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屍織の狼、伽藍の狐と食卓を囲む


 ―― 1 ――


 霧黒の目の前に、幼い霊狼遺伝乙種の少年がいた。

 癖の強い灰色の髪。まだ柔らかさの残る体毛。伏せた三角の耳に短いマズル。しだれた尻尾。

 そして、とめどなく涙を流す灰色の瞳。

 彼の前には、赤黒い物体が二つ転がっていた。その周囲には、同じ形、同じ大きさに裁断された茶色の毛皮が散乱している。

 毛皮は血と脂にまみれていた。

 少年は、泣きじゃくりながら赤黒い物体に近づいた。

 恐る恐る、震える手を伸ばして触れてみる。そして、ゆっくりとその物体を揺さぶり始めた。

『お母さん……お母さん……』

 反応はない。

 霧黒が沈痛な面持ちで激しく首を振った。

 ―――無駄だ。もう、その人は。その二人は。

 声を出そうとして、喉が役目を果たしてくれないことに気づく。少年に手を伸ばそうとすると、伸ばした分だけ目の前の光景が遠ざかり、走り出せば同じ速さで距離が開く。

 決して届かない。どれだけ叫んでも、足掻いても。

『過去』とは、そういうものなのだ。

 ―――逃げろ。逃げるんだ。早くしないと、やつが。

 あらん限りの力で叫んだが、やはり喉から出るのは微かな呼吸音だけだ。

 何か手はないのか。あの子に知らせる手立ては。

 頭を抱え、苦悩し、ひたすらに考える。

 しかし目の前の残酷劇は、観客の都合などお構い無しに次々に場面を変えていく。

 すすり泣く少年の後ろに影が立った。

 影の中で金色の瞳を爛々と輝かせる、大柄な『何か』

 少年が気配に気づく間もなく。

 影は、少年の背中に鋭い爪を突き立てた。

 ―――やめろ。

 みちりみちりと爪が肉にめりこんでいく。

 あまりに突然で、あまりに大きな痛み。少年は反応できない。脳が事態を理解することを拒んでいる。理解した瞬間に訪れる津波の如き激痛の到来を拒んでいる。

 だが、少年の心が築いた防波堤は儚いほどに脆かった。

 絶叫。血しぶき。音量を増す皮と肉の断末魔。

 ―――やめてくれ、頼む、それ以上奪わないでくれ!! そいつから、それ以上は!!

 無音の懇願を続ける霧黒の前で、影は少年の背中の皮を力任せに剥ぎ取り―――それを少年の口へと無理矢理押し込んだ。

 霧黒が口を押さえる。

 甦る。あの時の鉄の味。毛と皮と脂肪の織り成す最悪の歯応え。

 嘔吐―――出来ない。吐き出せるのは悲鳴だけ。

 膝を着く。右手は腹を、左手は喉を押さえ、痙攣する内臓を必死になだめようと力を込める。

 ふと、背中に灼熱感を覚えた。

 触ると、服の上にまでぬるりとした液体が染み出している。

 触れた手を鼻先に掲げる。

 赤い。手のひら一面が、染色を施されたかのように。

 ―――あ、あああ……そんな、まさか。

 背後に気配を感じる。

 誰だ。知っている。なぜ。一度経験したからだ。

 カチカチと鳴る耳障りな音。自分の歯が震えているのだと気づいても、霧黒はそれを止めることが出来なかった。

 ゆっくりと、錆び付く首を回す。背後の気配の主を見るために。なぜそんな愚かな事をしようとしているのか、霧黒にも分からない。

 人は絶対的な恐怖に遭遇すると、目を背けられなくなるのだ。

 例え、自分を滅ぼす者の姿を網膜に焼き付けることになるとしても。

 そして、霧黒は見た。

 見てしまった。

 金色の瞳で見下ろす獣人の姿。

 恍惚に溶けた笑みを浮かべる『自分』の姿を。



「くはっ……!?」

 鼓動の乱れが目覚めの鐘となり、霧黒は慌ただしく覚醒した。

 ベッドの上でバネ仕掛けのように半身を起こし、焦点定まらぬ視線を左右に巡らせる。

 視界が悪い。眼鏡を掛けていないのだと気づくのに、少しの時間を要した。

 ぼやける景色に意識を集中させると、視界が鮮明になってくる。近眼ゆえに睨むように目を細めると、いくらかまともに見えるのだ。そうするうちに、次第に周囲の状況を把握できてきた。

