19. 皇国から吹く風 2
もうすぐリリアナが王宮に到着する時間だ――ライリー・ウィリアムズ・スリベグラードはせり上がる緊張を飲み込む。全ては順調だったが、最後の仕上げが待っている。
目の前で親友のオースティンが半眼でライリーを見ていたが、文句を言う気にもなれなかった。一方で、オースティンの対面に座ったクライドは若干顔を蒼褪めさせている。今の自分に余裕はないが、それでも一番心労を抱えているのはクライドに違いない。そう思ってライリーはクライドに声を掛けた。
「悪かったね、クライド。特にこれからが大変だろうけど――」
「いえ――ええ、まあ。父に何を言われるのか、想像するだけで胃が痛くなります……」
「――幸いにも、皇子と皇女がいらしている期間中は宰相もお忙しいからね。すぐには問い詰められたりはしないと思うよ」
「それだと良いのですが」
そう答えるクライドの顔はやはり青白い。それも当然だろう、とライリーは内心で気の毒に思う。勿論その原因が自分にあることは理解している。それでも譲れないものがあった。
そんな二人を黙ってみていたオースティンは呆れた表情を浮かべたまま「それにしても」と口を開いた。
「まさかお前がそこまで思い詰めた上で、宰相たちの目ですら掻い潜って色々企んでいたなんて知らなかったよ。俺には教えてくれても良かったのに」
「万全を期すためには味方だろうと打ち明けるわけにはいかなかったんだよ」
「そう言うだろうとは思ってたけどな――本当に大公は了承したのか」
「簡単だったよ。彼女も最近会えなくて寂しかったらしいし、侯爵も忙しくて屋敷に戻らないらしいからね」
ライリーの回答は予想が付いていたのか、オースティンはあっさりと肩を竦めた。
――リリアナ・アレクサンドラ・クラークを婚約者にする。
それは二年ほど前にクラーク公爵領を視察した時、ライリーが決意したことだった。他の婚約者候補たちと比べてリリアナは勉学や礼儀作法に長じ、更には王太子妃としての資質を持ち合わせている。それだけではなくライリーと同等かそれ以上の発想力で民と国のためになる政策を提案することもできる。彼女の博識さと見聞を広めるための情熱はライリーにとっても良い刺激だった。
将来国王として国を治めるのであれば隣に立つ王妃はリリアナであって欲しい――否、彼女以外にはあり得ないと確信するほど、ライリーにとってリリアナは魅力的だった。だが、それを理解しない貴族は多くいる。また、能力や資質についてはリリアナの優秀さを認めていても、王太子妃にすべきではないと考える者もいる。だが彼らに何を言われてもライリーは譲る気がなかった。たとえ敵対する相手が義父となる宰相であっても決意は変わらない。
改めて決意を固めるライリーを前に、クライドは小さく息を吸い「それにしても殿下、本当に――」と掠れた声で尋ねた。蒼褪めた表情からは、妹のことを心から案じている様子が窺える。
「本当にリリーを――妹を婚約者に据えるおつもりですか。彼女はまだ声を取り戻しておりません。妹に王太子妃が務まるとは思えないのですが」
「声が出ないなんて、些細な事だ。それに彼女は最も王太子妃に相応しい人柄だと思っている」
ライリーは嫣然と微笑んでみせる。彼女の資質と能力の前に声が出ないという事実は些事だ。必要となれば如何様にも補うことができる。
それに――と、ライリーは嘗て遭遇した誘拐事件と魔物襲撃のことを思い返した。誘拐事件はクラーク公爵領の染色特区へ視察に行く道すがらで起こった。その時、ライリーはリリアナが魔術を使えるのではないかと疑った。その疑惑が確信に変わったのは、ライリーが十歳になったことを祝う生誕祭の日、王都近郊で起こった魔物襲撃の途中だった。休んでいるはずのリリアナは幻術で作られた彼女で、本人はどこにも居なかった。
――リリアナは魔術が使える。
ライリーは確信した。未だにリリアナが魔術を使う場面を直接見たことはないし、本人から魔術が使えると聞いてもいない。だが彼女が魔術を使えるのであれば、彼女は声を取り戻しているはずだ。魔術の稼働には詠唱が不可欠だから、導き出される結論はたった一つだった。
「私はリリアナが良いと思っているんだ。彼女がどう考えていようと、婚約者候補であることに変わりはないからね。選ばれてしまえば、彼女は私の婚約者だ」
クライドはライリーのその言葉を聞いて僅かに口元を引き攣らせた。それを見て、ライリーは満足気に微笑む。リリアナが結婚を望んでいないことは、ライリーも薄々感じている。ただ、嫌われているわけではないとも思う。恐らく彼女がライリーの婚約者にならないよう努めている理由は感情的なものではない。好悪という感情自体、リリアナには縁遠いものだとライリーは理解している。それならば遠慮する理由もなかった。
言外にライリーが告げたことを、クライドは正確に受け取ったようだ。一方のオースティンは更に呆れを深くした様子だ。
「――特別な存在は作らない、んじゃなかったか?」
