17. 黒曜石の刺客 4
ケニス辺境伯領の屋敷に黒一色の馬車が停まっていた。記された紋章はスリベグランディア王国三大公爵家の一角を為すエアルドレッド公爵家のものだ。その馬車から姿を現したのは、髭を生やした男だった。男はケニス辺境伯領の屋敷に勤める執事とも顔馴染みらしく、穏やかな表情で出迎えを受けた。
「お久しゅうございます、エアルドレッド公爵様。旦那様もお喜びになるでしょう」
「だいぶお加減も良くなられたと聞いたが、今日は会っても構わないかな?」
「勿論にございます」
執事はにこやかに答え、公爵から帽子とコートを受け取る。杖は公爵が持ったままだ。
エアルドレッド公爵は執事の後ろを付いて歩く。今回の訪問は、ハミルトン・ケニス辺境伯が刺客の凶刃にかかり倒れてから初めてだった。そろそろ体調も落ち着いた様子なので、見舞っても迷惑にはならないだろうと考えてのことだ。
案内される先は当主の私室だという。本来であれば応接間に通されるはずだが、エアルドレッド公爵と辺境伯は以前から交流がある。問題ないと本人も周りも理解しているのだろう。公爵は執事以外の使用人とも顔馴染みだ。そのせいか、少し話を振れば会話が盛り上がる。辺境伯本人は執務を再開したいらしいが、先日刺客から受けた毒により左半身の麻痺が残っているため、家族や使用人たちが結託して阻止しているそうだ。既に本人から手紙で聞いていた公爵は、執事の嘆きに相槌を打ちながら笑いを噛み殺していた。私室の前に到着したところで、執事はぴたりと足を止めた。そして振り返り深々と公爵に向け腰を折る。
「旦那様がご無事だったのは公爵様のお陰と伺っております。本当に、本当にありがとうございました」
どうやら礼を言いたかったらしい。公爵は苦笑した。結局暗殺自体を止めることはできなかったし、辺境伯が死の淵から生還できたのは偏に彼本人の体力と周囲の者たちが寝る間を惜しんで看病したお陰だ。
「大したことはしていません。僕がしたことはいつでもこの屋敷に転移できる魔道具を提供することと、ほんの少しの注意喚起だけでしたから」
エアルドレッド公爵の謙虚な姿勢に、顔を上げた執事は目を潤ませている。
「いえ、この屋敷に戻ることが出来なければ、旦那様は命を失っておいででした。治癒魔導士はここにしか居りませんので。半身が麻痺したとはいえ、命があったことはわたくしどもにとって僥倖ともいえる幸運。元より旦那様は魔道具自体をお好みになりませんが、公爵様のお言葉添えがあったからこそその御心を曲げてくださったのです。旦那様が御生還なさる切っ掛けをくださった公爵様には、わたくしども使用人は勿論、旦那様のご家族様も領民たちも心の底より感謝いたしております」
どうやら礼を受け入れないと解放されないようだと判断したエアルドレッド公爵は、小さく頷いた。そうしてようやく執事は私室の扉を叩く。中から張りのある声が聞こえて来た。公爵が中に入ると、辺境伯は起き上がってソファーに腰かけ、テーブルに置かれた書類を読んでいるところだった。
「旦那様――」
執事が半眼で辺境伯を責めるように見る。主であるはずの彼は口をへの字に曲げた。
「あいつを責めるなよ、私が持って来いと言ったんだ」
「まだ何も言っておりませんが、旦那様」
にべもない執事の言葉に辺境伯はぐうと唸る。エアルドレッド公爵は笑みを深めてソファーに近づくと、辺境伯が手にしていた書類を抜き取り卓上に置いた。
「無理をしては回復するものもしないだろう、休むのも肝要ですよ」
「全く、貴方までそのようなことを仰るとは」
辺境伯は不機嫌に言うが、本気でないことは明らかだ。エアルドレッド公爵は笑って流すと対面に腰かけた。執事は一礼すると部屋を出る。エアルドレッド公爵は主人思いの執事の背中を見送り、顔をケニス辺境伯に向けた。
「だいぶ顔色が宜しいようですね」
「苦い薬を飲まされていますからな」
辺境伯は元々頑強な体を持っていた。戦で大怪我をしたことも数知れないが、一方で病にはとんと掛かったことがない。怪我であれば多少の無理は押して動き回るから、今回のように寝台に押し込められ薬を飲むだけの生活は苦痛でしかないのだろう。
だが、本人がどれほど動きたいと思っても体がついて行かない。
「苦い薬を飲んでも左が動きませんでな。馬にでも乗ればすぐ動くようになろうものを」
