家庭で
「ただいまぁ」
語尾を少し延ばした声が居間の俺やキッチンに居る母さんの耳に届き、それと共にやや小柄なすらりとした姿が見えてきた。
「お帰り、兄さん」
「あら、お帰りなさい。意外と早く帰ってきたわね」
「今日は早めに帰ってくるつもりだったからね」
そう言いながらキッチンに入って冷蔵庫から飲み物を取り出し、居間のソファに座った。
「おお、そうだ。いま母さんにも聞いてもらおうと思っていたんだけど、兄さんもあの中学の出身だよな」
「あの中学って、いまお前が通っている中学のことか?」
「そうそう」
「もう四年も前になるが、たしかに通っていたぞ」
「あんたが卒業してもう四年も経つのねぇ」
と母さんが、やはり麦茶を片手にソファに座る。キッチンで夕飯の支度をしていたのだと思っていたんだが…。
「弟のあんたが入学したのも、ついこの間だと思ったのにもう年が明けたら卒業なのよね。歳をとって行くって嫌ね、全く」
「いや、そんなことより夕飯の準備は…」
と育ち盛りの俺の抗議に対し、
「あんただったら少しぐらい食べなくたって平気でしょ。それにあんたが話を聞いてくれって頼んだのだから、我慢しなさい」
「へーい」
むう、我慢するしかないのか。
そんな俺を尻目に喉を潤したにいさんが話を振ってきた。
「それで聞いて欲しいことというのは何かな?」
「そうそう、その事なんだが…」
最近目立っている風紀委員の活動について俺は話しだした。
一週間前の朝から行われだした風紀委員の活動。それは校則の遵守を求めるものだった。
元々、風紀委員は校則を守らせることを目的として設立されたらしいが、そういったことは本来教師の仕事であろう。
しかしその教師たちが極端な違反者ならともかく、少々の違反なら注意しなかった。単に教師の側にヤル気が無かっただけだろうが、結果として風紀委員は有名無実となり、一部の真面目な生徒を除いては誰も校則を守ってはいなかった。
そんな状況に、前生徒会長に代表される一部の真面目な生徒は苛立っていたらしい。生徒会選挙には一応公約を掲げることになっており、その前生徒会長の公約は『規則を守ろう』だったとのこと。ところで以上のことは隣が教えてくれたが、あいつは本当に記憶力が良いな。俺は欠片も覚えていなかったぞ。
自分の理想が叶えられないまま任期が終わる生徒会長は、一計を案じて風紀委員長に収まった。そして…
「自分の理念に賛同する生徒と共に、風紀の取り締まりを始めたって訳さ」
「そんなことが起こっているのか」
天井を見上げる程にソファの背にもたれ掛かる兄さん。
「俺が学校に通っていた頃も、武道系の生徒とその他の生徒に断裂は在ったけどそこまで酷くはなかったな」
「兄さんの頃からそんな空気が在ったんだとすれば、これは結構根深い問題のようだな」
「そりゃそうよ。あんた達が小学校の頃からその手の問題があるって噂されていたんだから」
母さんの発言の内容に驚く俺と兄さん。
「あんた達知らなかったの? 割と有名な話だからとっくに知っているものだと思っていたけど」
「いや、全然知らない」
「そうねぇ、あまり子供に聞かせていい話でもないものね」
そう言うと、少し遠い所を見るような目をした。
「もう何年前になるのかしらねぇ。うん、十年以上は前の話になるわね。そのときの中学校の校長は民間出身の人で、どこかの会社で役員を務めた程のヤリ手だったのよ。当時の学校は荒れていた訳ではなかったけれど、その代わり何一つ有名なものが無くてね。そこでその校長は武道でもって学校を有名にしようとしたのよ」
「なんで武道をそこで選んだのかね?」
と、俺。
「さあ? 直接会ったことも無いからなんとも言えないけれど、他の運動部に比べれば有名になり易いと考えたんじゃないかしら。結果としてそうだったんだし。
兎に角、校長は武道系の部活に力を注いだわ。補助費を出して設備を整え、学校外からわざわざ武道の先生に招いてね。その上それまでは剣道と柔道の二つだったのを、薙刀と合気道も造って、武道系部活という大きな枠に嵌めた。熱心に指導された生徒達は、忽ち結果を出して学校の名を轟かせたわ。そして彼らは学業でも優秀だった」
