18. 棺と黒文様 2
翌朝、リリアナとクライドは食堂で朝食を摂っていた。そこに早馬から降りた伝令が侍従に連れられ入って来る。リリアナはその男を知らなかったが、クライドは見知っていた様子だった。
「どうした」
目を丸くしているクライドに礼をした男は、リリアナにも同様に礼を取る。クライドは、男がフォティア領の屋敷で働く侍従だと紹介してくれた。
そして額から流れる汗を拭い、書簡を取り出した。クライドはクラーク公爵家の蝋封を確認し開ける。クライドは一瞬目を瞠り、すぐに真剣な表情になると頷いた。
「分かった。これから直ぐに向かう。リリーも準備をして」
〈――?〉
首を傾げたリリアナに、クライドは押し殺した声で書簡の内容を淡々と告げた。
「お祖父様が亡くなられた」
リリアナは目を瞠る。最後に祖父母と会ったのは一昨年、ライリーとクライドと共に視察に行った時だ。以来一度も顔を合わせていない。手紙は数度やりとりしているものの、祖父母から届けられる手紙は全て代筆だし、たとえ病気だったとしてもそのようなことは書いていなかった。だからこそ、リリアナは祖父が亡くなるなど想像したこともなかった。
〈お祖父様は、お体が悪かったのでしょうか?〉
「いや、そんな話は聞いていなかったけど――もしかしたら隠していらしたのかもしれないね」
クライドは複雑そうな光を双眸に浮かべる。どうやら彼も知らなかった様子だ。リリアナは頷いた。
フォティア領で働く侍従が書簡を持って来たということは、祖父母はフォティア領の屋敷に滞在しているということだ。普段は滅多に寄り付かない祖父母が居たということも、リリアナにとっては驚きだった。
マリアンヌに声を掛けて、慌ただしく出発の準備を整える。フォティア領までは距離がある。
スリベグランディア王国では土葬が一般的だ。棺に遺体を納めた後は通常、遅くとも翌日までに埋葬しなければならない。王国最南端の地域では、夏場は特に当日中が一般的だそうだ。ただし、必要な場合は臓物を抜き取りバルサムで防腐処理を施す。特に貴族に関しては王族などの高位貴族も葬儀に参列することも多く、同様の処置を施した上で魔術による遺体の保存が試みられる。それによって、葬儀参列のために移動する間、埋葬せずに済むよう取り計らうのだ。
ただし、この魔術は教会でしか行えない上に寄進料が非常に高い。そのため、貴族でも魔術による防腐処理を教会に依頼する者は非常に少なかった。即ち、魔術による防腐処理は一種の格でもあった。
リリアナの祖父の場合も、魔術を用いた防腐処理が施されるらしい。祖父のロドニー・アンテット・クラークは宰相を務めたこともある上に、三大公爵家の一つクラーク公爵家の前当主だ。王族からも弔問客が訪れる。棺に納めた遺体をそのまま置いておくことは必須だった。
*****
道中、多少の無理はしたものの、リリアナたちは無事にフォティア領の屋敷に到着した。王都に居た父親は一日遅れて到着するようだ。一行を迎えたのは執事のフィリップだった。
「棺は既に教会へ運んでおります。大奥様は応接間にいらっしゃいます」
「母上は?」
「私室で休んでおられます」
クライドの問いにフィリップは淡々と答える。クライドは頷くとリリアナを振り返った。到着の挨拶をするため応接間に居る祖母に会いに行く算段だろうと、リリアナは兄の腕を取る。
リリアナが二年振りに会った祖母のバーバラは黒いドレスに身を包み、応接間で疲れたように座り込んでいた。
「お祖母様、お久しぶりです」
室内に入って最初に口を開いたのはクライドだった。リリアナはまだ声が出ないということになっているから、礼をするに留める。バーバラはちらりとクライドたちを一瞥して「ええ」と言ったが、それきり口を噤んでしまう。膝の上に置かれた左手はしっかりとハンカチーフを握っていた。くしゃくしゃに皺の寄ったハンカチーフは濡れていて、恐らくずっと泣き濡れていたのだろうと推察できる。