エアルドレッド公爵は笑みを零した。ケニス辺境伯の口調は半ば本気だったが、残りの半分は冗談だった。一命を取り留めた後、辺境伯の意識は一週間ほど戻らなかったそうだ。その後目覚めたものの、当初は顔も含めた左側が全て動かず、喋ることも唾液を飲み込むこともできなかった。食事も水も自力では取れず、衰弱してしまうのではないかと周囲の者は心配した。医師と治癒魔導士を中心に家族や使用人が総出で看病に当たり、喋れるようになったのは倒れてからおよそ一ヶ月後。今はまだ杖をついても一人では歩けない。移動には他人の手を借りる必要がある。
今日もエアルドレッド公爵を出迎えるのに寝台の上では格好がつかないと散々文句を言い、護衛として私室近くに控えているケニス騎士団の騎士に命じソファーへと移動したようだ。ついでにその騎士に書類も持って来させたらしい。書類を持って来ないならば執務室へ連れて行けと我を張ったのだろうことは容易に想像がつく。どれほど辺境伯の体を思っていても、彼に楯突くことのできる使用人は執事くらいのものだ。
「私としては、まだ辺境伯にはゆっくりと治療にご専念頂きたいですね。まだまだお元気で居て頂かなくては」
「自分の体が思い通りに動かないのは、なかなか苛立つものですがね」
「こればかりは焦っても仕方ありませんでしょう」
軽く雑談をしていると、侍女が紅茶と茶菓子を持って来る。卓上に置いて侍女が立ち去った後、室内に二人きりになったところでエアルドレッド公爵はようやく本題を口にした。
「それにしても、伯に傷を負わせるなど、刺客は相当な手練れだったようですね」
「私も多少気を抜いていたのは確かですが」
苦り切った顔で辺境伯は低く唸る。ハミルトン・ケニス辺境伯は先代国王時代に政変があった時、国内の混乱に乗じてスリベグランディア王国に牙を剥こうとした隣国を抑えつけた。下手をすれば彼自身も国内で粛清の対象となるところだったが、時流を読み取る能力と自身の領地に向けられる有象無象の害意への対処は見事と影で評されるほどだった。
その折に、彼は自ら鎧をまとい剣を片手に戦場へと赴いた。自身が従える騎士団より多い敵を前にしても一切ひるまず、国境を手堅く守りながら勇猛果敢に猛禽の如く襲い掛かる様子は猛将という呼び名に相応しかった。敵の大将を見定めればその首を獲るまでは決して膝を折らない。そんな決意さえ感じさせるような気迫に、敵の兵士たちは戦意を喪失したという。
無論、複数を一人で相手取れば傷を負うこともある。だが、一対一の騎士としての勝負でハミルトン・ケニスに勝てる者は滅多に居なかった。剛腕で有名な隣国の将も、剣術が国随一と謡われた騎士も、彼の前には赤子にも等しかった。互角に戦える者も居るには居たが、最後まで立っていたのは辺境伯だった。
そんな辺境伯に傷を負わせられる刺客など、そうそう居ないはずだ。公爵は一口紅茶を飲んだ。
「見当は付いていますか」
「刺客のことですか、それとも依頼主の方?」
どちらのことを言っているのかと尋ね返され、天才と呼ばれた男は苦笑を見せて「両方です」と答えた。辺境伯はにやりと笑う。
「贅沢なことですな」
「人の意見は須らく聞くべしと言いますね」
「それは初耳だ。聞く価値のない意見もある」
ケニス辺境伯の言葉にエアルドレッド公爵は反論しなかった。勿論、辺境伯もはぐらかすつもりはない。少し考えて、慎重に言葉を選んだ。
「黒幕は分かりませんな。私に死んで欲しい者はそれなりに居るでしょう」
辺境伯という地位故に、彼は国内の一部貴族だけでなく隣国からもその命を狙われる。現当主を亡き者にすればスリベグランディア王国への侵攻が容易になると短絡的に考える者が少なからず居るのは事実だ。更に言えば、辺境伯は多くの敵将を討って来た。戦の手習いとはいえ、残された遺族や慕っていた者たちの中にはケニス辺境伯本人を恨んでいる者もいるだろう。
それが分かっているからこそ、辺境伯は明言を避ける。そして、その言い方から直ぐにエアルドレッド公爵は猛将が言いたいことを悟った。
「刺客本人に関してはある程度把握されていると?」
「恐らくは」
エアルドレッド公爵の問いに辺境伯はあっさりと頷く。感情の映らない瞳を公爵に向け、お前も同じ結論に達したのではないかと視線だけで問う。しかし公爵は答えず、口を噤んで辺境伯がその名を告げるのを待った。やがて諦めたように息を吐き辺境伯は短く答える。