 自分が横たわっていたベッド。その脇のテーブルに、荷物袋と眼鏡、愛刀『起承転結』が置かれていた。

 眼鏡を取り、いつもの様にマズルに乗せる。大きく湾曲したつるを耳にかけ、位置の調整。これでようやく視界が鮮明になった。

 ぐるりと周囲を見渡す。

 目に入ってきたものの異様さが、目覚めたばかりの霧黒に容赦ない動揺を与えてきた。

 脚のひね曲がった机に乱雑に積まれた書籍。サビの浮いた金属製棚からはみ出す雑貨類。天井と言わず壁と言わず、所々に吊るされた発光妖精ランタン。やたら大きな梁から下げられた薬草類のポプリと高強度呪詛の刻まれた護符。用途のよくわからない歯車とパイプからなる機械の数々。霧黒が横たわっていたベッドは、それらに押しのけられるように、部屋の隅に設置されている。

 一言で言って『物置』だ。しかし、辺りに薫るお香と薬草の匂いはとても柔らかく、鼻腔に甘く優雅な刺激を与えてくる。埃っぽさも不潔な感じも一切しない。むしろ居心地がいいとさえ思える『物置』であった。

「ここは……」

 両目の間を指でほぐしながら呟く。

 すると、聞き慣れない声が耳に飛び込んできた。

「あ、目を覚ましたっすね」

 振り向くと、一人の女が部屋の奥から駆け寄ってきた。

 明るい赤毛のショートヘアー。人懐こい緑の瞳とそばかす。身長は低いわけではないが、垢抜けていない少女らしさのせいで、黒いスカートスーツがあまり似合っていない。

 額にある赤色の第三の目が目立つ。三眼族トライアドだ。呪力、魔素の行使に長けた種族である。

 霧黒には見覚えがあった。確か―――

「あんた……四人組の死体を運んできた鎮圧官の……」

「お、よくわかったすね、そうっす。西一(にしいち)鎮圧三課所属、ティナルカンダ・ディル・デルルロイ・エルギルガルドロス・ドナ・デシドーラス・ゴゴ・ナーダンセンバ・ティナルカンダス二級鎮圧官っす。ティナって呼んでください。長いんで。以後よろしくお願いしまっす」

 そう言って、にっこりと笑って右手を差し出してきた。

「あ? ああ、どうも」

 三眼族特有の長い名前に呆気に取られていたせいで、反応が遅れた。慌てて手を握り返す。

「うひょー、霊狼遺伝乙種って、やっぱ手がでっかいっすねー。見てください、あたしの手がすっぽり隠れてるっすよ。こういう手の人、好きっす。ルルカロア=ラ神の右頬に誓って!」

「はあ」

「そだ、傷はどうすか? 痛むとこないっすか?」

「いや、特には……」

 言われて違和感に首を傾げ―――はたと思い出す。

 突然現れた触手。弾き飛ばされ、この身に受けた強烈な衝撃。犠牲者の凄惨なる末路。

 そして、狐耳の少女の圧倒的なる舞の一幕。芳しき抱擁。

「そうだ……俺は、あそこで」

「えらいことに巻き込まれたっすねえ、八房さん。西一始まって以来の襲撃に運悪く居合わせちゃうとか。心中お察しするっす」

 それほどの規模と被害だったか。霧黒は命拾いしたことに胸をなでおろした。

「まあ、運が無いのは今に始まったことじゃないんでね……ところで、ここは?」

「ここは九那瑞くなみずさんの家っす」

「九那瑞?」

「あ、咲さんって言ったほうがわかるっすかね。九那瑞咲くなみず さき。それとも伽藍の狐って言ったほうがいいすか?」

「あいつ、そんな名字だったのか……いや、待て、あいつの家だって?」

 霧黒が目を白黒させた。なぜ自分は気を失ったあとにここに運び込まれたのか。納得の行く理由が見つけ出せない。

「そっす。あの触手ヤローは九那瑞さんがババーっとやっつけちゃったっすけど、被害そのものは甚大で……たくさんの怪我人の対処で、それはもうてんやわんやだったっす。んで、トリアージタグのカテゴリー2だった八房さんは対処が後回しになってたところ、九那瑞さんが『僕が治療する』って言って、あの嘘みたいにでかいおっぱいバルンバルン揺らしながら八房さん背負って家に運んできた……って次第っす」

 ―――バルンバルンのくだり、いるか?

