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屍織の狼、番人の要塞にて伽藍の狐の舞を見る


 ―― 1 ――


 悪徳を血肉とせし巨大移動都市ヤソマガツヒ。

 その住人に、この都市で最も無意味なものを一つ上げてみよと問いかけたら?

 大抵の者はこう答える―――治安維持部門と。

 では、この都市で最も恐ろしいものを一つ上げてみよと問いかけた場合は、どうなるか。

 答えは同じ―――治安維持部門。

 それが、この都市の住人と治安維持部門『マレブランケ』の関係を如実に表していた。



 発着場から異形通りをまっすぐ進むと、およそ一キロほどで最初の大型交差点にたどり着く。その辺りになると、上階となる工業層の底面が天蓋のごとく覆いかぶさり始めるため、陰鬱な雰囲気も倍増となる。太陽の代わりとなる巨大な照明も天井に備わっているのだが、今日は定期メンテナンスのため、中層域の都市部は昨夜から長い夜に沈んだままだった。

 交差点は中層域を東西に貫く異形通りと、中層都市部をぐるりと囲む大外の環状通り『カイーナ』が交わってできている。そこから都市の各方面へと、人の波や運送用獣魔、付喪神式トレーラーなどが各々の目的地を目指して分かれていくことになる。

 ヤソマガツヒ治安維持部門中層域西方第一支部―――通称西一にしいちは、その交差点を睨むように、交差点直前の異形通り右手側に存在していた。

 泡立つ混沌じみた大多数の建造物と異なり、西一は均整の取れた立方体をしている。両側面に奇妙かつ巨大な機械が取り付けられている点に目をつむれば、むしろ地味とも言えるだろう。

 七階建ての壁面は、内外ともに頑強な高耐久アダマンタイト皮膜に覆われた強化鉄筋コンクリート製。その表面を走る複雑な模様は前衛芸術の類いではなく、強力な呪詛及び魔素封じの対抗紋様である。これほどの防御手段が必要ということは、つまり、()()()()()()()()()()()()()、ということだ。

 ゆえに、西一の正面入口となる扉は特別製だ。大型の機械や魔物も通れるように、巨大な魔素ガラスとミスリル合金の枠で作られた両開きの扉は、大口径の機関砲をもってしても破ることは叶わない。

 その扉が盛大に開かれる。

 挽肉製造機ミートグラインダーを小型化したような者たちが、物々しい足音を響かせながら西一へと帰還した。

 肉体のみならず、歩く音すら金属製と畏怖される、治安維持部門が誇る暴力の権化―――特殊鎮圧機動部隊『ドラグナッツィオ』である。

 彼らは触手まみれの肉塊を台車に乗せ、西一の広大なロビーへと運び入れた。瀕死の触手に乱雑に巻き付けられた黄色いテープには、発着場:禁輸生物と書かれている。

 ロビー併設の職務室から、複数の隊員が驚くほどの速さで飛び出し、一列に並んで同時に敬礼。彼らが台車を受け取ると、ドラグナッツィオ達はそのまま入り口から外へと再出撃。その背が見えなくなるまで敬礼が送り続けられた。

 彼らと入れ替わるように、今度は正面玄関から十人ほどの一団が押し寄せた。人種も性別も年齢もまばら。関係性を見出すのに苦労する構成である。

 一団は肩を怒らせながら窓口に飛びつくと、思い思いに何かを主張し始めた。

 されど頭部の半分を複雑な機械で覆った窓口係は聞く耳持たず、ベルを鳴らして屈強な隊員たちを呼び、一人残らず速やかに外へ。しつこく食い下がった一人が、十字架型の警棒で殴り飛ばされ、人通りの中へと吹っ飛んでいく。

 その後も、次から次へと犯罪者や被害者、危険物や正体不明の物体が荒れ放題のロビーに現れては、追い返されるもの、奥へと連れて行かれるものと振り分けられていく。その隙間を縫うように、事務員、実働部隊員、鎮圧官と捜査官が忙しげに走り回っていた。

 広いロビーで休まず繰り広げられる、ヤソマガツヒの日常風景。その様子を、ロビーの片隅で二時間近くも見続けている者達がいた。

 薄汚れた合成皮の長椅子に腰掛ける、大小二人の獣人。

 大は八房霧黒(やつふさ むくろ)

 小は(さき)

 霧黒の首に巻かれたしめ縄は、いまだ緩まる気配も見せず、そこから伸びる紐の先は、咲の首に巻かれたフレキシブルアームに握られている。

 ある意味、お互い首で繋がっているとも言えよう。

 冗談じゃないと霧黒が漏らす。そろそろ我慢も限界が近づいていた。

「なあ」

 私は不機嫌ですと声に込めて咲に話しかける。

「なあに?」

 庇護欲を掻き立てる愛らしい返答。籠絡ろうらくされてたまるかと、霧黒は臍下丹田せいかたんでんに力を込めて続ける。

「いつまで俺は、犬ころみたいに首輪をされたまま、このやかましい空間でイライラし続けなきゃならないんだ?」

「……」

「おい、なんとか言ったらどうだ」

「……容疑が晴れるまで」

「容疑。はっ、容疑ねえ。そもそも俺は無実だ。暴れもしないし逃げもしない。こんな拘束はいらん」

 と言うが早いか。二人の眼の前で、拘束を解かれると同時に暴れだした四つ腕の巨人と、それを力任せに取り押さえる隊員たちの大立ち回りが繰り広げられた。

 咲がじっと霧黒を見つめる。

「待て。なんだその目は。あんな典型的な肉体派犯罪者とこの俺が、同じような人間に見えるのか?」

「僕には違いがよくわからない」

「片目しかなくて物がまともに見えないのか、このクソガキ」

「そういうとこだよ?」

「……わかった。誠に遺憾ではあるが、このクソしめ縄、ぐぇ。絞まるなクソ縄、ぐふぁっ……ず、ずまん、俺が悪がっだ、言い直ず……しょ、職務に忠実なしめ縄殿の拘束は受け入れよう。だが、いつになったら俺は弁解のために次のステップへ進むことができるんだ?」