そうライリーに尋ねたのはオースティンだった。ライリーは顔を上げて親友の顔を見返す。オースティンは呆れながらもどこか揶揄うような顔でライリーを見つめていた。ライリーは首を傾げる。
確かに、それはライリーが幼いころから言い続けて来たことだった。英雄と多くの者から尊敬を集め賢王と呼ばれた祖父は、国と大切な存在を天秤に掛けた時に迷いが生じるが故に、王となる者は大切な存在など作るなと言っていた。ライリーもそれを頑なに信じていた。
それを最初に疑ったのはいつのことか――ライリーははっきりと覚えている。
父であり現国王であるホレイシオ・ジェフ・スリベグラードの病床に呼ばれた時、ライリーは祖父の裏の顔を聞いた。そして祖父の言葉の裏を知った。誰も信頼するなと祖父は言っていた。常に人を疑いその裏にある叛意を探り続けろと、王とは唯一であり孤高の存在なのだと、そうライリーに教えていた。
「特別な存在――そう見えるのかな」
ライリーはオースティンに苦笑を見せる。まだ心は定まっていない。人を信頼するなという祖父の言葉が正しいのか、それとも人を愛し信頼する父の姿が目標と定めるべきものなのか、未だにライリーは迷っている。迷いを見せないリリアナの姿に憧れはするものの、薄々ライリーは自分が祖父やリリアナのようにはなれないと悟っていた。毅然と前を向いて一つの道を見定め、迷いなく進むことはできない。いつもライリーは迷い悩み、数ある選択肢の中から一つを選ぼうとしている。
「見えるぜ」
オースティンは「自覚がないのか」と首を傾げる。そして横目でクライドを一瞥した。
「お前が憎からず想っているように見えるから、そこの妹馬鹿な兄貴も協力しようとしてくれてるんだろ」
「妹馬鹿とはなんだ、オースティン」
「お前のことだよ、妹大好きだろクライド。俺には信じられねえけど」
クライドはオースティンに噛み付くがオースティンは歯牙にもかけない。ライリーは小さく笑って「なるほど」と頷いた。
オースティンは妹と不仲なわけではなく、むしろ仲は良いように見える。だが頻繁に喧嘩をしているらしい。一方でクライドは過保護なほど妹を気にかけている。もしライリーが打算的な理由だけでリリアナを婚約者に望めば、クライドは決してライリーに協力しようとはしないだろう。元々、二人の父親であるクラーク公爵自身がリリアナとライリーの婚約に反対の立場だ。当主の意向に反するようなことを、クライドが出来るはずがない。それでも、クライドが積極的ではないにしろ黙認という形で協力してくれるのは、少なからず彼も二人の婚約に前向きだという証左だった。
「うん、そうだね――特別、なのかもしれない」
ライリーは自信がなさそうに頷く。正直なところ、純粋な愛情を身近に感じたことがないライリーにとって、自分がリリアナに対して抱いている感情が何なのかはっきりとは分からない。今思い返せば祖父が愛していたのは彼自身であって孫ではなかったのだろうし、父は母だけを愛していた。祖父はライリーを話し相手として可愛がっていたのだろうし、父はライリーを愛すべき子供として扱っていてはくれたが、それだけだった。
それでも、リリアナを前にすればライリーは他の誰にも感じたことのない気持ちを自覚する。誘拐事件の時は恐怖を見せない、凛とした彼女の姿に心が痛くなった。魔物襲撃の時に彼女が姿を消したと気付いた時、何も言わずに一人で何かをなそうとしていた彼女を見て苦しくなった。せめて自分には頼って欲しいと思ったし、同時に彼女に頼られるような存在ではない自分が歯痒かった。
「彼女に――リリアナを傍に置いて支えたいんだ」
彼女に頼られたい、という言葉は飲み込んだ。その役割を他の誰にも任せたくないという気持ちが、はっきりと自分の中にある。代わりに告げた言葉は言い訳がましく聞こえるかと思ったが、オースティンもクライドもそのまま受け取った様子だった。オースティンの顔が複雑そうに歪んだが、首を傾げるライリーに彼は「何でもない」と肩を竦める。
そして少しして、扉が叩かれる。どうやらリリアナが来たらしい。それが嬉しくて、ライリーは満面の笑みを浮かべた。
「やあ。来たね、リリアナ」
部屋に入って来たリリアナが纏っている服は式典用のドレスではなかった。それでも少しずつ綻びる蕾のような可憐さが美しい。彼女の傍に立てるということが、誇らしい。
下手を踏めばリリアナはあっという間にライリーの掌から逃げてしまうだろう。まずは第一関門だと、ライリーは気付かれぬよう自分を鼓舞した。
*****
結局、ローランド皇子が滞在する間、リリアナはライリーの婚約者として振る舞うことになってしまった。笑顔で押し切るライリーの迫力は今までに見たこともないものだったし、同席していたオースティンどころかクライドでさえライリーの肩を持つ。リリアナに逃げ場はなかった。
リリアナは憂鬱な気持ちで、用意されていた控え室に入り式典用のドレスに着替える。式典用のドレスは公爵家で揃えたはずだが、改めて目にしたそれにリリアナは顔色を失った。
