19. 皇国から吹く風 1
ロドニー・アンテット・クラークの葬儀後、リリアナは幾度となく転移の術を駆使して各地にあるクラーク公爵家の屋敷を捜索した。だが祖父の死に関する有力な手掛かりは一切見つからないまま日々は過ぎる。そしてとうとう隣国からローランド皇子一行が外遊する時を迎え、リリアナはマリアンヌとジルド、オルガを伴い王都に向かった。
王都は普段以上に賑わっている。訪れている者たちはユナティアン皇国から来るローランド皇子とイーディス皇女を歓迎する式典に参列する貴族たちだけではない。それにあやかって商売をしようと地方から集まった行商人たち、一目見ようと地方から足を延ばした旅人たち、彼らから仕事を得ようとする傭兵たちが集まり、普段は閑散としている場所ですら人が行き交っている。
「凄い人数ですね。王都にこれほど人が集まっているのを初めて見た気がします」
馬車の中でマリアンヌが唖然と呟く。リリアナも同意するように頷いた。
ユナティアン皇国からスリベグランディア王国を訪れた外遊団は非常に大規模だった。その中心となるのは勿論ローランド皇子だが、イーディス皇女の近衛や付き従う侍女たちも相当な人数である。スリベグランディア王国側は身の回りの世話をする者を用意すると伝えたのだが、イーディス皇女の希望も踏まえて全て自国から連れて来るということになった。一方のローランド皇子はそれほど頓着がないらしく伴う侍従は最低限らしい。
しかし、イーディス皇女が同行するという知らせは直近になって齎されたため、関係各所は調整に昼夜奔走する羽目になった。ライリーやクライドはそれほど多忙ではなかった様子だが、それでも疲労は隠せていない。リリアナは直接関わらないため対岸の火事だったが、傍から見ていてもその大変さは良く分かった。
「お嬢様、今日は到着後時間がありますがどうなされますか? 普段は出ていない商店もあるようですし、買い物に行かれますか?」
マリアンヌの問いにリリアナは小さく首を傾げた。それほど欲もないため衣服や宝飾品が欲しいとは思わない。異国の書物等があれば見てみたいとも思うが、人が多い場所に繰り出してまで掘り出し物を探したいかと問われたら答えは否だ。
それよりも久々に泊まる王都の邸宅を今一度調べたい気がしていた。父であるクラーク公爵は普段の業務に加えてローランド皇子の外遊に関する仕事が増えたため、幸いにも公爵邸には滅多に帰って来ない。隙を見て調べることは可能だろう。
〈いいえ、良いわ〉
リリアナは首を振った。そして手元の紙に〈貴方は買い物に行って構わないわよ〉と書いて示した。マリアンヌは「はい」と頷くが、リリアナを置いて出かけるつもりはない様子だった。
*****
王都に到着した翌日、リリアナは王宮に上がった。ローランド皇子とイーディス皇女の到着を祝う式典が催される予定で、各地から貴族たちが一堂に会する。人数の関係から当主とその配偶者のみが招待されているが、リリアナは王太子の婚約者候補として参加するようライリーから頼まれていた。
ゲームのシナリオであれば既にリリアナはライリーの婚約者だったから式典に参加することもおかしな話ではないが、未だリリアナは婚約者候補の一人でしかない。その上、声が出ないということはローランド皇子とイーディス皇女とも会話ができないということだ。持て成す側として相応しい人選であるとは決して言えない。更に他の婚約者候補たちは招待されていないらしい。それを知った時、リリアナは一人を贔屓することは好ましくないと断った。しかしライリーは笑顔のまま頑として譲らなかった。理論立てて説得を試みても彼は頷かない。
『それでも貴方に出て欲しいんだ。クラーク公爵家の一員として特許状の授与式には出るんだし、それほど大きな違いはないよ』
全く同じではないと思うのだが、結局はその理論で押し切られてしまった。最近、妙にライリーの押しが強いと感じるのはリリアナの気のせいではないはずだ。
(あと半年弱程度、このまま凌げば婚約者候補から外れますのに。まあ、今回の式典である程度の礼儀は保ちつつ、国内貴族に王太子妃として十分な外交が出来ないと思って頂ければ宜しいかしら)