 聞かれた咲は、床に視線を落としたまま、ぼそりと一言。

「もう少しかな」

 そして機械義肢の両足をパタパタと動かす。連動して大きな胸まで揺れるのはご愛嬌。

「あのな。ここに座ってお待ちくださいと、窓口の鉄兜女に愛想もなく言われたのが二時間前だ。それで一時間ぐらい前に俺が『まだか?』と聞いた時にも、お前はもう少しって言ったよな?」

「そうだっけ」

「ほおおおおお。とぼけるってか。いい性格してんなあ」

「ありがとう」

「いや、褒めてねえから。どんだけずれてるんだ、お前」

 霧黒の批難もどこ吹く風。表情の乏しい顔を上げ、咲がロビーを見渡した。

「見ての通り、この街の治安維持部門は毎日大忙しだからね。追い返されないだけでも、だいぶ優遇してくれてるんだよ」

「忙しそうにしてる割には、街の通り一つすら、一秒たりとて治安維持が出来てるようには見えなかったがな」

「そうでもないよ。彼らは良くやってる」

 霧黒が舌を打った。咲の言葉を微塵も信じる気が起きない。異形通りをたった百メートル歩いただけで、命に関わる出来事に遭遇したのだから、信じろという方が無理がある。

「彼らがいるから、かろうじてヤソマガツヒは都市のていをなしているんだ。もし彼らが一日でも業務を放棄すれば、瞬く間に都市のそこかしこが腐り始める。取り返しがつかないほどに。そしたら、腐った部分を切り捨てるしか、ヤソマガツヒを維持する手段はなくなる」

 語る咲の顔は真剣そのものだった。

 霧黒の喉が鳴る。飲み込もうとした唾は、首を絞める縄のせいで上手く胃まで落ちてくれない。

「ふん。そんなものかね……」

「そんなものさ。すべてひっくるめてヤソマガツヒという一個の生き物なんだ」

「この都市がひょっこりこの世に現れてから、我先にと寄生虫みたいに都市に張り付いた異形どもも含めてか? 都合のいい解釈だな」

 その寄生虫に自分も含まれているとわかった上で、霧黒は鼻で笑った。

 咲が口をとがらせ、睨んでくる。霧黒をできるだけ意識の外に追いやるような態度が崩れた瞬間だった。

「君は本当に皮肉屋だね。それに、やっぱり無礼者だ」

「無実だと訴えてるのに、いきなり首を絞められて。力任せに連行されて。荷物やら何やら全部取り上げられて。あげく無駄に時間を浪費させられたら、誰でもこんな態度になるってもんだ。なあ、継ぎ接ぎだらけの()()()お嬢様」

 最後の蔑称が効いたか、咲は大きな目を丸くさせると、ぷいと顔をそむけて黙り込んだ。

 霧黒が微かに息を飲んだ。咲の幼く、愛らしい拗ね方を見ていると、己の中の暗い感情がそそり立ってくるのが分かる。

 むくりと起きるは三つの感情。嗜虐心、復讐心、そして、ほんのわずかの()()

「何があって、腕も足も目玉も無くしたか知らねえが、その余りに余った胸の贅肉をこねくり回して、新しい腕と足でも作ったらどうだい? ええ? なんなら俺がそのでけえものをもぎ取って、手足の形にこねてやろうか?」

 童話に出てくる意地悪狼を気取り、わざと咲の胸を凝視しながら舌なめずり。我ながら様になったと自画自賛も心に添えて。

 ところが咲は不快感を示すでもなく、不思議そうに小首を傾げて、きょとんと霧黒を見つめ返している。

 二人の間に妙な沈黙が訪れた。

「……ええっと、その。もぎ取ってやろーかー……通じてる、よな?」

 たまらず霧黒が問う。

「僕のおっぱいしゃぶりたいってこと?」

「年頃の娘さんがおっぱいしゃぶるとか言うんじゃありませんっ!」

 反射的にたしなめてしまった。

「こんなところで交尾を求められるなんて、僕、思わなかった」

「は? ちょ、おまっ、どうしてそうなるかな!? 俺そんなに飢えてるぽい見た目してる!?」

「舌なめずりしたよね。僕を見ながら」

「いや、あれは、その、演技で……」

「どっちにしろ、僕、君みたいな毛深い人に触れると肌が痒くなるから、そういうのはお断りします」

「悪かったな、毛深くて」

「悪かったね、腕なしで」

 どうにもできない身体のことを揶揄するな―――と、見事に言い返されてしまった。牙を剥き、わなわなと大きな口を震わせるも、霧黒は返す言葉が思い浮かばない。

 と、そこへ。

「お二人共、ここは痴話喧嘩や売春の交渉をする場所ではないのだけれど」

 ぐだぐだの会話に鋭く切り込んできた声につられ、二人の獣人が揃って声の主に目を向けた。

 絵に描いたような若き才女がそこにいた。糊のきいた黒いスーツを着こなし、しなやかに伸びた手足は、ただ立つと言う行為にすら芸術性を与えている。全体的に隙のない整った身なりの中で、緩くウェーブのかかったダークブラウンのロングヘアーと、赤いフレームのスマートな眼鏡が特に印象的であった。

