22. 雪辱と反攻 1
その日の朝、リリアナを起こすために部屋を訪れたマリアンヌは満面の笑みを浮かべていた。
「お嬢様、お誕生日おめでとうございます!」
既に目を覚ましていたリリアナは驚いたように目を瞬かせる。しかし、すぐにマリアンヌの言葉を理解して、嬉しそうに顔を綻ばせた。今でも変わらずに家族から誕生日プレゼントは贈られて来るが、それは全て執事が手配したものだ。更に呪術が仕込んである可能性も考えて、素直には喜べない。だが、リリアナが暮らしている屋敷の使用人たちが用意してくれる贈り物はどれも心がこもっていた。
「このお花は庭師からの贈り物です。お部屋に飾りましょうか?」
〈ええ、お願いするわ。寝室にお願い〉
例年通りであれば料理人たちも普段に増して豪勢なご馳走を振る舞ってくれるだろう。恐らく今日か近日中にクラーク公爵が王太子の婚約者候補から下ろすために動き出すだろうが、そのことすら忘れそうになるほど使用人たちが用意してくれた贈り物は豪勢だった。勿論、家族が適当に用意した物と比べると非常に安価だ。だが、リリアナは気にならなかった。
「こちらは王太子殿下からの贈り物です」
着替えを終えて朝食を終えたリリアナはマリアンヌに差し出された箱を受け取る。庭師が贈ってくれた花束とは比べものにならないほど豪奢な花束も添えられていたため、リリアナは庭師の花を寝室に、ライリーからの花を隣室の書斎に置いて貰うことにした。
箱を開けると、その中に入っていたのは揃いのペンダントと耳飾りだった。ライリーの髪と瞳を思い起こさせる金と碧だ。簡素だが細部まで非常に凝った精巧な造りで、可憐な風貌のリリアナに良く似合っている。
「まあ、とても綺麗です。リリアナ様の美しさが余すところなく引き立てられていて、さすが王太子殿下のお見立てですね」
嬉しそうにマリアンヌが頬を染めて褒めてくれる。リリアナは微笑を浮かべて頷いたが、身に着けることはせずに鏡台へ仕舞うようマリアンヌに手渡す。
婚約者候補たちに、ライリーは特別な贈り物はして来なかった。宝飾品を贈る時も彼の風貌を想起させる色合いは使わないよう徹底していたほどだ。だが、既に彼はリリアナを婚約者に内定させている。十歳になったリリアナの声が出ないことを理由に婚約者候補から外す密約が国王と公爵の間で交わされていることを知っているはずだが、何らかの勝算があるのかもしれない。だがこのまま父の思惑通りに運べば、ライリーが贈ってくれた宝飾品は日の目を見ることはないだろう。婚約者でもない令嬢が王太子の色を纏うことはできない。
しかし、そんなこととは知らないマリアンヌは喜々としながら「このペンダントと耳飾りに合うドレスを仕立てましょう」と話し掛けて来る。リリアナは声が出ない振りをしているのを良いことに、ただ微笑を浮かべるだけで答えようとはしなかった。無言でプレゼントに添えられていた王太子からの手紙を読む。他人に読まれることを想定しているのか、内容は在り来たりなものだった。ただ、以前までとは違いリリアナを婚約者として扱うような言葉が散りばめられている。
〈マリアンヌ、殿下にお礼状を認めるわ。他に贈り物をくださった方はいらっしゃる?〉
「はい、昨年あたりから徐々に増えておりましたが、今年もまたご新規様が」
まだ社交界デビューしていないリリアナには、それほど多くの贈り物は届かない。通常であれば同年代の令息が居る類縁から贈り物が届くところだが、王太子の婚約者候補として名を連ねているリリアナに気を遣ってか、滅多にそのようなことはなかった。一方で、王太子妃となる可能性があるリリアナに取り入りたい者たちの贈り物が最近では増えて来ていた。マリアンヌから話を聞いたり、呪術の鼠やオブシディアンの情報からある程度彼らの選別は終えているものの、面倒であることに変わりはない。マリアンヌの返事を聞いたリリアナはうんざりと溜息を吐いた。
(切実に、複製魔術で終わらせたくなりますわ)
イメージは前世で良く使っていたコンピューターとプリンターだ。ライリーのように心を込めた贈り物をしてくれる人であれば文面に悩みもするが、将来の王太子妃に取り入ろうとする相手に時間を割くのは勿体ない。定型文を書いて全て複製するだけでも十分だろう。高位貴族は気兼ねなく紙とインクを消費しているが、下位貴族や庶民にとって紙とインクは非常に高価な品だ。贅沢品を欲望に塗れた者たちに消費すると考えただけでも腹が立つ気がした。
〈わかったわ。その方たちの名前を一覧にして頂戴。後でお礼状を認めるから、終われば送ってくださいな〉
「ええ、勿論です。ですがリリアナ様、お礼状は明日になさっても良いと思いますよ。今日はリリアナ様のお誕生日なのですから――好きなことをなさってください」
〈ええ、有難う〉
