21. 陰日向の応酬 2
ローランド皇子は変わらぬ表情でライリーを試すように見つめていたが、やおら口を開いた。
「我が国の将軍エルマー・ハーゲンが死んだ。奴は軍を掌握していた。我が国の兵は皆、血気盛んでな。将軍しか御せる者はなかった。その箍が失われた今、この国はこれまで以上に我が国の脅威に晒されるということだ。だが、俺たちを歓待してくれたこの国が焦土となり血に濡れると思うと心が痛む」
だからイーディス皇女をライリーの婚約者とし、友好の証としたいとローランド皇子は言う。それはあまりにも、ライリーとリリアナが数刻前まで語っていた内容と似ていた。だがそこに存在する危惧には一切触れていない。リリアナは眉根を寄せる。スリベグランディア王国に来てからずっと妹姫に優しく接していた皇子が、敵国になるかもしれない国に妹姫を簡単に差し出そうとしていることには違和感があった。
だが、ライリーはリリアナが心に抱いた疑念には気が付かないようだった。小さく首を振ると、淡々と言葉を返す。
「仰っていることは理解致しますが、こちらにも懸念があります。まず第一に、皇女殿下を婚約者としたところで、失礼ながら貴国が我が国に侵略しないという保証はありません。そして第二に、」
言い返そうと口を開いたローランド皇子を制して、ライリーは言葉を続けた。
「ローランド皇子殿下。貴方は今、外遊のため我が国にいらしているはずです。多少の交渉事に関しては全権を委任されているのだとしても、皇女殿下の婚約に関して決定権はないでしょう。そのため、正式に皇帝陛下からの書簡が届かない限り、私としてもお答えすることはできません」
勿論、皇帝からの書簡が届いたところで婚約を受けるかどうかは話が別だ。ライリーの指摘は尤もだと思ったのか、ローランド皇子は苦い顔になる。イーディス皇女はライリーの話を半分程度しか理解していないのか、涙で真っ赤になった目をきょとんとさせていた。
だが、ローランド皇子もただでは引かない。少し考えていたがにやりと笑った。
「それでは、我が父より正式に書簡で打診をすればイーディを婚約者とするということだな」
「検討は致しましょう。しかし確約はできません」
「――まあ、良い」
ローランド皇子は鼻を鳴らす。多少不服そうだが、これ以上イーディス皇女を婚約者にするよう執拗に要求するつもりはないようだった。ライリーの隣に座ったリリアナは、ライリーが僅かに体から力を抜いたことに気が付く。どうやら緊張していたようだ。
「それでは、一つこちらからも提案がある」
そちらの言い分を飲むのだからこちらの話を聞けとでも言いたげな口調でローランド皇子が告げる。ライリーは無言で続きを促した。特に自分たちの要求を突き付けたつもりはない。あくまでも常識的な話をしたまでだとライリーは考えているが、端から突っぱねては皇子の反感を買う可能性もあった。
ローランド皇子はちらりと横目でイーディス皇女を一瞥する。
「イーディは是非とも視察に同行したいと言っていてな。染色にも興味があるらしい。そこで、ぜひ同行させて欲しい。なに、護衛はこちらで用意できるからそう面倒もないだろう」
ライリーは一瞬言葉を失う。思わずリリアナは目を細めた。皇族を一人増やすならば、単に護衛を増やせば万事が解決するというものではない。
イーディス皇女が帰国するまで彼女を護衛する予定だった騎士たちの都合や、視察先の宿泊場所、料理等、変更は多岐に渡る。一朝一夕で変更できるものではなかった。ローランド皇子はにやりと笑ってリリアナに視線をやった。
「もしその他の準備や根回しが大変だというのなら、同行する予定の者を一人留守にさせれば良いだろう?」
ローランド皇子はリリアナが視察に同行することを知っている。だからリリアナの同行を取りやめてイーディス皇女を連れて行けと言っているのだ。だが言うほど簡単ではない。リリアナは婚約者ではあるものの公爵令嬢であり、イーディスは隣国の皇女だ。必要となる護衛や同行させる使用人の数も段違いである。苦い顔でライリーは首を振った。
「視察に旅立つのは明後日です。視察の目的地は遠方ですので、イーディス皇女殿下の身の安全を確保し、不足ない準備を整えることは非常に難しい状況です」
ローランド皇子の眉がぴくりと動く。だが、彼は気にした様子がない。
「問題ない。ある程度護衛の融通はこちらでも利かせられるしな。なあ、イーディ。お前もそう思うだろう?」
「え? ええ、私も、ライリーさまとご一緒できるのでしたら、とってもうれしいですわ!」
首を傾げていたイーディス皇女だったが、自分が視察に同行できることは嬉しかったらしい。先ほど婚約者にはできないと断られた時の意気消沈振りはどこへやら、目を輝かせて身を乗り出した。ローランド皇子は「どうだ」と言わんばかりにライリーを見やる。
