おにこおに
時は文政五年の春。徳川家十一代目将軍様が行った新しい政策も落ち着きを見せ、成熟した町人文化が花開く頃。向島の外れの外れに一匹の……いえ、一人の子鬼がおりました。みすぼらしい朽葉色の着物をまとい、髪の毛は野良犬のごとくボサボサです。時たま前髪から除く瞳はらんらんと月のようにぎらめいて、ニタリと笑う口からは肉を簡単に髪ちぎれそうな牙がのぞいています。
そんな子鬼の趣味は、自分の姿が見えづらいのを利用して町の人々に悪戯をしかけることでした。馬借の馬を逃したり、瓦版の版木をそっと隠したり。お城に忍び込んだ事も一度や二度ではありません。将軍様の発言も、ご家老の考えも、奥で蠢く人の欲も、子鬼は怖くはありません。それよりも、自分のした行為で、人々が困る姿を見るのが楽しくて仕方ないのでした。
吉原は仲ノ町の桜並木が見頃になった日のことです。子鬼はいつものように悪戯をしようと思って、町へと歩いていました。
(昨日は寺の坊主の経文を裂いてやった。何物の祟りか、と恐るるやつの顔は見ものだったが、さて今日はどこのどいつに何をしてやろうか)
緩む頬をそのままに歩いていると、何やら灰白のモヤがかかった武家屋敷が目に入りました。
(おや、ここは? なにやら心地よい空気だが)
ひくひくと鼻を鳴らして、子鬼は屋敷へするりと忍び込みました。正門からどうどうと入っても、誰も気付かないのでした。奉公人の目の前でくるりと軽業師のように宙返りをしても、文をしたためている若い髷結の男の肩に乗っても、子鬼の存在に気付くものはおりません。
(今日はここにしよう! さて何をしてやろう……はて?)
奉公人が白髪交じりの丸髷の女に昼食を持ってきました。そっと礼をして、部屋を出た奉公人は厨へ戻り、先ほどよりも大分質素な膳を持って別の場所へと歩き始めました。奉公人の足は屋敷の奥へと向かっています。奥座敷にいる人物に届ける昼食としてはあまりに質素なそれに、子鬼は疑問を覚えたのでした。
(おや……おや、おや、おや!)
そっと奉公人の後ろを着いていく子鬼。気付かれることはありませんでしたので、膳をひっくり返してやることも考えたのですが、それよりもこの膳の行方の方が気になったので悪戯をしたがる右手をそっと左手で撫でてやりました。角を二つほど曲がり、さらに長く続く廊下をとことこと歩いて行くと、奉公人は膳を床に置きました。目の前は立派な白壁です。……壁、のはずでした。小袖の着物をまくり、そっと腕に力を込めて奉公人が壁を押すまでは。ぎぃという音とともに現れたのは地下へと続く石段でした。じめっとした空気とひんやりとした冷気が灰白のモヤとともにこちらへ流れてきます。奉公人は床に置いた膳を抱え直し、そっと暗がりへ足を踏み入れました。
一足ごとにまとわりつくモヤに、子鬼の心は高揚しました。子鬼はとても好奇心旺盛な性分で、また新しいもの好きでもありましたので、悪戯よりも面白いものの気配を敏感に感じ取っていたのです。最下層まで降りた使用人はその場に膳を置くと、さっさと着物の裾を翻してまた上へと戻りました。一寸の後、またぎぃという音がしたので壁に戻ったのがわかりました。
子鬼以外誰もいないはずの地下で、何かが動く気配がしました。子鬼は鬼ですので、暗闇でもよく見える目を持っていました。月のようにらんらんと輝く眼に映ったのは、髪をだらしなく伸ばした若い男でした。白い襦袢に長い髪の毛、肌の色も透き通るように白い男が、木で組まれた格子の向こうの座敷に座ってこちらを見ていました。
男は子鬼の方を見て、一つ瞬きをしました。
「……おや、私になにか御用かな?」
「おまえ、おどろかないのか?」
自分の姿が見えるものにあったのは久しぶりでした。たまに自分の姿が見えるものがいても、子鬼の姿を見た瞬間相手は腰が抜けて顔中から出すものを全て出して泣き叫ぶのです。こんな堂々とした態度で接せられたのは初めてでした。
「そういうキミも、私の姿を見て驚かないのかい?」
「おれはおにだぞ。なにをおそれる」
そっと行灯に火を入れた男は子鬼を見つめました。男の髪は真っ赤でした。瞳の色も、上にいた人間よりは子鬼に近く薄い飴色をしていました。近頃遠く異国からやってきたという恰幅のよい人間とやらにそっくりな色合いです。なるほど、確かに見慣れないけれども、自分の方が強い自信があります。男はふっと口元を緩めてさらに続けました。
「私とて鬼子だぞ。怖いものか」
「オニコ? それはおれのなかまということか?」
「……ああ、そうとも」
「そうか!」
子鬼が自分以外の鬼、しかも男の鬼に会うのは久々でした。近所に鬼婆ならおりますが、彼女は最近腰痛が痛むらしく、また人間の肉を食べることに執着しているので子鬼の相手をしてくれるのも希なのです。
