19. 皇国から吹く風 5
ユナティアン皇国から外遊のために訪れたローランド皇子たちを歓迎する式典は、つつがなく執り行われた。スリベグランディア王国側が歓迎の言葉を述べた後にローランド皇子が両国の末永い和平と友好を願う祝辞を口にする。その後、宮廷音楽隊による演奏で各国を象徴する曲が奏でられ舞が披露される。そうしてスリベグランディア王国の有力者たちとの面会を終えれば、皇子たちはライリーを始めとした王族との会食だ。
本来であれば、リリアナは舞の披露が終わった段階で一足先に王宮を立ち去る予定だった。有力貴族の中には勿論クラーク公爵家も入っているが、ローランド皇子たちに正式な挨拶を交わすのは当主とその夫人、そして次期当主が決まっていればその次期当主のみだ。クラーク公爵夫人であるベリンダは普段通り公爵夫人としての役割を放棄し屋敷に籠っているから、公爵は平然と夫人は病気であると告げ一人挨拶をする。今回は夫人の代わりにクライドを伴う予定だった。そして当然のことながら、リリアナはその場に居る必要もない。
それにもかかわらず、リリアナは有力者たちが次々と王宮を辞する時になっても屋敷に戻ることはできなかった。
「謝るからそう怒るなって」
全く悪びれずに告げるのはオースティンだ。どうやら彼はライリーに頼まれたらしく、マリアンヌと共に王都の屋敷へ帰ろうとするリリアナを呼び止めてライリーの執務室へと案内したのだ。逃げようにも腕をしっかりと掴まれては振り払うことすらできない。オースティンはリリアナが痛くないようにと気遣ってくれてはいるようだが、彼の手は決して離れなかった。
(怒らないほうが無理というものでしょう)
リリアナは内心でオースティンに文句を言うが、わざわざ紙とペンを持ち出してまで彼と意思疎通を図るつもりはなかった。
「あいつが、会食にお前と同席したいって言うからさ。さすがにユナティアン皇国の二人と大公の四人で晩飯なんて、食った気がしないと思うぜ」
気の毒だと思ってやれよ、と訴えるオースティンにリリアナは渾身の笑みを見せた。だが目は笑っていない。その顔を目にしたオースティンは顔を引き攣らせ、一歩後退しそうになるのを辛うじて堪えた。
「――俺はライリーに頼まれたことをしただけだから、な?」
〈会食用の着替えなど持って来ておりませんわ〉
ここでようやく筆談を持ち出したリリアナは、更に冷ややかな目をオースティンに向ける。“責任転嫁するなどみっともない”というリリアナの気持ちが伝わったのか、少年はわずかに顔色を悪くする。それを見てリリアナは留飲を下げた。だが、それでもオースティンに引く気は見えない。どうやらリリアナが大人しく会食へ向かうまでこの部屋で監視するつもりのようだ。座ってくれ、というように彼はソファーを指し示す。リリアナは抗議の意味でも立っておこうかと思ったが、今回の主犯はライリーのはずだ。オースティンであればライリーを思い留まらせることもできるだろうが、本気の王太子を説得できるかと言えば無理だろう。
諦めたリリアナは素直にソファーに腰かけた。オースティンは小さく安堵の息を吐いてリリアナの対面に座る。
「クラーク公爵にはライリーが直接説明する手筈だ。クライドは知らないことになっている」
恐らく父親は激怒するに違いないとリリアナは思う。滅多に会わない公爵が激怒するところなど見たこともないが、何となく予想は付く。怒鳴るでもなく、冷ややかな表情で相手の臓腑を凍らせるような威圧感を発するに違いない。
ライリーも年相応でないとはいえ、まだ十一歳の少年だ。百戦錬磨の公爵にどう対応するのか気になるところだが、護衛と女官が居るとはいえ、オースティンがリリアナの一挙手一投足に注目できる今の状況で魔術を使う気にはなれなかった。気付かれる危険性が高すぎる。
オースティンはリリアナが落ち着いたらしいと見て取って、更に言葉を重ねた。
「公爵にご理解いただいた後は、直接この部屋にお前を迎えに来る。会食用のドレスは用意してあるらしいから、マリアンヌに頼んで着替えておくと良い」
どうやらライリーは式典に参加するための衣装だけでなく、会食用のドレスまで用意してくれたらしい。頼んだ記憶もないし採寸表を見せたこともないのだが、恐らくライリーは王太子の権力を存分に使ってリリアナが贔屓にしている仕立て屋から情報を得たのだろう。