その時、リリアナは一つの情報を思い出した。一瞬息を止める。だがその変化に気が付かれる前に、扉を叩く音が響いた。どうやら式典が開始される時刻らしい。ライリーは致し方がないと溜息を堪えた。
「――時間もないようですから、この話はまた後程」
「色よい返事を期待しているぞ」
ローランド皇子はイーディス皇女を、ライリーはリリアナをエスコートして式場に向かう。
口を挟もうと思っても、声が出ないことになっているリリアナは傍観するしかなかった。ライリーであれば問題なく対処できるだろうと思ってはいたが、リリアナの予想通り王太子は比較的上手く事に当たったと言えるだろう。見誤ったというなら、それはローランド皇子の驚くべき強引さだ。皇子として外交の場に出たことがないのかと心配になるほど、相手への配慮と尊重が足りない。だが、三人の様子を静観していたリリアナは内心で首を傾げていた。
イーディス皇女とライリーの婚約を確実なものにするためには、ユナティアン皇国皇帝から直接打診がなければならない。婚約の申し入れを受け入れやすい土壌を作るために、二人の仲が良いと喧伝することも一つ手段としてはあり得る。
だが、ローランド皇子の反応を見る限り皇帝がイーディス皇女とライリーの婚約を積極的に考えているとは思えなかった。説得すれば書簡を送ってくれる程度には前向きなのかもしれないが、少なくとも現時点ではイーディス皇女をスリベグランディア王国に嫁がせようとは考えていないからこそ、未だ正式な書簡が届いていないのだろう。その推測が正しいのであれば、皇女とライリーを婚約させたいと考えている何者かが、スリベグランディア王国内で二人の婚約を後押しするような雰囲気を醸成し、スリベグランディア王国からユナティアン皇国へ婚約の打診をするよう誘導したいのではないかと疑ってしまう。
(スリベグランディア王国から婚約の打診をしたいと考えている者がいる――と仮定すれば、それはもしかしてお父様かしら)
イーディス皇女が言いかけた「宰相様が」という単語を信じれば、クラーク公爵が黒幕には違いない。だが、リリアナはわずかに眉根を寄せた。そう考えると矛盾が生じてしまう。
以前リリアナは、オブシディアンにスリベグランディア王国に居る暗殺の標的を教えて貰った。その中には三大公爵家の当主二人が含まれていたが、クラーク公爵は除かれていた。宰相でもある公爵が皇国の暗殺対象とならないのは明らかにおかしい。そのせいで、リリアナは父親がユナティアン皇国に密通しているのではないかと疑念を抱いた。
ケニス辺境伯が標的に含まれていた以上、暗殺の依頼主はスリベグランディア王国の衰退を狙っていると考えても大きく間違ってはいないはずだ。少なくとも国防に関しては確実に弱体化する。ユナティアン皇国は労せずしてスリベグランディア王国を侵略し、制圧できるに違いない。だが、イーディス皇女にライリーの婚約者になれる可能性を耳打ちしたのは公爵だった。その提案は皇国の脅威からスリベグランディア王国を守ることを考えていなければ、出て来ない案のはずだ。イーディス皇女を皇国の間諜として働かせる計画だとしても、彼女の性格からして向いていないことは間違いない。それならば、公爵自身が宰相という立場を生かして情報を流した方が確実だ。
(お父様はなぜ、イーディス皇女殿下をライリー様の婚約者にと仰ったのかしら。謀反を企んでいらしたのではなかったの――? でも、もし皇女殿下をお父様が暗殺しようと企んでいたのだとしたら)
リリアナがはっきりと思い出したこと――それは、前世の乙女ゲームの一場面だった。たった一度だけ、ローランドは彼が全てに自暴自棄になった原因を口にした。ローランド皇子を攻略する固有ルートに至らなければその台詞は出て来ない。固有ルートに分岐する前の共通ルートでは出て来ないため、記憶から薄れていても当然だった。
――俺には妹が居たのだ。愛くるしい姫だった。だが、我が国で生きるには純真すぎた。だから俺は、イーディを護るために遠くへやった。そうしたら――結局護りきることができなかった。
ローランドが妹姫を「イーディ」と呼ぶ度に、何かが引っかかっていた。間違いなく「イーディ」はイーディス皇女のことだ。遠くに追いやったという台詞が“スリベグランディア王国に送った”という意味だったとしたら、王国には彼女が命を落とす運命が待ち受けている。
それとも何か見落としていることがあるのか――リリアナは唇を引き結んだ。今夜、オブシディアンが部屋に来るだろうかと思う。もし彼が来たら、尋ねたいことが幾つかあった。