「大禍の一族でしょう。そうでなければ、治癒魔導士ですら治癒に苦労する毒を扱えるはずがありません」
その回答を聞いた公爵は静かに頷く。たったそれだけの動作で、辺境伯は稀代の天才と呼ばれた男が自分と同じ結論に至っていると確信した。だが、そこに至る過程は自分とは違うはずだ。無言で話を促すと、公爵は小さく口元を緩めた。
「――大禍の一族の動きが活発になっているという報告があります。それから特に優秀な者を雇いたいと、我が国のとある貴族が裏社会の情報屋に依頼を出したという噂も」
ケニス辺境伯は眉根を寄せた。相変わらずエアルドレッド公爵がどこからその情報を得ているのか、彼には分からない。辺境伯も独自の情報網を持ち、その能力は王国では有数だと自負している。だがエアルドレッド公爵の把握している“事実”は辺境伯のそれを圧倒していた。膨大な情報を収集する能力と、複数の事実から一つの真実を読み取る能力は別である。公爵の見ている世界は己とは全く違うに違いないと辺境伯は唸った。
だが、それ以上に聞き捨てならない言葉が聞こえた。辺境伯は一瞬身を乗り出そうとして、上手く動かない左半身に苛立ちを隠さず問う。
「優秀な刺客を雇う――? 本気で優秀な者を雇うのであれば大禍の一族から選ぶでしょうが、まさか本当に一族の者が派遣されたわけではないでしょうな」
「さすがにそこまでの情報は掴めていませんが、可能性は非常に高いと考えていますよ」
残念なことに、エアルドレッド公爵は推測とはいえ肯定してみせた。辺境伯は眉間に皺を刻む。高位貴族である彼らは裏社会に通じているわけではない。決して交わらぬ不文律がそこにはある。だが、それでも噂程度であれば耳に入るものだ。
「どこの貴族かは分かりますかな」
「残念ながらそこまでは」
エアルドレッド公爵は首を振る。だが、大禍の一族を雇うのであれば契約金は膨大になるはずだ。普通の貴族では支払えるはずがない。それだけの大金を用立てられる者と考えれば、自ずと候補者は限られる。
「その貴族が雇った刺客と私を襲った刺客が同一人物かどうか確証はないわけですが、可能性としては考慮しておいた方が良いでしょうな」
「ええ、そう思います」
辺境伯の言葉に公爵は頷いた。ただ、貴族に雇われた刺客と辺境伯を襲った刺客が別人であれば更に事は複雑になる。能力の高い刺客が少なくとも二人、スリベグランディア王国に居るという事実はあまり有難いことではない。
毒を受けた辺境伯は体が思うように動かない。実務に関しては家宰の協力を得ながら長兄のルシアンが引き受けるようになったとはいえ、やはり人はハミルトン・ケニス辺境伯だからこそ辺境伯領が護られるのだと考える。伯の力が弱った今こそケニス騎士団に勝利する好機と確信した隣国の領主が国境侵犯を企てないとも限らない。国内と国外に懸念事項を抱えることは、国防に大きな不安を残すこととなる。
「仮に、私を狙った刺客が我が国の貴族とは全く無関係だったとしましょう」
しばらく考え込んでいた辺境伯はやおら口を開いた。エアルドレッド公爵は続きを待つように片眉を上げる。
「最悪の事態を想定すると、その刺客は隣国から派遣された可能性を考えるべきでしょうな」
「そうですね」
「然らば他に標的がいる可能性もありましょう」
あるだろうと遠回しに言ったものの、可能性は非常に高いと辺境伯の表情は語っていた。エアルドレッド公爵も頷く。
仮に隣国が送り込んだ刺客であった場合、命を狙われるのは国王と王太子だろう。大公であれば傀儡として国王に据える可能性もあるだろうが、最近頭角を現し始めたライリーは隣国にとって御しにくい存在であるはずだ。少なくとも、隣国ユナティアン皇国がその情報を握っていないはずはない。
二人は同じ結論に至っていた。辺境伯が低く尋ねる。
「殿下の身の回りの警護を増やすべきだと思うが、如何思われますかな」
「通常の刺客であれば良いでしょうが、閣下に傷を負わせるほどの手練れであれば護衛を出し抜いてでも任務を全うするでしょう。息子が近衛騎士になれば多少、状況は変わるでしょうが」
「楽しみですな」
「ええ、本当に。殿下と息子が並び立つ日を早く見たいものです」