深く溜息を吐いたリリアナは、扉を叩く音に顔を上げる。そこにはマリアンヌと女官が大量の荷物を手に持っていた。物心ついてからこの方、嫌になるほど見た形だ。
(ドレスだけでなく宝飾品と靴も、贈ってくださったのね)
婚約者候補の段階では王太子から直接贈り物を受け取ることなどない。婚約者になれば王太子が自費でドレスや宝飾品等を贈ってくれることもある。婚姻が成立し王太子妃となれば、ようやく国庫に王太子妃用の予算が確保される。だからこそ、この豪勢な贈り物たちの存在が他へ知れた場合、噂好きの社交界がどのような話で持ちきりになるか、火を見るよりも明らかだった。そして十中八九、このドレスは噂になるだろう。現時点で既に相当数の女官たちに目撃されている。
王宮に勤める女官たちは皆、一定以上の爵位を持つ家の令嬢たちだ。社交界への伝手は勿論豊富だし、彼女たち自身も噂好きだった。リリアナが情報収集のために放つ呪術の鼠も、幾度となく女官たちから有益な話を持ち帰っている。
(王太子の婚約者はリリアナ・アレクサンドラ・クラークに決定した、王太子はリリアナ嬢を溺愛しているらしい、婚約が確定していない時点で大量の贈り物を渡した殿下はリリアナ嬢にねだられると何でも買ってやるらしい――)
社交界を席捲するだろう噂は少し考えただけでも色々と思い付く。中には、リリアナがライリーに無茶を言って贈り物をねだったという悪しざまな話もあるだろう。人は悪意に満ちた陰口が大好きだ。声が出ないリリアナが王太子の婚約者に相応しいとは思えないという非難も当然含まれるはずだ。勿論、それしきの陰口で傷つくようなリリアナではない。実害がなければ問題はない。
だが、そのせいでライリーが次期国王に相応しくないという流れが出来てしまうと不味い。それは避けなければならないが、前世のゲームで彼は順調に王太子として成長していった。そう簡単に牙城は崩せないと思いたい。
マリアンヌに手招きされ、リリアナはソファーから立ち上がる。さすがに執務室で着替えるわけにはいかない。近くに着替えられる部屋があると聞き、リリアナはマリアンヌと女官たちと共に別室へ向かった。
*****
式典が無事終わったにもかかわらず、クラーク公爵は非常に不機嫌だった。宰相室で残りの仕事を片付けようとしていた折、訪れた王太子に告げられた言葉を咄嗟に問い返す。不敬と言われても仕方のないことだったが、既に彼は王太子よりも王宮内の権力を有していた。
「なんですと?」
対面すれば壮年の貴族でも震え上がるような迫力だ。だが、未だ成人年齢に達しない王太子は平然とその笑みを受け止め、先ほど口にしたのと同じ言葉を繰り返した。
「リリアナ嬢に、今夜のローランド皇子たちとの会食へご同行願いたい」
「大公もご参加なさいますでしょう」
それなのになぜ自分の娘が出席しなければならないのか理解ができない、と公爵は言外に断言する。だが、ライリーは小首を傾げて微苦笑を漏らした。
「大公は、どうやら今夜外せないご用事があるらしく。隣国との会食以上に重要なことなどあるのかと驚きましたが、命に関わることらしいので致し方ありませんね」
心配そうな表情を作って言ってのけるライリーを、公爵は苦々しい顔で見下ろす。
命に関わる怪我などそうそうあるはずもない。大公の詭弁であるには違いない。そして、そんな詭弁を弄したフランクリン・スリベグラード大公がどこへ向かったのか――考えるまでもない。
「お戻りになるよう、お願いしに参りましょうか」
「さあ。まだ王宮にいらっしゃれば良いのですが――先ほどから探しているのですが、もう見つからないのです」
物騒に唸る公爵に対して、ライリーは落ち着き払っていた。大公が王宮を秘密の恋人と出たのは随分と前である。夫人の夫は侯爵であるものの、生粋のアルカシア派であり、ライリーを支持する国王派とは相容れない旧国王派の人間だ。王宮でも主要な顔ぶれの中には入っておらず、ローランド皇子たちへの挨拶も早々に終えて式場を後にしていた。追い駆けたところで、大公と夫人はさっさと愛の巣に籠って久方ぶりの逢瀬を楽しんでいることだろう。
ライリーはそっと公爵の様子を窺う。青炎の宰相と名高い男のことだから大公の愛人は把握しているだろうが、今日の相手を特定できるかは疑問だ。浮き名を流し特定の相手を作らないと噂の大公だが、今共にいるであろう夫人に対しては他の女性たちと比べて付き合っている期間が非常に長い。そして、どれほど情報通だと自負している人であっても、大公の愛人を述べる時に決してその人の名を口にしない。恐らく、夫人の印象と愛人という言葉が掛け離れているからだろう。
