21. 陰日向の応酬 6
恐らくローランド皇子はリリアナがライリーと離れる瞬間を狙っていたのだろう。そしてイーディス皇女も居ない場でなければ、ライリーの婚約者の座をイーディス皇女に譲るように言う気はなかった。
リリアナは悠然と構えたまま手元に紙を引き寄せ文を綴った。
〈本気で仰っていますの?〉
「この上もなく」
ローランド皇子の目は揺るぐことなくリリアナを見つめている。尋ねるまでもなく彼の本気をリリアナはひしひしと感じていた。だが同時に、彼の言葉が詭弁だとも感じていた。だからリリアナは笑みを深める。その様子が予想外だったのか、皇子は訝し気に眉根を寄せた。
〈どこまでが本音でございます?〉
「本音――?」
一体何を言っているのかと、ローランド皇子は顔を顰める。睨みつけるような表情だがリリアナは動じない。
〈ええ。殿下は、我が国と貴国の友好のために皇女殿下と王太子殿下の婚約を成すべきと仰います。わたくしの父が同様の意見であると言えば、わたくしが納得するとでもお考えになりましたか?〉
リリアナはこれまで直接ローランド皇子と言葉を交わしたことがない。常に彼女はライリーの隣に立ち、控え目な態度で微笑むだけだった。ライリーに尋ねられたことには頷くか、首を振るかのどちらかだけ。リリアナ自身の考えや意見は皇子にも皇女にも伝わっていない。勿論、機会がなかっただけではなく、リリアナ本人も必要性を感じていなかった。そんな態度に加えて、リリアナの可憐で儚げな容貌があれば誤解を招くには十分だ。
だからこそ、ローランド皇子は不意を突かれた。遠慮がちな、悪く言えば引っ込み思案の令嬢。強く出れば簡単に心が折れ、言われた通りにしか動けない。そして恐らく理解力も乏しく、伝えられたことを疑うことなく信じる。リリアナはそんな少女だと、ローランド皇子は思い込んでいた。否、思い込まされていた。
言葉を失ったように口を噤むローランド皇子に、リリアナは更に問いかける。
〈貴国が現在、不安定な状況にあることは存じております。そのため皇族の皆さまには等しく危険が迫っていることも。そして皇子殿下、貴方が皇女殿下のことを酷く心配なさっていることも〉
ローランドの顔に動揺が走る。一瞬で掻き消えたが、リリアナは見逃さなかった。やはり、と彼女は確信を持つ。
ユナティアン皇国の権力構造は今、酷く不安定だ。皇帝自身の権力にはそれほど影響はないだろう。だが王位継承権を持つ者たちにとっては命に関わる変化だ。切っ掛けは間違いなくエルマー・ハーゲン将軍の暗殺だった。
将軍の死により隣国との協調路線を支持する貴族たちの弱体化が決定した。そして、敵対派閥の中でも最大勢力を誇る強固路線を取る貴族――隣国への侵略を企む者たちが台頭する。王位継承権を持つ者が多すぎて、強固路線を支持する貴族たちも誰の後ろ盾になるのか意見が分かれている。だが確実なことは、ローランド皇子を支持する貴族に碌な者はおらず、そしてイーディス皇女を支持する貴族はいないということだった。
ローランド皇子は愚かな皇子として知られているため、傀儡として扱おうと考えている貴族しか後ろ盾にはならない。そしてイーディス皇女は女である上に生まれが遅すぎた。たとえ皇帝のお気に入りだとしても、次期皇帝になることはない。それでも万が一の可能性を考えて、イーディス皇女を暗殺しようと企てる者がいないとも限らない。もし暗殺を免れたとしても、後ろ盾がいない皇女にとって今後の宮廷は酷く暮らし辛い場所になるだろう。
だから、ローランド皇子はイーディス皇女の避難先としてスリベグランディア王国の王室を選んだ。自国である皇国よりも王国の方が、まだ危険性が少ないと考えたに違いない。だがその見込みは甘いと言わざるを得なかった。
〈ご承知のこととは存じますが、我が国も決して安全ではございません。既に水面下で貴族同士の対立は進んでおりますし、何より我が国の民が皇国に抱く敵対感情は決して無くなることはないでしょう〉