 霧黒は頭から爪先までゆっくりと彼女を観察した。

 角、牙、翼、鱗、触手、尻尾.......どれひとつとして見当たらない。どうやら彼女は『真人(ヘルト)』のようだ。異形だらけのこの都市では、むしろ異端と言えよう。

 彼ら真人は、これといって秀でた能力も持たないが、大抵の事はこなす器用さと様々な環境に対する順応性を持っている。何より特徴的なのは、世界全体における人口の多さだ。要は、そこそこの能力と極めて高い繁殖力をもって、()()()()()()()生息域を拡大する種族なのだ。

 霧黒は真人という種族が好きではなかった。個人の善し悪しは別にしても、種全体として『真』人などと名乗り、霧黒や咲のような他種をまとめて『亜』人と呼ぶ傲慢さに、彼が毛嫌う理由があった。

 加えて、だ。どうにも()()()()()

 犬鼻を数度引くつかせ、それから露骨なしかめ面を浮かべたのも、半ば無意識のことだった。

 匂いを嗅がれた才女も、切れ長の目に剣呑な光を宿し、遠慮なく顔をしかめる。

「これはまた……随分と躾のなってない犬を飼い始めたわね、咲」

「誰かさんの臭い消しが俺にはちょっとキツすぎてね。思わず鼻にシワがよっちまった。どうか許してくれ、自意識過剰さん」

 出会って数秒で舌戦開始だ。明らかに相性最悪の組み合わせであった。

「咲の申し出で、貴方が殺人容疑に対する弁解を行うと聞き、担当鎮圧官である私が呼ばれたわけだけど……どうも貴方は心象を悪くしてから弁解に挑むという、世にも珍しいチャレンジ精神をお持ちのようね」

 霧黒が肩をすくめた。内心はやってしまったと焦りに焦っている。この性格が今までいくつの面倒事を招いたか、彼自身も把握出来ていない。

「さあ、容疑者さん。他に言うことは? より高みを目指すために素敵な罵詈雑言を並べ立てたいなら、待たせたお詫びにいくらでも聞くわよ? 貴方が屍肉喰らいのクソにも劣る殺人者であっても、私は貴方のチャレンジ精神を尊重するわ」

 両手を広げ、鎮圧官が微笑んだ。気の弱いものが直視したら心臓麻痺を起こしそうな笑みだ。

 ―――これは、勝てそうにないな。

 霧黒の諸手が上がる。犬が腹を見せるに等しい行為だった。

「ない。ないよ。えー……」

 霧黒の視線が自身の胸元を這い回ってることに気づき、鎮圧官は「ジェゼベル。ジェゼベル・パンデモニア一級鎮圧官よ。私達は名札は付けないわ」と説明した。

「ああ、どうもジェゼベル一級鎮圧官……」

 バツが悪いと霧黒が頭を掻く。

 この都市に来てから一筋縄で行かない人物ばかりと出会う。ヤソマガツヒの住民は、みんなこんな感じなのだろうか。

「さて、躾もすんだようだし、尋問室に行きましょうか。頚部縛縄が掛けられてるから無理でしょうけど、くれぐれも妙な気は起こさないでね。ええと……八房さん」

 脇に抱えていたファイルに目を通して霧黒の名を呼ぶと、ジェゼベルは素早く身をひるがえした。足取りは早く、等間隔で刻まれている。まるでメトロノームだ。

 さっさと着いてこいと無言で語る背中に急かされて、霧黒と咲も腰を上げた。


 ―― 2 ――


 黒一色の部屋。

 壁、天井、床。そして、霧黒の目の前にいる鎮圧官達の服。全てが黒に染まっている。

 尋問室と呼ばれる部屋に案内された霧黒は、勧められた椅子に座り、飾り気のない灰色のテーブルを挟んで、ジェゼベルとその両脇に控える補佐官二名と対峙していた。

 咲は部屋の外で待機している。いても擁護などしてはくれないだろうが、霧黒は何となく心細さを感じて、思わず入り口のドアを見つめた。

 ―――いや、そもそもここにいるのは、あいつの自分勝手な正義感のせいだ。恨みこそすれ、なぜ心細いなどと。

 気を紛らわすために視線をテーブルに戻す。

 テーブルの上には四本の刀、二冊の本、荷物袋とその中身が並べられている。しかし、それら霧黒の所持品は、時折ノイズのようなものを表面に走らせており、どことなく現実味に乏しい雰囲気をまとっていた。

