21. 陰日向の応酬 15
晴れ渡る空を窓から眺めながら、王都近郊の屋敷で寛いでいるリリアナは溜息を吐いた。
エアルドレッド公爵が亡くなってからと言うもの、リリアナは父親であるクラーク公爵の謀略の証拠を探すことに執心している。エアルドレッド公爵がプレイステッド卿に宛てた手紙を読む限りでは、公爵がクラーク公爵家の邸宅に何らかの証拠が残されているはずだと考えていたようだった。彼なりに確証があったのだろうと考えて、リリアナの調査の手は専ら隠し部屋の探索に充てられている。
「お父様のことですから、きっと関連書類は隠し部屋にあると思うのですけれど」
重要な書類を執務室のような場所に放置しているとは考え辛い。そのような場に置いてあれば、既にエアルドレッド公爵が見つけていたことだろう。
そう結論付けたリリアナの脳裏に蘇ったのは、以前フォティア領の屋敷で執事のフィリップが使っていた隠し部屋だった。そこには魔術や呪術に関する資料が大量に保管されていた。思い出したリリアナは何度かその部屋に潜入しようと隙を窺っているが、隠し部屋の入り口がある執務室にフィリップが入り浸っているため調査は進んでいない。結果的に、今リリアナが暮らしている王都郊外の公爵邸を優先的に調べることにした。それでも公爵邸の敷地は広く、なかなか思うように成果は上がっていない。
今は亡きエアルドレッド公爵が、リリアナの父の謀略を把握していたらしいことは分かる。だが、それが一体何なのかリリアナには分からなかった。少なくとも父が何を企んでいるのか分かれば、探すべき証拠にも見当がつくだろう。鼠を放ちオブシディアンにも調査を頼んだが、プレイステッド卿も知らない様子だった。恐らく証拠が不十分だったためにエアルドレッド公爵は明言を避けたのだろう。ただ、公爵はもう時間がないと焦っていた。早急に対処せねばならないと確信していたからこそ、命を落とす可能性が高くても無理矢理に事を進める覚悟をしたに違いない。
「時間がないのに――そもそもお父様が一体何を考えていらっしゃるのか分からないのよね」
探し物が分からないのに調査を続けることほど心が折れそうになることはない。
ユナティアン皇国と密通している可能性はあるが、イーディス皇女をライリーの婚約者に推していたことを踏まえると、皇国の侵略行為は防ぎたいと考えていた可能性が高い。そして、ライリー以外の者を玉座に据えようと企んでいる気配は今のところ見られなかった。結局、クラーク公爵の目論見は未だに不明のままだ。
だが、のんびりしては居られない。リリアナは柄にもなく焦っていた。
リリアナはあと数日で十歳の誕生日を迎える。ライリーとの婚約については宙に浮いたままだ。貴族たちはエアルドレッド公爵が亡くなってもなお、隣国の皇女との婚約に難色を示している。それにも関わらずクラーク公爵が泰然自若として落ち着いているのは、リリアナが十歳になれば国王との密約を盾に婚約者候補から下ろすことが出来るからだろう。何よりも、国王の容体はここ数日で悪化している。これまで意識を保っていたのが嘘のように、昏睡状態に陥っているのだという。そのため、他国から王太子妃を娶ることに反対する貴族たちも浮足立っている。クラーク公爵は国王に意識がないのを良いことに、リリアナをライリーの婚約者にしたいという国王の本意を無視して事を進めるに違いなかった。
勿論、リリアナは自分がライリーの婚約者候補から外されることが嫌なわけではない。むしろ、六歳の時に前世の記憶を思い出してからは婚約者とならないよう根回しを進めて来たつもりだ。だが、ライリーの婚約者候補から外されてしまえばライリーの隣に居る理由がなくなる。そうすると、エアルドレッド公爵に託された“ライリーを護る”という約束を果たせなくなってしまう。それだけが痛手だった。
「――困ったわ」
自分のことだけを考えるのであれば、見て見ぬふりをすれば良い。王太子であるライリーを護るのは護衛や騎士たちの仕事であって、リリアナではない。だが、リリアナはエアルドレッド公爵と約束してしまった。以降、リリアナは公爵と会話をしていない。つまりライリーを護ることは公爵がリリアナに託した最期の遺志だ。プレイステッド卿に宛てた手紙を見ても、彼がライリーを中心としたスリベグランディア王国の未来を思い描いていたことが良く分かる。
「意外とわたくしにも情はありましたのね」