*****
スリベグランディア王国史上初めての特許下賜は滞りなく進んだ。式典の最初に、今回設立に至った経緯と一体どのようなものであるかの説明がなされた後、緊張した面持ちの男が呼ばれる。染色特区でクリムゾン博物館の館長で、スリベグランディア王国におけるクリムゾン染色の第一人者だった。今後も何かしら新規性の高い発明があれば、技術の公開を条件に一定期間の保護を約束することが告げられ、式典は閉幕する。
ローランド皇子はイーディス皇女と共に部屋へ引き揚げたが、皇女が自室に入ったのを見届けた後、ドルミル・バトラーを手招いて応接室のソファーに腰かけた。
「特許という制度は魅力的だな。ぜひ我が国でも取り入れたい」
「ええ、宜しいと思いますが、まだ時期尚早でしょうな」
バトラーの言葉を聞いたローランド皇子は苦い顔になる。皇帝カルヴィン・ゲイン・ユナカイティスは己に益を為す物事に敏感だ。新規性の高い発明をした者に権利を与える施策を好意的に捉えるとは思えない。万が一、特許制度を運用することになったとしても、その内容は王国のものとは大きく性質が変わるだろう。恣意的な運用がなされて、本来その権利を受け取るべきではない者が特許状を下賜される可能性もある。そうなれば本来の目的である発明の保護と産業の発展を阻害しかねない。
「まあ、その通りだな。将軍の件は何か分かったか」
「いえ、まだ何も」
「――首謀者がキュンツェルだったら最悪だな」
ローランド皇子は顔を顰めて舌打ちを漏らした。皇子にあるまじき行動だったがバトラーは咎めない。無表情に皇子の顔を見やる。深く息を吐いた皇子は顎を覆って思索に耽った。
将軍エルマー・ハーゲンの死亡は暗殺で間違いない。だが、問題は黒幕が一体誰なのかということだった。下手人は子飼いの刺客だろうが、指示を出した人物によって今後の情勢が変わる。キュンツェル宮廷伯は、皇帝の腹心の部下の一人だ。彼がハーゲン将軍の暗殺を首謀したのだとしたら、それは恐らく皇帝の思惑に違いない。そして一層キュンツェルは宮廷内での権力を欲しいままにするだろう。
ユナティアン皇国では、情勢の変化といえば自身の身の危険に直結する事態だ。特に身を守る術のない者は神経を尖らせる。しばらくしてローランド皇子は掠れた声を出した。
「これで我が国は大きく変わると思うか」
「現時点では何とも言えませんな」
素っ気ない返事だが、ローランド皇子は気に留めた様子がない。彼は目を眇めた。苦しみに耐えるような表情だ。それを見たバトラーはようやく重い口を開く。
「この国も安寧とはしていられないでしょうね。何分、国王があの状態ですから」
「ああ、ずっと寝たきりだったか。御前会議も長いこと開かれていないらしいな」
つまりスリベグランディア王国もいつ国王が崩御し新しい王が立つことになるかも分からない。眉根を寄せた皇子はバトラーの感情の読めない整った顔に目を向けた。
「王太子が国王になるのが順当だと思ったが、何か懸念があるのか?」
「ええ、順当に行けばその通りになります。しかしながらこの国には旧国王派がいますし、国王の義弟である大公を推す者も一部にはいるようですから。彼らの存在を思えば、楽に王位が転がり込むとは限らないでしょう」
「ああ――そうだったな。旧国王派、ね」
旧国王派の存在はローランド皇子も自国で学んでいたから知っている。だが、大公を支持する貴族がいるということは初耳だった。
「我が国より王位継承権保持者が少ないこの国でも、継承戦争が勃発するとはな」
皇子は鼻で嘲笑う。ユナティアン皇国の現皇帝は正室の他に側室も複数居る。それぞれに子供が複数いる上、正室の子か側室の子かで王位継承権の順位は決まらない。更に年齢も関係なく、皇帝が譲位を決めた時に次期皇帝を指名することで皇太子が確定する。そのため、立太子がなされる前の王位継承権を巡った争いは熾烈の一途を辿るのが歴史的な傾向だ。かつてはただ一人を残して、数十に渡る犠牲者が出た時代もあったという。そして現在も既にその予兆が見られていた。
だが、スリベグランディア王国は皇国と状況がかなり違う。先代国王は妾を抱えていたが皇帝が擁する側室ほど人数は多くなく、故に王位継承権を持つ子供の数も皇国ほど居ない。跡目争いなど起こるはずがないとローランド皇子は思っていたが、どうやら人は彼が思うよりも欲深いらしかった。
「――だが、まだこちらの方がマシだろう」
ぽそりとローランド皇子は呟く。その声はバトラーに届かなかったのか、返事はなかった。だが皇子は気にしない。深く溜息を吐いて、目を瞑った。
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