19. 皇国から吹く風 7
式典の翌日は昼過ぎから品評会が予定されているが、それ以前は特に行事もない。昨夜の晩餐会で王宮に滞在したリリアナは、だからといって一旦王都のクラーク公爵家の邸宅に戻る気にもなれず、ライリーの許可を得たことを免罪符に王宮に留まっていた。
式典の間にこっそりと王宮内へ放っていた呪術の鼠を回収し、昼食の時間まで解析と情報の精査に当てるつもりだ。だが、鼠を全て回収し解析を始めようとソファーに腰かけたところで、扉を叩く音が響いた。致し方なしに鼠を袋に詰め込み隠匿の術を掛ける。ちょうどタイミングを見計らったかのようにマリアンヌが扉を開け中に入って来た。
「お嬢様、あの、こちらの手紙を受け取ったのですが」
リリアナは首を傾げる。手紙と言われても心当たりは全くない。リリアナ宛の手紙は王都郊外にある屋敷に届くはずだし、そもそも成人していない上に声が出ない彼女は誘われるお茶会もなく、手紙を受け取ることはない。例外は婚約者候補であるライリーと兄のクライドくらいのものだ。だが、今のリリアナは王宮に居る。二人ともわざわざ手紙を寄越さなくとも午後に話す機会があるだろう。急ぎの用であるならば、それこそ本人がこの部屋を訪れるか、もしくはライリーなら堂々とリリアナを部屋に呼びつけるはずだ。
不思議に思いながらもマリアンヌから手紙を受け取ろうとした。だが、マリアンヌは首を振った。
「刃物が入っていては危のうございますので」
リリアナが触れないよう注意を払いながら、マリアンヌはリリアナの前で封筒の表と裏を見せてくれる。確かに差出人の名前はない。リリアナは手元に紙を引き寄せ〈どなたがお持ちになったの?〉と書いた。
「城の女官ですが、誰に言づけられたのかは分からないと申しておりました。自分は下男から預かっただけだと。手紙を読めば分かると言われた、とも申しておりました」
〈そう――それなら申し訳ないけれど、封筒を開けてくれるかしら? 気を付けてね〉
「はい」
何の変哲もない封筒を睨みつけているだけでは埒が明かない。リリアナはマリアンヌに開封を頼む。マリアンヌは封筒を慎重な手つきで開ける。そっと中を覗くと安堵の溜息を吐いた。
「刃物や異物は入っていないようですね」
〈そう、ありがとう。それなら手紙を読みますわ〉
リリアナはマリアンヌから中に入っていた便箋を受け取る。白い紙は上質で、差出人が高貴な身分だと分かる。インクの色は落ち着いた黒で、これもまた高位貴族でなければ手に入れられない代物だ。リリアナは便箋の匂いを嗅いでみた。わずかに香水が染みついている。どこかで嗅いだような気がするが、記憶にない。リリアナは改めて文面を確認する。角張った文字で綴られた文章は非常に短かった。
〈百合の乙女へ。
――九つの太陽が物見の塔を空に映し出す時、西峰の海に待つ理想郷の虎にその香りを運んでは頂けないだろうか〉
差出人の名は、やはり書いていない。非常に迂遠な文言だが、リリアナには見当がついていた。
リリアナは百合を意味する名だ。つまり冒頭の“百合の乙女”はリリアナのこと。“太陽が物見の塔を空に映し出す時”とあるが、この物見の塔は王宮の敷地内に建てられている塔のことで間違いない。物見の塔には垂直式の日時計が二つ、別の壁面に誂えられており、その内の一つは空を、もう一つは大地を示す画に彩られている。空を示す日時計の針が九を指した時に、指定の場所へ来いということだろう。即ち“西峰の海”が待ち合わせ場所だ。西峰は王宮の西翼、海は特定の客室を示唆しているのだろう。そして最後にある“理想郷の虎”は間違えようがない。理想郷を示す地名はアルカシア――そこに居る虎はただ一人だ。
無言のリリアナを見つめていたマリアンヌは気遣わし気な表情で幼い主に声を掛けた。
「お嬢様、私も見ても宜しいでしょうか?」
〈いいえ、わたくしだけで十分よ〉
リリアナは首を振ってマリアンヌの申し出を断る。恐らく相手は、リリアナが的確にその内容を理解すると踏んでこのような手紙を寄越したのだろう。そう考えるとその人物は十中八九、リリアナのことをほぼ正しく認識しているに違いない。
指定の時刻まで間がない。今から向かえばちょうど良いだろう。