てっきり冷静沈着で情に薄い人間だと思っていた。何に対しても拘りは少なく熱意もない人間だと思っていたのに、エアルドレッド公爵との約束を極力守ろうとしていることに我ながら驚いてしまう。どうやら自覚していた以上にエアルドレッド公爵の言葉は自分の心に残っていたらしいと、リリアナは複雑な表情を浮かべた。
「お嬢」
空気が揺れる。わずかな気配を感じ取っていたリリアナは、動揺することなく侵入者を一言で迎えた。
「シディ、昼間からなんて珍しいですわね。それも嬉しそうな顔をして」
「ようやく尻尾を掴んだのさ」
「まあ」
飄々として本心を悟らせないオブシディアンの纏う雰囲気が楽し気なものになっていることに、リリアナは気が付いていた。案の定オブシディアンはあっさりとリリアナの問いを肯定する。
「どなたの尻尾かしら。お父様の尻尾ではないわよね」
「そっちは尻尾の影を見かけた、ぐらいかな」
期待を持ちつつも諦めを交えたリリアナだったが、オブシディアンの答えに目を丸くした。その様子をオブシディアンはにやにやと見る。
「お嬢の驚く顔って珍しいよな、やっぱりその顔見れると思うと頑張っちまうぜ」
「あら、貴方の実力が期待以上で嬉しく思っていますのよ。この分ならこれからも色々とお願いできそうね」
「げ」
余計なこと言っちまった、とオブシディアンは肩を竦めるが本気で嫌がっている様子はない。本当に嫌だと思えばオブシディアンは気配を悟らせることなくリリアナの周囲から姿を消すことだろう。分かっているから、リリアナも苦笑を交えて「それで?」と報告するよう促した。
オブシディアンは普段通り、一言も断ることなくリリアナの対面にあるソファーに腰かける。そして多少真面目さを装って、掴んだ尻尾を口にした。
「魔導省長官が誰と通じてたのか、分かったぜ」
ニコラス・バーグソン――ベン・ドラコを副長官の座から追い出し、謹慎処分を申し付けた張本人だ。顧問会議での会話やその後の動きを見れば、彼が何者かの意志を受けて騎士団にも手を入れようとしていたことは明らかだった。尤もその方法は稚拙だったが、彼なりには頑張ったのだろう。
静かにオブシディアンを見返せば、漆黒の瞳が煌めいた。
「エイブラム・クラーク公爵」
リリアナは息を飲んだ。だが、頭の冷静な部分ではそれほど驚きもなくその事実を受け入れていた。確証も証拠もなかったが、無意識の部分で薄々気が付いていたのかもしれない。リリアナの脳裏に、父親と魔導省長官の記憶が蘇る。
六歳の時にフォティア領で開かれたクライドのお披露目会には、ニコラス・バーグソンが参加していた。冷静に考えれば魔導省長官といえども爵位を持たない男が三大公爵家嫡男のお披露目会に参加できるはずはない。当時リリアナがその事実に気が付かなかったのは、前世の記憶を取り戻していたとはいえ、まだ六歳でこの階級社会の常識に疎かったせいもあるだろう。
だが、バーグソンがクラーク公爵の指示に従って動いていたということは、ベン・ドラコを謹慎させ騎士団長と二番隊隊長を王立騎士団から追い出そうとしていたのはクラーク公爵ということになる。ベンに関してはバーグソンの私怨ということも考えられるが、騎士団についてはクラーク公爵の作為が働いていたと考えても大きく外れてはいないだろう。
無言のまま凝視するリリアナを静かに見返し、オブシディアンは淡々と言葉を続けた。
「一昨年の魔物襲撃以降はだいぶ関わりが減ったようだが、それ以前はずっと蜜月状態だった」
リリアナは首を傾げる。オブシディアンが具体的な時期を口にしたということは、明らかにその前後で二人の関係性が変わった、もしくは両者の態度に変化が現れたということだろう。
「そう――魔物襲撃の前後で関係性が変わったということね。お父様にとって、バーグソンの力を必要とする機会がなくなったということかしら」
「見切られた、って言う方が正しそうだけどな」
「見切られた?」
思いもよらなかった単語にリリアナは眉根を寄せた。オブシディアンは「ああ」と頷く。
「長官の働きが公爵の期待に見合わなかったんだ。長官が酒場で管巻いてたから間違いはねえぜ」
自尊心の高さ故に認めたくない様子だったが、どうやら長官は任せられた仕事を失敗したらしい。本人はあまりにも無茶な内容で成功する確率は非常に低かったと考えているらしいが、いずれにせよクラーク公爵に“使えない”と判断されたのだろう、とオブシディアンは言う。
