バリケードの向こう側
廊下の窓より入り込んだ日の光は、床へと斜めに射していた。
光はちょうど廊下の中心を一本道で照らし、真ん中で直立していた黒い犬を嫌でも目立たせる。
「バァウッ。」
黒色の短毛、細身ではあるが、引き締まった体で筋肉質な大型犬。
海外でよく見る、警察犬が頭に浮かぶ。
俺をこんな状況に落としたあの犬では無いと思うが、手の震えが止まらない。
赤く充血した瞳から、視線を外せない。
『まじでなんなんだよ……』
開かれた口から八重歯が覗き、涎がダラリと床に垂れる。
犬は前足を一歩ずつ進め、俺の方へと近寄ってきた。
「「「アァァ。」」」
犬の背後に居る感染者らも、呻き声を上げながらその後ろを付いてくる。
『どうしろってんだよ。』
後ろを振り返らなくても、絶体絶命だと分かる。
背後は、積み重ねられた机や椅子によるバリケード。
前は迫る犬と感染者。
もう俺に、逃げる道は残されていない。
『こんなに怖かったんだな……』
俺は犬に噛まれ、感染者と同じ存在になった。
そして、どうやら襲われないと知った。
それから、大胆な行動も安易に選べた。
どうせ、噛まれはしないから。
それに甘えていた自分に気付かされる。
『結局、死からは逃げられねぇのか。』
右手に持つ革鞄ぐらいしか、武器として使える物は無い。
周りを見渡しても、消化器が遠くの廊下隅に置いてあるだけ。
それが使えたら助かるが、そんな時間はくれないだろう。
「ふぅ。」
不安と共に息を吐き出し、鞄を握る右手を強める。
感染者の方は、今も俺を見る事はなく、これまでと同じく無視していると思われる。
ならば、犬だけを対処できれば、俺は助かるかもしれない。
『あの日、結果的には噛まれた俺の負けだった。 でも、今度はやられてたまるか。』
革鞄が無理なら、また革靴を武器にしても良い。
とにかく俺はまだ死にたくない。
「バァウッ!」
ゆったりと歩くのを止め、走り出す黒い犬。
軽やかに床を蹴って、俺へと駆けてくる。
「真っ直ぐに向かってくるか。」
舐められたもんだ。
右手を後ろに回し、革鞄を振りかぶる姿勢へ。
『一瞬が長い……』
もう犬との距離は、10mを下回る。
目前に迫る犬の姿は大きくなり、時の流れはゆっくりと進む。
あと数歩、覚悟を決めた瞬間だった。
「後ろですッ、こっちに来てください!」
その声は背中から聞こえた。
若い女の子の声。
後ろへ振り返ると、顔の横を黄色いボールが飛んでいく。
ボールが飛んできた方角。
バリケードの真ん中下に、机1個分の隙間が空いていた。
その向こう側では、テニスラケットを手に持つ女学生の姿。
ボールの方は、犬へと真っ直ぐに迫り、避ける為に横っ飛びさせる。
「早くッ、こちらへ!」
その彼女とは別の女学生が顔を出し、そう叫ぶ。
俺はその声に従い、急ぎ、屈んでバリケードの穴を潜る。
抜けた先で振り返ると、犬は体勢を跳び終え、既にまた駆け出していた。
「どいてください!」
俺は慌てて、その場を飛び退く。
彼女らは横向きに倒した机を前へと押し出して、バリケードの穴にピッタリと合わせる。
そこで、天板に何かがぶつかる音が響く。
「……気付いて良かったです。」
バリケードの机が揺れ始めて、俺も彼女らに合わせて、崩れない様に押さえる。
疲労が見える女学生は、息切れしながらも、俺を気遣う。
やがて、揺れは収まり、彼女らは、更に3つの机で足を交差させて、穴を補強する。
犬は諦めたのか、感染者の呻き声が遠くへと離れていく。
「どこも噛まれていませんか?」
改めて、助けてくれた女学生と顔を合わせる。
他の子達と比べ、頭一つ背が高く、長い黒髪が揺れる。
その横には、ぴったりとテニスラケットを片手に持った女学生が並ぶ。
他にも扉の無い教室から、顔を覗かせる子らが数人居た。
「あぁ、確かめてもらってもいいが、どこも噛まれてないよ。」
「一応、失礼しますね。」
彼女は教室より何人かの女学生を呼ぶ。
その子らは俺と彼女を囲い、部活動で使っているのであろう木刀やテニスラケットを構える。
「………」
俺は大人しく、上着のコートを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲ったり、ズボンの裾を折って、素肌を見せる。
明かりが日の光だけという事で、見えにくいのか、彼女の顔は近い。
意識しない様に、窓の外を見て、言われた箇所を見せていく。
「どこも怪我は無さそうですし、大丈夫ですね。」
彼女はスッと離れ、他の子達にまた別の指示を飛ばす。
小声ではあるが、聞こえる言葉からして、朝食の準備をする様だ。
「もし食事に困っているならなんだが、この鞄の中身を使ってくれないか。」
背中に背負ったリュックサックをおろし、背の高い女学生に差し出す。
彼女は「失礼します。」と言って、鞄の口を開く。
中には、プルトップの缶詰に乾パン、クッキーや煎餅といったお菓子類、1Lの飲料水が3本程、あとは小型のカセットコンロにガス缶、インスタント味噌汁やカップ麺がぎっしりと詰まっている筈だ。
『今の俺でも、多少の重さを感じていたから、結構な量はあると思うが。』
思ったよりも、残っていた人数が多くて、食べ物が足りるか心配になる。
「こんなにも……缶詰、水、お湯も作れる……」
女学生は噛み締める様に呟いている。
他の子らもその言葉を聞いて、鞄を覗きに来る。
長引きそうなので、廊下の壁に背中を預け、革鞄に入れたスマートフォンや水の状態を確認しておく。
「あの……こんなにも食べ物を、本当に宜しいのでしょうか?」
「俺の事は気にしなくていいよ。 もう既に朝食は済ませているし、こちらの鞄にも食べ物は残してある。」
革鞄を持ち上げる。
実際は飲みかけのお茶しか入っていないが、外に出て、また調達すればいいし、そもそも届けに来たのが目的だ。
あの犬の存在があって、それも怖くなったが、明らかな衰弱が見える女学生らにそれは言えない。
背の高い女学生やラケットの子は、目の下に大きな隈が出来ていた。
リュックサックを渡した時も、耐えられそうに無かったので、その場の床に降ろした。
よろめきながら歩いてくる子に、壁に体を預けてハァハァと弱々しい息をする子。
予想していたよりも、酷い状況だった。
「助かります……本当に、ありがとうございます。」
背の高い女学生は深く頭を下げる。
彼女自身も決して体調は良さそうに見えないが、気丈に振る舞う。
「皆さん、素敵な食べ物も頂けましたし、すぐに準備を致しましょう。」
まだ動ける様子の子らが、カセットコンロで湯を沸かしたり、鞄に入っていた紙皿に割り箸、紙コップを出したりして、朝食の準備をしていく。
俺もフリースペースに案内され、床に腰を下ろす。
教室の中には、横になっている子もいたが、新しい食べ物に目を輝かせ、お湯が沸くのを心待ちにしていた。
その様子に、早く助けに来て良かったと安心する。
『新たな問題は生まれたが、それでもここに来たのは間違いじゃなかったな……』
犬の件を考えないといけないが、とりあえず今は間に合った事にほっとする。
余韻に浸りながら、彼女らの喜ぶ姿を見ていた。