ライリーから婚約者として振る舞って欲しいと言われた今、何の変哲もないドレスが全て意味を持って見えてしまう。デザインを考えた当初は薄紅を基調として全身に象牙色のレースを施した簡素なものにする予定だった。だが今リリアナが身にまとっているドレスは注文したものと色合いが違う。基本的なデザインは変更がないものの、基調となる色が薄黄に代わりレースも金糸へと変更されていた。更には合わせて用意された宝飾品が青だ。
ライリーの髪色である金と瞳の色である青。明らかにライリーからの贈り物だと誰もが思うだろう。それもライリーがリリアナに傾倒しているという噂も付随しそうである。
(きっと突然仰ったのは、お父様から逃れるためですわね)
このドレスのことも、もしかしたらクライドは知らないのかもしれない。ライリーは誰にも知らせないまま、リリアナが着るドレスの色を自分のものに変更させ、そしてリリアナを婚約者として同伴させるように全ての段取りを整えた。いずれにせよ、ライリーが本気で外堀を埋める気であることは分かった。これまで片鱗を出していなかっただけで、確実に彼の手腕は短期間で向上している。悔しさは残るものの、見事だと唸る他ない。彼の企てが妨害されなかったことを考えると、彼は宰相であるクラーク公爵の目も掻い潜ることに成功したのだろう。
式典でのライリーとリリアナの振る舞いを見たクラーク公爵は一体何を思うのだろうか――とリリアナは知れず遠い目をした。公爵はリリアナに対して物申すかもしれないが、一番の被害者はクライドに違いない。兄はリリアナよりも遥かに父親と接する時間が長い。内心でリリアナはクライドの胃の状態を心配する。
前世の記憶にあるゲームのクライドは腹黒だったが、現実のクライドを知るリリアナにとって、彼は繊細で優しいところのある妹想いの少年だ。ゲームで妹を断罪するために幽閉や服毒による殺害を選択するような要素は彼の性格のどこにもない。そんな今のクライドが公爵から嫌味の嵐を受ければ、疲弊することは確実だろう。
(――今度、お兄様に何か差し入れでもお持ち致しましょうかしら。でもわたくしのせいではございませんのに)
間違いなく諸悪の根源は、今回の茶番に――リリアナにとっては他の何物でもない――付き合わせようと決めたライリーだ。重い溜息を吐きそうになるのを辛うじて堪える。周囲には着替えや化粧等を手伝ってくれている侍女たちがいる。彼女たちに無様な態度は見せられない。
準備を終えたリリアナは式典の開始まで控え室で待つ予定だ。片付けをしている侍女たちを尻目にソファーにでも掛けようと一歩踏み出したところで、扉を叩く音がする。顔を上げるとリリアナの代わりに侍女の一人が扉を開けた。
「準備は終わった?」
「はい、たった今終わられました」
外から聞こえて来た声に侍女が答えるのを耳にして、リリアナは思わず無表情になる。できれば式典が開始されてから耳に入れたい声だった。だが、無情にも声の主は部屋に入って来る。
式典用の正装に着替えたスリベグランディア王国王太子は堂々とリリアナの前に姿を現わし、頬を緩めた。
「とても綺麗だ。よく似合っているよ、リリアナ。貴方の隣に立てるなんて光栄だな」
『――わたくしも光栄ですわ、ライリー様』
どうにかリリアナは頬が引き攣らないように微笑を浮かべた。ライリーの正装は象牙色を基調とした上下に金色の刺繍が施され、タイは緑色だった。リリアナの瞳の色を意識しているのは明らかだし、二人で並べば対のように見えるだろう。
(視覚的効果を存分に生かすおつもりですわね)
リリアナは差し出された手を取る。ライリーはそのままリリアナをエスコートし控え室を出た。
『ライリー様、どちらへ?』
「謁見の間だよ。式典が始まるまで、ローランド皇子とイーディス皇女を持て成すことになっているんだ」
『――わたくしも同席するのですか?』
「勿論」
何を当然なことを、と言うようにライリーは朗らかに答えた。抗っても無駄だと知りつつ、リリアナは反論してみる。
『わたくし、ご存知の通り声がでませんので――お持て成しすると申しましても、逆にお手間になると思うのですが』
「そんなことはないよ。貴方は居てくれるだけで良いんだ」
反論を許さない様子で、ライリーは自身の腕に触れるリリアナの手を強く握った。逃さないと主張するような動作にリリアナは諦める。そのまま二人は無言で歩き、謁見の間に到着する。謁見の間より更に奥には王族の私室に繋がる遊戯室や談話室がある。ライリーはリリアナを連れて談話室に入った。
「ここは王族が私的に使っている部屋なんだ。ローランド皇子とイーディス皇女がいらっしゃるまで、この部屋に居よう」
王族の私室ともいえる部屋に連れて来ないで欲しいと思う一方、それを口にすれば“貴方は私の婚約者だから問題ない”と返されるのだろうと容易に想像できる。リリアナは微笑を浮かべて、ライリーの隣に腰かけた。
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