リリアナはクライドの袖口を軽く引いた。無言だったが、クライドは妹が何を言いたいのかすぐに悟ったらしい。今の祖母に、孫と会話をする余裕はなさそうだ。亡くなってからそれなりに日数は経過しているはずだが、未だ立ち直れていないらしい。
(そういえば、前世では葬儀の準備に忙殺されて、初七日まで悲しみに浸る暇もなかったと言う人がいらっしゃいましたわね。ここでは全て葬儀を人に任せるから、悲しみに暮れることができるのでしょう)
そんな内心を聞かれたら薄情と思われるだろうかと自嘲しながら、リリアナはクライドと共に応接間を出る。
「部屋は前と同じだ。ごめんね」
クライドは申し訳なさそうに眉を下げる。リリアナは安心させるように微笑んで首を振った。前と同じ――つまり、三年前に来た時と同じ、見晴らしが悪いとされている部屋だろう。リリアナは気にしていないが、クライドは相変わらず幼少時に使っていた部屋からリリアナが追い出されたことを申し訳ないと思ってくれているらしい。
リリアナはクライドと別れて、宛がわれた部屋に向かう。既にマリアンヌたちが荷物を運び入れ、滞在しやすいよう部屋を整えてくれているはずだ。案の定、部屋に入るとマリアンヌが居心地良いように荷物を棚に入れてくれたところだった。
「リリアナ様、葬礼と会食までお時間がありますので、少しお休みください」
〈ええ〉
リリアナは頷いて旅装束から儀式に相応しい服に着替え、ソファーで寛ぐ。マリアンヌはハーブティーを淹れてくれた。フォティア領に移動する途中、立ち寄った街で購入したリラックス効果のあるハーブだ。ゆっくりと香りと味を楽しみながら飲むと、無意識に体に入っていた力が抜けていくように感じる。リリアナは自然に微笑んでいたが、同時に若干の気鬱さも感じていた。
この世界での葬儀は会食が付きものだ。故人を偲び残された者たちの絆を深める意味で、葬礼の日と埋葬の日、その前日と翌日に開かれる。確かに、家族や親戚たちの関係性が上手く行っているのであれば、会食も良いものだろう。だがリリアナにとってクラーク公爵家はあまりにも良い思い出がない。兄であるクライドはともかく、祖母や父母はリリアナと殆ど関りがない。嫡男であるクライドはリリアナと他の家族の間で板挟みになっているようにも見えるが、それでもまだリリアナと比べると可愛がられている方だろう。
元々貴族は家族相手でも他人行儀になりがちだが、慇懃無礼さや冷淡さとは必ずしも同等ではない。礼儀正しさの中にも親愛や情はある。だが、リリアナと家族は不自然すぎる関係だった。
(せめて、他人に対する礼儀正しさを家族に対しても見せて頂きたいものですわ)
もしクラーク公爵や母親が持ちうる外面の良さを一欠けらでも向けてくれたなら、リリアナは今より多少居心地良く感じるはずである。冷静に考えて、父母が――特に母親がリリアナに取るような態度を他人から向けられたら、間違いなくリリアナはその人とは社交界で一切関わらない。関わるにしても必要最小限に抑え、少人数の会食になど決して出席しない自信がある。
それが、親であるというだけで関わり合いにならねばならないのは苦行だ。
(極力、こちらに滞在する間は距離を取りましょう)
もしかしたら間にクライドを立たせることになる可能性はあるが、そこは次期当主として頑張って頂きたいものである。
「お嬢様、私は少し出て参りますが、お時間になりましたら呼びに参ります」
〈分かったわ〉
マリアンヌに声を掛けられてリリアナは頷く。扉が閉まったのを確認してリリアナは本に目を落とそうとし、ふと顔を上げた。誰も触れていないはずの窓がゆっくりと開く。だがリリアナは動じなかった。静かに眺めていると、再び窓が閉じてゆっくりと黒獅子が姿を現わす。
リリアナは小さく笑った。
「あら、付いていらっしゃいましたの?」
『今は暇だからな』
「てっきり、貴方はこの場所がお好きではないのだと思っておりましたわ」
