21. 陰日向の応酬 1
武闘大会も無事に終わり特許状下賜を控えたその日、ライリーとリリアナは食後のお茶を楽しみながら、齎された情報に眉根を寄せた。二人の前には騎士団の装束に身を包んだオースティンが立っている。
「エルマー・ハーゲン?」
「ああ、ユナティアン皇国のエルマー・ハーゲン将軍が亡くなったらしい。皇帝ほどじゃないが非常に求心力のある人で、特に騎士や兵士には熱狂的な支持者が多かったようだ」
リリアナとライリーは顔を見合わせる。ライリーは隣国の情報もある程度把握しているが、軍部の情報までは詳しく知らない。王国とは違い皇国の軍部は充実していて、貴族を中心とした騎士と平民を集めた兵士から成っていることは知っているものの、エルマー・ハーゲンという人物については詳しく聞いたことがなかった。首を傾げて不思議そうにオースティンに尋ねた。
「名前は聞いたことがあるな。優れた武人だという記憶はあるが――そんなにお年を召していたか?」
「まだ若いと聞いたぞ」
確かに彼の武勇を聞けば年輩の軍人だと思ってもおかしくないが、実際には若い。大人しく紅茶を飲んでいたリリアナはそっとライリーに『大公と同年代だと伺った記憶がございますわ』と囁く。念話用ブレスレットで難なくリリアナの言葉を受け取ったライリーの眉がピクリと動いた。つまり三十歳前後ということだ。
「となると、暗殺の可能性が高いということだな」
「そう考えるのが自然だと思う。いずれにせよ、将軍が急逝したことでユナティアン皇国内は大きく権力図が変わるだろう」
エルマー・ハーゲン将軍は若くして一兵卒から将軍にのし上がった実力者だ。出生は平民だったが、恵まれた体格と天性の才能が彼を武人として花開かせた。皇帝にも気に入られ、隣国との戦争でも常に皇国を勝利に導いたという。平民出身であることから彼を馬鹿にする高位貴族も居るが、圧倒的な強さを誇る彼は騎士や兵士たちの羨望を一身に集めていた。皇帝よりも将軍の方が慕われているという流言すらあるほどだ。宮廷の晩餐会に招かれた時、胸に無数の勲章を付けた彼の正装は布地さえ見えなかったという。
ユナティアン皇国で十分な名誉と金を得ているエルマー・ハーゲン将軍は、しかし野心家だった。皇帝の嫡子は多くいるにも関わらず、次期皇帝の座を狙っているとすら言われている。それにも関わらず現皇帝に気に入られているらしく、将軍の処世術は大したものだと関心を集めているそうだ。
「そうなると、ローランド皇子とイーディス皇女が心配だな。無事に帰れると良いが――あの二人と将軍の関係がどうなっているか、知っているか?」
「いや、詳しくは知らない。両殿下共にまだ権力闘争に直接は関わっていらっしゃらないはずだからな。将軍も後継者を推すよりは自身が皇帝になりたいと考える性質だろうし」
オースティンの言葉にライリーも頷く。ライリーは今回初めて聞いたが、恐らく宰相を始めとした顧問会議の面々は既に情報を得ているはずだ。オースティンも直接父親であるエアルドレッド公爵から聞いたのではなく、騎士団で話を聞いた可能性が高い。他言無用の情報ではあるはずだが、ライリーが宰相たちから情報を渡されないことを見越して教えに来たのだろう。そのためオースティン自身もそれほど多くの情報を持っているわけではない。ただ、隣国にすら噂の届く軍人が亡くなれば確実にスリベグランディア王国にも影響があると確信してのことだ。
「情報ありがとう、オースティン。助かった。こちらで調べることにするよ。だからあまり首を突っ込まないほうが良い」
ライリーの言葉にオースティンは片眉を上げる。ライリーの言いざまでは親切を無碍にされたように感じる者もいるだろうが、付き合いの長い彼は直ぐにライリーの真意を悟ったようだった。気分を害することなく当然だと笑う。
「ああ、俺も積極的に動くつもりはないよ。下手に動いても騎士団に迷惑がかかるしな」
昨年王都近郊で出現した史上最大規模の魔物襲撃を経て、貴族の中に騎士団への悪意を持つ者がいることは確実視されている。何かあればすぐに騎士団長ヘガティの首は飛ばされるだろう。だからこそ騎士団長に好意的な騎士たちは皆、神経を尖らせて極力弱みを作らないよう振る舞っていた。
オースティンはリリアナにも丁寧に退室の挨拶を告げて部屋を出て行く。その後ろ姿を見送り気配が遠ざかったことを確認して、ライリーはもの問いたげな視線をリリアナに向けた。
「君は、エルマー・ハーゲン将軍のことを知っている?」
『一般的なことしか存じませんわ』
リリアナはあっさりと答える。隣国の情報はあまり入って来ない。どれも噂程度のもので信憑性は低い。そのため、リリアナはオブシディアンに隣国の情報を探るよう頼んだ。必要になれば詳細を訊くことにした為詳しい情報は手に入っていないものの、お陰でエルマー・ハーゲン将軍のことであればある程度は知っている。
