痴漢男
いつもは通勤ラッシュから時間をずらしているせいか、駅のホームに出来た行列に息が詰まる。
『あんなニュースがあったのに、こういうところは変わらないのが日本人だな。』
俺は無言で、比較的人数の少ない列を探して、ホームの前の方へ。
ブランド傘の石突きを傷付けない様に持ち上げ、歩いていく。
『ん。』
1号車の前側の扉が止まる場所に、女学生2人だけの列があった。
見た所、ラケットの形をしたケースを鞄とは別に持っており、朝練か何かがあるのを窺わせる。
『昔の俺とは大違いだな。』
彼女らの後ろに並び、スマートフォンを取り出し、アプリゲームのログインをしていく。
「まもなく2番線に、不忍・三鷹院方面がまいります。 危ないですから黄色い線までお下がりください。」
乗る予定の電車が来たようだ。
スマートフォンの電源を切り、鞄の外ポケットに入れてチャックを閉める。
降車を待って、女学生に続いて乗り込んだ。
『うわ、まじかよ。』
座席は勿論、その前のつり革さえ学生やサラリーマンで埋まっていた。
仕方なく、入ってきた扉の横にある手すりに傘を掛けて掴み、扉前の隅で身を縮める。
『あと数駅の辛抱だな。』
発車と共に、後ろへ流れ始める窓の外の景色。
朝靄も薄くなり、朝日が顔を見せていた。
都会の高層ビルに、高速道路が蛇のように絡む様を眺めながら、ぼんやりと思考停止。
「ッ。」
2駅が過ぎて、乗り込む人は増え、所謂満員電車の状態が続く中。
苦悶の声が耳に届いた。
『なんだ?』
身動きは出来ないので、黒目だけをキョロキョロさせる。
「やめ……」
それは、一緒に乗車した女学生の片方。
もう片方が、ポニーテールに背の高いスラリとした体型なら、こちらはミディアムの髪型に大人しそうな雰囲気が漂う小柄な女の子だったか。
『は?』
俺が手すりを掴む扉右端とは反対、左端で身を寄せ合っていた彼女ら。
ポニーテールの子が奥でこちらを向き、ミディアムの子が彼女と顔を合わせる形で背中を見せる。
『こいつ、何してんだよ。』
満員電車なので、その間には勿論人が居る。
その内の1人が、いかにもビール腹な中年のサラリーマンで、顔は車内の広告を見てますといった装い。
しかし、背後の俺には丸見えで、扉との間にある右手を彼女のスカートの中へ忍ばせていた。
「ッ。」
彼女が一瞬振り向き、何かを言おうとして下唇を噛んだ。
なぜ叫ばないのか、その理由は分からない。
『はぁ。』
俺は心の中で溜息を吐く。
面倒事は嫌いだ、でも胸糞悪いのはもっと嫌いだ。
「おいおっさん、いい加減にしたらどうだ?」
鞄の外ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラ機能でおっさんの右手を撮ったすぐ。
俺は彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「な、なんだ君は!?」
分かりやすく慌てるおっさんに、一部始終見ていた事を告げる。
「冤罪だ! さては、お前はこの女とグルだな!」
電車が次の駅に着き、こちら側の扉が開き始める最中。
おっさんは大柄な体を振り回し、おっさんの右手を掴んでいた俺の右手首を殴ってくる。
「済みません、この男が痴漢をしているのを目撃しました。 勿論、被害者には申し訳ないですが証拠の写真も撮ってますので。」
ホームに居た若いサラリーマンの1人に話し掛け、駅員を呼んでもらった。
数秒足らずでやってきた駅員に、おっさんの身柄を預け、証拠の写真についても伝える。
それから、事情聴取で駅員室まで連れてこられ、警察が来るのを待たされた。
「あの……助けてくれて、ありがとうございました。」
被害者という事で、ミディアムの子とその友達のポニーテールの子も一緒。
「いや、こちらこそすぐに気付かなくて済まない。」
それでも……と頭を下げる彼女に、どうしようかと悩んでいたら、駅員室の壁掛け時計が目に入る。
「それよりも時間は大丈夫なのか? 見た感じ、朝練とかあるんじゃないか。」
「あ、そうでした。 どうしよう……」
「とりあえず、顧問の先生に遅れる旨だけ伝えといたら? こういうのって言い難いだろうし。」
「あ、そうですね。 そうさせていただきます。」
俺もスマートフォンを取り出し、RAINにタッチして、部署の方のグループを開く。
『通勤途中の電車で痴漢を発見し、警察に事情聴取される事になりました。 遅延証明書の類が貰えましたら用意して出社します。』
と書き置く。
「あの……申し訳ないのですが。」
スマートフォンを閉じると、警察と連絡を取っていた駅員が目の前に。
「警察の方は現在手が離せない状況の様で、こちらに来るのが遅れるそうです。 犯人の男は責任を持って、私共が預かります。 連絡先だけ頂き、後日事情聴取という形でもよろしいでしょうか。」
警察が来れない? と疑問符を浮かべつつ、携帯電話の番号をメモに記し、駅員へ渡す。
それから、同じく番号を記したミディアムの子を待って、彼女らと部屋から出た。
「それじゃあ、俺も仕事があるんでもう行くけど。」
「あの、RAINの連絡先だけでも教えて貰えませんか! その、お礼がしたくて……」
困って、ポニーテールの子に顔を移すと。
「この子は変に頑固な所があるので、こうなるとテコでも動きませんよ。」
はぁと溜息を心の中で吐いて、彼女のRAIN IDを登録する。
「えと、それじゃあまたな。」
「はい、後日必ずお礼させて頂きます!」
満員電車が嫌いで避けてきた俺が、初めて乗った瞬間、こうなるとはふざけてるな。
数奇な運命を呪いながら、彼女らに背を向けて、駅のホームへと歩く。
『アプリゲームの続きでもして、電車を待つか。』
気まずいので、彼女らとは反対側のホーム端。
通勤ラッシュの終わらない、さっきよりも増えた行列の後ろに並んだ。