途端にローランド皇子の顔が苦くなる。
ユナティアン皇国の歴史は非常に長い。魔の三百年の時代、とある小国の騎士は群雄割拠の時代に武功を残そうと、仲間と共に蜂起した。隣国を次々と制圧し領土を拡大した彼は、やがてユナティアン皇国を建国し初代皇帝となった。ユナティアン皇国の最盛期、領地は大陸の大半を占めていたらしい。だが、その支配を打ち破る者が出て来た。それがスリベグランディア王国を建国した三傑――三人の英雄だ。その英雄譚は長く王国で語り継がれ、民の心に深く根差している。
一方で、ユナティアン皇国は長く支配層であったため隣国を属国と捉えている節がある。即ち、今は他国の名を冠しているが、実際は我々の領土である――という考え方を多数の貴族が持っているのだ。その感情がひしひしと伝わって来る上に、時折国境では小競り合いが発生する。当然、スリベグランディア王国の民にとっては隣国が自国を侵略するつもりだと不快感ばかりが積み重ねられる。
貴族の中にも、皇国へ理由もなく反発心を抱く者は多い。特に隣国との関係が不穏になればなるほど、危険分子は排除すべしとイーディス皇女の命を奪おうとする者が出て来てもおかしくはない。
そのような国に嫁ぐことが果たして皇女にとっての幸福に繋がると言えるのかと、リリアナは静かに尋ねた。
黙したまま僅かに視線を逸らすローランド皇子に、リリアナは畳みかける。
〈大切な存在を守りたいのであれば、他に任せるのではなく、御自身で努力なさるべきでございましょう〉
ローランド皇子の眉がぴくりと動いた。
自分の手で護れるのかと、不安になる気持ちは分かる。だが、手放せば楽になるのかと言えば決してそうではない。目先の状況に捉われて判断することはあまりにも浅薄だ。なにより、ローランド皇子はこれから先、己の不甲斐なさを悔やむことになるのだから。
〈他に任せて失えば後悔なさいますわよ。それとも、たとえ失ってもそれは己のせいではないのだと、生涯をかけて他を恨みますか?〉
護ってくれると信じて預けたのに護ってくれなかった、そう言って責任転嫁をすることは楽なことかもしれない。だが、決してそれでは楽になることはない。自分が傍に居れば護れたかもしれないと後悔することになるだろう。勿論、自分が護ろうとして出来なかった場合も悔やむことになる。どちらの後悔が良いのか、それは人の価値観によっても違う。しかし、この場合はユナティアン皇国の皇族がスリベグランディア王国の王族を恨むことになる。その恨みは邪心を抱く者に利用され、国と民を巻き込んだ争いになりかねない。
静かにリリアナが告げた指摘に、ローランド皇子は片手で目を覆って低く唸った。
「そなたは――厳しく現実を見つめておられるのだな」
ローランド皇子の声音と喋り方が変わる。これまでずっと滲み出ていた不遜な態度は何処かへ消えていた。リリアナは静かに皇子の目を見返す。皇子の表情は今までになく険しい。恐ろしい者に追われている恐怖を抱えた人間が浮かべる切実さを垣間見て、リリアナはわずかに目を細めた。
「確かに――そなたの言う通りかもしれない。だが、俺にはイーディを――妹を護り切る自信がない」
何の反応も示さずに続きを待つリリアナに、ローランド皇子は「皇帝のことを知っているか?」と尋ねた。リリアナは小さく頷く。
〈風の噂程度ですが〉
「なるほどな。およそ想像はつくが、その噂はほとんど正しいのだろう。噂には珍しいことだが」
どこか自嘲に似た表情を唇に浮かべたが、皇子は直ぐに表情を戻す。
「イーディは皇帝のお気に入りだ。皇国の秘宝とまで呼ばれている。だが、それがどういう意味か正確に理解している者はおらん。本人でさえ、だ」
父が子を気に入っていると聞けば、普通であれば可愛がられているのだと解釈する。だが、皇子は「そうではないのだ」と首を振った。
「父が気に入る者は、己の思う通りに動く者だ。たとえそれが臣下であろうが子であろうが妻であろうが変わらん。つまり、頭で考えることの出来ぬ子が――可愛らしい人形が、一番の気に入りだということだ」