 ティナの公僕らしからぬ緩い言葉遣いと身振り手振りに理解が遅れるも、霧黒はどうにか首肯を返すことができた。

「ここにいる理由は合点がいったが……じゃあ、なんであんたはここにいるんだ?」

 と聞くと、ティナは苦笑いを浮かべ、バツが悪そうに頬を掻いた。

「たはは……あたしら、あの触手の召喚媒体の一番近くにいたにも関わらず、対処できなかったでしょ? それでジェゼベル課長にこっぴどく怒られて……」

 霧黒が顎を撫でた。

 なんとなくわかっきた。ティナは現場から追い出され、場末(ばすえ)の仕事とばかりに、巻き込まれた民間人の状況確認を仰せつかってきたというわけだ。

 ジェゼベルの直属となれば、すでに彼女も霧黒が罪業偏食者エーゼルであることは知っているだろう。相手がただの民間人でないことも含めての付き添い―――という名目の監視だ。

 だとすれば、罪業偏食者を相手にここまであっけらかんと接することができるということになる。なかなかどうして、肝が座っていると言えよう。あのジェゼベルの部下ならば、むべなるかな。

「まあ、襲撃の目的はよくわかんないっすけど、成形呪殺榴弾や異次元色彩ガスによるテロは過去にもあったっす。西一っつーか、治安維持部門マレブランケに恨み持ってる……持ってなくても襲ってくる奴はいるし、襲われる事自体は珍しくないっす。ルルカロア=ラ神の額に誓って」

「ふむ……」

「問題は、今回の襲撃を誰がやったかっつーことっす」

「……そっちがメインか」

「察しが良いっすね」

「どんな失態をかまそうが、鎮圧官がただの看病で動きはしないだろう。目的は犯人の目撃情報ってとこか?」

「大正解。やっこさん、用意周到なことに文字通り鎮圧官の『皮』を被ってたみたいで。複数のセキュリティを抜けて見事にロビー中央に媒体置いて逃げたっす。で、その様子を一番目に収めてた有力候補が―――」

「俺なわけだ」

「いえーっす。監視カメラの映像を見る限り、ほぼ真正面から犯人見ていたはずっす。どんな情報でもいいんで、教えてください」

「とは言われてもな……」

 容貌や逃げた方向を話してみるも、それはティナも把握済みの情報でしかなかった。他に新情報となるようなものも思い出せない。

 ティナが腕を組んで唸った。期待はずれだったこと―――その先に待つ上司のお小言―――が残念なのだろう。

 すまんなと前置きして霧黒が話す。

「あんたが係となにか言い合いしていた隙に、犯人は台車を自然な感じで置いていっちまったからな。どうにも印象が薄い」

「それを言われるとめっちゃへこむっす……」

 大げさに肩を落とすティナ。あの時、ティナ達が引き継ぎに手間取らなかったら、犯人は媒体をロビーのど真ん中に放置して逃げることはできなかった可能性が高い。ティナになんらかの処分が下るのは明白であった。

 霧黒が顎に手を当てて唸る。ティナの説明を聞いて、一点どうしても引っかかることがあるのだ。

「なあ。一つ気になるんだが」

「なんすか?」

「あれは、単独犯だったのか?」

 ティナが目を瞬かせる。

「と、言うと?」

「目的も不明、しかし規模は過去でも例がない。一種の警告ないし報復にも思えるが……治安維持部門の一支部に対し、そこまで労力を割いてまでやることなのか?」

「うーん……八房さんの言いたいことが見えてこないっす。つまりどういうことっすか?」

「撹乱じゃなかったのかと、そう言ってるのさ」

 はっとティナが顔を上げた。彼女の表情がみるみる険しくなっていく。

「西一だけが持っている情報ないし物品。それを狙うための陽動だったなら、あそこまで派手にやる意味もあるかなと思ってな。普段から意味のあるなしに関わらず襲撃があるなら、その一つだったと思わせることもできる。関係者ほど、そういう見方にとらわれるんじゃないか?」

