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悪花の都市にて屍織の狼、伽藍の狐と出会う


 ―― 序 ――


 影がく。

 足音生まぬ鋼の脚にて。

 夜のしじまの風すら切り裂き。

 黒く鋭き迅雷じんらいとなりて。

 一つの影が―――闇を征く。



 明かりのない細い路地。

 一つの影がそこを駆け抜け、無音の跳躍をもって軽々と家を飛び越した。

 ひらり、はらり―――風に舞い上げられる木の葉のように、影は街の上へ躍り出る。

 降り立ったのは、足場とさえ呼べない()()()な屋上の構造物。

 一面に広がる異形の建造物が織りなす、高所の奇景。影はそこを巧みに渡る。走る。駆ける。平坦な大地を行くように、滑らかに速度を増しながら。

 無軌道の疾走ではない。影は明確に何かを追っていた。

 影が追うもの。

 それもまた、影であった。

 追われる影は、追う影のかなり前を飛んでいる。翼のようなものを拡げてはいるが、羽ばたいている様子はない。推進力を生み出す魔素圧縮エンジンも、解導妄蛇げどうもうだの操る青白い散華粒子コバルト・ロアーも見当たらない。

 にもかかわらず、翼ある影は見えない壁に跳ね返るように、不規則かつ急激な方向転換を繰り返しながら、猛烈な速度で闇夜を飛翔している。

 追う影は確かにはやい。しかし障害なき空の疾駆に対し、複雑に入り組んだ異形の街を―――しかもその屋上を―――走るのは、明らかに分の悪い条件であった。

 だが、それでも追う。獣の脚を模した機械義肢を限界まで駆動させ、決して影の翼を見失わぬよう、赤い隻眼にて強く睨みつけながら『機』を待つ。

 程なく、それは訪れた。

 振り切れぬ事態に痺れを切らしたか、追われる影が高度を上げたのだ。

 それを待っていた。

「抗式七番『顎門経がくもんきょう』詠唱」

 追う影が早口に囁いた。少年とも少女とも取れる、実に落ち着いた声で。

 囁きに追随し、追う影の背負う筒状の物体が複雑に展開していく。

即興妄歌アドリブ義髄臓幹筒ぎずいぞうかんとう鶯啼髄喰おうていずいばみ単結ソロ解演かいえん

 青白い粒子が、ぽうっと一つ。二つ。瞬く間に無数となって追う影の周囲に生じる。

 影の疾駆に取り残された粒子が後方になびき、青白い尾となる。

 まるで、闇夜を鮮やかに彩る天の狗の如く。

 追跡者の変化に気づいたか。慌てて追われる影が高度を下げようとひるがえった。

 させじと追う影が吠える。

転華(てんげ)()く、騙りて散華(さんげ)うたえ!」

 背負う筒がく。

 応じて一匹の黒い蛇の如き物体が筒より現れ、周囲を舞う青白い粒子をまとい、影の左右に複雑な図式を描き出した。

 それは世界を騙し、理を惑わすもの。神域数式の簒奪者さんだつしゃたちが、遥か過去に結びし解導妄蛇げどうもうだ誣妄ふぼうなる歌。

 その名―――鳴呪顕術式ハルモニギアセス

 青く光る複雑な二つの図式が、解導妄蛇が吐き出す超高圧縮妄想を詠い、弾け散った。

 術式の顕現完了。

 同時に、空間が()()()()()

 ごぎりと響いたその音は、巨大な岩と岩をとてつもない力で擦り合わせたものに近い。あらわされた術の効果は、まさにそのイメージ通りのものだった。

 追われる影の右翼が、突然半ばから先を失う―――否、大気の歯ぎしりにすり潰されたのだ。

 飛行の原理は不明なれど、翼を象る以上、あの異常な機動に寄与していた器官であることは明白。追われる影は大きくバランスを崩し、目に見えて失速した。

「よし」

 上手くいった。街を術に巻き込む危険を避けるため、やつが高度を上げるまで追い続けた甲斐があった。

 追う影が手応えに頬を緩ませる。

 だが。

 追われる影は迷わず身を躍らせた。

 眼下より漏れる毒々しいネオンの明かり。退廃をはべらす強欲の人工渓谷―――この『都市』有数の歓楽街へ。

 予想外。追う影が息を呑む。

『そこ』へ『あいつ』のような存在が飛び込むことの意味。この都市で生きている以上、知らぬはずがない。

 間違いなかった。わかってて飛び込んだのだ。

「しまった……!」

 追う影が舌を打った。急いで屋上を走り、やつが飛び込んだ大通りを縁から覗き込む。

 赤い瞳の隻眼に映る世界は、とてもまばゆかった。絡まり合うパイプと吊り下げられた提灯の網目の向こうで、ネオンの海が輝いている。無数の異形たちで波打つ通りが見える。

 その一点で人の波が消失していた。あるものを中心に、野次馬が円を描いているのだ。

 中心は有翼の影だった。

 やつは光の中にあっても、いまだ影のままだった。黒い翼と涙滴状の黒い胴体以外に、目立った構成要素が見受けられない。目も耳も口もない。

 湧き上がる歓喜の声。地べたに張り付く闖入者を、歓楽街を歩く住民たちは悲鳴すら漏らさず取り巻いている。携行射影機で記念撮影と洒落込む者も少なくない。

 ―――まずい。最悪だ。

 眉間にしわを寄せ、追う影は再度詠唱を試みようとした。

 が、寸前で思いとどまった。

 いま使えば()()()()()()()