 取り押さえられる覚悟でゆっくり手を伸ばしてみたのだが、三人の鎮圧官は無反応。指先が荷物に届いた瞬間、幻のように通り抜けてしまった。

 手を引き戻し、眼前で開閉を繰り返す。

「私の術で位相をずらしてあるわ。触るのは不可能」

 そう言いながらジェゼベルは、クリップボードにとめられた書類のひとつひとつに目を通している。西一に到着直後、霧黒と咲から聞き出した供述をまとめたものだろう。

 全てに目を通し終えると、彼女は冷徹な黒い瞳で霧黒を射抜いた。

「さて。始めましょう。氏名は八房霧黒……霊狼遺伝乙種の男性。年齢二十四歳。出身はナラカ共和国の雷霆郷(らいていごう)……間違いないわね?」

「ああ、間違いない」

「咲の供述によると、貴方は数時間前、四人の男性を惨殺し、そのうちの一人の全身の皮を剥ぎ、それを袋に詰めて持ち帰ろうとした」

「だから、その供述は前提が間違って―――」

「弁解はまだよ。こちらの説明を一通り聞いてから」

 と、右手を上げて制する。

 霧黒は渋々と従い、口を閉ざした。

「現場は咲の鳴呪顕術式ハルモニギアセスにより保持されている。既に二時間ほど前から二級鎮圧官二名が現場で作業を開始しているわ。そこで何が起こったか、そろそろ残留空間記憶から読み取りが終わる頃ね」

「それで二時間待たされてたのか」

「そうよ。放置されてるとでも思ってたの?」

 霧黒が頷いた。まさか到着直後から対応に走ってくれているとは思わなかった。図星をつかれたのもあって、彼の表情は苦しげだった。

「済まなかった。誤解していた」

「この都市で一番無用の部門と、住民からは言われ慣れてるわ。今更気にしない。嫌疑がかけられてる相手に詳細を話せないとはいえ、説明無しに待たせたのはこちらだし」

 それにと、ジェゼベルが一段声のトーンを落として続ける。

「貴方の容疑が晴れるかは、まだ分からない。むしろこれで容疑が固まる可能性だってある。安易に頭をさげて、あとで謝らなければよかったなんて吠えないでね」

 トゲのある物言いに冷や水を浴びせられ、わずかながら緩んだ霧黒の警戒心は、再び強固な鎖となって彼の心を縛った。

「その針山みたいな言葉をやたら生む舌、どうにかしたほうがいいぜ。そうしたら住民からのウケも良くなるんじゃないか」

「生憎、客商売じゃないからウケなんてどうでもいいわ」

「へいへい……」

 二人のやり取りの終わりを見計らったように、ジェゼベルの右手首に巻き付けられた通信条虫が鳴きだした。

 ジェゼベルは条虫の末端体節をちぎり、その身をテーブルに置いて指先ですり潰しはじめた。すると粉々になった体節が小さな呪的紋様をテーブルに描き、その上に半透明の表示板らしき物体を生成する。

「現場からデーターが送られて来たわね。さあ、貴方のヤソマガツヒ最初の宿が牢獄になるかどうか、これでわかる」

 高速で流れていく報告文。常人の目にはとても追いきれない速度で流れる文章を、しかしジェゼベルは一文字も漏らさず読み進めていく。

 最初は無表情。それが次第に形を変えていく。

 困惑。驚愕。侮蔑。落胆。現れたそれぞれの感情は僅かなれど、霧黒の嗅覚がジェゼベルの体臭の変化から、おおよその感情の変遷を感知していた。

 やはりと、霧黒は額に手を当てた。初日でいきなりバレることになるとは。

 送られてきた情報を全て読み終わると、ジェゼベルはテーブルに肘をつき、組んだ指で口元を隠しながら霧黒を睨んだ。

「……貴方がヤソマガツヒに初めて訪れたという裏付けは取れたわ。それと正当防衛の結果、四人の男を殺したことも分かった。その上、相手はこの都市でも名の知れた犯罪者集団の一員。この都市では充分無実と認められる範囲の行為よ。むしろ私達の業務が減ったわね。ありがとう」

「そりゃよかった。金一封でも貰えるのかな」

「調子に乗ると、あなたの股間の大切なものを引きちぎるわよ……問題は殺害方法と、そのあとの行為ね」

「ここじゃ本をばら蒔いたり皮を剥いだりするのは、絞め殺されそうになるほどの重罪なのかい?」

「とぼけるのね。その性格じゃ、今まで随分と損してきたでしょ」

「身から出た錆の落とし方は知ってるよ。力任せにこすればいいのさ。ところで、俺は焦らされるのは好きじゃないんだがな。相手が滅多にお目にかかれないような美人なら、尚更なおさらね」

