研究員のその後
振っていた手を下ろして、エントランスホールのベンチに向かう。
腰を落として、誰も居ないロビーを眺める。
「行っちゃったなぁ……」
大西さんの目的があるので、仕方ないとはいえ、心細い気持ちになってしまう。
『やっぱり、私の中で頼りにしている部分があったのね。』
力で勝つ事の出来ない男性に襲われる。
しかも、こちらをまるで食べ物の様に見ている、普通ではない相手。
それは死を近くに感じてしまい、怖くて仕方なかった。
だから、たとえ彼らと同じ存在かもしれなくても、守ってくれる人が居るのは安心した。
「打算的な女って言われてもしょうがないわね。」
正直、大西さんとの出会いでは、恐ろしさが勝っていた。
死ぬ思いで逃げている最中、男子トイレの奥で「もう、駄目……」そうやってあきらめかけた所に、追い打ちでやってきたんだから。
「アァァ!」
今でも覚えている。
足の遅い感染者よりも少し速い歩きで、こちらへと迫る男の人。
腕まくりしたヨレヨレのワイシャツが、ちゃんとスーツを上下で揃えている他と異なり目立っていた。
『期待しちゃった、私も悪いんだけどね。』
初めは、「助けが来たのね! やっと助かるんだっ。」と思った。
彼は無言だったけど、雰囲気的にそんな感じがしたから。
でも、それが裏切られ、感染者と同じ様に口を開いた瞬間、恐怖の声が漏れてしまった。
『もしかして、あの時も耐えていたのかもしれない。』
彼自身、自分の状態について戸惑っている節が見て取れる。
赤い瞳が治った時、涙が出る程に喜んでいたんだから。
『あの時、感謝すべきだったのよね。』
ありがとう、そう言えば、彼を傷付けないで済んだ。
言葉は「アァァ、アァァ。」そんな呻き声だったけど、襲ってきた社員を個室トイレに押し込んだ事より、敵では無いのが分かりきっていたんだから。
でも、私は緊張の糸が切れる様に、意識を手放してしまった。
『ある意味、ホッとしたのかもね……』
寝ずに仕事をしていた所に、あの逃亡劇。
疲れが溜まり、限界の中、やっと安心して眠れる状況になった。
「みたいな……」
言い訳に過ぎないわね……虚しい想いを噛み締める。
エントランスホールの高い天井に、視線を上げる。
徐ろに、両手をパーにして、身体の前で合わせる。
目を瞑り、お祈りの形。
彼の話なら、感染した者達に彼が襲われる危険性は無くなったらしい。
でも、それは赤い瞳であった時の話だった。
考え過ぎだが、赤い瞳が彼らにとっての仲間の見分け方の場合、襲われる可能性は少なからず残っている。
『私を助けてくれた大西さんが、無事に帰れます様に。』
だから、私はせめて祈ろう。
科学的ではないが、少しぐらい神様を信じてみたい。
***
「キミが無事で、本当に良かった。」
迎えに来てくれたのは、予想外にも嫌われていると思っていた同期の桂さんだった。
「ここに来るまでにも見えたが、まるで地獄絵図だよ。 全く。」
私の前だと、不機嫌そうに無言で居る1つ年上の男性。
同期だが、新卒で入った私に劣等感を抱いている、そんな噂が流れていたっけ。
「……佐藤さん、本当に大丈夫なのかい? 何かあるのなら、遠慮せずに言って欲しい。」
声色が優しくなっていて、思わず吹き出してしまったのは許して欲しい。
「なっ、なんで笑うんだね、キミは!」
「す、すみません、桂さん。 その、桂さんにそんな風に心配されるなんて珍しくて、思わず……フフ。」
バックミラー越しに見える彼が、眼鏡をクイッと戻す。
「全く、私もそうだが、所長が孫の様に教えてきたキミが一大事だと言って飛び出すし、宥めるのに大変だったのだからな。」
風を切って、空いた道路を走る乗用車。
暗いムードが少し明るくなってきた。
病は気からって言うし、暗くなっても仕方ない。
「所長には本当に感謝してますよ。 勿論、危険もある中、助けに来て下さった桂さんも。 ありがとうございます。」
「べ、べつに俺が感謝される謂れはない。 所長の命令で来ただけだからな。」
男のツンデレは気持ち悪いなんて言ったら、車を降ろされそうだから黙っておいた。
「……桂さん、電話でも話したんですが、向こうの準備は大丈夫ですか?」
バックミラーで、目が合う。
「あぁ、血清の話なら所長らが資料を集めているよ。 ゾンビを治す薬……聞いた時には鼻で笑ったが、実際に見るとあまりに症状が似過ぎて、夢だと頬を抓った程だ。」
「それは、そうですよね。」
私も実際に自分が襲われて居なかったら、夢でも見てたの? そう聞いている。
宇宙人を見た! そんな荒唐無稽な話なのだから。
『まずは、大西さんの血をより深く解明しなきゃね。』
窓の外では、乗用車の走行音に誘われ、道路へと出てきた瞳の赤い住人達。
歩みが遅いので、道が塞がる前に通り抜ける。
今は見捨てるしかないが、必ず助けに戻ってきます。
そう決心して。
走る車の後部座席で、前を向く。