「ごもっともっす……」

「とはいえ、素人の俺が気づくことだ。プロの組織ならそのことも考慮してるとは思うけどな。特にあのジェゼベルって鎮圧官がそこを見落とすとは思えない」

「わかんないっすよ。鬼上おにじょうし……今のオフレコで。えっと、ジェゼベル鎮圧官だって完璧じゃないっす。ものすげー強いっすけど。ルルカロア=ラ神の触手に誓って」

 確かにと、霧黒は頷いた。あれで人当たりがよければ、ベッドに潜り込みたいぐらいのいい女なのに残念だと、場違いな感想が頭に浮かぶ。

「そうそう。課長で思い出した。課長からなんか色々調べさせろ手続きさせろって言われたと思うっすけど、ゴタゴタしててあっちで出来ないままここにきちゃったでしょ? なんで、寝てる間に色々調べさせてもらったっす。ぬふふ」

「……おい、その含み笑いはなんだ」

「いやあ、凄い固さとデカさでした」

「ヤソマガツヒの治安維持部門はセクハラに寛容なのか?」

「え、二の腕のことっすよ?」

「……」

「ごめんす、ちょっと調子に乗ったっす。睨まないで。あとはこの書類に必要事項書いてもらえます? そんで終わりっす」

 色々と納得できないものの、ティナが差し出した書類に手早く記入し、憮然と突き返した。

「……ん、抜けなし。おっけーっす。ご協力ありがとうございました。九那瑞さんの術で容態もだいぶいいようだし、自分はここで失礼するっす」

 きびきびとした動きで敬礼し、ティナは最後に「何か思い出したことがあったらここへ」と連絡先の書かれた名刺を手渡した。

 ひらひらと手を振りながら、足の踏み場もない床を器用に歩き、あっという間に姿を消す。

 玄関のドアを開け閉めした余韻が霧黒の耳を撫でていった。

 嵐のような娘であった。が、不思議と不快感を残さない。ジェゼベルとは真逆だ。鎮圧官も色々なタイプがいるわけだ。

 ベッドに身を横たえ、手渡された名刺を見つめる。

「……思い出したら、ね」

 話したこと以上の内容も思い出せない。この名刺を使う機会があるかわからないなと、霧黒は鼻先に持っていって匂いを嗅いだ。なんでも匂いを嗅いでしまうのは、霊狼遺伝の癖のようなものだ。

「ティナさん、いい匂いする?」

 余りに唐突な質問が飛んできて、霧黒は再びバネじかけとなって半身を起こした。

「あ、え、いつの間に!?」

 本棚の陰から咲が見ている。隠れていたのか、それとも気づかないうちに帰ってきたのか。しかし、ドアの開閉音はティナの退出時以外に聞こえなかった。

「ごめん、驚かせるつもりはなかった……ちょうどティナさんと入れ替わりで戻ってきたの」

 それで開閉音が一回しか聞こえなかったのか。

「ティナさん、僕と顔を合わせたら、君がまだ寝てるから起こさないように静かにって小声で……」

 どうやらティナは去り際に悪戯心を発揮したらしい。やはりジェゼベルの部下だ。油断ならない。

 霧黒がベッドの上に名刺を投げ捨てた。

「その、体は……どう?」

 おずおずと咲が尋ねる。

 霧黒は天井を見上げて顔をしかめた。咲に返すべき言葉が、喉元から先に進んでくれないのだ。

 弱々しく物陰から問う咲の姿が、最後に覚えている圧倒的な破壊者たる勇姿と結びつかない。

 自分の背後を取ったときの威圧感と、『盗み読み』したジェゼベルとの会話で見せた咲の心の弱さ。それらも考慮すると、どうも咲という少女は極めて不安定で危うい存在のようだ。

 有する能力に対し、行使する精神が脆弱すぎる。風が吹いただけで破裂する爆弾のような危うさだ。リスクを考慮するなら、関わり合いになってはいけない相手だと霧黒は思った。

 それでも、これだけは言わねばならない。

「ああっと……うん。ありがとう。だいぶいい」

「良かった」

 ようやく咲が物陰から姿を現す。フレキシブルアームに変えたマフラーで大きな紙袋を抱えている。中身から漂う匂いからして食料のようだ。成人男性でも完食に数日はかかるほどの。

 霧黒の視線に気づき、咲は一度紙袋を抱え直し、眉尻を下げて笑った。

「あ、これね……お腹、空いてるかなと思って」

「どういう風の吹き回しだ?」

 ぴしゃりと霧黒が言い放った。

「尋問が終わった直後、俺はお前を突っぱねただろ。その……泣かせるぐらい乱暴に。それに俺の正体はジェゼベルから教わって知っているんだろう? それでも関わるのは、馬鹿か物好きのすることだぞ」