「ここにきてお世辞とか、気味が悪いからやめてくれない? そうね。なら、はっきり聞くわ。条件型? それとも限定型?」

「条件型だ」

「対象範囲」

「人とつく種族の皮なら、なんでも」

「摂取時要件」

「剥離から一週間以内。同時摂食。固形物のみ」

「それで剥いだのね」

「飢えて死ぬわけにはいかないんでね……それに、罪もない人間を手にかけるわけにはいかない。飢え死んでも、な」

「今まではどうやって?」

「一時期は賞金稼ぎで、賞金首を主に。その前後は……叔母の手を借りた……というか、叔母が自分を……な」

「再生病でも患ってるの? 貴方の叔母さんは」

「ちょっと名の通った呪顕師なんだ。特に再構築型の治療呪顕術を得意としてる……って言えば、あとは分かるよな」

「叔母さんは大したものね」

「俺もそう思う。あの人には一生、頭が上がらない」

 合点がいったとジェゼベルが呟いた。声には徒労感が溢れている。

「この都市に来た理由は?」

「人を探しに。そのために、ここに住む叔母の知人を訪ねるところだった」

「滞在中、どうやって皮を確保するつもりだったの」

「これだけデカい上に悪徳で知られるヤソマガツヒだ。売ってる店ぐらいあると思ってたし、実際そういう店も多いようだが」

「否定したいけど出来ないのがしゃくね」

「で、ジェゼベル鎮圧官。俺の処遇は?」

 十数秒の沈黙。破ったのはジェゼベル。

 何事かをメモに書き記し、補佐官の一人にそれを渡すと、補佐官は速やかに部屋から退出していった。

 それから再び黒い瞳が霧黒を睨む。彼女の表情から、敵意とまではいかないが、侮蔑に近い感情がありありと読み取れた。

「魂魄記録、並びに生体情報の採取。いくつかの書類への記入。証拠品として、一部の所有物の保管。それで終わり。あとは自由の身よ。ただし、治安維持部門に睨まれ続けながらの自由だけどね」

罪業偏食者(エーゼル)すら受け入れる都市ってのは、本当だったんだな」

 両手を大袈裟に広げ、霧黒が勝ち誇った。ジェゼベルの形のいい唇が歪むのが薄目に見える。

「そう。この都市には罪業偏食者が無数にいるわ。貴方が霞むほどの『ろくでなし』どもがね」

 ジェゼベルが両手を軽く合わせ、直ぐに離して三連呪を唱えた。

 位相をずらされ、接触不可能となっていた霧黒の荷物が、術を解かれて実体を取り戻す。

 補佐官が荷物袋から一冊の本を取り出し、ジェゼベルに差し出した。

 霧黒は特に咎めなかった。証拠品として預かるということなのだろう。文句を垂れるだけ時間の無駄だ。

 それに、その本は奪われたところで問題もない。むしろ―――

「はー、いやだいやだ。ここは怖い先輩どもだらけか。早く用事を済ませて出ていきたいところだよ」

 そう言って立ち上がり、テーブルの上の荷物を手繰りよせ、手早く身につける。

 四刀で一揃えとなる愛刀『起承転結』、使い込んだ荷物袋、そして何より大切な二冊の皮装丁の本。ようやく戻ってきた大切な所持品。身につけると安心感に満たされてくる。

「準備が出来たら退出してよろしい。ロビーで待っていて。それから先程言った手続きを行ってもらいます。それまではこの建物から出ないように。念の為、貴方に呪詛ターゲティング用の寄生虫を張り付かせてるわ。手続きが終わる前に逃げたら『ぐしゃり』よ」

 いつの間にそんな虫を張り付けられたのか。慌てて長着をはためかせて落とそうとするも、ジェゼベルが無駄よと、たしなめてきた。

「肉眼では見えない程の大きさで、毛穴に潜り込んでる。心配しないで。ここを出る頃には死滅して跡形もなく消えるわ」

「本当だろうな?」

 ジェゼベルが立ち上がり、つかつかとドアに歩み寄ってノブを引いた。出て行け、というジェスチャーだろう。

「卑劣なことはしない。『蠱爻ここうの魔女』の二つ名に誓って。さあ、もういいわよ。ご苦労さま、八房霧黒さん。探し人が早く見つかるといいわね」

 心にもない早口の御愛想おあいそ。霧黒は無言で手を振り、無礼をもって返す。

 ドアをくぐり抜けると同時に、首に巻かれたしめ縄が外れて床に落ちた。それが蛇の如く這い進んだ先に、申し訳なさそうに立つ狐娘が一人。

 先程ジェゼベルが補佐官に渡したメモを持っている。どうやら咲も既に状況を把握しているらしい。

 霧黒が目を細めた。急激に自分の中の根幹となるものが冷えていくのが分かる。

 彼は眼の前にいる狐娘の態度の変化が、心底気に入らなかった。

 ―――なんだ、その許してほしいと言わんばかりの怯え方は。自分の背後を取り、凄まじい殺気で俺の背骨の芯まで凍らせた者が、己の失態が確定した瞬間に、どこにでもいるような弱々しい雌に成り下がって媚を売る。ふざけるな。舐めるのも大概にしろよ。

 霧黒のプライドが許せなかった。眼の前で怯えている小娘が、自分を捕らえ、脅し、時間を浪費させたことが、どうしても許せなかった。

 一時であろうが自分をこともなく凌駕したのなら最後まで―――対等以上のものとして―――そう振る舞って欲しかった。

「あの……僕」

 咲が言いかける。

 霧黒はその先を待たなかった。

「正当防衛と罪業偏食の欲求処理。それを快楽殺人と勘違いした、独りよがりの誰かさんのおかげで、とても貴重な体験ができたよ。何時間、無駄にしたか分からないがな。もしかしたら、これで目的を果たせなくなるかも知れない」