「若くして将軍の地位に就いた平民ということ?」
『ええ、そして騎士や兵士たちから信奉されているようですわね。その熱烈な支持者は時に皇帝を上回るのではないかと噂されているとか』
「ああ、そうだね。だから皇帝の座を狙っていると言う噂が出ているんだったな。その割には皇帝の覚えも目出度い――というのが不思議なんだけど」
ライリーの言葉を聞いたリリアナは頷き、気に掛かっていたことを尋ねた。
『将軍が失われたことで帝国の権力図が大きく変わることにはなりましょうが、それで何が起こるとお考えですの?』
「そうだね――」
リリアナの問いにライリーは首を傾げる。ライリーは十歳の誕生日を迎える少し前に、国王が有している“影”の一部を譲り受けた。彼らを上手く使い情報を集めることも重要な仕事だ。そのため、譲り受けて以来ずっと、国内だけでなく隣国の情報も集めるよう指示していた。だが優秀な“影”を使っても隣国の情報は思うように集まらない。どうやら開放的に見える宮廷は非常に警備が厳しく、彼らの力を以てしても侵入が難しいようだ。更に夜会等で人間関係を聞き出そうにも、皇族に近しい者や権力を持った貴族ほど情報を得難い。徹底した情報統制が敷かれているのか分からないが、お陰でエルマー・ハーゲン将軍の情報も噂程度しか手に入れられなかった。確実なことは何一つ分からないままだ。
「私が一番懸念しているのは、将軍が周辺諸国と協調関係を維持するつもりだったのか、それとも侵略するつもりだったのか――という点なんだ」
ライリーの答えを聞いたリリアナは目を瞬かせる。少し考えて『つまり』と口を挟んだ。
『将軍が我が国に攻め込むとお考えでしたの?』
「本当に彼が軍部を掌握しているなら、ここ最近で国境付近が緊迫していたことにも説明がつくだろう? 優秀な武人で将軍にも登り詰めた男だから、戦略にも秀でていたはずだ」
それならば、将軍を失ったことでどうなるか――明確な答えは出ない。騎士や兵士を抑えつける者がいなくなったことで暴走し、スリベグランディア王国への侵攻が開始されるか――もしくは協調関係を取るべきだとする派閥が台頭し、両国に平和が訪れるか。
もし前者であれば、ローランド皇子とイーディス皇女の身の安全は保障できなくなる。無事に隣国へ返すべきか、それとも捕虜として扱うべきかも考えなければならない。
リリアナは正確にライリーの懸念を理解した上で、あっさりと告げた。
『さっさとお返ししてしまった方が宜しいかと思いますわ。下手な扱いはできない方々ですもの。万が一、わたくしたちの知らぬところで傷つけられてしまえば、相手に付け込む隙を与えるだけです』
「貴方ならそう言うと思ったよ。正直なところ、私もそれには同感だ。ただ、状況を鑑みて皇女を私の婚約者に――と言い出す貴族もいるだろうと思ってね」
隣国の皇女を王太子の婚約者に向け婚姻を結ぶことで、隣国が侵略できないよう手を打つ。これもまた古典的な手法だ。だが、この手法を取るためには隣国が嫁いだ皇女を見捨てないという確証が必要になる。同時に、皇女が隣国の手の者ではないと証明しなければならない。
『平穏な時代や戦後処理でしたらともかく、これから情勢が一層不安定になる時に取るべき手段ではございませんわね』
「――つくづく、貴方を婚約者にと見込んだ私は正解だったな」
何よりも皇帝の人柄からして皇女を見捨てないとは言い切れない。国のために命を落とすことが皇女の幸福だと判断して攻め入るかもしれないし、もしくは皇女を暗殺した上で濡れ衣をスリベグランディア王室に着せるかもしれない。イーディス皇女は、抱え込むにはあまりにも危険な存在だった。
婚約者の淡々とした答えを聞いたライリーはしみじみと呟く。だがリリアナは変わらぬ微笑を浮かべて小首を傾げるだけだった。リリアナは特別なことを言ったつもりはない。何よりも、ライリーはリリアナと同じ結論に至っている。他の婚約者候補たちも、今は無理でも遅かれ早かれ到達するだろう。
だが、ライリーは不思議そうなリリアナにそれ以上説明しようとはしなかった。
エアルドレッド公爵が他の貴族たちに根回しをしてリリアナとの婚約を後押ししてくれているが、それでも状況が変われば掌を返す者もいるに違いない。念のために証文を得たとはいえ、できるだけ早くリリアナとの婚約を確定させたかった。そのためにはローランド皇子とイーディス皇女を歓待しながらも、エアルドレッド公爵たちの手を借りつつ婚約発表の予定を繰り上げる必要がある。忙しくなる予感を覚え、ライリーは小さく息を吐いた。
*****
特許状の下賜を行う会場は、初日にユナティアン皇国からの来賓を歓迎した式典会場と同じ広間だった。既に用意はなされ、ライリーとリリアナは控え室で時間が来るのを待っている。ユナティアン皇国の来賓たちは用意された別室に居るため、二人で束の間の歓談を楽しむ予定だった。だが、部屋に入ってしばらくすると扉が叩かれる。入室を促すと、そこに居たのはローランド皇子とイーディス皇女だった。ライリーとリリアナは驚きながらも、門前払いするわけにもいかずに二人を招き入れる。