リリアナは幾度となく感じた苦い気持ちを再び噛み締める。
十歳になっても声が出なければ婚約者候補から外れるという密約は国王とクラーク公爵の間で結ばれている。だが、ユナティアン皇国の皇子が外遊で訪れた式典でリリアナだけが婚約者候補として出てしまえば、その密約が違いなく履行されるとは限らない。外堀を埋められてしまうとそこから逃れるのも大変だ。それならば、逆に利用してしまえとリリアナは考える。ユナティアン皇国に舐められるような振る舞いは論外だが、合格点ぎりぎりを狙えば国内貴族に対して不安は与えられるだろう。勿論それも非常に危険な綱渡りだが、現状それ以外に方法はない。
(お父様は反対なされなかったのかしら)
もしくは知らなかったのか。王太子の動向をあの父が把握していないとは思わないが、もしかしたら多忙さ故に見逃してしまったのかもしれない。
王宮に到着すると、王太子付きの護衛の一人がリリアナを迎えに出て来てくれた。どうやらライリーの元に直接向かうらしい。リリアナは大人しく護衛に付き従った。辿り着いたのはライリーの執務室だ。護衛が声を掛けて許可を得てから室内に入ると、そこにはライリーだけでなくオースティンとクライドが居た。部屋には防音の結界が張られている。どうやら三人は内密の話をしていたようだ。
「やあ。来たね、リリアナ」
にっこりと笑ったライリーがリリアナを出迎える。リリアナは淑女の礼を取った。促されるままソファーに腰かけるが、何故ここにオースティンが居るのだろうと疑問を抱く。彼は王立騎士団二番隊の騎士になった。当初は二番隊に警護の仕事は予定されていなかったが、イーディス皇女が来ると分かって急遽二番隊も組み込んだ編成に変更された。つまり、オースティンはライリーの執務室に居るような時間はないはずだった。
そんなリリアナの視線に気が付いたのか、オースティンはにやりと口角を上げて口を開く。
「俺の主な仕事は視察時の護衛だから、今はまだ時間に余裕があるんだ」
なるほど、とリリアナは頷いた。ローランド皇子とイーディス皇女は歓迎式典に参加した後、王都で各地から持ち寄られた特産品の品評会や武闘大会、特許の授与式に列席することが決まっている。その後イーディス皇女は帰国し、ローランド皇子はスリベグランディア王国内の視察に向かう。オースティンは後半の視察に付き従うことが主な仕事であり、王都内での警護任務はあくまでも補助的な立ち位置なのだろう。
「それに二番隊は全員、武闘大会の魔導剣技部門に参加することが決まっているからな。武闘大会中の警護はできない」
ついでのようにクライドが説明を加える。
〈武闘大会も結構な人数が参加すると聞き及んでおりますわ。盛況になりそうで宜しゅうございました〉
リリアナは手元の紙に書きつける。ライリーと二人だけの時は腕に付けたブレスレットで会話が成り立つが、他に人がいる場合は使えない。そのため、オースティンやクライドも同席している時は手持ちの紙に言葉を書きつける習慣が出来上がっていた。それを嫌がる人がいる時はリリアナも沈黙を保つが、幸か不幸かオースティンやクライドはリリアナに発言を求める。
ライリーの婚約者候補に相応しくないと認めさせるためにも極力発言は控えたいというのがリリアナの本心だったが、会話をする頻度が増えれば我を貫き通すのも難しかった。
紙に書かれた言葉を瞬時に読み取ったライリーは微笑み頷く。
「ああ、その通りだ。まあ、そのお陰で予選会を開かなければならなくなったのが予想外だったが」
武闘大会の概要を発表した時、騎士団の面々だけではなく領地を納めている貴族たち――特に金銭の遣り繰りに頭を痛めている領主たちが褒賞を知り歓喜の声を上げた。彼らが領地に武闘大会の話題を持ち帰り、そして各領地の騎士団に所属する者たちから傭兵にも話が流れた。結果として武闘大会の申込者数は当初の想定を大幅に超え、慌てて予選会を行うことになったのだ。
各領地の騎士団に所属している騎士たちには領地内での選抜を行って貰うことで対処したが、所属していない傭兵たちやその他の参加希望者たちは王都で予選会を行う必要があった。その采配を行ったのがライリーだと、リリアナは聞いている。
