攻撃を相殺したリリアナだからこそ、今の自分にエイブラムを下す力があるという確信は持てなかった。恐らく魔力量はリリアナの方が僅かに上だが、技術面ではエイブラムと拮抗しているか劣っている。更に今四人が居る場所は公爵邸の執務室であり、エイブラムの城だ。どのような仕掛けが施されているのかも把握できていない。通常ではあり得ない攻撃も、エイブラムに限っては可能にできる空間だ。
しかもリリアナはベリンダとクライドを護りながらの戦いである。今のところエイブラムはクライドを殺すつもりはないようだが、彼の性格を考えると必要と判断すれば即切り捨てる可能性があった。二人を護りながら拮抗した戦闘力を持つ公爵を相手取るなど、あまりにもリリアナに不利だ。
だからこそ、戦略的に優位に立つ必要があった。高速で思考を巡らせながらも、あくまでも淡々とリリアナは言葉を口にする。
「閣下は素晴らしいお方でした。この国の未来を真に見据え、わたくしたち若人のことをいつも考えてくださっていた。そのような方を、お父様の私情で喪わせるなどあってはならない事」
リリアナが誰のことを話しているのか悟ったのだろう、エイブラムは一気に不機嫌になった。彼は娘が今は亡きエアルドレッド公爵のことを話していると直ぐに悟ったのだろう。リリアナは敵が罠に掛かったことを確信しつつも、更に慎重に言葉を選ぶ。
「お父様がおらずとも、閣下がいらっしゃればこの国は安泰でございましたでしょう。あの方こそまさしく英雄。賢者と呼ばれ慕われるべきお方でしたわ。お父様は、あの方の足元にも」
――及ばない。
そう続けようとしたリリアナの周囲で防御の結界が白く光る。エイブラムに気付かれないよう張っていた結界は、前触れなく仕掛けられた火魔術の攻撃を弾いた。
「あら、短気ですのね。そういう所も英雄に相応しくない振る舞いではございませんこと?」
嘲弄を滲ませる娘の言葉にクラーク公爵は青筋を浮かべる。
「何が英雄だ。あいつは昔から鼻に付く奴だった。大して能力もないのに周囲から賛美され、だが国を護ろうともせず領地に引きこもってばかりの脆弱者だった! 先代陛下だけだ、先代陛下だけが私の力を認めてくださったのだ」
その間にも間隙を開けずに容赦ない攻撃がリリアナへ降りかかる。執務室自体には魔力を無効化する術が掛けられているのか、大きな被害はない。だが人に当たれば大怪我することは必至だった。大小さまざまな炎の球体だけでなく火柱もリリアナへと襲いかかる。その中には結界を無効化するものも含まれていた。防御の結界が徐々に緩み始める。リリアナは自分だけでなく、ベリンダとクライドのことも結界で護っていた。自分の身を自力で守れるだろうクライドよりもベリンダに重点を置く。特にベリンダは巻き込まれる可能性が高い。
そして怒りを煽り判断力を鈍らせようというリリアナの戦略は上手く行ったとは言えなかった。クラーク公爵は激情をぶつけながらも、冷静に魔力を制御している。
父親の攻撃は次々と無詠唱で繰り出される。その全てを無効化しながらも、リリアナはどこか冷静な部分で違和感の理由を悟った。
(お父様は、わたくしを殺すおつもりがないご様子)
リリアナも当初は父親をどうするか悩んでいた。正しい道を選ぶのであれば、捕縛して証拠を集め正式な手順で神殿に裁判を提訴すべきだ。だがそうするには幾つかの問題がある。一つは証拠が見つかるか分からないこと。万が一見つかったとしても、広い人脈を持ち魔力量も多い父は保釈されるか人知れず脱獄する可能性が高い。もう一つは、正式に罪を問えばクラーク公爵家自体が没落しかねないこと。リリアナ本人は構わなくとも、クライドや母、祖母はまだ生きている。そして一番の問題は、そもそも公爵を捕縛できるのか――ということだった。
捕縛するためには相手よりも強くなければいけない。そうでなければ逆にこちらが倒される。クライドは戦力になるかもしれないが、リリアナは端から頼るつもりがなかった。
「【吹風】、【鎌風】」
小規模な風を起こして青炎の球体を一つに纏め、そして風の剣で公爵の体を狙う。一瞬驚いたように目を瞠った公爵は難なく自分への攻撃を防ぎ、満足そうににやりと笑った。
「この魔力量――なるほど、十二分だ。やはり、私は間違っていなかった」
短詠唱と魔術の精密さ、そして攻撃力からエイブラムはリリアナの魔力量と魔術の才能を見て取ったらしい。
「だが、まだまだ未熟だ。お前は私にひれ伏すのだ――我が下僕」
エイブラムはにやりと笑って、小さく呪文を紡ぎ始めた。ぞくりとリリアナの体が悪寒に震える。
不明瞭な、しかし音階を持つ文言は隷属の呪い――――今では使われるはずのない、禁呪だった。
今年は「悪役令嬢はしゃべりません」にお付き合い頂きましてありがとうございました。
来年も引き続き読んで頂けると嬉しいです。楽しいと思って頂けると更に有難いです。
皆さま、良いお年をお迎えください!