リリアナは微笑を浮かべてマリアンヌにしばらく部屋を離れると告げ立ち上がる。マリアンヌは心配そうな表情だったが、リリアナが安心させるように〈女官もいるし信頼のおける方ですから大丈夫よ。昼までには戻りますわ〉と言うと頷いた。本来であればマリアンヌを連れて行くべきだろうが、このような遠回しの誘いをするということは何か裏がある可能性もある。公爵令嬢にあるまじき判断と自覚はしているが、魔術や呪術を使えることを隠している以上マリアンヌは極力巻き込みたくない。
部屋を出ると、手紙を持った女官がリリアナを待っていた。リリアナはにっこりと笑って無言で女官を促す。無表情の彼女は「こちらへ」と言った切り、黙って歩き出した。リリアナはその後を付いて行く。だが、女官が案内してくれたのは途中までだった。西翼に至る扉を開けたところで、女官は立ち止まる。そして振り返り、リリアナに淡々と告げた。
「私が言いつけられているのはここまでです。ここから先はお一人でと承っております。その、――護衛がおりませんが」
大丈夫でしょうか、と気遣わし気な視線だ。通常であればあり得ない状況に彼女も戸惑っているのだろう。だが、それでも自分が最後まで随伴するとも言い出さないところを見ると、彼女も逆らうことが出来ない命令らしい。
リリアナは微笑を浮かべたまま頷くと、女官は見るからにほっとする。視線を逸らして西翼に通じる回廊に足を踏み入れ数歩進むと、背後で扉が閉まった。
王宮の西翼は月と海、東翼は太陽と空を題材とした絵画や置物に溢れている。リリアナは歩き出した。理想郷の海と言えば、著名な港がある街ラルジュを連想する。ラルジュと言えば真珠――最も高価な宝石だ。正確には石ではないが、この世界ではダイヤモンドと並び宝石の王者と持て囃されていた。
西翼には、最も高貴な身分の貴族を宿泊させる部屋として“真珠の間”がある。東翼にある“ダイヤモンドの間”も同等の部屋だが、現在そこにはユナティアン皇国から来たローランド皇子とイーディス皇女が暮らしていた。他の客室と比べても非常に広く、一家族が暮らせるほどだ。
“真珠の間”に到着したリリアナは扉を叩く。少ししてゆっくりと扉が開いた。そこに居たのは老齢の執事だった。
「お待ちしておりました」
促されるままリリアナは室内に入る。更に幾つかの扉を通り過ぎ招き入れられたのは、ソファーのある一番広い部屋だった。大きなソファーが二脚、ローテーブルを挟むように置かれていて、ローテーブルの上にはチェス盤とお菓子、紅茶が用意されている。
ソファーに座っている人物に目を留めてリリアナは目を瞬かせた。予想通りの人物だ。彼はリリアナを認めるとゆっくりと微笑を浮かべ立ち上がった。
「突然悪かったね。こうでもしないと、なかなか内密に君と話すことはできないと思ったんだ」
ベルナルド・チャド・エアルドレッド公爵。オースティンの父親だ。
リリアナは曖昧に微笑を浮かべたまま淑女の礼を取った。西の虎と呼ばれる天才。彼が一体何の用で自分を呼びつけたのか、全く見当がつかない。公爵はリリアナにソファーへ座るよう促した。逆らう理由もなくリリアナは公爵の対面に腰かける。彼はチェスの駒を移動させて初期位置に戻しながら、リリアナに尋ねた。
「君、チェスはできる?」
〈ええ、一応は〉
チェスの対戦相手に呼ばれたのだろうか、と内心で思いながらも直ぐにリリアナはそれを否定する。エアルドレッド公爵の逸話はリリアナも知っていた。若かりし頃に多面指しで圧勝したという信じ難い話は既に伝説の域だ。リリアナもチェスの基本ルールは知っているしある程度腕もあると自負しているが、公爵と対戦して勝てる自信はない。
そんなリリアナの内心に気が付いているのか気が付いていないのか、公爵は自分の方に置いた白い駒の内、いくつかを盤面から外した。駒落ち戦、つまり公爵はリリアナより不利な条件で試合を始めるつもりらしい。
「ああ、そうそう。対戦中はこれを使っても良いかな?」
準備を終えた公爵はポケットからブレスレットを取り出した。リリアナは、彼女にしては珍しく目を瞠った。そのブレスレットには見覚えがある。ライリーがリリアナにくれた、念話用の魔道具と対になっているブレスレットだった。だが、それはライリーが持っているはずである。疑惑に目を細めるリリアナに、公爵は小さく笑ってブレスレットを自分の腕につけた。
「このブレスレットを作るように、とある魔導士に頼んだのは殿下だ。だが、その魔導士のことは僕も知っていてね。殿下に一応、許可は取ったけど、僕も君とスムーズに話すために用意して貰ったんだよ。これがないと君は喋らないんだろう?」