「それは……」

「なにか理由があるな」

 コクリと咲が頷いた。

「君の正体は……実は、初めて会ったときからなんとなく分かってたんだ」

 だろうな、と霧黒は思った。『盗み読み』した会話から、咲が自分を罪業偏食者と認識しながらもそれを隠し、一般の犯罪者として連行したことは容易に推測できていた。

 だが、その理由が霧黒にはわからなかった。

「正当防衛であること、本を使った殺害、そのあとの皮を剥ぐ行為。罪業偏食者の可能性は一番に考慮した。でも、あえて追求せず、一般の殺人として連行した……西一で鎮圧官の協力の下、調べてもらうために」

「そこまでして、一体なにを」

「僕は、ある罪業偏食者を探している」

 霧黒が思い出す。咲とジェゼベルの会話に出てきた『孕ませ屋』という、下卑た名前を。

「でも、一向に手がかりがつかめない。そいつに関わるものを掴む一歩手前で逃げられたり、手がかりを得る機会を失っている……唯一残ったのは、現場に落ちていた『灰色の獣人の毛』だけ」

「合点がいった。それで俺を……」

「うん……でも、ジェゼベルたちの調査で、君が白だと分かった。結局、僕は焦って無関係の君を連行してしまった。しかも君をあんな騒動にまで巻き込んで、怪我を負わせて……本当に、ごめんなさい」

 咲が深々と頭を下げる。

 触手襲撃後の一連の施しは、彼女なりの罪滅ぼしだったのだ。

 霧黒がちらりとベッドを見下ろした。柔らかいはずのシーツが針のむしろのようだ。居心地が悪い事、この上ない。

 見えない針の正体は罪悪感。

 被害者はこちらだ。だが胸中に渦巻いている感情が、どうにも被害者然と振る舞うことを良しとしてくれない。どれだけ皮肉屋を気取っても、やはり心の最後の部分は変えることができなかった。そこを否定しては、育ての親に顔向けできなくなる。

 やにわに頭をかきむしる。背中の古傷がぴりっと痛んだ。

「頭を上げてくれ。こっちも謝らなきゃならんことがある」

 きょとんとする咲に、自分が本を通してジェゼベルと咲の会話を盗み聞き―――ならぬ盗み読みしたことを告げる。

 咲の目が大きく見開かれた。怒りや侮蔑の色はない。純粋に驚いている。

「僕どころかジェゼベルさえ出し抜くなんて……信じられない。彼女の蟲が感知しない能力があるのか……」

「俺の罪業偏食属性『屍織(しおり)』は」

 と言って、腰に括り付けた本を革紐から解き放ち、右手で掲げ持った。

「本を媒介に様々なものを()()()()。二点間の周辺情報、任意の物体、呪力、魔素……使い方次第で盗み聞き、不意打ち、罠と、色々できる。ただし、いくつか条件があるからなんでもかんでもという訳にはいかない」

 説明しながら、霧黒は自分自身の能力を合ったばかりの少女に開示している事実に驚いていた。

 罪業偏食者の能力は千差万別にして他の術式などとは一線を画す。それは鳴呪顕術式ハルモニギアセスと比べてさえである。故に対処困難であり、初見の相手には極めて高い効果を示すのだ。罪業偏食者が恐れられる理由の一つである。

