徘徊するスーツ
吐く息が多くて、喉が渇いて仕方ない。
『何年ぶりに、本気で走ったんだよ……』
入り込んだ資料室。
棚を背もたれにへたり込む。
膝がガクガクと震え、汗がじんわりとスーツの下を流れる。
「ハァハァ。」
呼吸を整えるついでに、スマートフォンを確認する。
画面には、先輩からの返信が来ていた。
『残業を気にしてとか、そういう話ではない! 今、会社では大変な状況になっているんだ。 とにかく、絶対に出社するな。 分かったな!』
時間を見て、着信が来てから数分経っているのが分かる。
『何もかもが遅かったな……』
ズボンからハンカチを取り出し、額の汗だけでも拭う。
そして、よっこいしょと立ち上がる。
『とりあえず、ここに居てもしょうがない。』
資料室は、扉が1つの完全な密室。
部屋の規模も狭く、外の彼らに入り込まれたら一溜まりもない。
静かにドアノブを回し、ゆっくりと扉を押し開く。
開いた隙間から左右を覗くと、目の前の通路には彼らの姿は無い。
『帰るか、先輩を探すかだな。』
ここまで来たら、おそらくまだ居るであろう先輩だけは見つけたい。
非常用の螺旋階段を常用する不良なんて俺ぐらいなので、もしかしたらエレベーターや階段に行けず、詰んでいる可能性がある。
それを考えたら、助けに行くのは良い案かもしれない。
『ていうか、出来の悪い俺の為にあそこまで言ってくれるんだからな。』
傘や鞄を力強く握り締め、通路を足音静かに進む。
「………」
無言の中で、視野を最大限に広げる。
特に気を付けるのは、執務室が並ぶ通路。
扉は無く、横切った瞬間、鉢合わせなんて真っ平御免だ。
「ッ。」
飛び出そうになる言葉を、口に手を当て消す。
開放的な空間で仕事なんちゃらを元に、ガラス張りの壁で出来たオフィス。
通路から見える部屋の中では、地響きの様な呻き声を上げながら、デスクの周りを徘徊するスーツ達。
『中学生の言葉を借りる訳じゃないが、まるで映画だな。』
俺はそちらに興味はなく、パニックホラーの映画も、毎週金曜日にやっているテレビでしか見たことはない。
だから、多少の知識でしか語れはしないが、それでもこれはそれに類する現象にしか見えなかった。
『嫌になるな。』
摺り足を意識して、通路を進み続ける。
先程までの逃亡劇で分かったが、彼らはどうやら音に敏感の様だ。
***
激しく前後する足、通路の景色が背後へと流れていく。
総務課で襲ってきた彼女からはもう逃げ切れただろうか。
振り返る余裕もなく、走り続ける。
『ん。』
遠くに人影が見え、他の社員かと安心すると、ぐるりと振り向いた彼らの目は充血していた。
後ろから追い掛けてくる彼女と同じ目の色。
「アァァ。」
こちらに向かって、歩み寄る3人。
しかし、その時。
1人の男が、通路端に置かれた植木鉢に足を引っ掛け、大きな音を立てて転ぶ。
俺も思わず、足が止まり、背後を見て誰も居ないのを確認。
「アァァ。」
他の2人はなぜか、観葉植物の方へ両手を伸ばし、重なる様に前の男の上へ転んだ。
視覚で言うならば、それは植物であり、追い掛ける対象でないのは見えているはず。
なのに、こちらへ来ず、3人の男らが床で揉みくちゃになるのはどうしてだ。
「うっわ!」
考え事をしていて、なんとなく背後へ振り向いた瞬間。
曲がり角から、ぬっと顔を出すお団子ヘア。
声は思ったよりも出てしまい、男ら3人も壁や植木鉢を頼りに、身体を立たせる。
俺はまた走り出し、目に入った資料室へと飛び込んだ。
***
過去の実例を再確認して、軽く頷く。
『とりあえず、何の病気かは分からないが、視覚が退化して、聴覚が敏感になると考えた方がいいな。』
そうじゃなきゃ、今手で触れているガラス張りを通して、目が合うスーツに追い掛けられているだろう。
『あと少しか。』
理由は分からないが、彼らはデスク周りを淡々と徘徊する。
それもあり、通路には誰も居らず、ゆっくりと進みさえすれば、走って逃げる様な事はせずに済む。
「ギヤァァァァァーーー!」
突然の、大きな叫び声。
通路で反響し、中の彼らもこちらへバッと身体を向ける。
3人横並びで歩けるだけのスペースはあると言えど、狭いには変わらない通路。
前後を挟まれたら、どうしようもない。
『てか、誰だよこのむかつく様な野太い声は。』
苦手な方の先輩に似た声で、思わず頬がヒクつく。
声は向かう先、普段パソコンを置いて、作業している経理の執務室。
「ッ。 それよりも早く移動するか。」
出入口に最も近い男が通路に出ようとしている。
ゆっくりと進んでいる場合ではない。
『あぁ、しんどい!』
それでも傘や鞄を捨てない俺は、貧乏性だなと走りながら考える。
あと少し、叫び声を上げた奴に嫌な予感がしながら、残り僅かな気力を振り絞った。