微笑を取り戻したリリアナの眉がぴくりと動く。極力内面を現わさないように心を配りながら、リリアナは公爵の様子を窺う。彼は平然として態度を一切変えない。だが先ほどの言い回しは間違いなくリリアナが喋れることを知っていると示していた。それも、知っているということを遠回しにリリアナへ伝えている。
やはりチェスの相手が欲しくて自分を呼んだわけではないのだと、リリアナは再認識した。
「それじゃあ、試合を始めようか」
公爵は嬉しそうに「まずは君からだ」と両手を擦り合せた。
*****
殆どの駒を盤面から外して始めたにもかかわらず、エアルドレッド公爵はとても強かった。リリアナもある程度自信があったものの、ほとんど歯が立たない。リリアナが長考する一方で、公爵は直ぐに駒を動かす。リリアナに休憩する隙を与えない。圧倒的な経験不足が如実に表れていた。
「その年齢でここまで打てるのは凄いよ、お世辞じゃなくそう思う。一筋縄じゃいかない手筋が得意だね、息子とも殿下ともだいぶ違う」
『殿下とオースティン様とも対戦なさったことがおありなのですか?』
「うん、何度かね。殿下はだいぶ基本に忠実な手筋だけど、時々びっくりするほど思い切りが良い。オースティンは、そうだな。奇を衒おうとして失敗することがあるけど、冒険心に溢れた感じの手が多いかな。ああ、それから君のお兄さんとも一度だけ対戦したよ。君よりは堅実な手が多かったけど、指南書に書かれた手は一切使わなかった」
性格が出るよね、と公爵は楽し気に笑う。リリアナは曖昧に頷きながらも、公爵の様子を窺っていた。
エアルドレッド公爵は非常に厳格だと言われているし、実際に顧問会議等でも抜け目なく他の貴族たちと渡り合っていると聞いた。リリアナが秘密裏に放っている呪術の鼠も同じような情報を持ち帰っている。
だが、今対戦している公爵は子煩悩な父という印象が強い。話し方も幾分柔らかく穏やかだ。多少、神経質な様子も窺えるが、どちらかというと交渉事や政治的駆け引きよりも一つの物事に没頭して思考する方が得意なようにも見える。言うなれば学者肌だ。
『オースティン様とは普段から良くチェスをなさるのですか?』
「うん、領地に居た時は良くしてたよ。負けず嫌いでね、小さい頃は良く泣いてた。ユリシーズが――オースティンの兄だけど、可哀想だと言ってわざと負けたりしてたよ。でもそれも腹が立つらしくて、良く怒っていた」
微笑ましい思い出を語るように公爵は頬を緩めた。そのことにリリアナは胸が苦しくなる。どこかで羨ましい、という声が聞こえた気がした。エアルドレッド公爵家で繰り広げられた穏やかな親子の触れ合いは、クラーク公爵家では決して望めないものだ。
対戦しながら他愛のない会話が続く。段々とリリアナも緊張がほぐれて来た。エアルドレッド公爵の話は軽快で楽しいとさえ思える。リリアナにとって一番話す機会が多い相手はライリーだ。だが、エアルドレッド公爵との会話はライリーとの話より刺激的で興味深かった。
「特許の話も聞いたよ、君の発案なんだって?」
『ええ。クラーク公爵領の染色特区へ視察に参った際に思い付きましたの。ですが、その後に実践的な内容へと落とし込んだのは殿下のご尽力の賜物ですわ』
「無から有を生み出すことも十分立派だよ」
エアルドレッド公爵は優しく微笑む。本心からの言葉にリリアナはわずかに頬を染めた。
二人で会話を始めてからずっとこの調子だ。公爵はリリアナを誉めそやし、そして他人から賞賛を滅多に受けないリリアナは謙遜することもできなくなる。ただ戸惑い視線を彷徨わせることしかできない。リリアナを利用しようとしておべっかを使っているのかとも疑うが、彼の言葉はリリアナを良く知っていなければ口にできない内容ばかりだった。
「最近はね、商業ギルドが握っている為替に関してももっと上手くできないかと考えているんだよ」
『為替でございますか』
リリアナは目を瞬かせた。エアルドレッド公爵は楽し気に髭の生えた頬を緩ませて頷いた。
「君なら理解してくれる気がするな。公爵領の誰に言っても良く分からないって顔をされるんだ」
そんな前置きと共に、彼はエアルドレッド公爵領の中でも著名な港町ラルジュの名を口にした。ラルジュは他国との輸出入における拠点でもある。特に西方の島々から運ばれて来る特産品は、ユナティアン皇国からは輸入できない。