 何に、か。

 答えは人混みを弾き飛ばしながら、凄まじい速度で現れた。

 魔素混じりの有害な蒸気を吹き上げる、積層ミスリル装甲の巨人。すなわち、堅牢重武装なる都市の守護者。過剰なまでの重火器と、七層に及ぶ呪的防御で固めた金属の衛兵。

 誰が呼んだか、囁かれしあだ名は挽肉製造機ミートグラインダー

 それが総勢六体。等しく、両腕の二十ミリ回転式六連装機関砲を突き出し、構えている。

 狙う先には影の翼。

 その向こうに野次馬たち。

 機械の衛兵たちには、遠慮も融通も備わっていなかった。

 


 追う影―――正しくは追っていた影か―――が、首を振りながら屋上に腰を下ろした。下ろした拍子、低い背にはあまりに不釣りあいな巨乳が揺れる。

 漏れたため息は弱々しい。彼女の大きな狐の耳もしぼむように伏せていく。下から響く銃声と悲鳴と肉の弾ける音も、伏せた耳にはあまり入ってこない。

挽肉製造機ミートグラインダーたちを利用したのか……僕に『奪われる』ことを避けるため……自分自身を隠滅するために」

 やつが追い込まれたときの行動に対し、想像力が欠けていた。考えが及んでいれば、いま下で起きているひどい惨殺劇グランギニョールも開演しなかったはずだ。

 毎分数千発の対魔被覆鋼弾の雨にさらされて、やつも野次馬も、すでにごちゃまぜの屑肉へと変わっていることだろう。銃撃が止めば即座に掃除人たちが集まって、全部綺麗に『なかったこと』にするはずだ。

 水の泡どころか、いたずらに犠牲を増やしてしまった。

 悔やまずにはいられない。

 ―――君は、向いてないのだよ。

 ある知人の言葉が耳の奥に浮き上がる。振り払うのは難しい。その言葉は的を射すぎている。

「僕は……」

 うつむき、首に巻いた白黒縞模様のマフラーに顔をうずめる。目深にかぶった大きなハンチング帽もあって、彼女の顔はほとんど隠れてしまった。

 風が吹く。さきほど後方に置き去りにしてきた風が追いついたに違いない。

 少女の着るゆったりとした着物がはためく。

 はためく袖の動きがあまりに軽い。

 道理である。

 その両袖には、()()()()()()()()()()()


 ――  1  ――


「えー、まもなく終点ヤソマガツヒに到着いたします。お降りの際、お荷物、お子様、受動霊などをお忘れ、もしくは『盗疾風とりはやて』などに盗難されませんよう、十分ご注意しやが……してください」

 薄暗く広い空間に、甲高い乗務員の声が響き渡った。

 大量の気配を内包する薄闇―――大型輸送雲鯨艇クラウドシップの三等客室が、にわかに騒がしくなる。

 客室とは言うものの、実際は椅子すらない寿司詰めの大広間である。貨物室と呼んでも差し支えない。乗客たちは見知らぬ者同士で肩や背―――場合によっては翼や触手、尻尾も―――を触れ合わせ、匂いのこもった薄闇にて長時間耐え続けてきたのだ。そこから解放されると知らされた瞬間、申し合わせたように誰もが安堵のため息を漏らしたのは、必然と言えよう。

 客室のほぼ中央に座る大柄な青年も、拷問じみた時間からの解放を喜ぶ者の一人であった。

 青年が顔を上げ、大きく息を吐き出す。長いマズルの上に乗せた古ぼけた眼鏡をかけ直し、ぴんと立った狼の耳を前後に震わせると、獣と人の混ざりものたる青年―――八房霧黒(やつふさ むくろ)は、灰色の瞳でゆっくりと周囲を見渡した。

 ぐずる我が子をなだめる三眼族の両親。この船の旅に慣れたものなのか、呑気に欠伸を漏らす機械仕掛けの緑髪の少女。その隣にいる巨大な毛玉たちは、なにやら不可解な言語でボソボソと話している。不協和音を主体に構成された彼らの会話は、周囲を軒並み不快にさせるに充分だった。

 他にも多くの異形なる人々が、薄暗い空間でせわしなく下船の準備に取り掛かっている。

 それぞれが発する臭いと音が渾然一体となった空間は、換気の悪さもあってすこぶる居心地が悪い。

 それでもと霧黒は思った。

 この窓もない雲鯨艇(クラウドシップ)の客室で乱暴に揺られてでも、乗客たちは望んでいるのだ。

 生命及び財の保証を求めないと書かれた誓約書に血判を押し、法外な運賃を払って―――ある都市を訪れることを。

 霧黒は舌を伸ばして鼻先を舐めた。緊張すると出てしまう彼の癖だった。

 その矢先、ひときわ大きく客室が揺れ、即座に連続した微振動が続いた。床に下ろした尻がむず痒くなる。

 微振動が収まると、霧黒の右手にある壁がゆっくりと上から開き始めた。

 隙間から強い光が入ってくる。霧黒は目を細めた。薄闇に慣れた目には刺激が強い。他の乗客も呻きを漏らしている。

 壁が完全に開き、その役目を壁から緩やかなスロープへと変えた。

 するとスロープに妙なものが飛び乗った。絡まった紐からなる玉のような生き物だ。無数の紐を脚代わりにしている。

 そいつは紐の先端に備わった漏斗状の器官を掲げると、そこから先程客室に響いたものと同じ甲高い声を放ち始めた。

「えー、長らくお待たせしました。終点、ヤソマガツヒ中層異形揺動区(ちゅうそういぎょうようどうく)、飛空艇発着場です。転落、盗難、紛失、その他お客様個人による問題は、当雲鯨艇運営会社では一切責任を負いかねますので、さっさと降りやがってください」

