19. 皇国から吹く風 9
品評会は王宮の北側にある最も大きな庭で執り行われた。昨日の式典会場である広間から見えていた庭だ。左右対称に造られた造園は美しい花々が咲き誇り、ただ歩くだけでも目に楽しい。広間から見下ろせば広がる森に連なる見事な姿を堪能できるが、庭に降り立てばそこかしこに有名な伝説を模した像や恋人たちの逢瀬に使えそうな秘密の花園等、趣を凝らした造りを心行くまで楽しめる。
その庭の王宮側に、品評会の会場は整備されていた。青空が広がる下でテーブルを広げ、各地から持ち寄られた様々な特産品が並べられている。参加者は思い思いのコーナーに向かい、葡萄酒を楽しんだり香水を嗅いだりして気に入った特産品の札を投票する仕組みだ。
当然、王族であるライリーやユナティアン皇国の皇族であるローランド皇子とイーディス皇女は他の参加者たちに混じって庭を練り歩くことはできない。庭の一角に来賓席を設け、そこで一般参加者たちの選考を勝ち残った特産品に順位を付ける手筈になっていた。
「晴れて良かったね、サーシャ」
『ええ、本当に』
にこにこと笑いながらライリーは隣を歩くリリアナに声を掛ける。何故自分はここにいるのだろうと思いながらも、自分がライリーの婚約者としてほぼ確定したと周囲に思わせるためにも必要な措置だとリリアナは自分に言い聞かせた。
一般参加者が投票を行っている間、ライリーとリリアナはローランド皇子とイーディス皇女を庭に案内する。ユナティアン皇国の西部地方に自生する草花はスリベグランディア王国と大きく変わらないが、皇都トゥテラリィは東部に位置するため見慣れない花もあるようだ。
「ライリーさま、ここのお庭はとてもきれいですわね。ライリーさまのお気に入りの場所はありまして?」
楽し気にローランド皇子と歩いていたイーディス皇女が、ふとライリーを振り返って話し掛ける。何度言っても彼女はライリーを愛称で呼ぶのを止めない。とうとうライリーは諦めたようだが、彼は頑なに相手を“イーディス皇女殿下”と呼んでいた。
「庭師が丹精込めて造っておりますので、そう言って頂けると彼らも喜びます。どこをとっても美しく、私には選ぶことができません。イーディス皇女殿下にもお気に召す場所がありましたら良いのですが」
「もう、イーディと呼んでくださいと言ってますのに」
イーディス皇女はぷくりと頬を膨らませる。可愛らしいと人に思わせるような仕草だが、リリアナと一歳しか違わないライリーには寧ろ心の離れる原因になっていた。どれほど幼くとも、王族や皇族であればその立場に相応しい振る舞いが求められると徹底的に教育されてきたライリーにとって、リリアナの思慮深さには惹かれるもののイーディス皇女の奔放さには辟易してしまう。
曖昧に苦笑を浮かべてライリーは視線を隣に立つリリアナに向けた。リリアナにしか聞こえない音量でライリーは小さく溜息を吐く。
『お疲れのご様子ですわね』
リリアナはブレスレットを介してライリーを気遣う。ライリーは「まあね」とリリアナに囁いた。
「私は交友関係が狭いだろう? 昔から、周囲が許可した相手としか付き合って来なかった。小さい頃はそれが当たり前だったけど、今考えると――あまりにも価値観や教育された内容が同じすぎたんだ」
『それはそうですわね』
聞こえても差し支えのない範囲で説明する。リリアナはあっさりと納得した。
ライリーにとって古くから親交のあった相手はオースティンだが、彼も徹底的に上流階級の教育を受けていた。喋り方、態度、考え方、発言の内容――全てが“立場に相応しいものであるように”教育された。まだ舌足らずな話し方しかできない頃から父親のことは“父上”と呼び、母親のことは“母上”と言うように教えられた。ライリーの“友人”は皆、彼ほどではないにせよ同じような教育を受けて来た。そしてライリーが王太子であったからこそ、彼の意に反しても我を通そうとする者はいなかった。オースティンは友人たちの中では強引な方だったが、彼もライリーを尊重してくれた。
勿論、王太子としてはどんな相手でも上手く対応しなければならない。理解はしているし多少訓練をしたつもりではあるが、それでもイーディス皇女のように何度言っても聞いてくれない相手は傍にいるだけで疲労感が増す。彼女は下級貴族や平民と比べると年の割に丁寧な話し方をするが、それでもライリーが接して来た子供と比べると子供らしい口調と内容だ。それすらもライリーにとっては気が休まらない原因となっていた。