エアルドレッド公爵は頬を緩める。魔導騎士のオースティンが護衛に就けば護衛の質も向上するだろうが、問題は今はまだその時期ではないということだった。辺境伯は難しい顔になり右手で顎を覆う。その様子を眺めていた公爵だったが、少しして一つ思いついたように口を開いた。
「魔術に秀でた者を近くに置くことで、護衛騎士の穴を埋めることが出来るのではないかと思うのですが」
辺境伯は眉根を寄せる。王太子の護衛として良い働きをしてくれそうな魔導士と言っても、すぐには思い付かない。エアルドレッド公爵は小さく笑みを零した。
「魔導省に属している魔導士は駄目でしょう。先日の魔物襲撃で降格されてしまいましたが、ベン・ドラコでしたら安心して任せることもできましたが」
「つまり、今の魔導省はほとんどが王太子に対して叛意があると?」
「叛意とまでは言えなくとも、少なくとも身を挺してまで護るとは思えません。更に言うなれば、魔導省の中で最も能力が高い魔導士はベン・ドラコとペトラ・ミューリュライネンです」
だが一人は謹慎しており、もう一人は未だ魔導省に復帰していない。正式な護衛を頼むことはできないのだ。それでもエアルドレッド公爵は諦めようとはしていなかった。
「魔導省に属していない魔術能力の高い者で、かつ王太子の傍に置いて不自然でない者に心当たりはありませんか」
「馬鹿な。それほどまで能力の高い者はたいてい魔導省に入るだろう。仮にいたとしても、市井の者は王太子の傍には――」
置けるわけがない、と辺境伯は言いかけて口を噤んだ。呆れた様子だった両眼に思慮深い光が浮かぶ。エアルドレッド公爵はひたと自分より年上の男を見据え、言葉を重ねた。
「私の情報網でも、先日の魔物襲撃を終焉に導いた者を特定できないのです。魔導省も騎士団も、一体誰があれほど大規模な浄化の術を使ったのか分からないと報告している。しかし、その術が人為的なものであったことは確かです」
公爵が把握できたのは、魔物襲撃を浄化するために必要な最高位の光魔術に代わる術をベン・ドラコとペトラ・ミューリュライネンが研究していたところまでだった。開発された浄化陣が実用化されていないことも確認が取れている。ただ、王太子の生誕祭数日前に生じた魔物襲撃が浄化された時の状況を見るに、実はその術が使われたのではないかと推察していた。
「僕の推察が正しければ、生誕祭の前と当日に起こった魔物襲撃はその術で浄化されたのではないかと思います。しかし、一つ目の魔物襲撃はペトラ・ミューリュライネンが術を稼働させたとしても、二つ目の方は誰が術を使ったのか分からないのです」
史上最大規模の魔物襲撃が浄化された時、ベン・ドラコは王宮に囚われていた。ペトラ・ミューリュライネンがどこに居たかは定かでないが、前日までドラコ家の末っ子二人と行動を共にしていたと確認が取れている。そして、その後は大怪我を負いドラコ家に双子と滞在していると報告があった。
ペトラが共に居たという双子はまだ幼く、魔力は膨大で将来有望だが魔物襲撃に適切な対応ができるほど実践的な魔術に慣れてはない。即ち、いかに優秀な魔導士といえど幼子二人を連れて魔物襲撃を浄化する術を使えるとは考え辛いのだ。そしてその二人以外に、実用化されていない浄化陣を使える者の心当たりはない。
エアルドレッド公爵は結論をまとめた。
「ですから、生誕祭当日の魔物襲撃において浄化陣が使われたのかどうかも確証が持てないでいます。ただ、何者かがその陣を使ったのでなければ、あれほどの規模の魔物襲撃がたちどころに浄化された事実に説明がつかない」
「その術というのは、魔術陣か呪術陣のことでしょうかな?」
黙ってエアルドレッド公爵の説明を聞いていた辺境伯は、静かに尋ねた。公爵は頷き、その両方を組み合わせた陣だと答える。
辺境伯は、彼にしては珍しく失笑した。思い付いた可能性があまりにも荒唐無稽だった。だが、脳裏に浮かんだその可能性はなかなか消え去らない。黙っていようかとも逡巡する。口にしたところで信じて貰えるとは思えなかったし、自分でも馬鹿らしいと笑い飛ばしたくなる。だが、否定できないと理性が囁いていた。
「公爵。それならば、我々はクラーク公爵家の令嬢を殿下の婚約者として推すべきかもしれませんぞ」
「――リリアナ嬢ですか」