 抑揚と礼儀に乏しい紐玉のアナウンスを皮切りに、ぞろぞろと乗客達が降り始める。

 傷んだ荷物袋を背負い、霧黒も群衆に紛れながらスロープを降りていく。

 降りた先は広い発着場だった。

 陽光の眩しさに慣れると、心地よい風を毛皮に感じ取れるようになってきた。混ざりものの少ない空気のありがたさに感謝しつつ、新鮮な空気を肺腑に導き入れ、心から歓迎したあとに鼻から追い出す。

 数度深呼吸を繰り返すと気持ちも落ち着いてきた。周囲を見渡す余裕も生まれる。

 発着場には、霧黒が乗ってきた雲鯨艇の他にも、多くの飛行艇が接舷している。サイズもまちまち、大きいものは大量輸送がメインの船か。貨物室から様々な荷物を下ろしている様子が見える。

 雲鯨艇の浮力と推力の元である雲鯨クラウドシングたちも、長旅に疲れたのだろう。括り付けられた船体部の上で、浮遊魔素をたっぷり含んだ太鼓腹をよじるもの、口を大きく開けて大量の風霊を丸呑みにするもの、思い思いの方法で疲労回復に努めている。

 そう。長い旅だったのだと、霧黒は天を仰いだ。

「ここからが本番だけどな」

 まだ目的地に到着したにすぎない。ここで必ずなさねばならぬことが彼にはある。

 霧黒はよれた長着と袴を整え、背負った袋から四本の刀を取り出すと、それを左右の腰に二本ずつ差した。

 柄頭と黒塗りの鞘の側面に備わった鉄輪を太い鎖が結んでいる。しかし刀を抜くには鎖の長さが足りていない。どうやって抜刀するというのか。

 さらに粗い革の装丁が施された二冊の本も取り出す。それを慣れた手つきで革紐で縛り、尻尾の上の辺りに括り付けると、万端整ったとばかりに鼻を鳴らし、進むべき先を見据えた。

 発着場から伸びるコンクリートの道。その先にそびえる支離滅裂の構造物。高く、高く―――捻れ、曲がり、雲を抜け、それでもさらに空へと突き立つ、歪んだ尖塔の群れ。

 それら冗談めかした建築物の足元では、乗り合わせた乗客達と同じような多種多様の存在がひしめき合い、各々が各々の流儀で生活を営んでいる。

 話に聞いてはいたがと、霧黒はため息を漏らした。予想以上の混沌が目の前にある。

 そこから目を逸らすように、霧黒は後方へ目を向けた。

 発着場のさらに先。見えるのは青い空。目線の高さに浮く雲。遠目に霞んで大地の景色。

 いま霧黒が立つ場所は、自律駆動する異形の超巨大移動都市―――「ヤソマガツヒ」の中層区域。地上数百メートルはあろうかという高所である。なのに都市の縁には、落下防止の柵すらほとんど見当たらない。

 霧黒がそう思った矢先に、視界の端で誰かが足を踏み外して落ちていった。

 悲痛な叫び声もすぐに聞こえなくなり、その有様を見ていた住人が「今日三人目か」と事も無げに言って、落ちた先を見下ろしている。

 衝撃的な光景の余韻も収まらぬうちに、今度は発着場から怒号が響いてきた。

 大型輸送艇から降ろされたと思しきコンテナの一つから、巨大な触手が無数に飛び出ている。触手に絡み取られた作業員が悲鳴も残せずコンテナの中に引きずりこまれ、次いで何かを軽快に砕く音が、その中から奏でられ始めた。

「あちゃー……また誰かが禁輸対象の外来魔獣を密輸しやがったな」

「誰か愚導局に連絡しろ、連絡を」

「いま食われたの誰だっけ?  まあいいや、あとでリスト見ておけ」

 コンテナを囲む作業員は誰も慌てる様子がない。

 思わず霧黒が口をへの字に曲げた。

 命が軽い。殺し殺されが呼吸と同義の遊戯戦場(シュタールバウム)玩具兵士(ノスクナカー)たちでも、もう少し生死に関心を持つのではないだろうか。

 旅立つ前に叔母から聞いていたうんざりするような事前情報すら、だいぶぼかしたものだったのだと理解した。

 霧黒は鼻を一度だけ舐めて湿らせた。

 ともあれ、叔母の旧い知り合いとやらと接触することが先決だ。霧黒はできるだけ都市の縁に近づかないようにしながら、ヤソマガツヒの玄関口たる「異形通り」を目指した。

 その途中で、街の方からやたら重武装の機械兵が一糸乱れず歩を合わせ、霧黒の横を通り過ぎていき―――間を置かず、霧黒の後方から爆音が飛んできた。

 霧黒は振り向かない。渋面を作って振り向きたい意志を強固に押さえ付ける。

 発着場に響き渡る、人の悲鳴と人でない何かの咆哮。追加の爆音。

「ふざけんな、巻き込むんじゃねえよ! 挽肉製造機ども!」

「あー、くそ! せっかく生やし直した足が、またなくなっちまったじゃねえか!」

「どさくさに紛れて荷を盗むやつは撃ち殺していいぞ。死体は確保しておけよ、売れるからな」

 罵声と怒声の種類も実に豊富。笑い声すらどこかからか聞こえる。

 霧黒は大きな獣耳を両手で塞ぎ、首を左右に振った。

 気にしたら負けだと、己に言い聞かせながら。


 ――  2  ――


 異形通りの入口からおよそ百メートル。

 霧黒が心の柱を折らずに維持できた距離である。

 入口の左右に立つ、機械と培養筋肉を組み合わせた可動式仁王像に出迎えられ、なんだこれはと思う間もなく、そこから続く通りの有様に目と鼻を翻弄された。

 通りを埋め尽くす人、人、稀に獣魔。種族も見た目も異なる者達が、芋を洗うように行き来している。

 さらに通りの左右に広がる店が、また奇天烈なものばかりであった。

 まだ息のある妖魔を切り売りする肉屋―――妖魔は命乞いをしていた―――や、恐らくは自作と思われる自動呪禁輪転機で、通りの人間を幾人か()()()()()中古魔具専門店のドワーフ、七つ腕やら百目やらの奇怪な改造獣人ばかり集めた娼館からは、誘引作用のある御詠歌が流れ出して、大人も子供も無差別に招き入れている。なにがあったのか、店先のシャッターに挟まれて店主らしき小人が死んでいる店もあった。小人の死体には早口に喋る人面蛆が無数にわいていたから、少なくとも死後一週間はあのままということになる。

