『悶絶する思考』
『悶絶する思考』
霧がかった夜の山に潜む陰。
「ホーホー」
「ワァオーン!」
「ケンケンケン」
様々な動物が声高らかに、我が種の誇りを自然世界へ知らしめんとする。
小さな穴から餌を求めて出家する一匹のネズミを凝視する梟の眼差しは、私を睨みつける彼女の顔面を投影していた。
「自分は別に悪いことしてへんやん。」
と考え、主張する私に彼女が腹を立てていることは、承知済みではあったが、どうにも彼女の言説に納得がいかないからこのように主張した。いや、してやったの方が表現としては正しい様な気がする。
「でも前は、そう言ってなかったじゃん。付き合い始めの大学一年生の頃には、前の彼女との接触、ご飯は絶対にしないって言ってたよね。それに、私がご飯を作るって言ってるのにいつも勝手に作るし。それに、私が朝早いの分かってて、自分のペースで起きて仕事に出るし。」
私はこの話をどこから指摘すれば良いのだろうか。話に脈略もなければ、大学一年生という6年前の話まで持ち出してきた。
確かに大学一年生の18歳の頃にはそう言ったかもしれない。しかし、今は6年間も付き合った2年目の社会人である。何をそこまで怒る必要があるのか。
さらに、なんだその後の内容のない、何が言いたいのかわからない話どもは。
飯を作るのが下手くそで、お世辞にも美味いと言えない彼女の料理を食することを回避するために、私自身が晩飯を作っていただけである。それの何がおかしいというのか。
「お前は、女心を何も分かっていない!」と言われる前に、「女として」ご飯を作ってあげたいという気持ちが彼女にはあるということは、認知済みであることを先に述べておこう。
そもそも、社会人になり、同棲を始めた際、私たちは「食事は出来るものがする」という約束事を決めていた。6年前の話は覚えているくせに、2年前の話は覚えていないのか。都合の良くない話は全部消去する派の人間なのか。
「そうじゃないじゃん!」
おっと、思っていることがつい口から出てしまったのか。出ていたのならいつから出たのか。それとも顔に出ていたのか。現実空間と思考空間をパスポートなしで行き来する私自身には税関の設置が義務付けられるべきではなかろうか。いや、現実空間のみでなく、思考空間にも口があり、そいつがお喋りなせいで、話が混同するのである。厄介なのは、思考の口なのか。いや、こんな事を考えている時点で私の思考には口があり、お喋りなことは間違いないだろう。
なんて事を思考している間、私は彼女の話を一切聞いてやいなかった。しかし、なんとなく彼女が言ったであろうことは推測できる。何故なら、何度も彼女の口から同じような言葉を聞いてきたからである。
おそらく、「そうじゃないじゃん!」の続きは、
「なんで私のこと理解してくれないの。私のことそんなに嫌いになったの。別れるの。」
こんな感じだろう。
すると、彼女は泣き始めた。鳴き始めたの方が正しい様にも思えた。
「ごめんやん。自分が悪かったって。」
ここで私はいつも諦める。女の泣きわめきは思考のゴールであり終着点である。それ以上は何も考えず、そこに異論も反論も許さない。もう、朝起きる云々の下りは、スルーである。あのお喋りな思考さえも口を紡ぐ。
「私が悪かったね。けど、別れるとか言わないでね。」
「別れるとか言ってへんやん。大丈夫やで。千晴の事が今も好きってことなんか一ミリもないんやからな。」
「なら…うん…ァヮァヮア〜」
彼女はまた鳴き出した。
元彼女である千晴に対しては、恋愛感情としては一切見ていないし、付き合っていたことさえ忘れる位である。これは双方合致の気持ちである。今となっては良い友達であり良い同僚である。彼女は、千晴の話など一切聞く耳を持たなが、千晴と私は同じ会社に勤めている。なので、千晴に会わないという約束はしれっとあえてしない。そんな約束は仕事をしている以上、不可能であるからだ。そして、千晴が今の彼女の愚痴のはけ口となっている。
「あんたのとこ、また爆発しちゃったん。それでよく6年も続くな。」
千晴とは、高校時代に半年も経たない間に別れた過去を持つ。
「和君、得意の思考のメカニズムの話でもしてあげて、考え方を変えさせた方がいいんやない。案外、私は思考の話で考え方とか変わったで。」
淡々と喋る千晴に「だって、自分の話なんか、好き好んで聞いてくれへんねんもん。」と少し子供口調でボソッと返した。
簡単にメカニズムを説明してみると、彼女はいつも、社会関係で得てきた怒りやイライラの原子を自宅へ持ち帰り、自己嫌悪という核の原子を練る作業を経て、私の言葉で見事な爆発を遂げる。
そこには芸術性はなく、実験の要素があったとか無いという様な広島広域を駆逐したリトルボーイの要素もない。即ち、ただの感情による限界値のお知らせなのである。という様な感じである。
「なんか、都合良くない。彼女って友達とかおらんの。てかさ、和君に頼りすぎやない?」
千晴の怒涛の質問責めに、私は様々な感情や気持ちが脳から神経細胞に染み渡る様にシナプスが慌てて反応した。
確かに彼女は都合が良い。彼女自身は、元彼氏とメールや食事などを定期的に取っているくせに、ただの友達だと言い張り、私の時だけ指摘をする。私は別に良いと言っているからであろうが、彼女は私が千晴と会うことを拒む。
しかも、たったそれだけの事で、獲物を喰らう猛禽類かの様な眼差しで私の首元を狩ろうとしていた。
考えてみると恐ろしくなった。慣れているからと言っても、飼育しているからと言っても、ライオンは猛獣であり、噛まない保証がない。