「ち、ちが……本当は! いえ、その……ご、ごめんなさい……」

「謝罪はいらねえよ。言葉には失ったものを取り戻す力はない」

 びくりと咲が身を震わせた。

 あれほど皮肉を浴びせられても怯まなかった少女が、ただの一言で。

「じゃあな。これからは、くだらない正義感で人様の人生を引っ掻き回さないように生きていけよ」

 吐き捨て、咲の横を足早に通り過ぎる。

 過ぎ去る時に、霧黒の鼻腔に濡れた匂いが漂ってきた。

 よく知った匂いだった。

 自分のために痛みに耐える叔母が、目元から漂わせていた匂いと同じもの。

 霧黒はこの匂いが嫌いだった。

 自分のせいで流れる時は、特に。

 ―――それ出しゃあ、必ず許されると思うなよ、クソガキ。くそ、本当にクソだ。クソッタレだ、この街の奴らはどいつもこいつも。掃き溜めのゴミカスどもめ。ずぶどろの()()()()()どもめ。

 心の中で手ひどく罵倒する。それでも腹の虫は収まらなかった。

 距離を開けてから、霧黒は肩越しに咲をのぞき見た。彼女はジェゼベルに肩を抱かれ、どこかへ案内されている。

 霧黒の灰色の瞳は、ジェゼベルの脇に抱えられた一冊の本に注がれていた。


 ―― 3 ――


「らしくないじゃない。咲」

 人の気配のない古びた倉庫室で、ジェゼベルがタバコを吹かしながら呟いた。

 明かりすらない空間で、橙色の小さな灯火が形の良い唇を照らし出している。紫煙を肺に送るべく、ジェゼベルがすうと一服するたびに、明かりは歓喜に震えて輝きを増していた。

 咲は倉庫室の入り口の脇でしゃがみこんでいた。服がホコリまみれになることも厭わない。それどころではないのだ。

「焦ってた……あの人、見たことのない罪業偏食者エーゼルだったし、それに灰色の毛皮の獣人だったから……もしかしたら『やつ』の仲間なんじゃないかって、思って……強引に……」

「貴方、このあいだ捕まえ損なった『やつ』の末端竜骸の件を引きずってるわね」

「……」

「『孕ませ屋』の件はこちらでも追ってる。奴が罪業偏食者エーゼルだってこともほぼ確定している。あなたの親友がああなったのは同情するし、その子の両親から依頼があって引けないのも分かるけど、ここから先はこちらに任せなさい」

「でも……!」

「取り返しのつかないミスを犯す前に、引き下がってと言ってるの」

 ミスという言葉が咲の心を切り裂いた。

 先日の歓楽街で起きた事故を思い出す。何人が巻き込まれただろうか。それで得たものが何かあっただろうか。

 残ったのは―――後悔と自己嫌悪だけだ。

「……僕は」

()にも言われたんでしょ。向いてないって」

 こくりと咲がうなずいた。

 大粒の涙が落ちて、埃の積もった床に円を描く。

 ジェゼベルが紫煙混じりの溜め息を漏らした。

「ねえ。自分をよく見てみて。その身につけたものをよく見てみて。この世に二つと無い呪顕起動機、義髄臓幹筒ぎずいぞうかんとう鶯啼髄喰(おうていずいばみ)》。魔導工学の結晶と言われながら、扱えるものがほとんどいない連結駆動多節義手《鹿鳴肉薙(ろくめいししなぎ)》。そして、咲。あなた自身。分かるでしょう。貴方は類を見ない殺戮の―――」

 と、そこまで言ってジェゼベルは口を閉ざした。一文字に結んだ唇は、己が犯した失言に対する自戒の表れである。

「貴方が、誰かの役に立ちたい一心で頑張ってるのは分かってる。それはこの歪んだ都市では貴重で、とても眩く尊いものよ。でも……この都市の誰も、それを望んでないの。貴方の努力を笑い者にこそすれ、感謝するものはいない……それが現実よ」

「やっぱり……そう、なのかな」

「貴方がこの都市を離れられないことも分かってる。理由までは知らないけど、ここでしか生きられないって、貴方言っていたものね」

「うん……」

()に……失舌博士ドクトル・サイレントに相談してみなさい。今後の生き方について。彼ならなんとかしてくれるはずよ」

 そう言ってジェゼベルは、脇に抱えるクリップボードと、証拠品として預かった霧黒の本を手近な棚に置き、五本目のタバコに火を着けた。

 紫煙がゆらりと立ち上り、棚に置かれた本を撫で、たゆたいながら、薄れながら―――換気口へと姿を消した。



 ロビーの長椅子に一人座り、霧黒は耳に当てた本に意識を集中させていた。

 眉間にシワが刻まれ、苛立たしさに煽られた両足が、かかとで床を打ち鳴らしている。静かにしなさいと職員に注意され、慌てて足を押さえたほどだ。

「タバコくせえな、ったく……」

 周囲にタバコを吸っているものはいない。そもそもロビーは禁煙であった。

「お子様が背伸びすんじゃねえよ……身の程知らずだ、まったく」

 意味不明の独り言が、狼の長い口から漏れて落ちた。

 視線が泳ぐ。何かを迷い、決めかね、意味もなく指を動かしてはうなだれる。

「くそ。これじゃ、完全に俺が悪者じゃねえか……」

 吐き捨てながら本を下ろし、革紐でくくって腰の定位置に戻す。

 どうしたものか。膝の上に肘を乗せ、組んだ指先でマズルを包むと、世界から若干切り離されたような気持ちになってくる。

 謝るか? ―――どうして。そんな必要はない。俺は被害者。やつの浅慮の被害者だ―――本当に? あの子の純粋さを見たとき、掛け値なしで頭を下げたじゃないか。あの子の必死さに揺り動かされたじゃないか―――俺は覚えてないね―――おれは覚えてるぞ―――とにかくやなこった。プライドってものが有る―――そういうのはプライドとは言わない、ただの見栄だ―――やかましい。お前に何が分かる―――俺自身のことだ、分かるに決まってる。