 それらを彩る眩い呪詛ネオン。表面の模様を変えて次々に異なる宣伝文句を表示する生体看板。建物のあちこちから生えたパイプはひび割れ、毒液が遠慮なしに下水へたれ流されている。

 運悪く毒液を浴びてしまった人間の少女が、瞬く間にイボだらけの蛙じみた魔物へと変わると、どこからか治安維持要員達が現れ、よってたかって彼女を十字架状の鈍器で叩き殺してしまった。原形を無くした死骸を浄化歯車廃棄槽へ投下する場面に至っては、手際が良すぎて、まるで愉快な喜劇の一幕だ。

 異形どもが異常な行為に興じ、異質な光景の中にて異議も唱えず暮らしている。

 これがヤソマガツヒだ。悪徳の蜜を求めて悪人が集う、世界に咲いた悪花の大都市だ。

 霧黒が首を振った。まとわりついてくるこの街の空気が、極めて不快に思えたから。

 そうしてから、自嘲気味に笑う。異常さについては自分も人のことを言えないではないか。むしろ自分のような人間が最後に流れ着く掃き溜めが()()だ。周りはみんなお仲間と言えるかも知れない。

 だが、それでも霧黒は己をこの街に委ねるのに抵抗があった。

 問題は、誰も関心を示さないことなのだ。異常事態に。人の生き死にに。それがあまりに奇妙に思える。例え世界からはみ出しもののレッテルを貼られても、開き直ることが最善策ではないはずだ。

 それとも、これが正しいのだろうか―――十数年前、突如世界に現れた、この異形の移動都市では。

 だとしたら、自分はこの都市に馴染めるか分からない。

 霧黒がかぶりを振った。

 馴染む必要はない。定住するつもりはさらさら無いのだ。目的さえ早期に果たせれば。

 しかし、本当にここに―――

 歩きながら左手を胸元まで上げ、じっと見る。

 すると、違和感を感じた。

 左の袖が軽い。

 袖の中に手を入れ、何もないと気づくや慌てて全身をまさぐるも、どこにも見当たらない。

 すなわち財布が、である。

 発着場で荷を整えてる時には確かにあった。

 となると、この通りを歩き始めた百メートルのどこかで落としたか、盗られたことになる。

 不味いと舌を打ち、前者であることを願ってきびすを返す。

 が、慌てすぎていた。振り向いた矢先に通行人とぶつかりかける。

「っとと……失礼」

 軽く会釈し、脇を抜けようとした瞬間、太い毛むくじゃらの腕が突き出され、行く手を阻まれた。

 霧黒が歯を噛む。

 ああ。運がない。こういう手合いだったか。

「……なにか」

 腕の主に向けて低い声で問う。並のものなら怖気付くに足る殺気をこめたつもりだったが、相手も中々に豪胆だったようだ。

 腕の主は百九十センチを超える霧黒より、さらに大きい。熊とブタをデタラメに混ぜたような獣人だ。混血だろう。

「あんたがよう。急に振り向いたもんで荷を落としちまった」

 混血獣人が、突き出した腕はそのままに指先で地面を示した。

 霧黒が視線を落とす。確かに小さな袋が一つ落ちているが、中身が入っているようにも見えない。

「ゴミが落ちてるが……あんたの言う荷ってのは、そのゴミのことか?」

「人の荷物を落としておいて、その上ゴミ呼ばわりかい。礼儀を親父の金玉にでも忘れたまま産まれちまったのか?」

「そのとおりだ、よくわかったな。おかげで俺の親父の金玉はでかかったよ。あんたの鼻の穴のでかさには負けるがな」

 減らず口なら霧黒は自信がある。役に立った記憶のない特技だが。

 しかし効果はてきめん。熊ブタの眉間が痙攣している。爆発する前に退散するのが得策だろう。毛むくじゃらの腕をくぐって強引に抜けようとする。

 そこにさらなる壁が現れた。熊ブタに負けず劣らず醜い亜人獣人の三人組だ。どう考えてもお仲間だろう。

 やはりこの街は好きになれないと、霧黒は改めて悟った。

「ここじゃ通行の邪魔になる……話があるならそっちで」

 と、霧黒が目線で暗い路地裏を示す。

 自ら人目のない所へ行こうなどという提案に面食らったか、熊ブタ達は醜い顔に間抜け面をブレンドして、より滑稽な表情を浮かべていた。それもすぐに凶悪な笑みに変わり、やりやすい相手に出逢えたとばかりに揃って笑い声を出す。