 だからこそ、手の内をバラすことは愚策の極みなのだが。

 ―――くそ、なんで俺はペラペラと自分のことを喋っちまってるんだ。こんな胸ばかりでかいガキに。鎮圧官の尋問でもないんだから無視して出て行っちまえばいいだろう。

 己の愚行を嘆くものの、脚は一向に立ち上がろうとしない。

 素直じゃない子―――霧黒が叔母にさんざん言われた評価だった。

「まあ、そういうわけだ。俺はお前と鎮圧官の会話を盗み聞きした。怒られても……どころか、あのおっかねえ眼鏡女に知られれば弁解の余地なく牢獄行きだろう」

「たぶん……ね。ううん、間違いない。ジェゼベルだし」

「やっぱりそう思うか。あの触手の襲撃、あいつをピンポイントで狙ったものだったんじゃねえのか? 恨んでるやつは多そうだぞ」

「ないとは言いきれないけど……いい人だよ、彼女は」

「いい人は俺を躾のなってない犬呼ばわりしねえよ」

「それは君がいきなり臭いを嗅いだから」

「香水がきつかったんだよ。体臭が強いのか、あいつ」

「とても失礼なこと言ってるよ?」

「この場にいないから言えるんだよ。散々やりこめられたんだから、少しは鬱憤をはらさせてくれ」

「僕、陰口は良くないと思うなあ」

 もっともなことを言われて霧黒が閉口した。

 その口角が次第に上がる。

 咲のおどおどとした態度がようやく引いたからと、咲自身は気づいただろうか。

「ともかく、相手に迷惑かけたり失礼なことしたってのは、これでお互い様だ。だから、おあいこでチャラ。プラマイゼロ。貸しも借りもなし。いいな?」

「わかった」

 満面の笑みで咲が応える。

 その笑みが銀の弾丸となって、狼男の心臓に命中した。

 下腹がムズムズしてくる。

「まずい、可愛いじゃねえか……」

「え?」

 慌てて霧黒が己のマズルを両手で握り、口を塞いだ。握った指に力を入れすぎて、痛みで唸ったぐらいだ。

「んんんんんん、んんんんん」

「言葉になってないんだけど」

 指を一本一本マズルから離す。気まずい。先程の台詞を聞かれただろうか。

「んん……あ、いや、分かってる。分かってるぞ。ちょっとした小粋なジョークってやつだ」

「ジョークのセンスないね」

「お前、貸し借り無しになった途端にずいぶん辛辣だな」

 あははと笑って咲が奥の部屋へと足を向けた。

「いま、御飯作るね」

「あ、おう……いや、待て。そこまで気を使わなくていい。もう行くよ」

「無理にとは言わないけど……せめて、食べていってほしい。それぐらいはお返しさせて」

 まずいなと霧黒は思った。

 知らない土地、ましてここはヤソマガツヒという動く暗黒。その中で寄る辺になるものを得ることは幸運と言える。

 そして、同時にそれは弱点、泣き所にもなり得るのだ。

 だから、一人で訪れた―――叔母の同行を断ってでも。

 困惑と逡巡で耳と尻尾が揺れる。獣人は表情以外に感情を表現する部位が多い。

「だめ?」

 咲の悲しげな声。

 霧黒の心を屈服させるには十分な破壊力を持っていた。

「ああ、分かった。分かったよ。食べる。それから出ていくよ」

「良かった。すぐ作る。待ってて」

「あの、なにか手伝えることあるか」

「ありがとう。でも怪我人なんだから、おとなしく寝てて」

「おう……」

 霧黒の尻尾が丸まる。叔母に諭されている気分だ。

「咲。一つ注文があるんだが」

「なに?」

 隣の部屋から顔だけひょこりと覗かせる。普通ならば後方に転倒するほどののけぞり方だが、バランス感覚と体幹の強さが尋常ではないらしい。

「器用だな、お前……ええと、もしできるなら料理はサンドイッチか、それに挟む具のような形にしてもらえないか」

「ん、分かった」

 なぜと聞いてこないのは助かる。咲は罪業偏食者がどういうものか、よく知ってるようだ。

 咲が奥の部屋に消えると、霧黒は荷物袋を開けて中をまさぐった。

 透明な袋に包まれた熊ブタ男の皮を取り出す。

「……あんたが記念すべきヤソマガツヒでの第一号だ」

 下腹を撫でながら、霧黒は丸められた皮を眺めていた。


 ―― 2 ――


 咲に呼ばれキッチンに赴くと、そこには驚愕が待ち構えていた。

 円形のテーブルに並べられた多種多様の料理の数々。どれもが芳しく、どれもが繊細に主張している。立ち上る湯気すら一品になりそうだ。

「お待たせ。冷めないうちにどうぞ」

 咲に促され、放心状態のまま霧黒が席に着いた。