 胸中で、自分自身と出口の見えない問答を繰り返す。次第に頭が痛くなってきた。

 全て投げ出してこの街を去れたら、どんなにいいか。だが、それだけは選べない。

 霧黒は、腰に下げた二冊の本を撫でた。

 その時、ふと視界に映るものがあった。

 大きめの台車に乗せられた四つの死骸。一つは全身の皮が剥がれてる。見覚えがあるどころの話ではない。

 台車は男女二人の鎮圧官が運んでいた。どうやら、ジェゼベルが現場に派遣した部下のようだ。

 彼らは一旦台車を止め、他の係に何かを伝え始めた。係とのやり取りは、やや険悪な雰囲気をまとっている。おそらく、罪業偏食属性に関わる案件だからだろうか。スムーズに進んでいないせいもあって、あとから来た別の隊員は、白いシーツのかけられた台車を置いたまま、どこかへ行ってしまった。

 ―――引き継ぎ作業でも揉めてんのか。お疲れ様だな。

 彼らの仕事を増やした手前、どうにも居心地が悪い。目線を足元に向けて我関せずと気配を極力消し去る。

 だが、その刹那だ。

 霧黒が横に飛んだ。

 彼が背にしていた壁に大穴が開く。

 しかし、開いた大穴は一つではない。あちらの壁、こちらの床、ロビーにいた幾人かの訪問者たち。隊員はさすがと言うべきか、全員が『それ』の襲撃をかわしている。

 床に這いつくばりながら、霧黒が顔を上げた。

 触手だ。それも甲殻に覆われ、節だらけの巨大な触手が、シーツのかけられた台車から飛び出し、壁と言わず床と言わず、そこら中を穿ち、穴だらけにしている。構造物に施された呪的防護が役をなしていない。

「な、こりゃなんだ!?」

 これとは無礼千万と、誰かと同じ理由で憤慨したのか。

 触手が突き刺さった先端を引き抜き、でたらめに暴れだした。

 隊員たちの応戦は迅速であった。シールドで触手の一撃を受け止め、対大型獣魔用のショットガンで鎮圧を試みる。鳴呪顕術式ハルモニギアセス戦術陰陽道タクティカル・インヤン・メソッド、八式格闘錬金法など、様々な呪法も飛び交い、あっという間にロビーは小規模の戦場と化してしまった。

「おいおい! どうなんってんだ!」

 まるで火薬庫をひっくり返した騒ぎだ。巻き込まれてはたまらない。慌てて霧黒が身を隠す場所を探す―――と、床を薙ぎ払う触手の軌道が見えた。

 まずいと言う間もなく、薙ぎ払われる。

 大柄かつ逞しい霊狼遺伝乙種の体が、手まりのように弾き飛ばされた。

 吹き飛ばされた先はマガジンラック。派手な衝突音と共に霧黒が床に転がる。

「がはっ……」

 視界がくらむ。ぼやけているのは愛用の眼鏡を落としたからか。背中が痛む。まともに触手を受けた左半身は、それ以上に。

 破鐘われがねじみた音が頭の中で響いて、意識を濁してくる。脳震盪を起こしたかも知れない。

 負ったダメージの回復に悪戦苦闘していると、目の前で悲鳴が上がった。

 女性隊員の一人が触手に捕らえられ―――極太の触手に、下から股めがけて貫かれたのだ。

 がくがくと痙攣する体の中を、触手はのたうち、ひね回り、蹂躙する。内臓も脂肪も骨格も、撫でられ壊されちぎられる。

 みちりみちりと濡れた音。肉と筋が引き裂かれる音だ。それが隊員の喉の奥から漏れ溢れ、最後は血の泡と一緒に触手の先端が口から飛び出した。

 朦朧とする意識の中で、しかし命が無残に散る様だけははっきりと見える。

 狭い室内で効果的な制圧が行えないのだろう。隊員たちは明らかに劣勢に陥っている。ドラグナッツィオのような主力部隊が到着すれば容易に事態は収まるだろうが、それまでに出る犠牲は計り知れない。

 霧黒が拳を握り固めた。

 聞こえる。触手が笑っている。やつは声など出していないが、霧黒の狼の耳には確かに聞こえたのだ。

 ああ、もっと貫かねば。女を。女を。女を―――と。

 霧黒の本能が弾けた。

 痛み。無視する。血反吐。吐いて捨てる。折れた腕。無理やり動かす。

 あの触手は、()()()と同じ台詞を口にしている。()()()()()()()()()()

 一切合切をかなぐり捨て、霧黒は本を周囲にばら撒こうと―――

「任せて」

 手負いの狼が己の枷を外し切る瞬間、凛と鈴の音が鳴った。

 それは鈴の音ではなく、小柄な少女の強き言葉であった。

 霧黒の前に、咲が立つ。

 首に巻いた白黒のマフラーが、あっという間に重厚な多節義手となり、背負った円筒の各部が、ふわりと花開いて青い燐光を奏で始める。

 霧黒は我が目を疑った。

 呪顕機動機らしき円筒から、三匹の黒い蛇が躍り出たではないか。

 それは理論上、鳴呪顕術式ハルモニギアセスにおいて一人の人間が扱える最大奏蛇数。わずかの卓越した術師のみが行える、超人たるを証明する奇跡の技。

 三蛇共鳴歌トリスメギストス―――有るも無しも全て平伏させる力。

 狂乱の触手も悟ったか。現れた少女の内包する力の大きさを。

 でたらめに動いていた触手十数本が、一斉に咲めがけて襲いかかる。

 迎え撃ったのは咲のマフラー、いやさ連結駆動多節義手《鹿鳴肉薙(ろくめいししなぎ)》。甲の一部分が展開し、赤光まといし大型ブレードを現出させると―――義手の半ばより先が消える。