マリアンヌの気遣いにリリアナは礼を言う。だが、好きなことをするように言われてもリリアナに趣味はない。魔術や呪術の研究は普段から王太子妃教育の合間を縫ってしていることだし、それ以外で何かしたいことがあるかと考えても思いつかなかった。敢えて言うならばクラーク公爵の謀略を裏付ける証拠を探すことが目下の課題であり、最も急ぎで対処したいことだ。たとえリリアナがライリーの婚約者候補から降りたとしても、手を引くことはできない。だがマリアンヌの言う“好きなこと”ではないだろうことは、さすがのリリアナにも分かった。
リリアナが何をするか決めることが出来ないでいるうちに、マリアンヌは仕事のため一旦部屋から出て行く。一人になったリリアナは小さく息を吐き、マリアンヌが整理してくれた贈り物を一つずつ確認することにした。勿論、魔術あるいは呪術の類が仕掛けられていないか、そして毒が仕込まれていないかも逐一調べる。四年前にペトラから呪術を習い始めたリリアナは、魔導省に監視されているペトラと会えなくなってからは独学で研究を続けている。そのお陰か調査の速度も上がって来た。
手慣れた様子で確認し、特に問題がないことを確認したリリアナは安堵の息を吐く。それなりの個数があったため、だいぶ時間が掛かった。だが確認が終わったところで他にすることもなく、リリアナは適当に贈り物を一つ手にとって眺める。
リリアナに取り入ろうとしている者たちから贈られて来た品は全て高級品だった。売って金に換えれば修道院に寄付することも可能だろう。いずれにせよ、その殆どがリリアナの趣味ではない。
そんなことを考えていたリリアナだったが、ふと気配を感じて顔を上げた。窓際に目をやると、いつの間にか黒獅子が姿を現わしている。リリアナは微笑を零した。
「お久しぶりですわね、アジュライト」
『ああ、久方ぶりだ。なんだそれは、大量の貢ぎ物だな』
「貢ぎ物など――」
アジュライトの言い草にリリアナは苦笑する。
「これは贈り物ですわ。わたくしの誕生日ですから」
『誕生日――ああなるほど、生まれた日のことか。確かに人間は生まれた日を祝うと聞いたことがある』
「あなた方にはそのような習慣はございませんの?」
納得した顔のアジュライトが告げた言葉が気になり、リリアナは首を傾げた。アジュライトは魔物ではないと言うが、勿論人間でもない。彼が一体どのような存在なのか判然とはしないが、自分とは違う生き物なのだとリリアナは認識していた。何分、年齢を尋ねたところで“生きる時間が異なるから一概には言えない”と答えるのだ。誕生日という概念がなくともおかしな話ではない。案の定、獅子は頷いてみせた。
『ないな。そもそも誕生日というものを認識しない。俺たちは、気が付けばそこに居るものだ』
「親はないのですか?」
『俺たちを産む者、ということか?』
「ええ」
人間であれば父母から子は産まれる。植物であれば雄しべと雌しべ、もしくは球根の分球だ。胞子で増える種もあり、繁殖方法は千差万別だ。勿論、生物であれば分裂して増える種もある。どれに該当するのかと問えば、アジュライトは少し考えて『色々だな』と教えてくれた。
『親から産まれる奴もいるし、自然発生する奴もいる。分裂する奴もいるな』
「――複雑ですのね」
分裂する、と言われた瞬間に目の前の獅子が二つに分かれる絵を思い浮かべ、リリアナは微妙な表情になった。アジュライトは面白がるようにそんなリリアナを見たが、自分がどのように生まれたかは言及しない。知られたくないことなのかもしれないと判断したリリアナは質問を諦めた。
「それよりも、貴方の今日のご予定は如何かしら」
『今日は特に何も予定していない。ここで昼寝でもしようかと考えていたところだ』
「まあ」
ネコ科らしい言い分にリリアナは思わずと言ったように笑い出す。
「それでしたら、わたくしの話し相手をしてくださいな。今日は誕生日ですから、ゆっくりと過ごそうと思いますの」
『話し相手、か』
それも面白そうだな、とアジュライトは快諾してくれる。
『それなら何から話そうか――』
考えるアジュライトの尻尾がぴたんぴたんと床を叩く。その様を眺めながら、リリアナはアジュライトの言葉を待つ。やがて黒獅子が選んだ話題は、世界各地の旅行記だった。
*****
アジュライトとの会話を楽しんだリリアナにとって、夕食までの時間はあっという間だった。夜になれば自分の時間だと言う黒獅子は、夕食を終えたリリアナを残して窓から外へ出る。竜の翼で闇に飛び立つ獅子を見送ったリリアナは、食後の読書を楽しんでいた。
「よお」
静寂を破る声に、リリアナは本から顔を上げる。正面に立ってリリアナを見下ろしていたのはオブシディアンだった。彼が侵入した瞬間に気が付いていたリリアナは動じない。それが悔しいのか、オブシディアンは不服そうに口をへの字に曲げた。
「いつになったらあんたを驚かせられんのかなあ」
「少なくとも、わたくしの屋敷で出し抜こうと考えるのはお止めになった方が良いと思いますわ」