「お待たせ致しました。一般参加者の投票集計が完了いたしましたので、御来賓席までご案内申し上げます」
品評会を取り仕切っているメラーズ伯爵が頃合いを見計らってやって来る。ローランド皇子を先頭に四人は来賓席へ向かった。その場には既に一般参加者の投票を勝ち残った特産品が綺麗に並べてある。勿論、一般参加者といっても全て貴族だから目も舌も肥えている。残っているのは選りすぐりの品ばかりだ。
「まあ、かわいらしい!」
香水の瓶を見つけてイーディス皇女が歓声を上げる。職人の技術と魔術を駆使して作られた美しい造形のガラス瓶は非常に高価で一般には広まっていない。限られた王侯貴族だけに許された贅沢品だ。スリベグランディア王国だけでなく、ユナティアン皇国でも同様だ。普段であればガラス瓶に入れることはないから、品評会のためだけに作られた特注品に違いなかった。
今回の品評会で取り上げられたとなれば、スリベグランディア王国中で商売の機会に恵まれる。そして国内貴族だけでなく他国の貴族にも高値で売りつけることができるようになるはずだ。だからこそ、各地の領主も生産者も並々ならぬ闘志を燃やして今日と言う日に挑んだのだろう。
リリアナは無言でライリーのエスコートに従い彼の隣に腰かける。リリアナたちは特産品の説明を一切聞いていない。今回一般参加者の選考を残った特産品のみ彼らの前で解説することが許されている。最初は葡萄酒だった。スリベグランディア王国南部の地域を治めている領主が滔々と自領の気候や葡萄の栽培で気を付けていること、保管方法等差別化できる部分を強調しながら語る。イーディス皇女は詰まらなさそうだったが、ライリーは勿論、リリアナも興味津々に聞き入っていた。
ふとリリアナはライリーの隣に座るローランド皇子を見て目を瞬かせる。
(あら、意外――)
やはり前評判は当てにならないと、内心で呟く。愚鈍と囁かれていた皇子だが、気だるげな素振りを見せながらも双眸には真剣な光が宿っていた。
「――以上でございます。何か、私の説明に不足はございましたでしょうか」
滅多に王族と対面しない下級貴族だからか、説明を終えた子爵は額から零れる汗を拭っていた。ライリーは穏やかに微笑む。
「とても分かりやすい説明だった。礼を言う。ローランド皇子殿下、イーディス皇女殿下、何かあれば何なりとご質問くださるだろうか」
貴族用の仮面と言葉でライリーは隣を見る。イーディス皇女は無言で首を振り、ローランド皇子は顎を指先で撫でた。
「葡萄酒は保存できる期間が短いのが難点だろう。そこはどうしている?」
「は――え、そうですね、葡萄酒の樽は常に一杯にしておくようにしております。それから、乾燥させて茹でた葡萄の種と、白葡萄酒の搾り粕を乾燥させて焼いた灰を混ぜたものを加えるように致しますと、長く保つようです」
リリアナは意外の念に目を瞬かせ、そっと横目でライリーの反対隣に座るローランド皇子を窺う。やはり前評判は信用に値しない、あくまでも“噂”にすぎなかったらしい。彼が指摘した通り葡萄酒は保存期間が短い。温度管理については魔導士が働いていれば対応可能だが、そのような魔導士を雇えるところは限られている。更にこの世界に殺菌の概念はない。そのため葡萄酒を嗜めるのは生産地に近い貴族階級だけで、生産地から遠い場所に住む貴族は当然のことながら、生産地に住む農民たちも最初に絞った美味しい葡萄酒を口にすることは出来なかった。
ローランド皇子は子爵の説明を聞いて頷いた。特に興味を引く答えではなかったらしい。恐らくユナティアン皇国でも同じ対応策を取っているのだろう。
(ああ、でもガラス瓶が既にあるのでしたら――コルク栓を使えば良いだけですわね。ただ吹きガラスですと大量生産には向きませんわ)
葡萄酒の保存期間がそれほど長くないのは、保管方法に問題がある。即ち気密性が保たれていないせいだ。ガラス瓶が高価であるため、樽に保存していることが原因の一つでもあった。樽でなければ陶器または革製の入れ物が使われている。いずれにせよ酸化したり菌が増殖したりしてしまい易い保存方法だ。ガラス瓶の大量生産は難しいだろうが、それが可能になればコルク栓をするだけで今より気密性を高めることができるだろう。