 否、消えたように見える。

 霧黒の狼の目を持ってしても、残像が微かに見えただけ。それほどの速さで振られたブレードは、襲いかかってきた触手の全てを斬滅せしめた。

 先端を軒並み失った触手が後退し、やおら手近な死体を絡め取った。隊員や一般人、それに例の四人組の死骸もまとめて。

 そして、触手の脇が縦に開き、乱ぐい歯の生えた口となって死体を全て飲み込んだ。

 おぞましい食事は触手の肉体を変化させる。表面が泡立ち、無数の触手を新たに生やすと、それをこれ見よがしに振り回し始めた。

 ああ、なんという醜悪な光景か。見よ、新たに生まれた触手の先端を。枝に実る果実が如く生えし、食われし者たちの頭部を。

 意識があるのか、はたまた触手の擬態なのか。頭部はどれもこれも泣き叫び、命乞いと怨嗟を漏らしていた。

「悪夢かよ……」

 霧黒が呻く。喉の奥に酸味混じりの液体が昇ってきた。

「いま、解放する」

 咲の宣言には迷いも恐れもなかった。

 これほどの醜悪なる事態にあって、彼女に動揺の兆しはない。

 咲の右足が、たんと床を軽く踏む。

 合わせて空を舞う三匹の黒蛇。

「絶式四十四番『螺旋追放戯曲らせんついほうぎきょく』詠唱」

 それは霧黒にとって、叔母からも聞いたことのない術の名であった。

即興妄歌アドリブ義髄臓幹筒ぎずいぞうかんとう鶯啼髄喰おうていずいばみ三重結トリオ解演かいえん

 咲の周囲に生じる、青い粒子の乱舞。その量、異常の一言。呪顕術を知る者であれば、なおさらに。

転華疾てんげとく―――」

 青い光が舞い始める。

 幻想的な光景を目の当たりにし、触手がわなないた。

 愚かなることに、牙を向けた相手がいかなるものか、いまさら知ったのだ。

 猶予はない。終わりが待ち構えている。

 触手の選択は、なりふり構わずの猛攻撃。発狂じみた最終手段。

 しかし、届かなかった。

 咲の唇から、終演が告げられたのだ。

「騙りて散華さんげうたえ!」

 三匹の解導妄蛇げどうもうだが描きし六つの紋様が、超高圧縮妄想を詠い上げ―――弾けた。

 くうが割れ、因果が震える。

 静寂が訪れた。

 霧黒には何が起きているのか、すぐにはわからなかった。

 全ての触手を何かが貫き、射止めている。最初はぼんやりと、次第に存在を濃くし、それはついに姿を現した。

 触手の周囲の空間から無数の杭が飛び出し、貫いているのだ。

 だが目を凝らすと、それは杭でないことが分かった。

 巨大な金属の指なのだ。とてつもない大きさの鉄巨人が、触手を握りつぶそうとしている。そう思うしかない光景であった。

 触手は身じろぎ一つできなかった。

 人の手に捕らえられた鼠がごとく、やつに待ち受けているものは一つ。

「眠りを」

 咲が願う。

 巨人の指が触手をねじり―――無数の肉片へと変えてしまった。ただ、取り込まれた犠牲者の頭部だけは原型そのままに、床に転がる。

 触手本来の肉片はさらに潰され、砕かれ、巨人の指が開けた空間の穴へと螺旋を描きながら吸い込まれ、何一つ残さず消えてしまった。

 あっけない幕切れであった。そう思わせるほどに、咲の行使した力は強大かつ異常であった。

 異常たる証左は明確。歴戦の治安維持要員が、誰も彼も言葉を失っている。

「……終わったよ」

 咲の小さな声だけが、ロビーに響いた。

 ―――そうか。終わったのか。なら……褒めてやらないとな。こんな小さい体で……頑張ったんだから。

 朦朧としたまま霧黒が一歩踏み出す。しかし、緊張の糸はマリオネットの糸と同義であった。切れた拍子に霧黒の全身から力が抜ける。

 前のめりに倒れた先に、大きな丘が二つ待っていた。

 うずまる鼻。芳しい香り。温もりと柔らかい感触。

 それが咲の胸元だと気づき、慌てて身を起こそうとするが、まるで手足に力が入らない。

 すると、髪を撫でる感触があった。

 優しく、丁寧な、愛情に溢れた手付き。

 小さい頃、叔母が―――母が、姉が、そうしてくれた時と同じような。

 不思議と、全身の痛みも引いていく。

 咲に抱いていた嫌悪感も、同様に。

 ―――ああ、いいもんだな。誰かに身を預けるのって。

 霧黒は目を閉じた。

 心地よい感触を子守唄代わりに、霧黒の意識は安らかな闇へと落ちていった。

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