 驚きを隠せない。まさか一流レストランもかくやという料理を振る舞われるとは思ってもみなかった。

「これ……全部お前が作ったのか?」

「そうだよ?」

「凄いな」

「えへへ、ありがとう。でも褒めるのは食べてからでも遅くないよ。口に合うといいんだけど」

「わかった。じゃあ遠慮なく」

 霧黒は荷物袋から何かを取り出すと、それをテーブルに乗せた。

 長辺二十センチ、短辺十センチ程の膜の束だ。

 下処理の済んだ人の皮―――一見しただけでそうだと分かるものは少ないだろう。

「それは、あの時剥いだ……?」

 霧黒の対面に座りながら、咲が問う。

「ああ。大丈夫か?」

 気分を害していないか。そういう意味の問いであった。

 咲は首を横に振って微笑んだ。

「罪業偏食者の食事がどういうものか、僕は知ってる。気にしないで」

「すまんな。では、いただきます」

 食事が始まる。

 霧黒は手近にあったサラダボウルから新鮮な野菜を取り、それを剥いだ皮に挟むと―――狼らしく大口を開けてかじりついた。

 二口。三口。瞬く間に腹に収めていく。

 次はマヨネーズとマスタードソースで味付けされた鶏モモ肉のステーキ。同じように皮に挟み、がぶりと豪快に。

 肉汁とマヨネーズの濃厚なアンサンブル。マスタードソースが実に巧みにそれを引き立てている。焼き加減も絶妙。肉厚の食感を損なわないギリギリで焼いてある。

 美味いと思わず呟いてしまった。

 口の中のものを嚥下する前に、次の料理に手が伸びていた。ミートボールと茄子のトマトソースパスタは、霧黒が好きな料理だ。それも皮に挟み、今度は一口で。トマトの酸味と甘味のバランスがちょうどいい。香辛料は抑え目、他の料理の邪魔をしない工夫がなされている。

 次から次へと料理を皮に挟み、頬張っていく。その様子を見ている咲はフォークとナイフを義手で掴んだまま、呆然としていた。

 チキンステーキを全て平らげた頃、ようやく霧黒が咲の様子に気づいた。

「ん? ああ、すまん、食うのに夢中になりすぎた。なにせ、この都市に着いて初めての食事な上に、その……美味すぎて、な」

「そう言ってもらえるの、凄く嬉しいよ」

「こいつと一緒じゃなければ、もっと美味いんだろうがな」

 と、霧黒は皮を一枚つまんでみせた。下処理され、毛や余分な血と脂肪が取り除かれているとは言え、獣人の皮、まして巨体の熊ブタ男の皮では、味も匂いも食感も最低だ。

 だが、それでもこれがなければ霧黒は食事をすることが出来ない。

「君の罪業偏食は……人の皮?」

「ああ。食う物に制限はないが、人の皮と同時に食わないと全部もどしちまう。っと、汚い話で悪いな」

「気にしないで。大変な罪業偏食だね」

「ああ。だが俺の条件は、まだマシな方さ……」

 ある罪業偏食者は己の血を混ぜた物しか口に出来ず、またある罪業偏食者は殺人を犯した直後にしか食事をとれない。四文字以上の名のついた食料を口に出来ない者、特定の人物の作った料理しか食べられない者、他にも無数のパターンの罪業偏食者がいる。

 生きるために必要な食事。それに奇妙な条件、制限を背負い、代わりに二つと無い異能を授かりし者達―――それが罪業偏食者である。

 罪業の名が示すとおり、彼らの異常な偏食は罪より生じたものとされている。事実、凶悪な犯罪者や異常性癖を持つ者ほど、罪業偏食者になる確率は高い。

 だが、それでも罪業偏食者になることは稀である。死刑囚クラスの重罪人三千人に一人。割合としてはそれほどの少数派だ。

 中には大した罪を犯していないはずのものが罪業偏食を負うケースもある。だが、一般人には罪の大小の区別なく『神により生きる術に枷を掛けられた大罪人』として罪業偏食者は見られている。

 あとはお決まりの迫害と差別、畏怖と偏見による廃除の末路だ。ヤソマガツヒのように、罪業偏食者が鎮圧官に無差別に鎮圧されない所は、極めて稀なのだ。

 霧黒の目が空になった皿を見る。残ったソースの描く模様が、かつて目にした血の海の光景と重なる。

 誰の血だったか。自分か。殺した相手か。それとも。

「僕も知り合いに何人か罪業偏食者がいるんだ。でも、みんないい人だよ」

 咲の声に意識を引き戻され、霧黒は顔を上げた。大きなフレキシブルアームで小さなフォークとナイフを操り、巧みに食事を摂る咲の姿が目に入る。特に食事に条件や制限があるようには見えなかった。