「他国の品物がたくさん来る、ということはつまり他国の人も大勢来る。そこで問題となるのが貨幣なんだよ」
『両替商ということでしょうか』
リリアナはピンと来て口を挟む。すると、エアルドレッド公爵は驚いたというように目を丸くした。そして彼にしては珍しく、酷く楽し気に声を立てて笑った。
「さすがだね。うん、さすがだ。僕が思った以上に才媛だった」
お見それしたよ、と首を振る彼は嬉しそうだ。そして悪戯っぽく目を輝かせ、身を乗り出して「他に何か思い付くことはあるかい?」と尋ねる。リリアナはわずかに怯んだが、考えながら口を開いた。まるで教師と生徒だ。
正直なところ、リリアナはこれまで多くの教師に師事したが、刺激的だと思える相手は殆ど居なかった。彼らは皆画一的に表面的な内容を伝えるだけで、リリアナにとっては書物を読むことと大差ない。稀に書物にはない話を教えてくれる人も居たが、王太子妃に多くを求めないのか、それとも単に婚約者候補でしかなかったからか、思考能力が試されるような課題を出されたことはなかった。
だからこそ、エアルドレッド公爵との会話は有意義で楽しい。現状の問題に即した議論で、しかも着眼点もリリアナにはないものが含まれている。そして公爵は、リリアナの発言から更に内容を膨らませることが得意な様子だった。彼と話せば話すほど、リリアナは自分の思考回路が広がっていく実感が湧く。
『他は――そうですわね、例えば頻繁に来航する方を対象として貨幣を預かる仕組みですとか。それから、船は危険でしょうから、難破等によって生じた損害を一定範囲で補償する仕組みでしょうか』
「うん、良い着眼点だね。それから僕が考えているのは信用供与――つまり貸付なんだ」
『貸付――』
リリアナは目を瞬かせる。エアルドレッド公爵は楽し気に頷いた。
「この国の商業ギルドはまだ発展途上だ。だけど今後はその力も増して来るだろう。そうなると、例えばラルジュからケニス辺境伯領まで行く時に銀貨や銅貨を持ち運ぶ必要もなくなるだろう? 途中で盗賊や魔物襲撃に遭うことを考えると、貨幣をそのままの形で持ち運ぶことは避けたいからね」
酷く言葉が足りない説明だ。これだけで理解しろと言うのは誰に対しても酷だろう。だが、幸いにもリリアナは公爵の言葉をほぼ正確に理解した。
『為替と預金、貸付を全て紐づけることで、資金移動を円滑に進めることができるということですのね』
個人の資産移動だけではない。商業取引においても円滑な資金移動は有利に働く。王国中で上手く制度が出来上がれば、スリベグランディア王国の経済は上昇し更に国を富ませることができるだろう。だが、公爵は頭が痛いというように小さく溜息を吐いて首を振った。
「ただそこで問題があってね。為替は勿論だけど、送金に伴う通知状の送付を滞りなく行わなければならないんだ」
『各地にある商業ギルド間と私人間の手紙の郵送手段を確実なものにしなければなりませんわね』
「そう、それが結構難しいんだよ。特に最近は、魔物襲撃も大規模なものは発生しなくなったとはいえ、中小規模のものが頻発しているしねえ」
エアルドレッド公爵でも悩みはあるらしい。話をしていく中で彼の才能を目の当たりにしたリリアナは、人間らしい瞬間を見て口元を綻ばせる。
『閣下のような方でも、試行錯誤なさっているのですね』
「それはそうだよ。僕も完璧ではないからね。特にアドルフからは――弟なんだけど、アドルフからはもっと周りに相談しろって言われるんだよ」
相談しているつもりなんだけどなあ、とぼやく公爵は酷く人間臭い。リリアナはいつの間にか、普段浮かべている感情を隠すための微笑ではなく、本心からの笑みを浮かべていた。
リリアナと同等の知識を持ち、しかしより経験豊富で知性が高い彼から学ぶことは多くある。だからといって近寄りがたいわけではなく、本当の公爵は近くに居て落ち着ける雰囲気を纏っている。いつしかリリアナは、公爵との対談を心から楽しんでいた。
二度目の対戦を終えて盤上の駒を初期位置に戻す。再び白い駒を幾つかテーブルの上に置いた公爵は何気なく口を開いた。
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※アルカシア:アルカディア(理想郷)の元となったとされるアルカス(Arkas)の末尾に地名接尾辞iaを付けてみた。