5. 領地への帰還 1
図書館で読書をし、人知れず魔術の鍛錬を重ねる。週に数度は王宮へ王太子妃教育を受けに行き、ライリーと時間を過ごす。リリアナが暮らしている屋敷の中を探索する。これまで気が付かなかったが、叔父が住んでいたこの屋敷は隠し部屋や通路があるらしく、初めて見つけた時リリアナは珍しくテンションがあがった。叔父はどうやら不可思議な現象や物が好きらしく、書物に関する考察や旅人から聞いたらしい話の覚書、研究の手記や日記も膨大に残されている。
声が出なくなってから半年、リリアナは穏やかな時間を過ごしていた。相変わらず家族には会っていないし、他の婚約者候補たちがリリアナの悪い噂を流しているようだが、リリアナは婚約者候補から外されたいので痛くも痒くもない。
(それに、わたくしの声が出ないというのは事実ですものね)
伝え聞くリリアナの噂の中には、「声が出ない」というものも含まれていた。「人を呪おうとして、その呪いが己に返ったのだ」という、眉唾物の話である。ライリーや時々お茶を共にするオースティンはそんな噂に憤慨していたが、リリアナは苦笑を漏らす程度で、平然としていた。
噂の出所は大体予想がついている。リリアナを目の敵にして、派手に着飾り方々の茶会に出ることを生きがいとしたマルヴィナ・タナー侯爵令嬢とその取り巻きたちだろう。リリアナとしては四年後に婚約者候補から外れるつもりだし、痛くも痒くもない噂だ。醜聞ですらない。
そもそも、ゲームにはマルヴィナ嬢の名前は一切出て来なかった。リリアナがライリーの婚約者になる気がない以上、ゲームのシナリオから多少ずれは生じるだろうが、ヒロインが現れる前に、彼女もリリアナと同じく表舞台から退場することになるだろう。
加えて、実際にリリアナは他人を呪ったことなどない。そもそも六歳の時点で他人を呪うほどの実力があれば既に神童としてもてはやされているだろう――尤も、ゲームのリリアナは十四歳の時点で、気付かれずに他人を呪う術を身に着けていたのだが。やはり、控え目に見積もってもゲームのリリアナは天才だ。
そして、半年経過した今でもリリアナは声を取り戻せない。医者は呪術の可能性を示唆しているが、魔導士が屋敷に来る気配は全くなかった。恐らく、父親である公爵が手配していないのだろう。
(お父様は、わたくしの声が戻らなくても良いとお考えになっていらっしゃるのでしょう。わたくしの予想ではなく、殿下のお考えが正しかったようだわ)
最初に王宮でライリーと会った時、リリアナを婚約者候補に据え置きたいと考えているのは国王であり、リリアナの父は反対の立場だと彼は言っていた。リリアナが最初に思いついた仮説とは真逆だが、現状を考えるとライリーの発言が正しかったように思える。
ライリーは声の出ないリリアナを気に掛けて魔導士を紹介しようとしてくれたが、リリアナは丁重に断った。クラーク公爵が何を企んでいるのかは分からないが、婚約者候補から外されるという目的を達成するためには、たとえ父親が何かを謀っているのだとしても、その策略に乗った方が都合が良い。
(ゲームのリリアナは、ゲーム開始時には声が出ていたもの。もしかしたら、殿下に魔導士を紹介していただいたのかもしれないわね)
もしくは、自分で見つけ出し治療した可能性も否定できない。幼少期のリリアナがどのような子供だったかはゲームにほとんど描かれていないが、自分の記憶を辿る限り、我がまま放題だった一方、頭は良かったと記憶している。たとえ本当に声を失った時期があったとしても、ライリー殿下の正式な婚約者となるために、自ら治療法を探り当てた可能性もある。
(もしそうだとしたら、十四歳で他人を呪う術を心得ていたとしてもおかしくはございません)
早い時期から呪いに触れていたのなら、他人を呪おうと思いつくのも不自然ではない。倫理的には問題だが、リリアナは自分がそうしない自信もなかった。
「お嬢様、そろそろご準備なさいませんと」
〈ええ〉