(魔術を使っても、今存在している技術と知識ではガラス瓶の大量生産は無理でしょうしねえ)
あっさりとリリアナは諦めた。そんなリリアナの隣で、ライリーもまた幾つか子爵に質問を重ねている。子爵は汗を拭いながら答えたが、最後にライリーが笑顔で礼を告げるとほっとした様子で発表者たちが集まっている席に戻って行った。
葡萄酒の出品者たちが解説を終えると、今度は実際に葡萄酒を試飲して質の良いものを選び投票する。十六歳のローランド皇子のみそのまま飲むが、他は水で薄めた葡萄酒を一口舐めるだけだ。
(薄めてしまったらあまり差が分かりませんわねえ)
リリアナは独り言ちながらグラスを戻す。それでも今回の品評会に出品者たちが全霊を賭けているのは間違いない。適当に選ぶことは失礼にあたるだろうと、慎重に色と香り、味を確かめてただ一つを選ぶ。
葡萄酒が終われば次は香水だった。イーディス皇女が可愛いと評したものもある。数人の貴族が入れ替わり立ち替わり説明をした後、自信満々な様子で最後の解説をしに来た人物を見てリリアナは気付かれない程度に目を瞠った。
「ご機嫌麗しゅう、殿下方」
にっこりと笑みを浮かべて挨拶をしたのはマルヴィナ・タナー侯爵令嬢だった。ライリーの婚約者候補の一人だ。以前からやたらとリリアナを敵視しているが、王太子妃教育はあまり上手く行っていないと聞く。それでも彼女は自分が王太子妃になれるのだと確信しているようで、リリアナの声が出ないことを悪しざまに言うことが多い。今この時も、彼女はリリアナとイーディス皇女を完全に無視してローランド皇子とライリーだけを見ていた。
(王太子妃どころか、侯爵家の令嬢としても失格ですわね)
内心で思わずリリアナは呆れてしまう。マルヴィナの後ろに立って優雅な笑みを浮かべているのは、十四歳離れた彼女の兄だ。次期侯爵として社交界にも頻繁に顔を出しているらしいが、父である現当主と違って野心家らしい。彼は大仰な仕草で一歩前に出ると最敬礼を取った。
「この度は御前に拝謁を賜れますこと、光悦至極に存じます。また我がタナー侯爵領随一の香水をお目見え奉れますことは我が侯爵家始まって以来の望外の喜び、また誉れにございます」
こちらは妹と異なり立派な態度である。野心家とはいえど、次期当主として自覚があるからこそだろう。ローランド皇子とライリーは頷いた。兄に身振りで下がっているよう言われたマルヴィナは不服そうな仏頂面になりながらも大人しく横にずれる。その時、ライリーの隣に座っているリリアナを睨みつけた。微笑を崩したりはしないが、リリアナは小さく溜息を吐く。
香水に含まれているハーブや抽出方法等を聞きながら、リリアナはマルヴィナがこの場で妙なことを言い出さないことを祈っていた。彼女は自分こそがライリーの婚約者になるのだと信じている。ライリーがリリアナを婚約者として扱うことで外堀を埋めようとしていることは知らないから、何故婚約者候補でしかないリリアナが婚約者面をしているのかと思っていることだろう。未だ正式に婚約を結んでいないことをイーディス皇女の前で口にされると面倒だ。
だが、幸いにもマルヴィナは一言も発さないまま解説は進み、質問の時間も終わって品評に進む。何故彼女がこの場に出て来たのか理解できないまま、リリアナは香水を嗅いだ。
(お二方の性格の濃さに反して、とてもさっぱりした香りですわ)
柑橘系の香りは夏場であっても嫌味にならないだろう。だが多少匂いが他の香水と比べると柑橘系に寄りすぎている。汗と混じった時の匂いを考えると、良い香りとなるのかそれとも更に汗臭さが増すように感じられるのか、若干の不安が残る。
そんなことを考えていると、それまで無言だったマルヴィナがぽそりと呟いた。
「それにしても、何故ここにクラーク公爵家のご令嬢がいらっしゃいますの?」
ぴくりとリリアナは反応して視線をマルヴィナに向ける。リリアナの隣に座っていたライリーが僅かにうんざりとした雰囲気を滲ませた。だが、ライリーが制止する前にマルヴィナが言葉を重ねる。
「貴方はあくまでも候補のお一人でしょう。その席に座るべきは、声の出ない貴方ではなく私ではなくて?」