「――ご忠告、痛み入るぜ」
小さな舌打ちと共に苦々しく呟くオブシディアンは、リリアナに腹を立てているわけではない。自分の力不足に不甲斐なさを感じているだけだ。それを分かっているから、リリアナは小さく笑った。だが、普段であればすぐにソファーに腰かけるオブシディアンがその場から動かない。不審に感じたリリアナは首を傾げて少年の顔を見上げた。
「どうかなさいまして?」
一体何があったのか――そう問うたリリアナに、オブシディアンは仏頂面で近づいて来た。その気になればいつでもリリアナを害せるだろう距離に入った少年は、しかし動こうとはしない。様子を窺うリリアナを無言で見つめていたが、やがてローブの下から小さな箱を取り出した。受け取れ、と言うようにリリアナに差し出す。
「お嬢の誕生日だろ、今日」
言われてリリアナは頷く。どうやら誕生日の贈り物らしいと思い至り、リリアナは目を丸くした。本を卓上に置き、手を差し伸べて小箱を受け取る。小箱はとても軽い。
「開けてもよろしくて?」
「大したもんじゃねえけどな。安いし」
優秀な刺客であっても貴族と比べれば自由になる金は少ない。唇を尖らせるオブシディアンに笑みを浮かべながら、リリアナは小箱に掛けられた紐をほどいた。蓋を開けて中を覗く。入っていたのは、貝殻のビーズで彩られた可愛らしい小物入れだった。宝飾品を入れるためのもので、一点ずつ職人が心を込めて作ったのだと分かる。貴族にとっては安い買い物だが庶民にはなかなか手が届かないもので、オブシディアンが悩みながら選んでくれた姿が目に見えるようだった。
「とても可愛らしいわ。ありがとう、大切に使わせていただきますわね」
礼を口にすれば、オブシディアンは安堵したように頬を緩めた。しかしすぐにその表情は仏頂面に変わる。そして実際にリリアナはその小物入れを鏡台に持って行く。早速、気に入りの宝飾品を小物入れに入れて引き出しに仕舞い込んだ。その姿を、オブシディアンは複雑な表情で見守っている。リリアナはオブシディアンの様子に気が付くことなく、元々座っていたソファーに戻った。
「それにしても、貴方がわたくしの誕生日をご存知だったなんて思いませんでしたわ」
「一応、お嬢のことを知った時に一通り調べたからな」
彼にとっては仕事の一環でもあったのだろう。リリアナは腹を立てることもなく、すんなりと納得した。
「それに、フォティア領の公爵邸もちょっと騒がしかったからさ。あんたの誕生日プレゼントを――執事のフィリップだっけ? そいつが準備してたから、それで思い出したっていうか」
僅かに言い訳がましい口調でオブシディアンはつらつらと説明する。普通の令嬢であれば不満に思うところだったかもしれないが、リリアナは不快に思うことすらなく素直に納得した。
オブシディアンには、クラーク公爵が企んでいる謀略の証拠を掴むよう頼んでいる。そのため、彼もリリアナと同様に王都の公爵邸やフォティア領の屋敷に幾度となく潜入していた。
「ああ、そうだ。ついこの前珍しいことがあったんだよな」
「珍しいこと?」
リリアナが首を傾げる。オブシディアンは頷いた。
「何でか知らねえけど、公爵夫人がフォティア領の屋敷を出たんだよ」
「お母様が?」
確かにそれは珍しい。確か夜会に出席する予定もなかったはずだとリリアナが考えていると、オブシディアンは更に驚くべき情報を口にした。
「向かったのは王都の公爵邸だ。特に誰かに呼ばれたわけでもなく、突発的に――って感じだったな。妙に顔も強張ってたし」
一体何があったのかはオブシディアンにも分からないと言う。だが、母ベリンダが王都の公爵邸に向かうなど、天変地異の前触れと言われても不思議ではない出来事だ。リリアナが物心ついた時にはすでに、父母の関係は非常に悪かった。父はともかく、母は父を避けていた。その彼女が自ら、公爵の生活拠点である王都の公爵邸に向かうことはあり得ない。だが現実として彼女はフォティア領を後にした。王都の公爵邸に行かねばならないと彼女が決断した何らかの理由があるはずだ。
リリアナの表情が険しくなる。胸騒ぎがした。もしベリンダが王都の公爵邸に到着すれば、そこには父エイブラムと兄のクライド、そして母ベリンダが揃うことになる。
オブシディアンは何気なく外の景色を見やった。もう日は落ち、夜の闇が迫っている。
「多分、今日の夕方には着くと思うぜ。もうそろそろか」
「――なんですって?」
低い声が漏れる。オブシディアンが驚いたようにリリアナを見るが、構っていられなかった。
一つの記憶が、リリアナの脳裏に蘇る。前世での乙女ゲームで、クライドとリリアナの母親は出て来なかった。彼女はクライドが十五歳の時に病死している。つまり今この時期だ。だが、ベリンダはまだ病に侵されていない。嫌な予感に心臓が音を立てた。
(――本当にお母様は、病死だったの?)
