4 ひらめき
修行者たちがブッダへの道を修めることは、牛が重い荷物を背負って、泥沼の道を歩いていくようなものである。牛はどんなに疲れても、左右を顧みることなく歩いていく。(四十二章経)
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私は「仏教之奥義ノ書」を何回も繰り返し読みました。
そして、あのおじいさんのようなしっかりした雰囲気の人間に少しでも近づきたいと思い『神仏の言葉を観る』修行をやってみることにしました。
紙に七つの言葉を書いてベッドの脇に貼って、その日から毎日起きたときと寝るときにそれを見る習慣をつけました。
やがて次の仕事も決まり働きはじめました。正社員ではなく契約社員でしたが、人生を一からやり直すつもりになっていました。
仕事をはじめても修行は毎日続けました。見るだけですし、自分を変えたいと思いましたしね。
とにかく、今の駄目な自分をどうにかして変えたかったんです。そう思いました。その時は……
修行をはじめて1ヶ月ぐらいたったころでしょうか? ふとしたところで神仏の言葉を思い出すようになりました。
その時は、「まあ、毎日眺めているんだから当然か」ぐらいにしか思っていませんでしたが、今考えると、そういう時は思い出した言葉に注意しなさいよ、というなにか大いなるものからの導きだったような気がします。さっと流してしまったことを今は反省しています。
そして、ある日のことでした。
テレビで中東のニュースを見ていたときです。
あの地域は今でも紛争地帯です。私が若いときもそうでした。
テレビを見ていてキャスターあるいは解説者の人だったか覚えてませんが、とにかくテレビから
「厳格な戒律のイスラム教」
というフレーズが私の耳に入ってきました。
厳格、イスラム、宗教、戦争……、そういった言葉が今私がやっている修行のキーワード「易行」と結びついて、あることがひらめきました。
それは、易行と平和には何か関連性があるのではないか? というものでした。
世界でもっとも平和な地域といえば、日本や欧米を思い浮かべるでしょう。日本の宗教的縛りがゆるいことはわかるでしょう。欧米のキリスト教も、ーーキリスト教のことをよく知っているわけではありませんがーー直感的にむかしと比べて厳格さは薄れてきているのではと思います。確かキリスト教の聖書も何語だったか……その言葉でないと異端とされていたはずです。今では英語でも日本語の聖書でも異端などと言われないでしょう。
平和な地域が宗教を問わず易行へとすすんでいることは間違いなさそうです。逆をいえば、いまでも争いが激しい地域では易行がすすんでいないといえるのではないでしょうか?
もしかしたら、易行へとすすまない、すすめようという指導者が現れないから、この地域の争いはおさまらないのではないか? と思いついたのです。
本当にひらめきでした。私はこの自分のひらめきが何かの悟りを得られた証しではないかと興奮しました。
……実をいうと、これは悟りではなく、大きな間違いだったのです。