――王太子と王太子妃に教育を付けられるほど優れた賢夫人。彼女の礼儀作法は完璧であり、夫を立て常に穏やかに微笑む姿は理想の淑女とされる。一方で社交界では顔が広く、彼女の知らない情報はないともされるほど噂に通じた人物――フィンチ侯爵夫人である。
クラーク公爵は諦めたのか、眉間に深い皺を刻んで低く尋ねた。
「それならば、何故アレを晩餐会に連れて行くと仰られるのですか。まだ婚約者でもない、一介の公爵令嬢に過ぎないのですぞ。それに話すことも儘ならない。貴方はスリベグランディア王国の威厳を損なわれるおつもりか」
「公爵。リリアナ嬢の資質は、声が出ない一点だけで無になるほど些細なものではありませんよ。私は彼女が王太子妃に相応しいと確信しています」
「たとえそうだとしても、今宵の晩餐に伴われる理由にはなりますまい」
「他国との晩餐会に婚約者となる令嬢を連れ立つことに問題はありません」
ライリーは自分を見下ろす公爵を真っ直ぐに見返す。睨み合いのような状況になったが、両者共に一歩も引かなかった。少しして、クラーク公爵は淡々と言う。
「――アレの声が十歳になっても出なければ婚約者候補から外すと、陛下から了承が取れております」
「そこまでリリアナ嬢を私の婚約者にしたくない理由はなんでしょう」
彼女以上に相応しい方はいらっしゃいませんが、とライリーは言外に告げる。しかし氷のように冷たい表情を浮かべるクラーク公爵はにべもなかった。
「答える必要があるとは思えませんな、殿下」
ライリーは逡巡する。ここで引くつもりはない。だが、次の言葉を間違えるとリリアナを婚約者にするどころか、今日の晩餐会に同行させることも難しくなりそうだ。王太子の権限を使えば強行できるだろうが、その後のことを考えれば円満に承諾を得たい。
沈黙が落ちたその時、宰相室の扉を叩く音がした。二人が出入口を見れば、そこには困惑顔の侍従と髭面の男がいた。
「時流は常に変わるものですよ、クラーク公爵」
「――エアルドレッド公爵」
クラーク公爵の低い声からは、エアルドレッド公爵を全く歓迎していないことが明らかだった。エアルドレッド公爵は宰相室を訪れることはない。クラーク公爵が彼を蛇蝎の如く嫌っているからではなく、単に用がないからだ。
「珍しいですな、貴方がここへいらっしゃるなど」
皮肉に口元を歪めたクラーク公爵に、しかしエアルドレッド公爵は動じない。唇を小さく笑みの形に歪めたまま一切表情を変えず、クラーク公爵の言葉を無視する。
「貴方が何を陛下と密約なさったのかは知らないが、その密約が知られていない以上、顧問会議の多数が王太子のご意向を支持すれば、クラーク公爵令嬢は婚約者となります」
それを知らないはずはないだろうと、エアルドレッド公爵は言外に告げる。クラーク公爵は感情の読めない目を鋭く光らせ、エアルドレッド公爵を凝視していた。悠然とその視線を受け止めていたエアルドレッド公爵は、視線をライリーに移す。そしてにこやかに告げた。
「殿下、クラーク公爵令嬢はもう準備が整ったようですから、すぐ行かれた方が宜しいかと思います」
「――感謝します」
ライリーは頷く。だが、肝心のクラーク公爵から了承は得られていない。一瞬気がかりな視線を宰相に向けるが、彼はエアルドレッド公爵を睨んだまま反応しなかった。エアルドレッド公爵は静かに笑みを深める。
「クラーク公爵。式典も終わり主要な貴族は王宮を去り、大公は現在行方を晦ましております。私や貴方が出席できない以上、殿下が婚約者と決定なされたクラーク公爵令嬢を同席させぬ十分な理由があるとは思いませんが」
それでもまだ反対するのかと、静かにエアルドレッド公爵は問いかける。
ユナティアン皇国からの参加者はローランド皇子とイーディス皇女であり、ドルミル・バトラーは同席しない。彼らと釣り合いを取るためにこちらは王族が参加する必要がある。クラーク公爵は王家の血筋ではない。大公が居ない今、参加できるのはライリーの婚約者か、王家の血を引くエアルドレッド公爵のどちらかだ。