リリアナは母親に優しくされた記憶はない。忌避され化け物と呼ばれ蔑まされて来た。記憶を取り戻す前のリリアナは、そのことに息苦しさを感じていた。彼女にとってはそれが普通のことだったが、クライドとの交流が増えれば増えるほど、兄と自分の扱いの差が目に付いた。
だからこそ、リリアナはそこまでベリンダに思い入れがない。たとえ彼女が病死ではなかったとしても、助けたいという気持ちにはならない。刺客に襲われ重篤になったケニス辺境伯の元へマリアンヌが駆け付けた時、リリアナは侍女を守るため魔道具のペンダントを渡した。あの時とは全く心境が違う。マリアンヌは護りたいと思うが、ベリンダのために何かしてやりたいかと問われたら答えは否だ。
しかし、クライドにとっては違う。クライドはベリンダと良い関係を築いていた。母と妹の間を取り持とうと努力していたことも知っているし、自分と妹の扱いの差に悩んでいたことも罪悪感を抱いていたことも知っている。
(もし、病死ではないとしたら)
――もし、クライドの目の前で父が母を殺したのだとしたら。
エアルドレッド公爵を暗殺した父が、母を殺すことに躊躇いがあるとは限らない。証拠がない殺人も既に四件犯している可能性が高い。彼の実父、義両親、そしてエアルドレッド公爵の最初の妻だ。既に殺人という禁忌を犯している人間は、再びその禁忌に手を染めることを躊躇わないという。必要と判断すれば、クラーク公爵は肉親であろうが迷いなく切り捨てるだろう。
だがクライドは殺人には慣れていない。剣術は嗜んでいるが、実際に目の前で人が殺される場面を見たことはないはずだ。魔物襲撃にも出くわしたことがない。そんな彼が母が父に殺害される場面を目の当たりにした時、どのような精神状態になるか想像に難くない。
ゲームのクライドと現実のクライドは性格が違う。ゲームの彼は今のリリアナが知る兄よりも腹黒で強かだった。世の中に諦念を抱き、冷めた目で俯瞰していた。それでも最後まで妹を罰することに躊躇があった。結局は処罰を下す道を選ぶが、家族に対する想いと憎悪の狭間で葛藤する彼を支える存在としてヒロインが居た。
彼の性格が変わる切っ掛けが、もし彼の母の死だったとすれば――。
――それは自らの破滅に繋がるのではないか。
リリアナは知らず詰めていた息を吐き出した。確証はないが、間違いないと直感が囁いていた。
オブシディアンは、ベリンダがもうそろそろ公爵邸に到着するだろうと言っていた。それならばもう、時間がない。逡巡すれば手遅れになる。だから、リリアナはオブシディアンに目を向け手短に礼を告げた。
「教えてくれてありがとう、シディ。わたくし、用事ができてしまいましたの」
だからここで失礼いたしますわね、と彼女は笑う。だがその表情は強張っていた。オブシディアンの返事を待たずに、リリアナは無詠唱で転移の術を使う。
「え、お嬢!?」
咄嗟に理解できなかったオブシディアンが愕然と目を瞠るが、その時には既にリリアナの姿はない。後に残されたオブシディアンは「あーあ」と小さく呟き両手で顔を覆った。
何となく、リリアナがどこに行ったのか予想はつく。だが何故酷く焦っていたのか、理由が分からない。ぼりぼりと頭を掻いたオブシディアンは小さく嘆息した。
「――俺も行くか?」
呼んでいないと言われるかもしれない。だが気になる。オブシディアンは悩まなかった。立ち上がると、さっさと窓から外へ出る。彼は夜の闇に身を紛らわせ、王都へと走り出した。