「良いだろう、人様の迷惑になっちゃいけねえやなあ、確かに」

 熊ブタが霧黒の肩に手を回し、体重差にものを言わせて路地裏へと引き込んだ。残りの仲間もあとに続いてくる。

「おう、ここは人喰い小路の転移穴あるか?」

 熊ブタが仲間に問う。

 仲間の一人、ボサボサの毛並みをした目やにだらけの猫の獣人が、一枚の札を取り出し、路地の宙空に放り投げた。

 札は空中で一度ひるがえり、ねじれてこよりになると、ストンと地面に突き刺さった。

「転移穴はないな。少なくとも揺動反応が起きるまではここは安全だ」

「なら好都合だな」

 熊ブタがでっぷりと肥えた腹を揺らして笑った。笑う度に腐臭混じりの口臭が辺りに漂う。霧黒の脳裏に、田舎に暮らしていた時に見かけた肥溜めが浮かび上がった。

「なあ、あんた。乙種か。霊狼遺伝の。純血さまは毛並みもいいねえ」

 やたら耳障りな掠れ声で恨めしげに囁いたのは、鱗と毛皮のまだら模様が目につく男だった。恐らくは狼と爬虫類系との混血。霧黒とは半分同類になるか。

「その上、おのぼりさんときたもんだ。異形通りの真ん中で振り向いて逆走するやつなんざ、来たばかりの余所者以外いねえぜ?」

 と、優越感たっぷりに口の端を釣り上げたのは、鬼械衆きかいしゅう―――のはぐれだろう。額から生える二本の角は半ばからへし折られ、断面に追放を意味する永劫刺青(えいごうしせい)が刻まれている。この男に関しては容姿は悪くないのだが、目に宿す卑屈さが全てを台無しにしていた。

 絵に書いたようなチンピラ四人組だが、少なくとも今日昨日悪事を働き始めた奴らではないことは確かだ。霧黒は、男達の振る舞いに驚くほど隙がないことに気づいていた。

 さすが世界の掃き溜めたる魔都の住人だ。相当、荒事をやり慣れている。どうしたものか。

 今なら四人全員、()()()()()()()()。チャンスではある。あとはタイミング次第だが。

 霧黒は盛大に肩を落とし、

「初日に目立ちたくなかったんだがなあ……」

 と、のんびり呟く。

 霧黒の様子がよほど滑稽だったらしく、チンピラ共は揃って笑いはじめた。

「おい、まさかお前、お前の人生に()()以降があると思ってるのか」

 熊ブタが笑いながら脅しをかけてくる。

 霧黒は眼鏡に指をかけ、位置を直した。

「捻りのない脅し文句だな、おい。で? 次の台詞は? 身ぐるみ置いてけ、その上で殺す……辺りか? どうだ。正解だったら何かくれよな」

「それじゃ不正解だ。賞品はやれないな」

 猫が手を叩いて割り込む。

 熊ブタがその先を続けた。

「まず、身ぐるみを剥ぐ。次にお前を殺す。気が済むまで死姦して、飽きたら肉屋に売る」

 霧黒の目が細まる。

 それを動揺と取ったか、熊ブタは意気揚々と舌を走らせた。

「純血の霊狼遺伝の肉なら欲しがるやつはそれなりにいるさ。この街は特にな。『食罪』を背負ったろくでなしどもすら受け入れる都市だ。知らなかったのか?」

「あいにくパンフレットをもらい損なってね。あー、もしかしてあんたら、いま話に出た『食罪背負いのろくでなし』なのか?」

「おいおい、あんな人でなしどもと一緒にするな」

 心底嫌そうに熊ブタが顔をしかめた。

 霧黒は、こいつらが人でなしという単語を口にする滑稽さに、思わず吹き出しそうになった。どうにかこらえる。

「俺らは確かに悪人だが、あいつらみたいな『不可逆魂魄』じゃあない。愚導局の救済認可申請すら門前払いされるのは、あいつらぐらいなもんだ」

「へえ。そんなに酷いやつらなのか。食罪持ちってのは」

「そうだ。お前運がいいぜ。奴らの恐ろしさを知らずに人生を終えられるんだからな。感謝してほしいもんだ」

 一同、熊ブタの台詞に嘲笑を合わせる。ヘドロじみた嘲笑が路地裏を席巻した。

 それをかき分ける笑い声。

 次第にチンピラ達の嘲笑が薄まり、最後にはその笑い声だけが残った。

 笑い声の主は霧黒。

 ゾッとするほどの眼光をたたえて。

「ははは……ああ、すまん。あまりにおかしくて。そうだ。感謝の代わりってわけじゃないが、いいことを教えてやるよ。食罪ってのは正しい呼び方じゃない。正しくは『罪業偏食ざいごうへんしょく』……そして、それを背負ったものは『罪業偏食者(エーゼル)』と呼ばれる。覚えときな。侮蔑と畏怖を込めてな」

 霧黒が放った言葉に場の空気が凍った。

 チンピラ達の顔から笑みが一瞬で消える。

 代わりに浮き出る敵意。殺意。そして恐怖。

「お前……」

「存分に味わいな。その罪業の深さを」

 霧黒の右手が(はし)る。

 男達が身構えながら後方に間合いを取り―――目の前に落ちた、ただの布切れに視線を集中させる。

 同時に走り出す霧黒。狼らしく軽やかに、路地裏の奥へ、闇の懐へ。

「あ?」

 惚けるチンピラ一同。

 引っ掛けやがったな! と、彼らの激昂が路地裏に虚しくこだました。


 ―― 3 ――


「ああもう、なんて街だ、本当に!」

 知らぬ土地の路地裏を命懸けで走ることの、なんというやりづらさか。

 チンピラどもが自分を包囲せず、前方に固まってくれていたのは幸いだったが、そもそも本当に幸運なら財布は無くさないし、チンピラに絡まれもしない。

 いくどか路地裏の家に住まう住人と出会ったが、かくまってもらいたいと懇願する暇も与えられず、全員から危害を加えられそうになった。顔見知り以外は殺すべしと書かれた回覧板でも回ってるのか。ここなら有り得そうなのが恐ろしい。