アジュライトは首を傾げた。何故そんなことを言うのかと視線で問うて来る。リリアナは笑みを深め、初めて出会った時のことを口にした。
「二年前にこの屋敷の庭でお会いした時は、さっさとこの場から立ち去りたいと仰っておられましたもの」
『ああ、そういえばそうだったな』
今の今まで忘れていたと言いたげなアジュライトを、リリアナは静かに注視する。黒獅子はわずかに気まずそうな顔を作り、『あの時は』と弁解じみた声を出した。
『色々と不味い条件が重なっていたんだ。俺は力が足りなかったし、犬どもは居たし、それに――変な引力が出ていたからな』
「引力?」
妙な単語を聞き咎めてリリアナは眉根を寄せる。アジュライトはあっさりと頷いた。
『引力というと語弊があるが、まあ似たようなものだ。魔物が瘴気に惹かれる性質だと知っているか?』
「聞いたことはありますわ」
『それと似たようなものだ。麻薬といっても良いかな。近寄っては駄目だと、身に危険が及ぶと分かっているのに惹きつけられる。普段であれば俺には効かないが、あの時は目覚めたばかりだったし――気付かれる前に逃げねばならなかった』
リリアナは変わらず訝しがる視線をアジュライトに向けていたが、黒獅子は全く気にした様子がない。にやりと笑って、『そういうことだ』と話を纏める。しばらく考えていたリリアナは、やがて深々と溜息を吐いた。
「つまり、わたくしが理解できるように教える気はないということですわね」
『理解が早くて助かる。だが、嘘は言っていないぞ』
ふふん、とアジュライトは得意気に笑った。リリアナは気持ちを落ち着けるために少し冷めたハーブティーを飲む。その様子を眺めていたアジュライトは、少ししてふと纏う気配を変えた。気が付いたリリアナが視線を向けると、黒獅子は真剣な表情でリリアナを見ている。首を傾げるリリアナに、アジュライトは静かに告げた。
『お前の祖父の葬儀を行う間、気を付けておけ。特に祖父だ』
「お祖父様に? もう棺に入って教会に納められておりますが――」
アジュライトの助言らしき台詞は、リリアナには俄かに理解できないものだった。昔からおとぎ話に出て来る賢者の言葉は分かり辛いものと相場が決まっているが、できればもう少し噛み砕いて具体的に教えて欲しいものだ。そんなことを思っていると、アジュライトは噛み砕いて説明してくれた。
『人が死んでから葬礼を経て埋葬されるまで、人の体は器としては最適だ。魔を呼び込みやすい』
リリアナの脳裏に、嘗て読んだ書物の記述が蘇る。死者の体を魔物が乗っ取り動かしたという、荒唐無稽な話だ。だが、アジュライトが示唆しているのはまさにその荒唐無稽なおとぎ話ではないだろうか。
「それは遺体が教会に納められている場合でも、変わらないのですか」
『普通は教会は護られているから問題ない。が、内部から呼び寄せたら話は別だ。結界も意味をなさない。道ができるからな』
思わずリリアナは空を仰いだ。見知らぬ人が魔に乗っ取られて動き出しても気分は良くないが、知人となると更に気分は悪い。それが、それほど親しみは持てなくとも血の繋がった祖父であれば尚更だ。
リリアナは祖父の遺体を浄化のため消滅させても一切心が痛まない自信はある。だが応接間で泣き濡れていた祖母の様子を見れば、祖父の遺体が消滅した時に彼女が受ける精神的打撃は計り知れないだろう。
「そうね。助言頂き助かりますわ」
『どういたしまして』
アジュライトはそう告げると目を閉じる。リリアナは本に目を落とすが、黒獅子の言葉が脳裏を過って集中できない。碌にページも進まないまま、時間を迎えてマリアンヌが迎えに来た。
葬礼のため教会に行き、その後屋敷に戻って会食である。明日はクラーク公爵が来るから、魔に犯されないよう術を施す時間は今日しかない。細く息を吐き出して、リリアナは気合を入れると部屋を出た。
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