「なぁ、おまえはなんというおになのだ?」
「生まれつきの鬼さ」
「うまれつきか! おれはまびかれたあかごたちがあつまっておにになったんだ」
「ああ……。だから子鬼なのか」
「おう。ひとつやのババは知っているか? あいつはもとはにんげんだったらしい」
「そうなのかい?」
「ババがじぶんでいってたからな」
一つ家の鬼婆は、旅人を殺して、金品を盗んで鬼となったそうです。鬼婆の知り合いの鬼は、家族を殺して鬼になったものも、誰かを恨んで鬼となったものもいます。オニコ、というのもそんな数多くある鬼の種類の一つなのでしょうか。子鬼は今度ババに聞くことに決めました。両国にある浅木屋の団子か、坊主や百姓の一人でも持っていけばババは機嫌よく相手をしてくれることが多いのです。
「おまえは、ここからでないのか?」
「私は出てはいけないんだよ」
「そういうものなのか」
「そういうものだね」
こんな簡単に出れそうな木戸なのにな。生まれながらに鬼というのは外に出てはいけない何かがあるのだろうか。
「では、おまえは……」
「うん? それは……」
子鬼は男に懐き、暇を見つけては座敷牢に通うようになりました。いつ来ても、男はにこやかに「いらっしゃい」と子鬼を迎えてくれました。子鬼はそれが嬉しくて、自分の仕掛けた悪戯で困った人を見るよりも楽しくて仕方ないのでした。ここから出れないという彼のために、子鬼は外であったこと、自分の行った数々の武勇伝など、いろいろなものを話しました。お堀の桜が綺麗に咲いたこと、馬子に引かれて伊勢参りに行こうとしていたお嬢の話、巷で人気の読みもの、両国橋から見る花火のこと、お城の奥での話。男はひたすらそれに耳を傾け、そして時たま相槌をうっていました。
「きょうはこんなもんだなー。そろそろおれはいくな! ババがたいくつしていることだろうからあいにいくんだ」
「ああ、もうそんな時分かい。気をつけておいでな」
「またな!!」
鬼である自分に毎度「気をつけて」と言ってくれる男が、子鬼は不思議でしょうがありませんでした。けれども同時に心の蔵がざわざわするような、なんとも心地よい快感でもあったので何も言いませんでした。
隅田川を北へ上り、三囲稲荷を川向に見て歩くとババの住処はあります。途中で両国によってお団子も持ってきました。子鬼の姿は見えづらいので、お金を払わずともいいのです。ババの家に行くと、ババは囲炉裏の火を見ながら、包丁を研いでいるところでした。
「おや、なんだいお前かい」
「ババ、ひさびさだな!」
「ふん、まぁ土産もあるようだし、さっさと上がりな」
「おう」
目ざといのは人間の頃の名残でしょうか。笹の葉で包んだ団子をババに渡すと、しわくちゃの目尻をさらにしわくちゃにしてババは笑いました。
「……あのさ、ババ、おれききたいんだけど」
「お、これは三色かい。よもぎがちょっと強いかねぇ……。ん、なんだ?」
「オニコってどんなおになんだ?」
「鬼子ォ? 鬼子は、鬼じゃないよ」
欠けた歯で一生懸命団子を噛みながらババは答えます。
「おにじゃないおになのか?」
「鬼の子、と書くけどもねぇ。鬼子は、人間さね」
「オニコは、にんげん……」
子鬼は、ババの言葉を一つ一つ噛み締めるように飲み込みました。土産の団子を全部平らげたババは上機嫌でお茶を口に含み、喉を潤すと、さらに続けて鬼子の説明をしてくれました。
曰く、歯が生えて生まれた状態の赤子であるとか。
曰く、三十三の時に生まれた娘であるとか。
曰く、親に似ていない異様な姿である子とか。
子鬼の頭の中には嵐が暴れているようでした。ババのしゃがれた声で語られる言葉が、何一つとしてスッキリ頭へおさまらないのです。オニコは、人間。子鬼は、鬼。鬼と人間は仲良くなれるのでしょうか。子鬼にわかったのはそこまででした。ババは鬼だ。俺と同じだ。ババは、人間を食べる。オニコと同じ人間だ。俺は、人間の肉はあまり食わないけれど、でも。
ババの家を去ってからも、頭の中の嵐は静まりませんでした。むしろ勢いを増して、子鬼の頭をぐちゃぐちゃにしていくのでした。
子鬼が男のところへ現れたのは、ババに会ってからちょうど六日が経ってからでした。男は子鬼の姿を捉えると、いつものように「いらっしゃい」とにこやかに笑って迎えるのでした。子鬼はなぜだか泣きたくなりました。こんなことは初めてでした。
いつものように外でのことを話しました。正燈寺の紅葉が綺麗に赤く染まっていたこと、神田祭は相変わらず人が多くて悪戯のしがいがあったこと、もう一月もすれば顔見世が始まるらしいこと。話がポツリポツリと途切れていきました。本当はもっと一杯あったはずなのでした。けれど、それ以上に話しておかなければいけないことがあるのでした。震える唇を一度噛んで、子鬼は口を開きました。