ライリーの婚約者にしたくない娘と、気に食わない男のどちらが隣国皇子との晩餐会に相応しいか――もし後者を選んだ場合、クラーク公爵の矜持は傷つけられる。王族の血筋という、決して覆すことのできない事実でクラーク公爵はエアルドレッド公爵に勝てない。
それを承知で先の台詞を口にしたエアルドレッド公爵を今度こそ憎々しそうに睨みつけ、クラーク公爵は低く唸った。
「――今宵だけですぞ」
他は認めないと彼は言外に告げる。だからライリーは頷かなかった。穏やかに笑って、宰相室を出る。その後ろをエアルドレッド公爵が追い、二人の背後で宰相室の扉は閉められた。
「殿下」
しばらく歩いたところで、エアルドレッド公爵がライリーに声を掛ける。ライリーは顔を上げたが、すぐに慌てた様子になった。
「そうだ、エアルドレッド公爵。先ほどは礼を言うのを忘れていました。ありがとうございました、お陰でリリアナ嬢と会食を共にできます」
「構いませんよ」
にっこりとエアルドレッド公爵は笑う。そうすると目尻に皺がより、厳格な雰囲気が多少緩くなる。どこかオースティンに似た雰囲気を感じ、ライリーは頬を緩めた。エアルドレッド公爵はそんなライリーを穏やかに見下ろす。
「クラーク公爵令嬢の件ですが」
「はい」
ライリーは素直に耳を傾ける。エアルドレッド公爵は声を潜めた。
「彼女を婚約者とすることに関しては、顧問会議でも賛成派を多数、確保しています。念のために証文も取っておきました。早急に顧問会議にて議題とされることをお勧めしますよ。ルシアンに頼めばうまく取り計らってくれるでしょう」
予想外の言葉だった。ライリーは目を瞠る。どこから突っ込めば良いか分からず、取り敢えずライリーは一つずつ疑問を口にすることにした。
「証文、とは――?」
「ああ、簡単な約束事とされてしまっては困りますからね。ちゃんと証拠を取りました。原本は安全な場所に預けてありますが写しがありますので、それは後程お渡しできます」
「顧問会議の多数が賛成派、なのか?」
「はい。勿論彼らにも主義主張や派閥はありますが、殿下の婚約者についてはそれほど混乱せずに意見が纏まりました。まあ、私とケニス辺境伯が支持していますからね」
ケニス辺境伯は刺客の手により半身不随になり、以来領地に籠っている。それでもその影響力は大きい。息子のルシアンがケニス辺境伯の代わりに王都で動くようになったが、人々はルシアンの後ろにケニス辺境伯を見ていた。その彼がリリアナをライリーの婚約者として認めるのならば多少の不安には目を瞑ろうと考える者は多い。そして、更にエアルドレッド公爵自身も支持するという。それならば反対できる貴族はクラーク公爵くらいのものだ。更に証文を取ったというのであれば、彼らは前言を撤回することなどまず出来ないだろう。
「――ありがとうございます。リリアナ嬢のことだけでなく、大公の件も――お礼が遅くなってしまいましたが、助かりました」
何故ここまでエアルドレッド公爵が尽力してくれるのか分からないが、ライリーは素直に礼を言う。エアルドレッド公爵は楽し気に喉の奥を鳴らした。
「お気になさらず。才能あふれた若者を育み助けるのが、先達としての役目であり楽しみでもありますからね。彼女は非常に――ええ、非常に優秀な令嬢だ。殿下と共に国を支えることができるでしょう」
稀代の才能と讃えられた男の言葉を聞いたライリーは頬を染めた。自分が褒められた時のように照れ臭さが沸き起こる。だが、どうにか心を落ち着けた。
「公爵にそう言って頂けると、私も自分の目が誤っていなかったのだと安心できます」
「殿下は大丈夫でしょう。人を見る目がおありになりますから」
それをお忘れなきよう、と悪戯っぽくエアルドレッド公爵は告げる。そして足を止めた。既に二人はライリーの執務室近くまで来ている。リリアナが着替えているはずの部屋も直ぐ傍だ。
「それでは、私はこれにて失礼します」
エアルドレッド公爵はライリーに礼を取る。ライリーは再び「ありがとう」と告げ、踵を返した。
リリアナに贈ったドレスは、仕立て屋を呼びどのようなデザインが良いか散々頭を悩ませた。リリアナは一見可憐だが芯は強い。そんな彼女の美しさを際立たせるためにはどのようなドレスが良いのか。
悩み抜いたドレスはきっと彼女に似合うだろう。
沸き立つ心に任せて、ライリーは足を速める。早くリリアナに、会いたかった。
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