全く、呆れた――とリリアナは痛み始めた頭を押さえるのを堪えた。隣国の皇族が居る場で口にするようなことではないし、そもそもライリーの許可なくリリアナがこの席に座れるはずがない。リリアナは王太子が許しているからこそライリーの隣に座っているにもかかわらず、リリアナではなく自分が座るべきだと主張することは王太子であるライリーへの不敬に当たる。
(我が国の恥をさらすおつもりかしら)
いずれにせよ、この振る舞いでマルヴィナ・タナー侯爵令嬢は婚約者候補から外れるだろう。それが分かったのか、マルヴィナの兄は顔色を失い「マルヴィナ!」と低い声で叱責した。
「お兄様、だって」
「控えなさい。殿下、御無礼を――」
焦って謝罪を述べようとする兄に、マルヴィナは眦を吊り上げる。腹に据えかねている様子だ。だがその口上を遮った幼い少女の声は、マルヴィナのものではなかった。
「まあ」
それまで一切、言葉を発していなかったイーディス皇女が目を丸くしてあどけなく小首を傾げている。
「リリアナさまは、ライリーさまの正式な婚約者ではないということかしら? それでしたら、私が婚約者にもなれますわね! なんとすばらしいことでしょう。ねえ、兄さま」
「ああ、そうだな。我が妹と王太子殿下の婚約は両国の友好の懸け橋となろう」
ローランド皇子がすかさず妹に合わせる。リリアナの手が温かいもので包まれた。視線を落とせば、ライリーがその手をしっかりと握っていた。顔を向ければ、ライリーの双眸には酷く疲れた色が浮かんでいる。リリアナのせいではないが、気の毒に思えて来た。ライリー本人の意志や国の意図を無視して一国の王太子の婚約者について口を出すなど、通常では考えられない。
一介の貴族令嬢であれば不敬だし、他国の皇族が口を挟めば内政干渉だ。国として正式に抗議することも十分にあり得る。だが、ローランド皇子にとっては初めての外遊であり、そしてライリーにとっても今回の外遊は今後の功績として残すためにも成功させたい。
非常識な人間が集うと全く厄介だ。
『ウィル……』
お気の毒に、という気持ちを込めて名を呼べば、ライリーはふっと笑みを浮かべた。
「申し訳ないが、私は婚約者としてリリアナ嬢を考えている。まだ正式ではないが、ほぼ確定と考えて貰っても構わない。だから、気持ちだけは有難く受け取っておきましょう――イーディス皇女殿下。ローランド皇子殿下、両国の友好はぜひとも婚姻以外の手段で永遠のものとしたい」
一切マルヴィナのことには触れない。そのことに気が付いたのか、マルヴィナはかっと頬を紅潮させた。口を開くが、癇癪を起こす前に兄に制される。一方のイーディス皇女は目を丸くしたが、無邪気に微笑んでみせた。
「まあ。でも、ライリーさまが私のことを良く知ってくださったら、きっと私のことをお好きになっていただけますわ。ですから、まずはぜひイーディと呼んでくださいな」
全く通じていない。人目がなければ、今度こそライリーはがっくりと頭を垂れていたに違いない。ローランド皇子は面白そうに片眉を上げていた。
リリアナはライリーの体温を片手に感じながら、思わず遠くを見つめる。話が通じない人種との意思疎通は非常に疲れる。そして何より、今までの人生で初めて巻き込まれた色恋沙汰がこれでは楽しむこともできない。
(全く楽しいとも面白いとも思えませんわね)
げんなりとリリアナは毒づく。宮廷文学や恋愛を扱った詩歌を理解できた試しはない。だが、それ以上に現実での色恋は煩わしい。できればこれからも関わりたくないと、リリアナは心底願った。だが、その時ふとリリアナの心には疑問が湧く。
(わたくし、前の生では乙女ゲームを嗜んでいましたわよね。乙女ゲームはそれこそ恋愛を中心とした遊戯でしたけれど、前世のわたくしはゲームとはいえ疑似恋愛を楽しんでいたのかしら)
ゲームの内容は思い出せるが、プレイしていた時に抱いていたはずの感情は一切思い出せない。いずれにせよ、宮廷文学や恋愛を扱った詩歌を楽しめない今のリリアナであればこの世界を舞台とした乙女ゲームも楽しめなかったに違いない。時間の無駄だと切り捨てる可能性すらある。
だが、今それを考えても意味はない。リリアナは脳裏に浮かんだ疑問をあっさりと捨て去ることにした。