厄介な御両人
通路をひたすら進み、背後を見て速度を落とす。
追っ手の姿はなく、経理の執務室まであと少し。
汗を拭い、ゆっくりとした摺り足に戻る。
『酷い有り様だな。』
追い掛ける仕草を見せた者も居たが、走力の差で置いてきた。
その点では安心だが、自分の部署へ近付くにつれて、足元が悪くなってきた。
『異臭もきついな。』
鼻を押さえ、顔を顰める。
朝食から時間が経っていなければ、腹の物を吐いていたかもしれない。
「………」
ちらりと見て、すぐさま視線を戻す。
通路の壁に上半身をもたれさせ、頭部を凹ませた男の遺体が座っている。
傍らには、ゴルフクラブのアイアンが無造作に捨てられており、ヘッドが折れ曲がっていた。
『お偉いさんは会社にキャディーバッグでも置いてんのかよ。』
場違いな事に脱線しないと、今の精神状態を保てない。
震える両手を傘や鞄を握る事で我慢し、歩みだけは止めない。
「………」
道中には、他にも種類の違うゴルフクラブが、動かない社員とセットで放置されていた。
注視したくないが、足元に気を付ける為、目に入ってしまう。
ヘッドが折れて先の尖ったクラブが腹に刺さった者、顔の造形が窺えない程に殴打されたであろう者等、凄惨な光景が続く。
その瞳を見ると、どれも充血しており、おかしくなった奴らと同じだろうと推察できる。
『ゴルフ……』
ふと嫌いな上司がゴルフの話をしていたのを思い出し、溜息が漏れる。
それはどうでもいいなと、頭を振って消し去る。
『そろそろか。』
最後の一踏ん張りと、慎重に歩き、目の前の執務室を確認する。
「ひとさまの言うことが聞けんのかぁぁーーー!」
喧しい声が、部屋の中から飛んできた。
入口へと駆け寄り、中を覗くと見覚えのある男が居た。
窓側に配置された部長のデスク上。
土足で立ち、ブンブンと無我夢中でゴルフクラブを振り回す中年男。
明らかに正気の沙汰ではない。
『何してんだよ、課長は。』
と、そこで足が止まった。
音を立てるな! そんな緊張感が走る。
目立つ課長の前、机と机の間の床。
『なんで……ここに居るんだよ。』
四足を動かし、課長との距離を測る黒色の犬。
細身だが筋肉質な身体はしなやかで、その動きは知性さえ感じさせる。
「お前はジミーじゃないか! 早くわしを助けろ!」
『まじでふざけんなよ、このおっさん。』
俺は初めて殺意を覚えたかもしれない。
犬はこちらを緩やかに見る。
その仕草に焦りはなく、さも私は気付いていましたよと言っている様である。
「おいこら、聞いておるのか! ジミー!」
人のあだ名を連呼するな、鬱陶しい。
武器とは言えないが、傘を持つ右手を順手にして、槍を握る形で先の石突きを犬へと向ける。
「ガルルルゥゥ……」
唸り、前傾姿勢で威嚇の体勢に入る犬。
これがまだ可愛い系の犬なら怖さは薄かったが、ドーベルマンらしき奴の犬歯は可愛いを飛び越えている。
じんわりと広がる脇の汗を止められない。
「ジミー! ジミー!」
煩い観客を視界から外し、とにかく犬の瞳を見つめる。
こいつはどことなく、知性を感じて仕方ない。
余裕を見せた態度もそうだが、少し進もうとすれば油断なく前足に重心を移し、飛び掛かる姿勢を取ってくるのだ。
「この役立たずがぁぁ! わしがやる!」
課長が、部長のノートパソコンを掴んで、犬へと放り投げた。
当たりはしないが、犬のヘイトが課長に集中する。
『当たれっ!』
球技なんて得意ではないが、思いっきり鞄を投げる。
こちらも当たらずに、床を滑り、遠くの壁際へ。
「バァウッ!」
犬が苛つく様に吠え、牙をカチカチと鳴らす。
俺と課長をそれぞれ見て、獲物を選別するかのよう。
「犬っころがぁ! 当たれぇぇぇ。」
がむしゃらに部長の私物を投げまくる課長。
流石に犬も面倒なのか、デスク裏へ飛び退く。
「バァウバァウ!」
犬は大きく吠え、俺が入った入口とは別の方から出ていった。
『まじで怖かった……』
傘を杖にして、身体を支える。
そうでもしなくちゃ、課長の前でへたり込んでしまいそう。
「負け犬の遠吠えとは情けない!」
デスクより下りて、高笑いする課長。
スーツの上着はなく、白のワイシャツと弛んだネクタイ。
シャツには赤色の液体が飛び散り、何があったかを想像させる。
『……どうすりゃいいんだよ。』
まだこの階に居るであろう犬に、おかしくなった課長。
俺には手に負えない2人だ。
とにかく渇いた喉を潤そうと、壁際の鞄を拾い、ペットボトルを取り出した。