そして正真正銘、イーディス皇女はそのように育てられた。自分の頭で考えることはできず、周囲の言葉を真に受ける。勿論相反する話を聞けば彼女は混乱するが、最終的に正しいのは父である皇帝だと認識している。当然、ただ“他人の言葉を真に受ける”だけでは足りない。皇帝が望むのは、皇帝を決して裏切ることのない純真無垢な愛らしさだった。
「その点、イーディは皇帝の望んだとおりに育った。周囲の言葉を素直に受け取り疑うことを知らん。そして、その無垢さでもって皇帝を盲信し、慕っている」
リリアナは内心で溜息を吐いた。皇帝が欲しがっているのは自分の思い通りに動く可愛らしい傀儡というわけだ。人形のように動かないのではなく、自分が望んだとおりに手足を動かすだけの傀儡。そうなるように育てられて来たのだと考えると、イーディス皇女の不自然さも頷けた。
自分で考えることができないから、自国で囁かれた“ライリー王太子の婚約者になるのは姫様だ”という甘言を信じ込んだ。彼女にとっては馴染みのないスリベグランディア王国の者よりも、自国の者が口にする内容の方が信じるに値する。だからこそどれほどライリーが婚約者はリリアナに決めると断っても彼女は頑として聞き入れない。彼女の中での正解は、自国で言い聞かせられ続けて来た“ライリーの婚約者になること”だった。
皇族として育てられたにしては違和感があるとオブシディアンが嗤ったのも、ある意味的を射ていたのだと、リリアナは内心でオブシディアンの見立てに感心する。
ローランド皇子はリリアナの考えていることには気が付かないまま、訥々と言葉を綴った。
「エルマー・ハーゲン将軍はな――平民の出だが、俺にも不遜な口を叩く。最初はなんと不敬な奴かと思ったぞ。だが、案外あいつは良く物事を見ていたし、言うことはまともだった」
ある程度ローランド皇子と親しくなった時、将軍は口さがないことを言うようになった。中にはローランドも眉を顰めるような内容も含まれていたものの、ある時彼が放った言葉はローランドの心を抉った。
『皇帝陛下は御立派かもしれんが、皇子皇女はほとんど傀儡ですな。陛下や貴族の意のままだ。皇帝陛下が崩御なされた後、国は荒れますぞ』
それならばいっそ俺が国を貰いましょうか、そう笑った将軍の言葉をローランドは否定できなかった。長期的な戦略を練ることが苦手な将軍にさえ明白な皇国の未来を想像できない者が、宮廷には多すぎた。
王位継承権を持つ皇子も皇女も、勉学はできても自発的に考える頭のない者が多い。自分たちの後ろ盾になっている貴族たちの言葉を鵜吞みにする者が多く、広い国土を俯瞰して公平に判断できる者が居るのかと問われたら、首を捻る他なかった。尤も経験を積み重ねればいつかは立派な皇帝になる者もいるかもしれないが、現状でそのような皇子や皇女は見当たらない。彼らはただ皇帝の椅子に憧れ、皇国の頂点に立つことだけを目標として、ただ敵対者たちの足を引っ張ることだけに心血を注ぐ。
「そんな状況で、イーディが無事過ごせるとは思えん。だからこそ、俺はイーディが王国に嫁ぐ方が良いのだと思っている。命を奪われる可能性は――王国の方が、低い」
リリアナは目を細めた。ローランド皇子は事情を詳らかに打ち明けることで、リリアナの同情心を買おうとしているように見えた。しかし彼の台詞は詭弁だと、リリアナには思えてならない。本来であればユナティアン皇国内で解決すべき問題を、他国であるスリベグランディア王国に押し付けているだけだ。イーディス皇女が王国に嫁いでも目先の問題を先送りにするだけで、決して解決したわけではない。
なにより、前世の乙女ゲームではゲーム開始前に皇女は亡くなっていた。リリアナがライリーの婚約者であり続けたことから考えても、彼女は一度もライリーの婚約者という立場には立てなかったに違いない。
(どこまでがゲームのシナリオ通りか判断はできませんけれど、皇女殿下は近々お亡くなりになる可能性がありますわね)