「……なぁ、おまえ」
「なんだい?」
「おまえ、ほんとうはおにでないのだろう」
「……どういうことだい? 私はこのとおり、髪は異人のように赤く、瞳も日の本の人間とは思えないほど薄い色だ。使用人や父様母様とはかけ離れた姿の私が、鬼でないなら一体何だというのさ」
「……たしかに、おまえのすがたはおれたちににているけれど、でもおまえはおにじゃないよ」
「……」
「おまえ、うえのにんげんとかわらない、ふつうのにんげんだ。にんげんだよ」
「ふふ……、そうか。私は人か」
「ああ。でもな!」
「……らば、…………ぜ」
「ん?」
いつもと違う男の様子に子鬼は初めて気付きました。男の筋張った白い拳は小刻みに震えており、口元は歪んでいます。どうした、と子鬼が声をかけようとした次の瞬間。
「ならば、何故!! 私はこのようなところにいなければならない!? 誰かを殺めたわけでも、盗みを働いた事もないのに! なぁ、教えてくれよ、私が人間で、あいつらと同じ生き物だというのなら、何故私はこのような仕打ちを受けなければならないのだ!?」
男は固く握った拳を格子木戸に思い切り叩きつけました。子鬼と男しかいない地下に、その音は鈍く重く広がりました。
「こんなところ、誰が好んでいたいと思う? こんな食事、坊主以外に誰が好む? 私が『ヒト』であるというなら、外の連中は気が触れているとしか思えまいよ」
「あ……の、おれ……」
「私は鬼だ。鬼でなければならない。私は化物で、そうでなくてはならない。……なのに、お前は、鬼であるお前は『私がヒト』だと言うのか? なら、教えてくれよ。あいつらと同じ生き物で、何の罪を犯したわけでもない私がなぜここにいるのか。なぁ!」
「ひっ……」
子鬼は、どうしようもなく怖くなって逃げ出してしまいました。自分は鬼で、怖いものなどないはずなのに。それでも彼の前にはいられず、彼の問いに答えることもできず。
子鬼は男が鬼だろうが、人間だろうが大切な友人だと言いたかっただけでした。初めて出来た一等大事な、一等素敵な友人だと。友人を怒らせてしまったこと、謝らなくてはいけないこと、頭では分かっていても本当に許してもらえるだろうかという疑念が子鬼が行動するのを妨げます。なんとなく気まずくて子鬼はそれっきり彼のもとへ行くのをやめてしまいました。
子鬼が男の子のもとへ遊びに行かなくなってしばらく。子鬼は男の子に出会う前のように一人で遊んでいました。木ノ実をとって食べたり、お城に潜り込んで悪戯したり。同じようなことの繰り返しの中、ふとした時に思い出すのは男のことでした。話したいことが積もっています。日本橋の初売り、初鰹のセリ、軒先に飾られた菖蒲、奉公人口入の話、対して効かない煤払い、そして桜が見頃なこと。一度思い返すと止まりませんでした。無性に男に会いたくなりました。これだけ時間が経っていればきっとオニコもまた笑って「いらっしゃい」と言ってくれるのではないか。変な期待と自信を根拠に、子鬼は久々に男に会いに行くことにしました。なれた道を歩き、彼の家に着くと、そこにはさて、見慣れた人はいませんでした。眉毛の凛々しい父様とやらも、背筋がピンと張った母様とやらも、キビキビ働く使用人どもも。屋敷もどこか荒れている気がします。
(はてさてどうしたことだろうか)
子鬼は男がいた地下の部屋へと向かっていきます。湿った空気が子鬼を包み、カビの匂いが鼻につきました。嗅ぎなれた、懐かしい匂いでした。しかし、彼の部屋には誰もいませんでした。粗末な布団も、小さい書物台もあるのに、彼の姿は見えなくて。ふと子鬼はババの話を思い出しました。
――人間の時間は鬼とは違う。彼らはあっという間にいなくなってしまうよ。――
そうか、彼もいなくなってしまったのか。やはり彼は人間だったのか。
そう思った次の瞬間、誰もいないはずの子鬼の背後から懐かしい声が聞こえました。
――そういやよぉ。
――んぁ?
――この間あった、本所外れのコロシよぉ。あれ、鬼の仕業だってェ話じゃねえか。
――ああ。そういやァ、ホトケさんがひでェもんだったってなァ。
――そうそう。噂によりゃァ、髪を抜かれ頭皮はズル剥けで。屋敷中の人間の目玉ってェ目玉がくり抜かれて、がらんどうがこっちを見てたってェ話でよォ。
――いやァ、滅法界怖ェ世の中になっちまったもんだなァ。
――おうともよ。あんまり花街に入れあげてっと、おめェの嬶も鬼になるんじぇねェか?
――たまにはご機嫌取りでもしねェとなァ。
――ああ、そういや両国の浅木屋ってェとこの団子が旨いらしいが……。
――そりゃァ、土産にいいかもなァ……。
某三太郎のCMを見て思いつき、そのままの勢いで書き上げました。
…………どうしてこうなった、は作者が一番感じています。