マリアンヌが部屋に入って来る。これから、リリアナはマリアンヌと護衛を伴い、クラーク公爵家の領地であるフォティア領に戻る。十一歳になった兄、クライドのお披露目パーティーが開かれる予定だ。本当は十歳の時に開く予定だったが、父である公爵の都合で延期になったと聞く。
集まるのはクラーク公爵家の親戚や、縁の強い貴族たち――つまり身内だけである。一般的なお茶会ほど気を張る必要もないが、クラーク公爵自身が宰相を務めているだけあり、集う知人も高貴な人々だ。
(ライリー殿下もいらっしゃると仰っていたわね)
国王陛下はさすがに身分が高すぎて今回のお茶会の趣旨には添わないこと、そして体調が思わしくないことから、そもそも招待状を出していないらしい。公爵が口頭で挨拶がてら伝えたそうだが、それで十分なのだろう。だが王太子が来るということで、参加できない貴族たちがこのお茶会をどう捉えるのか――考えるまでもない。
それに、リリアナにとってはもう一つの最大の問題があった。
リリアナより五歳年上のクライド・ベニート・クラーク。彼は攻略対象者の一人なのだ。眉目秀麗、文武両道。細身で理知的な面差しをした、敬語を話す眼鏡キャラは前世でも人気があった――ように記憶している。リリアナが覚えているクライドは十八歳の姿だから、現実の彼はまだ幼さが残っているだろう。
だからといって、会えるのが楽しみであるはずもない。クライドのルートでも、リリアナが辿る未来は服毒による処刑か幽閉だ。
思わず零れそうになる溜息を堪える。マリアンヌはそんなリリアナの様子に目ざとく気が付いた。
「お疲れですか、お嬢様」
〈いいえ、大丈夫よ〉
リリアナは首を振り微笑んで見せる。だが、気が重いことも確かだ。
フォティア領の披露宴では久しぶりに家族と会う。嬉しいというよりも、気を使いすぎて疲れないかが不安だ。それに、リリアナが普段暮らしている王都近郊の屋敷から領地の屋敷までは距離がある。早馬を駆けさせれば二日だが、貴族の夫人や令嬢たちにとっては強行軍だ。結局、片道に一週間程度はかかってしまう。
(いっそのこと、転移の術を使いたいわ)
誰かを連れて転移したことはないが、マリアンヌ一人くらいなら連れていけるのではないかと思う。だが、リリアナが魔術を使えることは誰にも秘密だ。一番リリアナの身近にいるマリアンヌにさえ、悟らせてはいない。
「それと、今回の同行者ですが」
服を着て頭を整えている時、ふと思い出したようにマリアンヌが口を開いた。
「いつもの護衛二人に加え、魔導士様がお一人いらっしゃることになりました」
〈……魔導士?〉
リリアナは首を傾げる。クラーク公爵家にお抱えの魔導士はいるものの、彼は公爵に仕えており、リリアナ専属の魔導士はいない。不思議そうなリリアナに気がついたマリアンヌは説明を加えた。
「最近、魔物がよく出没しているようで――以前はこんなこともなかったのですが」
王都から地方へは大きな街道が整備されていて、その街道には滅多に魔物が出ることはない。商人も旅人も安心して往来できるのが売りだったのだが、最近は魔物に襲われる人が増えているのだという。
確かに、魔物相手では魔術が不得手な護衛は分が悪い。納得したリリアナは、手元の紙に〈その魔導士様はどこの方?〉と書いてマリアンヌに見せる。マリアンヌはそれを一瞥し、「魔導省に依頼致しましたから、近場から適切な方を派遣してくださることになっております」と答えた。
恐らく魔導省に所属している魔導士がやって来るのだろう。
(魔物が増えているなら、魔導省も忙しくなっているでしょうから、いらっしゃるとしても若手かしらね)
もし尋ねられそうなら、呪術に関しても確認してみたい。
声が出ないままでも何ら問題ないとリリアナは思っているが、破滅ルートを全て回避して新たな人生を送り出す時、声は出せるようになっておいた方が何かと都合が良い。
リリアナはマリアンヌと護衛を引き連れ馬車に乗る。魔導士は少し進んだところで乗り合わせるらしい。いつの間にかリリアナの憂鬱な気分は吹っ飛んでいた。
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