「こっち……じゃない、そっちだ」

 土地勘の無いはずの裏路地を、しかし霧黒は何かを頼りに進んでいく。

 分岐で止まり、鼻をひくつかせる。決断まで数秒。彼の脚に迷いはない。

 そうしてたどり着いたのは、人の気配のない完全な袋小路であった。

 が、たどり着いた瞬間だ。勢い余ったのか。霧黒は前のめりに転がった。

 拍子、紐の緩んだ荷物袋から大量の本が撒き散らされる。

 それを掻き集める暇はなかった。 背後から複数の足音が聞こえてくる。

 這いつくばりながら行き止まりの壁に飛びつき、背を持たれかけさせて身を起こすと、執念深いチンピラが四人全員揃っていた。

 狭い路地に横一列。逃げ道を塞いでいるつもりらしい。

「よお。狼の癖に、兎みてえに逃げ足が速いな」

 熊ブタが嘲る。

 霧黒は鼻を舐めて返答とした。

「どんな気分だ? 惨めに息を切らせて逃げ回って、結局自分を追い込んだだけに終わった結果は。なあ。嘘つき狼さんよぉ」

 言うやいなや、熊ブタが足元に散乱する本を一冊蹴り飛ばし、猫の獣人に問いかけた。

散華粒子コバルト・ロアーの反応は?」

「ゼロ。鳴呪顕術式ハルモニギアセスは展開されてない」

 懐から出した札が無反応であることを根拠に猫が告げた。

「火薬や魔薬の臭いもしねえ。飛び道具は持ってねえな」

 狼の混血児が鼻を鳴らす。片親の鋭敏な嗅覚は受け継いでいるようだ。

 危険なものはないと知り、熊ブタが腰から大振りの鉈を取り出した。刃に浮く錆の数は、犠牲者の怨嗟の量に比例している。

「様になってるな、あんた。チンピラなんてやめて肉屋でもやればいいのに」

 顎を拭って霧黒が軽口を叩いた。

 熊ブタが己の腹を軽く叩く。軽妙な音の響き。余裕の表れに違いない。

「へっ。あいにくだが店も在庫も持ってねえよ」

「はて、それはおかしい」

「おかしいだと?」

「店は知らないが、在庫ならあるじゃないか。あんたの腹回りに、たっぷりと」

 ニヤつく目で、熊ブタのだらしない腹に視線を刺す。

 熊ブタが歯をきしらせた。背後の仲間たちが笑いを押し殺している。太鼓腹をネタに普段から仲間内でからかわれているのは、彼らの日常を知らぬ者でも想像に難くない。

「逃げ足だけじゃなく口も達者な狼だな……気が変わったよ。てめえもこの腹の肉の一部にしてやる。明日にはてめえは、臭え糞になって俺のケツ穴から下水に直行だ」

「へえ、ありがたい。無料でヤソマガツヒ下水ツアーにご招待か。文字通りの『太っ腹』だな。見た目通りだ」

 熊ブタから、ぶちりと何かが切れた音がした。血管か、堪忍袋の緒か。両方かも知れない。

「死ねや、よそ者の犬ころがあ!」

 振り上げられる大鉈。

 霧黒は刀も抜かず、ただ壁に背を預けている。

 そして肉が切り裂かれた。

 濡れた音。血しぶき。悲鳴。転がる大柄な体。

 きっかり四つ。

「な、なにが!? ぎひいいいいいいい!」

 熊ブタが泣きわめく。両足から走る激痛に、太鼓腹が波打って悶ていた。

 足首から先を失った四人のチンピラが、地面を転げ回り、血を吹き出す己の脚を必死に押さえている。

 地に立つ八つの足首も、暴れる元の持ち主たちに弾かれて、袋小路の壁際に転がっていった。

「お前、さっき、顕術式はないって……!」

 混血の狼が恨めしく仲間の猫を睨んでいる。口の端は痛みに悶えているせいで、唾液の泡まみれだ。

「間違いない、間違いなかったんだ! 術はなにも、ぐ、うぐあああああ……」

「その猫さんを責めてやるなよ」

 霧黒が優しげに語りかける。

 四つの悲鳴が恐怖に遮られ、一挙に引いていった。

「顕術式でもない。まして機械駆動の罠でもない。あまりに独特で、あまりに数が少ない……だから、大抵は気配を読むこともできない」

 散らばった本を拾いながら、霧黒は転がるチンピラたちを見下ろした。

 男たちは見ただろう。

 灰色の瞳がたたえる、おぞましいほどに昏い光を。

「偏食の罪業が生む対価ってのは、そういうものだ」

 微かに口角を上げ、霧黒が拾った本を次々に放り投げた。

 本は蝶のように開いてチンピラ一人一人の頭にかぶさり―――

「示せ。屍織しおりよ」

 そう霧黒が告げると、四人の男が一斉に痙攣を起こした。

 悲鳴はない。命乞いも、罵声もない。

 口を動かすための命を、男たちはすでに有していなかった。

 霧黒が腰の四本の刀を撫でる。

 すると男たちの体が弛緩し、ゆっくりと地面に投げ出された。

 四つの血溜まりが広がっていく。それは一つに繋がり、大きな赤い沼となって男たちの背を沈めた。

 顔伏せの布代わりたる本を拾い上げ、霧黒は血にまみれたページと、頭部に大穴を開けられた男たちの死体を交互に眺めた。

 ほくそ笑む。いい拓が取れたと。

「さて」

 荷物袋に拾い集めた本をしまうと、代わりに一振りのナイフを取り出した。最高純度のヒヒイロカネ製であることを除けば、飾り気もない簡素なものであった。