「そんなに罪業偏食者の知り合いがいるのか」

「うん。僕もよくお世話になってるんだ」

 付き合う相手は選んだ方がいいのではと言いかけ、自虐にしかならないと気付いて口をつぐむ。

 その後も他愛もない会話をしながら、二人は食事を進めていった。出された料理を全て平らげた頃には、大食漢である霧黒も満腹のあまり腹をさするほどだった。

「ご馳走様。美味かったよ」

「喜んでもらえてよかった」

 二人で食器を片付け終えると、咲は食後のお茶と霧黒の前にティーカップを置いた。甘い香りのする黄色味がかったお茶だ。

 幸い、液体は彼の罪業偏食の範囲外となる。霧黒は匂いを堪能してから、少量を口に含んだ。

「これは……三千世界か?」

 三千世界とは茶葉のブランド銘である。香りの良さと上品な飲み口に定評のある高価なブランドだ。

「よくわかったね。三千世界のミドルランクに、いくつかの薬草を混ぜてさらに熟成したんだ」

「いい腕前だ。香りが喧嘩していない」

「霊狼遺伝の君にそう言ってもらえるなら、僕も少しは自信を持っていいのかな」

 照れくさそうに身をよじる咲の姿は、年相応の純新無垢な少女のそれであった。

 互いの心中を話し合い、同じ食卓に座る。打ち解けるには、この上ない方法だろう。出会いこそ最悪であったが、霧黒は咲に対する印象が徐々に変わっていることを実感していた。

 では、自分の方は、いまは咲にどう思われているのか。

 ティーカップの中に映る霊狼遺伝の男は、人間不信の擦れた目付きをしている。血と怨念を浴びて傷んだ毛皮の奥に、どうしようもなく孤独な魂を押し込んだ者の目付きだ。

 誰かと繋がりかける度に、この目付きが負い目となる。眩く生きる者とは違うのだ。自分は薄汚い手負いの狼なのだと思い知らされる。

 だから、どこにも長居はできない。惨めになるだけだから。

「……さて、そろそろ行くよ」

 飲み干したティーカップを静かにテーブルに置いて席を立つ。

 咲はやや困惑したように眉根を寄せた。

「もう行くの? まだ居てくれてもいいんだよ?」

「有難いが、俺もやらなきゃならないことがあるしな」

「そっか……わかった」

「旅費でも尽きたら、また飯をたかりに―――」

 と、霧黒が動きを止めた。

 咲が怪訝そうに首を傾げている。

「しまった……そうだった」

「どうしたの?」

 問いかけられたものの、どう話したらいいか分からない。

 今の今まで失念していたが、そうなのだ。ある意味、ここに至るまでの原因となった出来事、財布を紛失ないし盗難されたことを今になって思い出したのだ。

 旅費もなしに知らぬ土地で人探しは無理がある。ましてここはヤソマガツヒだ。路頭に迷った瞬間にあの世に迷いかねない。

 咲と目を合わせる。彼女は真っ直ぐ、淀みのない視線を送ってきていた。

 ―――この子に金を……いやいやいや、ダメだ。プライドが許さない。しかし、金なしでどうする。故郷に戻る路銀すらない。

 背に腹は変えられない。

 霧黒は意を決し、咲にわけを話した。

「非常時の資金とか、服の裏側に縫い付けてたりしないの?」

 痛いところを突かれた。旅人としてやっておくべき準備を怠ったゆえに、今の苦悩がある。

「してねえんだ、これが……認識が甘かったわ……」

「そっか。じゃあ、僕がいくらか貸そうか?」

「そこまで迷惑かけるわけにはいかねえよ。それより、何かすぐ金になりそうな仕事とか知らないか?」

 咲が俯いて唸り始めた。

 そう簡単に仕事などないかと霧黒が諦めかけた瞬間、咲がぱっと顔を明るくして「そうだ」と声を上げた。

「おじ様に頼んでみたらどうかな」

「おじ様?」

「うん。僕かよくお世話になってる人で、失舌博士(ドクトル・サイレント)って呼ばれてるんだ。色々と()()も持ってるから、君の頼みも聞いてくれるかも」

「ドクトル・サイレント? また奇妙な名前だな」

「それは二つ名だからね。本名……じゃないらしいけど、名前はバルバスバウって言うの」

 刹那、霧黒が咲に詰め寄った。

 仰け反る咲。狐の尻尾が大きく膨らんでいる。

「ど、どうしたの?」

「そいつだ」

「え?」

「叔母さんの古い知り合い。俺がこの都市で最初に会おうとしていた人物」

 あまりの奇遇に、二人揃って言葉を失う。

 何か運命的なものを感じずにはいられない―――霧黒は、ヤソマガツヒという都市そのものに自分の運命が組み込まれているような、気味の悪い感覚を覚えずにはいられなかった。

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