以前はなかなか重要な仕事を任せて貰えず、それどころか情報すら耳に入らないと苦慮していたライリーだが、ここ最近は幾つかの執務には主導する立場で関わっているようだ。その筆頭が特許状の交付である。ライリーは自分の力が有力貴族たちに認められた切っ掛けでもある“特許”という制度を提案してくれたリリアナに恩義を感じているようだが、リリアナにとっては余計なお世話でしかない。民のためになるのであれば幾らでも知識と知恵を出すが、ライリーの正式な婚約者になりたいとは思わない。王太子の婚約者という立場は、リリアナにとって破滅の第一歩と同義だった。
〈それで、ライリー様。本日わたくしを執務室へお召しになりました理由をお伺いしても宜しいでしょうか〉
気を取り直して、リリアナはライリーに尋ねる。本来であれば、リリアナは式典でライリーと顔を合わせる予定だった。式典前は準備で忙しいことを考えても、事前に執務室に呼ばれることは想定していなかった。
リリアナの問いを見た途端、リリアナを除いた三人は全く違う反応を見せた。ライリーは笑みを深め、オースティンは面白がるように口角を上げ、そしてクライドは苦々しくもどこか諦めたような表情を浮かべる。首を傾げたリリアナに答えたのはライリーだった。
「勿論だよ。ローランド皇子が外遊でいらしたこの時機で、私は方針を示そうと思う。そのことを貴方に伝えたくて、ここに来て貰った」
〈方針?〉
一体何の方針だろうか、とリリアナは首を傾げる。予想が付かずに真っ直ぐ見つめるリリアナの薄緑色の瞳を真正面から受け止め、ライリーは「その前に幾つか前提を話しておこうか」とにこやかに告げた。
「まず最近の王宮内での権力について。やはり三大公爵家の力は強くてね、エアルドレッド公爵とクラーク公爵のほぼ二大派閥だ。ローカッド公爵はまず表舞台に出て来ないから、勘定から外して良いだろう。ケニス辺境伯が出て来た時は一瞬三大派閥になりかけたけれど、伯の息子へと代わった為に二大勢力だった時代へと戻った」
リリアナは頷いた。ケニス辺境伯が刺客――オブシディアンの毒に倒れなければ、今でも三大派閥が続いていただろう。誰も気が付いていないが、リリアナは既にライリーが告げた内容を把握している。だてに呪術の鼠を放ちオブシディアンに密偵させているわけではない。だが口を挟む必要も感じず、無言で続きを促した。
「それからオースティンだ。彼は二番隊所属となったけど、以前から私の近衛騎士になりたいと口にしていたからそれを知る者は多い。エアルドレッド公爵家が王太子の後ろ盾となっていると大半の貴族が信じているのはそのせいもある」
にこやかに告げる言葉を穿って受け取れば、エアルドレッド公爵自体はライリーを支持していないとも取れる。だが事実はそうではない。既に彼はケニス辺境伯と共に、ライリーを次期国王とすべきとの態度を明確にしていた。
「そしてクライド。私が学友としてクライドと親しくしていることは広く知れ渡っている。ただオースティンと違うのは、クラーク公爵の態度だ。大半の貴族は、まだクラーク公爵本人が私を支持しているのか確信を持てないでいる。疑っている者もいるほどだ」
その理由は明白だった。クラーク公爵が、娘のリリアナを王太子の婚約者候補から下ろそうとしているとまことしやかな噂が流れているせいだ。公爵本人も、密約の存在を明言してはいないものの、積極的に娘を王太子妃の座につけるための活動をしていない。
ここ一年の間、ライリーの婚約者を候補たちの中から決定すべきとする声が高まっていた。国王の容体が一進一退である中、早目に王太子妃を決めておかねば国が混乱しかねない。婚約者候補の中で最有力とされるのがリリアナとマルヴィナ・タナー侯爵令嬢だった。資質や能力の面では圧倒的にリリアナが相応しいが、声が出ないという瑕疵は既に知れ渡っている。社交や外交を不安視する声もあり、次点であるタナー侯爵令嬢を推す声も多い。タナー侯爵令嬢を王太子妃にと主張する貴族の中には、クラーク公爵を煩わしく思う者もいる。彼らにとっては、タナー侯爵家の方が王太子妃の実家として権力を持っても害がない。何せ、次期当主である息子はともかく、現当主は権力に興味のない男である。そして一部ではあるが、隣国から王太子妃を迎えるべきだと主張する貴族もいる。