その言葉は、多少なりともエアルドレッド公爵にとって意外だったらしい。常に泰然自若とした彼には珍しく、忙しなく目を瞬かせた。ケニス辺境伯は重々しく頷く。
彼が思い出したのは二年前の出来事だった。“北の移民”の失踪事件で犯人を捕らえようと王都に来た時、辺境伯領から連れて来たイェオリという少年が誘拐された。その少年を探す時に、彼女は魔術を使う呪術陣を使って場所を特定した。解釈が異なったため実際に捕らえられていたところとは違う場所に配下を送ることになったが、術自体は間違いなく成功していた。
その後、誘拐犯たちを一網打尽にしてイェオリを含めた少年少女たちを解放し、その記憶を曖昧にしたのはリリアナの仕業ではないかと辺境伯は疑った。だからこそ、甥である騎士団七番隊隊長のブレンドン・ケアリーにリリアナを監視し叶うならば敵には回すなと告げたのだ。
即ち、リリアナはエアルドレッド公爵が教えてくれた浄化陣を使えるだけの能力がある可能性がある。実際に陣を発動させたかどうかは、この際問題ではない。重要なことは、彼女が婚約者として王太子の身近にいれば護衛の役割も果たせるのではないか――ということだった。問題は、実際にリリアナの魔術がどれほどのものか確認したわけではないということ、そして年端も行かない少女に王太子の護衛を頼むことに抵抗を覚えることの二点だ。
ただし、ケニス辺境伯がリリアナを推す原因となった一連の話を公爵に教えるのは憚られる。話してしまえば、リリアナは魔術が使えることを告げなければならない。そうなると彼女が実は声を取り戻しているが、その事実を隠していると伝えなければならない。しかし辺境伯はリリアナから他言無用にして欲しいと頼まれていた。子供相手と言えど約束を違える気にはなれなかった。
一方、エアルドレッド公爵は辺境伯とは違う意味で納得したらしい。
「なるほど」
公爵は何気なく呟く。詳細は話さずとも、辺境伯が言うからには根拠があるはずだとエアルドレッド公爵は確信していた。辺境伯は理由のないことを口にするような人物ではない。
つまり、リリアナは王太子の護衛として十分な資質と魔術の能力を持つ――またはその可能性があるということだろう。
そして同時に、公爵が得た情報の中にはリリアナがベン・ドラコやペトラから呪術を学んでいるという話があった。知る者は本人たち以外に居ないはずだが、王太子の護衛として十分な能力があり、かつ浄化陣の開発にもある程度携わっていたのだとすれば――生誕祭当日の魔物襲撃でリリアナが浄化陣を発動した可能性も高まる。
「確かに、その線は固いですね。問題はクラーク公爵が彼女の婚約に反対している点でしょうか。それから、リリアナ嬢は王太子妃教育を受けているとはいえ九歳です。九歳の少女に護衛を任せるのはあまりにも負担が大きすぎる」
「――九歳とは思えないほどの少女ですがな」
辺境伯は複雑な顔で頷く。九歳と考えれば躊躇するものの、彼女は実年齢には不相応に大人びている。王太子妃教育を受けている他の婚約者候補たちと比べてもその差は段違いであるため、偏に彼女の資質だろう。
そしてリリアナの声は出ないということになっているが、社交や外交以外では問題にならない。更にリリアナは声は出るのに出ないと偽っているだけだ。即ち、必要に迫られたら彼女は話すことができる。婚約者として確定しても問題はないはずだった。
最大の難関はリリアナの父親であるクラーク公爵の同意を得ることだった。正攻法では決して納得させることはできないだろうし、そもそも彼がリリアナと王太子の婚約に反対している理由も判然としていない。
「殿下のお力もお借りする必要がありますかな、公爵」
「ええ、そう思います。十歳までに声が戻らなければ婚約者候補から外すとの密約が、陛下とクラーク公爵の間で結ばれているようですから――それまでに確定させねばなりませんね」
エアルドレッド公爵も同意を示す。国王とクラーク公爵の間で結ばれた密約の存在は秘されているものの幾人かは知っていた。その数少ない内の二人は、今後の算段を立て始める。
全ての計画は秘密裏に行わねばならず、関係者もごく僅かでなければならない。できれば本人にも知らせないほうが望ましい。
スリベグランディア王国の有力者二人が辺境で交わす密談は、日が陰るまで続けられた。
13-2
13-6