「あんたは俺を食い物として見てたようだけど、奇遇だな」

 熊ブタのそばにかがみ込み―――

「実は、俺もなんだ」

 ナイフを死体に突き立てる。

 皮と肉の間に先端を滑り込ませ、刃を引く動きに合わせて皮を剥ぐ。正中線に沿って左右に開き、衣を脱がせる要領で手早く、正確に。

 使い慣れたナイフは霧黒の指そのもの。瞬く間に熊ブタの死体は『丸裸』へ変えられてしまった。

 ここで待ってましたとばかりに、荷物袋から透明な袋を出す。呪紋の効果がある限り、内容物を一切の腐敗、劣化から守る便利な道具だ。剥いだ皮を丸めて保存袋に押し込む。熊ブタのサイズがサイズなだけに、皮も特大だ。中々に苦労する。

 どうにか押し込み、最後に荷物袋に収めて大きく息を吐く。いつもの事だが皮剥ぎ作業は大仕事だ。

「よし、こんなものだろ」

 ナイフに着いた血糊を熊ブタの服の切れ端で拭い取ってから、鞘に戻す。

 他の三人も剥ぎたいところだが、ねぐらもまだ見つけていない以上、保管が難しい。

 どうしたものかと思ったその時、霧黒の鼻が数度ひくついた。

 くそと、思わず口の奥で毒づく。

「……あんたも、こいつらの同類か?」

 極力緩慢な動きで立ち上がり、後方に語りかける。

 霧黒の背には、袋小路の壁しかないはずだった。まして人の気配など。

 わざわざ人目につかないよう、この迷路のような裏路地で、人の臭いが最も薄い場所を目指したのだ。

「少なくとも、君とは同類じゃないかな」

 霧黒の耳が震えた。

 飛んできたのは、少年とも少女ともつかない愛らしい声。感じた気配とは大きく乖離した声色に、どうしても戸惑いを隠せない。

 突如として背後に現れ、背中から貫いてきた鋭い気配は、まるで山のような魔獣を思わせるものだったのだが……

「振り向いてもいいか?」

 好奇心ゆえの提案。

「両手を上げてならね」

 言われた通り、霧黒は両手をゆっくりと上げ、その場で体ごと向きを変えた。

「お……」

 と、声が漏れた。

 違和感の塊がそこにいたのだ。

 霧黒より頭一つ半は背の低い、黒髪隻眼の少女。

 側頭部に被った二つの狐面と、赤と黒のチェック柄が特徴のハンチング帽。そこからはみ出す大きな銀毛の狐耳。右目は眼帯で隠し、紅玉のような瞳を備えた美しい左目は、半眼にてこちらを見つめている。

 稀なほど愛らしい顔立ちと、そこに付随する種々のものだけでも情報過多だが、それでもまだ終わらない。

 巫女服をアレンジした着物を派手に押し上げ、狐耳には負けじと主張する、胸の二つの巨大な半球。両足は珍しい獣脚型機械義肢。着物の袖が扁平なところを見るに、どうやら両腕を肩口から失っているようだ。

 なんたる情報量。異形集まるこのヤソマガツヒにおいてさえ、極めてと評するに値する。

 この異様な風体に加え、小柄な体に背負うには大きすぎる円筒状の何かと、マフラーのように首に巻いた白黒模様の多節式フレキシブルアームを左右一対、備えている。

 問題は、そのフレキシブルアームだ。人間の手で言えば甲に当たる箇所が開き、連装式の大口径機関銃を生やしている。それが左右に一つずつ。このまま引き金を引かれれば、自分が殺した男たちと仲良く街のゴミとなる。

 だが霧黒にとって、恐怖より驚きのが遥かに勝っていた。なんだこれはと失礼な言葉が口をついて飛び出すほどに。

「人をこれ呼ばわりとは、ずいぶん礼儀のない人だね」

 表情を変えずに飛んできた批難。耳に痛い。

「……そこに転がってるチンピラにも、さっき同じことを言われたよ」

「よほどだと思うよ。短時間に同じように注意されるなんて」

 返す言葉もないと、霧黒は口をへの字に曲げた。

「ご忠告、痛み入ります。お嬢様。よろしければ『お手』を拝借したいところですな」

「舌の根も乾かぬうちにって言葉すら、知らないみたいだね」

「無学なものでね」

「性根の問題だと思うよ」

「あんたも言うねえ。で、なんの理由があって、俺はあんたにその物騒な風穴製造機を突きつけられてるんだい?」

「殺人犯を警戒するなと?」

「いや、それは誤解だ。説明させてくれ。むしろ俺は被害者だ」

「殺した相手の皮を丁寧に剥ぎ取る被害者ね。礼儀に加えて説得力も磨いたほうがいいと思うのだけど」

 この狐耳の少女が、どこから一連の流れを見ていたのかはわからないが、仮に最後の辺りからとなれば、確かに信じろという方が無理がある。一方的に虐殺して、意気揚々と皮を剥いだのだから。

「おいおい。あんた警察かなにかか?」

「違うよ。僕はただの一般市民」

 この都市の『ただの』の基準が、大幅に跳ね上がった瞬間だった。

「じゃあ、ここで何が起きたか、俺がなにをしたのかなんて、あんたには関係ないことじゃないのか。みんな大通りの死体すら気にしない。不幸な事故、他人事だと決め込む。この都市じゃ、命なんて軽いんだろ?」