「そのせいで羽振りも悪くなってるらしいな。お嬢の親父さんと懇意にしてた時は金回りも良かったんだろうけど、最近は借金もあるらしいぜ。あの調子じゃあ、そのうち首が回らなくなるんじゃないか」
収入が下がってもこれまでの生活水準を下げることはできないのだろう。魔導省長官は高給取りのはずだ。勿論公爵家ほどの予算はないが、一般庶民の生活費数年分を一年で稼ぐことができる。それにも関わらず金が足りない生活ぶりとは、あまりにも分不相応な贅沢を覚えたに違いない。一通りの報告を聞いたリリアナは苦笑を漏らした。
「とても詳細な報告、感謝いたしますわ。そのような話、どこで拾っていらっしゃいますの」
魔導省や王宮では決して収集できない類の話だ。“酒場で管を巻いていた”という表現から、飲み屋が収集場所の候補であろうことは推察できる。オブシディアンは小さく声を立てて笑った。
「お嬢は行かない方が良いような、場末の酒場さ。そういうところは貴族が来ねえからな、身分を隠して愚痴を吐き出すには打って付けだってわけだ」
「――魔導省長官ともあろう方が、そのような場に通われていらっしゃいますの?」
豪遊していた印象からは程遠い場所だ。訝し気な表情のリリアナに、オブシディアンは「事情があるのさ」と答えた。
「普通に飲んだり愚痴を吐くためだけじゃ行かないさ。特に、バーグソンみたいな特権意識に塗れた連中は場末の酒場を馬鹿にしている。でも、そういう酒場じゃなきゃ出来ない話もある」
勿体ぶった言い回しにリリアナはピンと来た。バーグソンは爵位持ちではないが、特権階級ではある。彼らが自分たちの同類が居ない店に行くとき――それは、内密の話をするときだ。
リリアナが自力で気が付いたことが分かったのか、オブシディアンはわずかに頬を緩める。
「そういうことだ。恐らく長官は次の寄生先を探していて、声を掛ける奴が居た――ってことだ」
「貴方の言い方ですと、お相手は判明していますの?」
「勿論」
オブシディアンは当然だと言わんばかりの表情を浮かべた。
平民の少年として紛れ込んだ酒場で適当に荒れくれ者たちの相手をしながら観察する中、ニコラス・バーグソンは浮浪者のような身なりをした一人の若者と落ち合っていた。身なりは汚かったが、オブシディアンはその若者の足元から靴下を目撃していた。下賤の民は靴下など履かない。身振りは貴族のものではなかったが、手や首筋の様子から貴族の屋敷に勤めている男だと見て取れた。
そしてオブシディアンは、店から出た若者の後を追った。案の定若者は王都の平民街を通り抜け、金持ちの商人たちが暮らす地区すらも通り過ぎ、そして貴族たちの住まう一画に足を踏み入れた。
「メラーズ伯爵家の下男だ」
「顧問会議で進行役を務めている方ね。真面目な方だと思っていたけれど」
そうでもなかったのかしら、とリリアナは小首を傾げる。勿論、人間の性格や考え方が一辺倒であるわけはない。真面目だからと言って正義感が強いというわけではなかったり、逆に奔放に思えていた相手が誠実だったりすることもある。
何を考えてメラーズ伯爵の下男がバーグソンに接触したのかは分からないが、記憶に留めて置く必要があるだろうとリリアナは一旦疑念を据え置くことにした。
「それで、お父様の“尻尾の影”については?」
どうやらニコラス・バーグソンに関する情報は全て話し終えたらしい。リリアナはもう一つの報告をして欲しいと頼む。オブシディアンは口を開いた。
「隣国と密通してる証拠を探せって、言ってただろ」
「ええ」
リリアナは頷いたが、同時にオブシディアンが証拠を持ち帰ることはできなかったのだろうと見当をつける。確証となるものを見つけていれば、“尻尾の影”とは言わないはずだ。案の定オブシディアンは少し気まずそうな表情で、聞きかじった話だけど――と前置きをした。
「クラーク公爵とユナティアン皇国のエルマー・ハーゲンが密書を送り合う仲だったらしい」
さすがにそれは予想外だった。リリアナは目を瞠る。
暗殺されたハーゲン将軍は、隣国諸国には侵攻しない協調路線を掲げていた。だが確かに言われてみれば、将軍もクラーク公爵もイーディス皇女をライリーの婚約者にしようと考えていたという点で共通している。二人が密通し協力関係にあったのであれば、それほどおかしな話ではなかった。
明らかになった情報には不確実なものも含まれている。だが、どれほど不自然に思えても、全ての情報を統合して整合性が取れる事柄が事実を表わすことは疑いようがない。