「結果を残したのは理解できるけど、みんながみんな学業と両立させるのは無理だろう」
と、兄さん。
「校長は本当にヤリ手だったってことよ。でもここの所が後々に問題を残すんだけどね。校長は自分の考えに賛同する先生を、『熱心な先生』として厚遇したのよ。実際に校長は学校を良くしようと行動していたから、一概に非難は出来ないけれど。
さすがに給与面で差をつけるようなことはしなかったらしいけど、勉強にかかる費用をポケットから出したりしてね。そして面倒を見る代わりに武道部の生徒が『自主的に』相談に来た時、教える様指示したの。自主的って言っても裏では校長が仕向けていたんでしょうけども。
教師としてもヤル気の無い生徒よりもヤル気のある生徒の方が教えがいが有るから、熱心に指導した。そうすると生徒は成績が上がるから…」
「また相談に来て、好成績の一丁あがりって訳だ。確かにヤリ手だったんだな、その校長は」
「そこだけ見れば、善い事尽くめなんだけど、世の中そう上手く行かないものよ」
感心する俺に向って、母さんが冷やかすように言う。
「そのサイクルに入っている当人たちにとっては最高の学校だったでしょう。でもそうじゃない人たちにとってはどうだったのかしら。きっと最悪につまらない状況だったでしょうね」
「ふぅむ。それは、まあ、確かにそうだろう」
「あんた達生徒にとっては、それでも対岸の火事と眺めることは出来たでしょうけど、教師だったら辛いわよ。明らかに日の当たっている人間とそうではない人間が区別されるんだから」
それは、嫌だな。
「教師間の待遇とモチベーションの差が何度か問題に成りかけたんだけど、校長は結果を出していたから問題にならずに済んだ、もとい済んでいた」
「過去形だな」
「過去形なんだ」
と、俺と兄さん。
「そ、過去形よ、過去形」
と、母さん。
「何年かしたら校長は別の私立の学校の引き抜きにあってね。子飼いの先生を連れて行っちゃたのよ。それでも何人か熱心な先生はいたけど、みんな何処かに移って行って誰一人残らなかった。丁度あんたが」
と、兄さんを見て、
「学校に入った年に最後の一人が出て行っちゃった。ま、その時代を知っている人間としては遣りづらかったでしょうしね。その後の校長、今の校長だけどね、がまずかったのよ。前任者が残した遺産をそっくりそのまま引き継ごうとしたのよ」
「キセルだな」
と、俺。
「さつまの守だね」
と、兄さん。
「確かにタダ乗りだけど…。あんた達よくそんな古い言葉知っているわね」
「「母さんの影響」」
と、ハモる我ら兄弟。
「ま、まあ、そうかもしれないわね。それはともかく、新しい校長はシステムを動かしていた最も重要な『ヤル気』を持っていない癖に前任者の真似をした。
つまり武道系を偏重するのに、それを指導する教師が居らず、伝統に近い形になってしまった他の生徒の無気力をフォローしなかった。惰性で好成績を維持しているけど、この形を変えなければ拙い事になるんじゃないかって昔から問題にしていた人もいたけれどね…」
「そんな面倒なことは誰もやりたがらなかった、か」
「そういう事よ。さて、もうそろそろ夕飯の準備をしないといい加減遅くなっちゃうわね」
立ち上がる母さん。それと一緒に兄さんも自分の部屋へと上がって行く。
「そうそう。あんた、前の会長は剣道部の出身だって言ったでしょう」
「言ったけど…それが?」
「そして副会長は別の運動部、つまり武道系ではない生徒だったのじゃないかしら。ふふっ、何で分かったのかって表情しているわね。簡単なことよ。そのヤリ手の校長が可愛がっている生徒に箔を付ける為に生徒会長をやらせていたのよ。
でもそれじゃ如何にもな話でしょ。だから別の運動部の生徒に副会長をやらせるようにコントロールしたのよ。それに確か風紀委員ってのも以前には影も形も無かったのに、お気に入りの生徒達に箔を付けさせる造らせたものだったはずよ」
「…何というか、げんなりする話だなぁ」