 手段は選んでいられない。あえて自ら否定したヤソマガツヒの忌むべき性質を持ち出してみる。ここの住人ならば、あるいは効果があるかも知れない。

 しかし、帰ってきた反応は意外なものだった。

 睨まれたのだ。よわい十五そこらに見える小柄な少女に、侮蔑と怒りをもって。

「命の重さは、他人が決めていいものじゃない。例えどんな相手の命であっても」

 少女の声はかすかに震えていた。

 霧黒の表情が変わる。驚きはそのままに、眼差しに真摯な光を灯して。

「……すまなかった。あなたに対する無礼の数々、心から謝罪する。許してほしい」

 目を伏せ、頭を垂れる。重火器に狙われている状況で、これは命を投げ出すに等しい行為だった。

「……」

 少女の返答はない。

 それでも霧黒は頭を垂れ続けた。

「ただの皮肉屋かと思ったけど、なくしちゃいけない最後のものは持っていたみたいだね」

 少女が近づく気配がする。不用心ではあるが、霧黒への信頼の証か、はたまた反撃されようとも()()()()()ということか。最も、霧黒は少女をどうにかしようという気などなかった。

 そんなことはしてはならない。彼女は―――他の住人とは違うはずだから。

 少女の足が止まる。霧黒の鼻腔に少女の匂いが強く侵入してくる。匂いの濃さから判断するに、手を伸ばせば掴める距離。

 霧黒は恐る恐る面を上げた。自分は許してもらえたのだろうか。

 淡い期待を抱いた矢先である。

 霧黒の首に何かが巻き付いた―――絞め殺すほどの強さをもって。

「ぐえっ!?」

「あ、ご、ごめんなさい。強く巻きすぎた。こら、もっと優しくしなさい。この人、死んじゃうでしょ」

 と、少女が霧黒の首に巻き付くしめ縄を撫でた。するとひとりでにしめ縄は緩み、霧黒の喉が辛うじて呼吸を許される。

「がは、げへ……はあ、はあ……ちょ、待て、待ってくれ、なんだこれは!?」

「なにって……頸部縛縄けいぶばくじょう。僕のお手製。ちょっと暴れん坊だけど可愛いでしょ」

「可愛いの基準がおかしいだろ! どんなセンスしてるんだ、お前!? いや、それより! なんでこんなものを俺の首に―――」

「君を愚導局の治安維持部門に連れて行くためだよ」

「は……?」

 呆ける霧黒を尻目に、少女は縛縄から伸びる細い紐をフレキシブルアームで引き、霧黒を連行し始めた。

 凄まじい力であった。二倍近い重量差を物ともせず霧黒を引きずっていく。その上、わずかでも抵抗の意思を見せようとすると、先程の首絞めが再現されるのだ。反応が過敏すぎて、悪態をつこうとするだけで絞首刑が執行されそうになる。

「ま、まままま、待て! 許してくれる流れだろ、いまのはどう考えても!」

「僕は許すよ。君の無礼を」

「じゃあ、なんで!」

「無礼は許す。でも殺人行為を許すとは言っていない」

「だから! それにはわけが!」

「そのわけは鎮圧官ちんあつかんに話して。十分かつ正当な理由があると認められれば釈放されるから」

 彼女に見つかった時点で、こうなる運命は避けられなかったらしい。霧黒が盛大にうなだれた。一瞬でも少女に敬意を抱いた事実を消し去りたい。

「くそ……訪問初日からこんな目に遭うなんて……」

「そうだ、忘れていた」

 やおら少女が振り向いて、袋小路へ向けて何事かを呟いた。

「―――転華疾く、騙りて散華を詠え」

 少女の紡いだ言葉が背負った筒を呼び覚まし、黒き蛇を招いて力を示す。

 薄氷砕ける音を響かせ、先程まで霧黒達のいた袋小路が青い薄壁に覆われた。

「うお……」

 霧黒が目を剥く。

鳴呪顕術式(ハルモニギアセス)……」

「ご明察。君も使うの?」

「俺の叔母が呪顕師で、それで知っている……が、この術は……」

「現場保持のための結界だよ。屍肉食いが荒らさないように」

「……」

 霧黒は押し黙った。

 先程何かを言いかけたのは、術の種類を聞きたかったわけではない。過去に叔母から一通りの術式を見せてもらっており、先程の結界術も知っている。

 その叔母も名の通った呪顕師だ。奏蛇に関しては他の追随を許さないと言われる程の。

 それすら上回る完璧かつ高速の奏蛇を見せられた。このちぐはぐな見た目の少女に。

 黙って彼女の背中を見つめていると、その気配を感じ取ったか。突如、少女が霧黒と相対した。

 赤い瞳の隻眼で、じっと見つめてくる。

 澄んだ目だ。憎たらしいほどに。

「そう言えば自己紹介がまだだったね」

「……あ?」

 連行する者が連行される者に自己紹介。イヤミだろうか。

「ほら。無礼をたしなめておいて、自分が無礼を働くわけにはいかないじゃないか。いいかい、よく聞いてね。僕の名はさき。このヤソマガツヒで『何でも屋』をやってる霊狐遺伝甲種の雌型。人呼んで『伽藍がらんの狐』だよ」

 どこか嬉しそうに胸を張って自己紹介を済ませると、咲は再び霧黒を引きずり始めた。どうやら霧黒の名を聞くつもりはないらしい。

 霧黒は言葉もなかった。

 大通りまで引きずり出され、衆目に晒されると、羞恥と怒りで腹の下が燃えるように熱くなってくる。

 異形達の下卑た笑い声。視線。たまに投げつけられるゴミやら食いかけの肉やら。

 霧黒は心に決めた。

 このどこかずれた機械混じりのメス狐を、必ずあとでとっちめてやる。

 霧黒は咲の揺れる尻尾だけを視界に収めながら、彼女を陵辱する妄想を描き続けた。

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