教室棟の真ん中に陥穽
2階の通路を往復し終え、角の突き当たりまで戻ってきた。
『あれは……』
次は、左の通路へ曲がり、教室棟の中心まで探索を広げるつもりなのだが、少し休憩できそうなスペースを見つけた。
大きさは講義室の4分の1、扉とかはなく、通路の横に、申し訳程度に用意された感じの四角いスペース。
自動販売機が数台並び、その横にゴミ箱と木製のベンチが置かれている。
「愛莉ちゃん。 おじさんは少し疲れちゃったので、あそこで休んでもいいかな?」
「ん。」
頷いてくれる愛莉ちゃん。
顔色を見る限り、そこまで疲れている様子はないが、幼い子に無理はさせたくない。
先に飲み物が欲しいので、自動販売機へと向かう。
「えと?」
自分用に缶コーヒー、愛莉ちゃんの分として紙パックのオレンジジュースを購入。
それから、ベンチへ腰を落ち着かせたのだが、愛莉ちゃんが、膝の上に飛び乗ってきた。
「あの愛莉ちゃん、隣が空いてるけど……」
「……おいしい。」
愛莉ちゃんは、そう感想を述べてから、黙々とオレンジジュースを傾ける。
年の離れた妹ですら、こんな座り方をした事はない。
オロオロと対応に困ってしまう。
ただまぁ、愛莉ちゃんがこのままで落ち着くならばと俺も缶コーヒーを飲む事にした。
軽く振ってから缶を開き、温かいコーヒーを口に含む。
ほのかな甘みのある味わいが口一杯に広がる。
「ふぅ……」
スーツの上にコートを羽織り、室内という状況ではあるが、少し肌寒い季節。
ホットの缶コーヒーがじんわりと身に染みて、溜まっていた疲れが和らぐ。
『しかし、教室棟の右側で、愛莉ちゃんの母親を見つけられなかったか……』
スマートフォンを取り出す。
画面には、スクリーンショットで保存した館内案内図の写真。
ペンツールを起動して、細い筆で、確認済みの場所はバツを付けておく。
「さてと、休憩はこれぐらいで大丈夫かな。」
愛莉ちゃんが飲み終わるのを待って、声を掛ける。
彼女に膝から降りてもらい、ベンチから腰を上げる。
缶を丸い穴の空いたゴミ箱に落とし、愛莉ちゃんも紙パックを別のゴミ箱へ捨てているのを見届ける。
「よし、それじゃあお母さんを探しに行こうか。」
「ん。」
角を曲がった、左奥へと続く通路を進む。
教室棟の左右を行き来するのに使われるであろう、真ん中の通路。
教室棟の形、漢字の円で言うならば、短い縦線の上下にある2つの横線で、今は上の道を進んでいる。
『ここらへんからは、遠くでも会話が聞こえてくるな。』
赤い瞳は戻ったけれど、聴覚が敏感なのはそのままであった。
ドア越しの講義室の中での会話も、講義室1つ分の距離があったとしても、内容を聞き取れた。
それを最大限活かし、中の大学生が廊下へ出ないか、向こう側からやってくる者は居ないか警戒しつつ、講義室を横切っていく。
「愛莉ちゃん、怖かったら言ってね。」
大の大人である俺でも恐る恐るの行動。
彼女にその緊張が伝わらない様に努めているが、握る愛莉ちゃんの手が若干震えていた。
「ん、だいじょうぶ。」
愛莉ちゃんは、その事を我慢する。
無理に突っ込むのも気が引けて、何も言わず、手を握り直して先を急ぐ。
逐一、位置的に一歩下がる愛莉ちゃんの様子を見ながら、通路沿いの部屋を確認していく。
『……ッ。』
途中、講義室で寝ていた男に気付かず、目の前の通路を通るという危ない場面があった。
向こうは通路側に顔を向けており、窓ガラスを隔てて顔が合ってしまったが、彼は瞼を閉じていて気付かれなかった。
横を見ると、腕枕を机に乗せて寝ている男が居たので、バレたという思いもあり余計に驚いた。
『流石に、声や音といった情報が無いと厳しいな。 耳に頼りすぎない様に意識しなければ。』
移動は遅くなるが、より慎重に目で確認しながら、真ん中のエントランスホールと呼ばれる場所を目標に、通路を歩いていく。
時折、遭遇する若い男達は見張りだと思うが、愛莉ちゃんの母親だけでなく、女性まで見かけないのが気になる。
『無事だといいんだが。』
下卑た会話も途中聞こえたが、この大学内で囲っていると思われる女性の話は聞けなかった。
愛莉ちゃんの母親が居ると仮定して、ここまでやってきたが、そもそも居ない可能性もある。
『最悪を想定しとくに越した事はないが、今は行動あるのみ。』
結局、愛莉ちゃんの母親を見つけられずに、真ん中のエントランスホールへ到着した。
目の前には、大きな観音開きの扉が閉まっている。
「え……」
扉を開いた瞬間、遭遇したのは大きな丸い穴。
