空鏡
空鏡、という鏡を知っていますか。
空に浮かぶあるお城の宝物の一つです。
それを使えば世界の全てを見ることができると言います。
ふわり、浮かぶ雲の上には、ガラスでできたとても綺麗なお城がありました。
城に住むお姫様は透明なガラスの中、透明な心をもって育ちました。
髪の毛は金色で、ふわふわ、もこもことした真っ白なドレスを着て、空色の澄んだ瞳をしています。
名前をエミリアと言います。
今日は近くのお城のお友達のお姫様に呼ばれてお茶会です。
お茶会には、いつもよりおしゃれして行きます。
だってほら、大好きなお友達には、なるべく素敵な自分を見せたいものでしょう?
金色のレースをふんわりまとい、ドレスの布には細かく砕いたガラスや星屑、ビーズなどが散りばめられています。
それから、雲の花畑に咲くお花を摘んで、お土産に持って行きました。
お友達のお姫様は、もうすっかりお茶会の準備をして、エミリアを待っていました。
お友達は銀色の、ところどころ青に光る髪に、緑の瞳をしています。
名前をシルビアと言いました。
シルビアはとても賢く大人びていて、エミリアの知らない話を、行儀よくお茶を飲みながらしてくれます。その声は音楽のように心地よく、エミリアはいつもうっとりしてしまうのでした。
二人が仲良くお茶をしているところに、慌ただしいノックの音が響きます。
シルビアが、綺麗な眉を少ししかめて、返事をすると、侍女ではなく、兵士が畏まって入室しました。
「姫様がた、ご歓談中のところすみません。城内に、下界の者が紛れ込んでおりまして」
「まあ。こんなところまで、生身で来られるわけはないのだけれど」
「はい、どうも、天に召される途中のようです」
「あら。それは大変ね」
シルビアはおっとりそう返し、思案するように黙ってから、エミリアを見ました。
その緑色の瞳には、いたずらめいた光がちらついています。
「ねえ、エミリア。私、あなたさえ良ければ、その人をお茶会に招こうと思うのだけど。どうかしら」
エミリアは、下界の人間、という響きに前から強い興味を持っていましたので、一も二もなくシルビアの提案に頷きました。
ですがエミリアもお姫様。
お姫様はいつも気高く、悠然と構えていなくてはなりません。
澄ました顔で答えます。
「とても、素敵だと思うわ」
その一言で、お茶会のメンバーは一人、増えることになりました。
新しいメンバーは、十四、五歳くらいの、エミリアやシルビアと変わらない年齢に見える男の子でした。
室内を、物珍しそうに見回して、エミリアやシルビアと視線が合うと、どぎまぎした様子で赤くなります。
シルビアが、気高い姫君らしく言いました。
「お座りなさいな、下界の人」
「あ、うん。ありがとう」
「あなた、お名前は?」
「……おぼえてない」
そういうことは、ままあることです。
天に召される途中ですので、生前の記憶が曖昧なのです。
「じゃあ、私がつけるわ」
エミリアは急いで、シルビアに先を越されないよう言いました。
「そうね。……クレイ。クレイはどうかしら」
「素敵ね」
シルビアが微笑むと、男の子も頷きました。
「名前をつけてくれてありがとう。ええと、」
「エミリア。こちらはシルビアよ」
「エミリア、シルビア」
クレイはぱ、と笑いました。
その屈託のない笑顔に、エミリアの目は釘付けになりました。
それから三人で、楽しいお茶の時間を過ごしました。
楽しい時間というのは不思議なもので、あっという間に過ぎてしまいます。
エミリアは、そろそろ自分のお城に帰らなくてはならないと思いました。
けれどまだ、彼女の心はクレイに留まっています。
そういう思いを未練というのだとは、エミリアはまだ知りません。
察しの良いシルビアが、エミリアに言いました。
「クレイはしばらくうちで預かるわ。エミリアは好きな時に来れば良い」
それを聴いたエミリアの顔が輝きました。
クレイも、嬉しそうです。
それからエミリアは、シルビアのお城に通い詰めました。
クレイを喜ばせるように、小さな金細工やオーロラの欠片、ペガサスの羽などをお土産にします。
クレイはとても喜びました。
シルビアは、エミリアとクレイを眺めながら、少し複雑な思いでした。
なぜならクレイは天に召される途中。
遠くないうちに、エミリアとの別れの時が来るのです。
その時、エミリアがきっと泣くだろうと考えると、シルビアの気持ちは重くなるのでした。
ある日、クレイがお城の庭に立っているのを見たシルビアは、クレイに声をかけました。
「どうしたの、クレイ」
「シルビア。僕はきっと、もうすぐここからいなくなる」
青い空の片鱗が、庭をも青く染め上げています。
「……」
「エミリアに、見られたくないんだ。きっと、エミリアは泣くだろうから」
「逝ってしまうつもり?」
「うん」
「クレイ。見ても見なくてもエミリアは泣く。変わらないわよ」
「そうだけれど、僕がエミリアの泣き顔を見たくないんだよ」
「そう。もう決めたのね」
「うん。シルビア。今までありがとう」
その時、空の更に上から黄金の光が射して、クレイを包み込みました。
クレイの身体が少しずつ透き通っていきます。
クレイが完全に光に呑み込まれるまで、シルビアはじっとその様子を見つめていました。
シルビアにとってもクレイは大切でした。
けれどエミリアには及びません。
やはりシルビアの言った通り、エミリアは泣きました。
ふわふわ、もこもことしたドレスが、すっかり水浸しになるくらいまで泣きました。
シルビアはエミリアを慰めるように、毎日、エミリアのお城に通いました。
「エミリア。ねえ、エミリア。クレイはきっと、天上の世界にいるわ。それから生まれ変わるのよ」
「そんなこと知らない。私は、クレイにずっといて欲しかった。どうしてクレイを引き留めてくれなかったの、シルビア」
感情に任せて言葉を放つと、人は後悔するものです。
この時のエミリアがそうでした。はっとしたように口を押えます。
「ごめんなさい……」
「いいのよ」
エミリアの金色の髪を、シルビアは優しく撫でます。
つい、とエミリアが顔を上げました。そこにはシルビアの知らない顔をしたエミリアがいました。
「――――私、待つわ。クレイが生まれ変わるのを。人間の世界に捜しに行って、きっとまた逢うわ」
そう言った時のエミリアは、見惚れるほどに美しいものでした。
シルビアは友人が、大人へと一歩近づいたことを知るのでした。
そのことはシルビアを、ほんの少し寂しい気持ちにしました。
それからというものエミリアは、空鏡を毎日眺めては、クレイが生まれ変わっていないかと捜すのでした。
やがていつしか、そんなエミリアを歌った歌が生まれました。
まそらのかがみ そらかがみ
こいしいひとの かげさがし
ひるよるとなく のぞきこむ
こいしりそめし ひめぎみは
しんじゅのなみだ ながしつつ
きょうもきょうとて のぞきこむ
まそらのかがみ そらかがみ
終