これまで、ずっとリリアナは父親が謀反を企んでいるのではないかと疑っていた。隣国と密通している可能性に思い至った時、彼女は当然のように王国がユナティアン皇国の支配下に入るシナリオを考えた。だが、手に入った情報を合わせるとあまりにも不自然な結論だった。
「お父様は、政変を起こされるおつもりなのではないかしら」
それならば辻褄は合う。国王と王太子を支持する派閥の力は挫きたいが、皇国からの侵略は国内情勢が安定するまで防ぎたい。そう考えていたのだとしたら、エルマー・ハーゲン将軍と手を組んだのも納得がいく。
そして、リリアナをライリーの婚約者候補から下ろしイーディス皇女を娶らせようとしている理由。皇女が隣国に密通していると偽証し二人を幽閉するなり、ライリーを暗殺しその犯人が皇女であるとして処刑するなり、様々な方法で正当に王位を簒奪することができる。リリアナ本人は皇国に差し出すか、次期国王の王妃として嫁がせればよい。
その可能性にエアルドレッド公爵が思い至ったのならば、彼が死を覚悟してまでも事を急いた理由になる。
「それは――とても、不味いことになりますわね」
前世の乙女ゲームでは、クラーク公爵の企みは成功していなかったはずだ。途中までは計画通りに進んでいたのかもしれないが、彼は物語の途中で命を落とした。
だが、だからといって現実でも同じように物事が進むとは限らない。たとえゲームのシナリオから大きく逸脱することになっても、どこかのタイミングで手を打たなければならないのだと、リリアナは唇を噛み締めた。
*****
とある日の夜半過ぎ――フォティア領の屋敷で目を覚ましたベリンダ・クラークは、主が居ないはずの部屋に灯りが付いていることに気が付いた。
「――誰?」
夫エイブラムと息子のクライドは王都の公爵邸に居るし、義母のバーバラは不眠症のため薬を飲んでいるから夜中に起きることはない。娘のリリアナは王都郊外の屋敷から滅多なことでは出て来ないから、使用人の誰かが夜中に起き出して何かをしていることは間違いがない。
屋敷で働く使用人はエイブラムが自ら選定していて、忠誠心は他に類を見ないほどだ。だから盗難等の犯罪に手を染めているわけではないだろうが、ベリンダはどうしても気になった。
足音を殺してそっと部屋に近づく。どうやら、エイブラムの私室に隣接した執務室に人が居るらしい。扉の隙間からそっと中を覗くが、人影が見えるだけで誰なのかまでは分からなかった。だが、くぐもった声が聞こえる。どうやら中の人物は魔術か呪術を使って遠方の相手と会話をしているらしい。
「クライド様は至って普通のお方ですが、旦那様と血が繋がっておりますので成功はするでしょう。ですが、警戒心を抱かせないようにする必要があります。そのための薬はこちらで入手する手筈が整っておりますのでご安心を――」
ベリンダの顔が強張る。息を飲んで慌てて両手で口を抑えた。心臓の音がうるさいほど響く。幸いにも中に居た人物に、盗み聞きを気付かれた様子はない。蒼白な顔でベリンダは慌ててその場から立ち去った。部屋に戻って鍵を閉める。未だに体が震えていた。
「まさか――いえ、そんな――でも、」
彼女の双眸には恐怖と憤怒が渦巻いている。興奮して眠れそうにない。
「どうしましょう、ああ、あたくし、どうすれば――」
爪を噛みながら部屋の中を歩き回る。頭が混乱して冷静に考えることができない。淑女にあるまじき所作だが、ベリンダに気にする余裕は一切なかった。
「ええ、でも、どうにか止めさせなければ。クライドは、あたくしの大切な子だもの――」
ベリンダはほとんどフォティア領の屋敷を離れない。王都の公爵邸にも足を踏み入れたことは片手で数えられるほどしかなかった。だが、その翌朝――彼女は珍しく、険しい表情で侍女を呼びつけた。
「奥様、御用でございますか」
「あたくしはこれから王都へ参ります。支度をお願い」
「承りました」
侍女は驚いた様子を一瞬見せたが、すぐに平然とした様子を取り繕うと慌ただしく準備を整える。ベリンダは屋敷でほとんど女主人としての役割を果たしていない。お茶会を主催することも滅多になく、お陰で突然王都に発つと言っても誰にも迷惑を掛けない。
貴婦人にしては驚くべき速さで準備を整えさせると、彼女は公爵家の馬車に乗り込み王都へ向かった。リリアナが十歳の誕生日を迎える、およそ一週間ほど前のことだった。
7-1
14-11