角度的に、下の様子は窺えないが、2階の通路が穴の口を縁取って道を作る。
四角い部屋の構造に対し、壁伝いに回れる2階部分の通路。
壁に密着する方とは別、逆側の手摺りへ近付く。
「うっ……」
右手で鼻と口を覆う。
下の穴を覗き込んだ瞬間、ムワッと漂ってきた臭気に圧倒された。
数週間放置した様な生ゴミの臭い。
そんな淀んだ空気が1階から立ち上っていた。
『何をしているだ、これは……』
鼻をつまみながら、周りを見渡す。
1階から2階に登る手段の螺旋階段は、緩やかなカーブを描く。
その螺旋階段だが、下半分が落ちており、登れそうにない。
1階の扉は3つ。
外への出入口であろう扉が正面に1つ、館内の通路に繋がる扉が左右に1つずつ。
その3つの扉は、閉まった状態。
簡単に外へ出られそうだが、下の者達がそれをしそうには見えない。
「アァァ。」
エントランスホールで蠢く人間の成れの果て。
『明らかに、大学生ではない者も居るな。』
意味もなく穴の下で徘徊する人間達。
その中には、警官の制服を着た男も。
足を引き摺る歩行の仕方から、瞳の色を確認しなくても、全員が感染していると分かってしまう。
これが、さっきの大学生2人が話していた穴なのだろう。
『どうしてこんな物がここに……』
講義室で居眠りをする学生が居た様に、この大学構内は安全な場所であると分かる。
感染者の侵入を門の所で防いでおり、中には感染者は居ないと思っていたが。
何か避難者に感染した者が居て、ここに閉じ込めるしか出来なかったみたいな話だったりするのだろうか。
1階で蠢く彼ら、1人1人の様子を確かめながら考えてしまう。
女性の感染者を2人見かけるが、圧倒的に男が多い様子。
『デ……タ……』
「え?」
声、が聞こえた気がする。
『ワタ……ラナ……』
『やっぱり、空耳ではない?』
低い声色で、小声で聞きにくいというよりは、囁く様に揺れる葉ずれの音に近い。
周囲に視線を飛ばしても、誰が話しているのかまでは分からない。
『マ……ダ……』
ガチャン、その時、反対側の2階の扉が開いた。
通路に戻っている暇はなく、愛莉ちゃんと2人でしゃがみ、胸元まである高さの手摺りの裏で隠れる。
「たく、青木の野郎はどこに行ったんだ! なんで、オレがこんな仕事をしないといけねーんだよ。」
少し手摺りの上に顔を出してみると、愚痴を垂れて、バケツを激しく揺らす男の姿。
『アァ……オチ……ダ……マダ……ソノ……デハ……』
バケツの金属音に引き寄せられ、散らばっていた感染者が男の下に集まる。
「ちっ、気持ちわりー奴ら。 てか、なんで先輩はこんな化物の面倒を見るんだよ。」
バケツをひっくり返し、中身が落下する。
スローモーションで落ちゆく物体は、人の手足や犬の死体に見えた。
『ソウ……イマハ……チカ……ケル……トキ。』
愛莉ちゃんは身長が手摺りに足りず、その光景が見えなくて、首を傾げる。
ボトボト、1階の床へと着地した肉。
それに飛び付き、歯形を付けていく人々。
そんな中、1人離れた所で動かない者が居た。
上を向いて、2階のその男をじっと見ている。
1人しかいない、警官の格好をした男性。
「まーた、こっち見てやがる。 あぁ気持ちわりぃ。 だから、この役目は嫌なんだよ。」
空となったバケツを肩に担ぎ、さっさと扉へ戻り、帰っていく男。
『まさか、話していたのはあの警察官なのか?』
自分という、赤い瞳になったが元に戻った存在が居る。
だから、見た目が感染した状態でも、まだ人の言葉を話せる者だって居るのはおかしくないとは思う。
『カナ……ラズ……』
口は動いていない……けれど、彼が話している様にしか思えない。
「ッ。」
そこで、罪の意識がチクリと胸を刺す。
俺は思い出す、倉橋製薬で、感染した社員に手を出した事を。
彼らは何も話さないが、それでも目が覚めていたとすれば?
「………」
意識のままならない状態、同じ人間を勝手に襲い始める我が身。
そして、化物の様に怖がられ、死にたくないのに殺される。
それは、恐怖以外の何者でも無い。
「おじさん……だいじょう、ぶ?」
愛莉ちゃんが、両手で俺の手を握る。
繋ぐ手が震えていたので、心配させてしまった様だ。
「あぁ、大丈夫だよ。 心配かけてごめんね。」
手摺りの壁に手を突き、目を瞑って、一旦心を落ち着かせる。
『とにかく。 今はそれを置いといて、愛莉ちゃんのお母さん、だよな。』
既に先程の男は部屋から去った。
立ち上がり、教室棟の左側も確認する為、2階に残る半壊した螺旋階段の方へ向かった。