「だが、それでは困るんだ。私が次期国王から外れてしまえば、王位継承権は叔父上に移ってしまう。正直なところ、それは国のためにならない」
フランクリン・スリベグラード大公に国王としての資質がないことは暗黙の了解であり広く知れ渡っている。リリアナが知る情報だけでもそれは明らかだ。大公として領地を拝してはいるものの、実際に執務を行っているのは長く働いている年老いた家宰だという。領地でさえ碌に治められない者が国を動かすことなどできるはずがない。すぐに荒廃するのは目に見えている。
「だから、私は確実な後ろ盾が欲しい」
エアルドレッド公爵の後ろ盾だけでは足りないとライリーは言う。エアルドレッド公爵とクラーク公爵が反発していることは公然の事実だ。だが、彼らの反発を――特にクラーク公爵のエアルドレッド公爵に対する対抗心を収められない者が国王になれるはずもない、とライリーは微笑を浮かべたまま告げた。
嫌な予感で口元が引き攣りそうになるのを、リリアナは辛うじて堪えた。何となくライリーが言いたいことが見えて来た。だが認めたくはない。できれば、今すぐにこの場から立ち去りその足で王都近郊にある自分の屋敷へと戻りたい。だが、既にリリアナはライリーの前に居る。
「タナー侯爵家の後ろ盾では足りないんだ。侯爵は――息子と違って穏やかな人物だから。もし代替わりをすれば、国政に口煩く関わろうとするのも目に見えているしね。私が必要としているのは三大公爵の後ろ盾だ。少なくとも、多くの貴族にはそう思わせたい」
だが、実質的に三大公爵全員の後ろ盾は得られない。王国の盾と呼ばれるローカッド公爵家とは接触できないからだ。だからこそ、残りの二つの公爵家に支持されているという証拠が必要だ。実際にクラーク公爵がライリーを次期国王として認めていなくとも、周囲に信じさせることが出来れば良いとライリーは言う。
「それに多くの令嬢たちと話をしたけど、明確に自分の意見を主張できて、かつ建設的な政務の議論ができる人はたった一人を除いて居ないんだよ。後ろ盾を得る以外にも考慮すべき点は多いよね」
未だ明確に言葉にはされていない。だが、リリアナは自分の予感が正しいと確信した。彼女にとっては最悪の結果だが、ライリーはにこやかな顔を崩さない。もしかしたらライリーはリリアナが王太子妃になりたくないことに気が付いていたのかもしれない。そうでなければ、式典の直前――つまり、リリアナが逃げられない時を見計らって告げる理由がない。
「貴方に、私の婚約者になって欲しい」
あと半年弱でリリアナは十歳の誕生日を迎える。このまま何事もなければ、密約を理由にリリアナは婚約者候補から外された。
だからこそ、ライリーはそうなる前に既成事実を作ることを思い付いたのだろう。リリアナが正式に婚約者となると周囲が信じれば、たとえ密約があったとしても簡単に婚約者候補から外すことはできない。今回の式典にはスリベグランディア王国の貴族たちだけでなく、隣国の皇子も出席する。彼らの前で、ライリーはリリアナを正式な婚約者として扱う。書類上は婚約者候補であっても実質的に婚約者だと思わせることができれば、後は貴族たちを納得させ国王に署名させることも容易い。特に国王はリリアナとライリーの婚約に前向きだ。
――特許制度の考案者はリリアナであり、記念すべき一人目の授与者がクラーク公爵領の者だから。
それはリリアナに式典への出席を納得させる方便でしかなかった。最初は疑問に思ったが、クライドも出席すると聞いたリリアナは疑惑を深めることはしなかった。せっかくだから式典も参加して欲しいと言われても、クライドも出ると聞けば警戒心を高めることもなかった。
(――甘く見すぎていましたわね)
リリアナは内心で臍を嚙む。何も言えずに固まってしまったリリアナから視線を外さず、ライリーはにこやかなまま念を押した。
「これから宜しく頼むよ、婚約者殿」
穏やかだが有無を言わさぬ声に、リリアナは引き攣った微笑を浮かべることしかできなかった。