そこで、彼女が手にしていた鋭利な刃物が頭をよぎる。私の寿命はいつまで続くのか。もう御陀仏なのか。いや、そんな冗談みたいなことはないだろう。
「ちょっと、和君聞いてるん。」
体には冷や汗が止まらなかった。思考の口がお喋りを止めないせいで、千晴の話が入っていなかった。
「まあ、気を付けた方がいいで」
「やけど、もう6年も付き合ってるんやで。大丈夫やろ。」
「いつまで言ってられるかね。まあ、また相談して。」
芸術的でない彼女の考え方に私は少し飽き飽きしていた。現実にある事だけを求め追求し、所謂ほのぼのカップルを目指す彼女は、確かに始めの頃には丁度良かった。しかし、今となっては、「つまらない」「恐ろしい」「恐怖」「ヒョエー」なのである。濃淡のない絵画を見ている様で、強弱のない音楽を聴いている様であった。
そんな私に取って、彼女の爆発はある種の芸術作品の様であったから、面倒だとは思いながらもそれを誘発していたのかもしれない。
会社から帰宅後、千晴から言われたことを意識していると、6年も付き合っているのに、彼女を見る目が少しいつもと違う様で、ぎこちない事が自分でもわかった。
「どうしたの。おかえり。」
「お、おう、ただいま。ん、どうしたん。」
いつもと違うのは、私だけではなかった。
彼女の表情は少し暗く、暗黒の世界に新しい日差しが差し込んだ様な、「人とは何かという」難題へのひとつの解が見つかったかの様な神妙であった。
「ん、どうしたん。」
「いや、なんでもないよ。」
「お、そうか。ご飯できてるか。」
「あ、忘れてた。ごめんね、今から支度する。」
「いや、いいわ。あんまりお腹減ってへんから。」
他愛もない会話から普段との生活の乖離が見える。私と彼女の目の前で地割れしたかの様に、私と彼女は対立関係を成してゆく。
彼女の違和感を問い詰めることにした。すると、彼女は笑いながら涙を流していた。
「わたし、病気だって。」
彼女は精神病を患っていた。”ノーマル”という花が咲かないと言われていた種から、蔓が伸び、芸術作品へと開花したような気もしたが、不謹慎だと思ったので、心の中に鍵をつけてしまっておいた。
体調が悪くなり仕事を早退し、病院に行った時に診断されたという。
しかし、以前から症状らしきものがあることから、彼女は長い間病気と闘っていたのだろう。
なんと言えば良いんだろうか。涙の対象者(=感動創出者)として、彼女が変容してしまったのである。私は彼女に対する見る眼がいきなり変わってしまった。遠くなった様な、対象者と化してしまったような。しかし、芸術性の開花という、私の狂気的な部分が小刻みに振動していた。
これまでの様々な事柄が、障害だから「しょうがない」という哀れみに似た眼になってしまった。しかし、より付き添いたくなったし、よりサポートしたくなった。彼氏としてである。
獣の本能か。いや、女の勘であろう。そんな、私の彼女に対する対応を瞬く間に察知した彼女は、急に、嫌気がさして、嘔気を催した。
「眼が霞む。なぜ私は真夜中の夜に木の上で、ネズミを凝視しているのだろうか。なんだか、梟みたいだわ。」
あからさまに彼女がおかしい。
そして、彼女はふらっとして、記憶が脳裏から乖離され、宇宙空間へと廃棄された。
(ここから少しの間、彼女の思考を書き留める。)
ーーーーー
宇宙は、思ったより広い。私の知っている宇宙は、言語の範疇だったが、実際に宇宙を体験すると未知数に感じる。しかし、科学が証明しつつある宇宙空間、それをすっぽりと収められる私の頭。宇宙はもはや、私の頭の中に収まりきる。思考の広大さに武者震いがした。しかし、それでも、宇宙は広く感じてしまう。それはやはり、地図を俯瞰してみる(地図帳などで)のと、地図の中という迷路空間で道に迷うのと同じなのであろう。
辺り一面が真っ暗になった。う、急に寒くなった。太陽の光が遮られた瞬間、極寒だ。北海道旅行で寒がっていた私には、おそらく、貴方が想像できる範囲でない尋常ではない寒さを感じているのよ。と思っていると、今度は太陽に直接照らされ、死ぬほど暑くなった。死ぬほどというより、私は生きているのかな。全くわからないや。
あ、あれが時空の歪みというやつなのか。面白そうだから、少し弄ってみよう。
「ゴボゴボゴボ」
時空の歪みが私の居場所を瞬間移動させたのか。急に私は深海で空気を口からはいた様な感覚に陥られ、本当に死ぬと思った。
ーーーーー
そして、気がつけば、あたり一面は血の海。
鉄の匂いが周り一面を包み込んで、二人の世界を作り出す。一人と一体と言う方が正しいだろうか。
一体の精神が肉体から分離する。精神は天へと帰還し一つの星となる。そして、無情なこの世の暗闇を嫌味な如く光が射す。照らされた彼彼女は、無条件にその下に陰を創り出される。肉体は地へと誘われ、やがて家畜の肥料と成り新たな生を齎す。
「どうしよう。」
血痕の付着した包丁が床で寝ている。
悶絶する思考からは、ある種の芸術的「美」が醸し出されていた。そして、狂気的な微笑みとともに、世が明けて次の日の朝が強制的に迎えられた。
そして、隣の部屋203号室に住んでいる、独り暮らしの樋口心は、隣の部屋で昨夜起こったことなど、一切考えることも感じることもなく、小鳥の囀りと共に爽快な土曜日の朝を迎えた。
心は、英国アンティークのティーカップに紅茶を注ぎ込み、口に含む際、鼻からアールグレイの香りを通らせ、ハイド・パークで学びの一服をしている学生時代を回想した。