ゲーム開始はリリアナが十三歳の時、つまり四年後だ。
もし、ゲームの世界でもローランド皇子とイーディス皇女がスリベグランディア王国に外遊に来ていたのだとしたら。そして、現実と同じようにローランドが妹姫とライリーの婚約を推し進め、クラーク公爵も同意していたのだとしたら。皇女がライリーの婚約者になる方向で話が進んだ可能性が高い。しかし婚約が調う前に皇女が死亡したのであれば、スリベグランディア王国の滞在期間が長くなる前に暗殺されたのだろう。
(ローランド皇子は過去に大切な人を失い、遠ざけたことを後悔していらした)
その心の傷を埋めるのがヒロインのエミリア・ネイビーだったが、ローランド皇子の攻略ルートでは彼の後悔を聞きだすところから始めなければならない。他の攻略対象者と比べても、段違いに難易度は高かった。何よりエミリアとの接点がほとんどないのだ。しかし、ローランド皇子を攻略しなければ隠しキャラのルートには進めない。そのためインターネット上ではファンによる情報交換が活発になされていた。
いずれにせよ、今は目の前の問題を片付けることが先決だ。このまま二人の婚約話が進み、ローランド皇子がイーディス皇女を王国に残していくのであれば――もしくは、皇国に帰国した後すぐに王国に来るのであれば、皇女の余命は幾ばくも無い。
〈それでしたら尚のこと、お近くにいらっしゃるべきではございませんこと?〉
リリアナの台詞に、ローランド皇子は眉根を寄せた。
「おい、俺の話を聞いていたか?」
〈勿論、伺っておりましたわ。しかしながら、皇女殿下を我が国の王太子殿下へ嫁がせるようお考えになっていたのは将軍にございましょう。将軍閣下が儚くなられた今、皇女殿下の身の安全を他国にあっても保証する者はいないのではないでしょうか〉
言外に、たとえ皇女が嫁いだとしても王国への侵略を躊躇わない者はいるだろうと告げる。皇子は苦り切った表情で黙り込んだ。リリアナの指摘は皇子にとって痛いところを突いていたらしい。
〈皇女殿下が我が国に嫁げば、殿下は戦の駒となり得ます。皇帝陛下が、先ほど皇子殿下が仰っておられた通りの方であるのであれば尚更。皇女殿下のお命が危うくなれど、国のために散るのが皇族の定めと謡って我が国に侵攻なさるでしょう。その時の皇女殿下の御心は如何ばかりか、想像するだに憐れでなりません〉
たとえ命からがら逃げきったとしても、祖国に、そして敬愛する皇帝に裏切られたと知った皇女の心は無事では済まない。皇子をして無垢と言わしめる彼女が、それに耐え得るだけの精神を持ち合わせているとは到底思えなかった。
ローランド皇子は明らかに動揺した。リリアナの指摘に、思い当たることがあったのだろう。そしてリリアナは、そこで手を緩めることはしなかった。
〈生きながらえても心が死ねば、それもまた後悔の理由となりましょう。掌中の宝であるのならばなおのこと、その手から離してはなりません〉
ローランド皇子は深く溜息を吐く。苦々しい表情は何処かへ消えていた。瞬いた瞳には力が宿り、何かを決意した人の顔だった。
「――此度の外遊で、そなたと会えたことが一番の幸運だったかもしれんな」
〈勿体ないお言葉にございますわ、殿下〉
リリアナは嫋やかに笑う。その様を見て、ローランド皇子は苦笑を浮かべた。頭に手をやり乱暴に掻く。小さく息を吐いた彼は、どこか清々しささえ感じさせる笑い声を立てた。
ちょうどその時、扉を叩く音がする。ローランド皇子はさりげなく、リリアナが文字を綴った紙を手に取った。「良いな」と一言だけ告げる。端的な質問だったが、彼の問いが意味するところをリリアナは察した。彼女が頷いた瞬間、皇子の手の上で紙の束は消滅する。その直後に扉が開いてライリーが入って来た。
「申し訳ない。明日の旅程について相談を受けていた」
「いや、気にしないでくれ」
如才なくローランド皇子は答える。リリアナは何事もなかったかのように、微笑を浮かべていた。