イーディス皇女はリリアナを見て不思議そうな顔になったが、すぐに頬を赤らめてライリーのすぐ傍に寄った。
「ライリーさま!」
喜々として彼女はライリーに触れようとしたが、ライリーはやんわりとその手から逃れる。
「驚きました。お二人には、ここよりも景色の良い部屋を控え室として用意させたのですが――お気に召しませんでしたか?」
言外に“ここは二人のための部屋ではない”と告げるが、イーディス皇女は全く気付かなかった様子で無邪気に笑った。
「ええ、でも私、ライリーさまの婚約者ですもの、できるだけお傍にいたくて」
ライリーは咄嗟に表情を取り繕うのを忘れたらしく眉間に皺を寄せる。ライリーはこれまで一度も、イーディス皇女が婚約者になる可能性を肯定していない。しかしここで押し切られてはならないと、すぐに動揺を押し殺して尋ね返した。
「婚約者? 私にはリリアナ嬢が居る、と申し上げたはずですが」
「え? リリアナさまは婚約者の候補なのでしょう? ですから、候補は全て取りやめて、私がライリーさまの婚約者になると聞きましたわ」
きょとんと心底不思議そうに首を傾げるイーディス皇女は、とても愛くるしい。だがライリーは一切その仕草に目を奪われなかった。見た目だけでいえば、リリアナも雰囲気こそ違うがイーディス皇女と大差なく可憐だ。
「誰から聞いたのでしょう?」
問題は、イーディス皇女が自分をライリーの婚約者だと信ずる根拠だった。自分で思い込んでいるだけなら――それも宜しくはないが、まだ許容範囲だ。だが、もし仮にスリベグランディア王国の貴族から何かしら聞いたのだとしたら、すぐさま手を打たねばならない。ライリーがリリアナを事実上の婚約者として扱う姿を他人に見せつけることで外堀を埋めるのと同様に、その貴族がイーディス皇女をライリーの婚約者に据える魂胆で皇女に嘘を吹き込んだ可能性も否めなかった。
「宰相様が――」
「イーディ」
ローランド皇子がイーディス皇女の言葉を遮るが、ライリーとリリアナははっきりとその名前を聞いた。宰相――クラーク公爵だ。まさかここで邪魔をして来るとはと、ライリーは歯噛みする。だが、元々リリアナをライリーの婚約者にしたくないと考えている公爵にしてみればまさに今が好機だったのだろう。それでもまさかイーディス皇女を宛がおうとするとは思わなかった。
「イーディス皇女殿下、申し訳ありませんが、そういった事実はありません」
ライリーはきっぱりと否定する。その言葉は皇女に向けてのものではなく、部屋に控えた侍従たちに言い聞かせるためのものだった。ショックを受けたのか蒼白になる皇女を一旦そのままにし、ライリーは侍従たちに部屋から出るよう指示する。護衛は信頼のおける者を一人だけ残した。
全員が部屋から出て扉を閉めたところで、ようやくライリーはローランド皇子とイーディス皇女に席を勧める。ふらふらとしながらソファーに腰かけたイーディス皇女は、泣きそうな顔でライリーを見つめていた。
「だって――私、ライリーさまと結婚できるって、そしたらお父さまも――」
「申し訳ありません。私にはリリアナ嬢以外、妻にと望める女性はいないのです――たとえ政略で必要だと言われても、たとえどのような困難を迎えることになろうとリリアナ嬢を妻にと、私はそう考えています」
途端にイーディス皇女の瞳から、堪えていた涙がぼろぼろと零れ始める。隣に座っていたローランド皇子がそっとハンカチを妹姫に差し出した。
ライリーの言葉は非常に熱い求婚に聞こえる。だが、リリアナは普段と変わらぬ微笑を浮かべたまま平然とライリーの隣に座っていた。
数刻前に紅茶を飲みながらライリーとリリアナが話していた内容は、イーディス皇女に告げたところで理解されるとは思えない。皇女として相応の教育を受けている彼女は決して愚かではないはずだが、皇女としての責務よりも恋愛に恋い焦がれる少女にとっては煩わしいものでしかないだろう。感情と理性を直接ぶつけあったところで決して折り合いは付けられない。それならば、最初から貴方に心がないのだと告げた方が――相手を一時傷つけることになったとしても、理解を得られる可能性は高まる。
一方で、ローランド皇子を納得させるためには理詰めが必要だ。視線をイーディス皇女からローランド皇子に向ける。愚鈍と噂されていた皇子は、わずかに嘲るような光を両眼に湛えてライリーの言動を注視していた。おもむろに皇子は口を開く。
「貴殿の心はそうかもしれんが、それでこの国が滅ぶのであれば、民は決して貴殿を許さんだろうな」
ライリーは目を瞬かせる。一体何を言おうとしているのかと、無言で先を促した。
二人の瞳が空中で絡み合い、火花を散らしたように見えた。