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2 住職

念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。たとえ法然上人にだまされて、念仏をとなえつつ地獄に落ちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。(歎異抄)



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



30代のなかばぐらいの頃、私は自分の人生はなんとつまらないものだと不満でした。


高校ぐらいから勉強が難しく感じ始めまた面白くもなかったので、成績が下がってしまいました。志望した大学にも行けず、ヤル気をなくしてダラダラとしていました。

大学は経済学部に入りましたが、なにか学問が身についたわけでもなく、スポーツに打ち込んだわけでもありませんでした。友だち付き合いすらめんどうに思うようになって、アパートの中でテレビを見たり漫画を読んだり、むだな時間をすごしていました。

でも、自分はまだやればできる人間だと思っていました。


しかし、社会人になってもいっこうに何かを成し遂げてやろうという気概をもつこともなく。仕事の成績もぱっとしなものでした。

会社が嫌になり、職を転々としていきました。


少し興味を持て古物商の許可をとり、勉強もして個人事業者として開業してみましたが、四年後売り上げより仕入れ値のほうが上まわり、アメリカのバブルがはじけたからだめになったのだと言い訳して止めてしまいました。

事業を整理して振り返ってみると、自分にはなにもないと思いました。

頭もよくない、仕事もできない、お金もない、彼女もいない、未来のビジョンもない、ヤル気もない。

そんな状態で、家に引きこもるよになりました。そんな私を見て父は怒るし、母は泣いていました。


家に居づらくなり引きこもることさえできなくなり、ぶらぶら出歩き古本屋で一日中どうでもいい本を立ち読みしたり、ホームセンターや家電販売店で暇つぶしをしたりして、無気力になっていきました。


それでも今の状態をなんとかしなければと思い回答を求め、自己啓発の本を読んでみました。

次に哲学の本を読んでみました。簡単な入門書をよんでから、哲学者の名著と呼ばれるものに手を出しました。でも、そこに書いてあることを私はまったく理解できませんでした。アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ハイデガーなど、5ページと読み進めることができませんでした。


あきらめて次は宗教の本を読んでみました。そのころ私は神や仏のことなどまったく信じていない人間でしたが、宗教というものが長い歴史の中で人々の支えになっていることは否定できなかったので、私もなにかを求めてそれに向かっていました。


私の家は浄土真宗でしたが、日蓮の本や禅宗の本も読みました。仏教だけでなくキリスト教の聖書にも目を通しました。

本を読んでいて気がついたのですが、私の家の浄土真宗は親鸞が開祖なのですが、ふだん読んでいるお経に正信偈さんというのがるのですが、これを読めとは言っていない。「なむあみだぶつ」と念仏を唱えていればいいといっているのです。

そうすると現代の浄土真宗は親鸞の教えではないのではないかと、そのあたりが疑問というか不満というかそういう感情を抱きました。これはおかしいのではないかと思ったのです。

そんなことを考えながら日々は過ぎていきます。


本を読んでばかりいるわけにいかず、私は職安へ仕事を探しに出かけたりもします。

そんなある日、私は近所のコンビニへ求人誌を買いに出かけ、その足でふらふらとあてどなく町を歩いていました。その時この寺の前を通りかかったのです。


ちょうど門のところで老人が掃き掃除をしていました。

その老人と目が合いました。

「こんにちは」と暖かなそれでいて力強い声であいさつをしてくれました。

私はそのまま通り過ぎるつもりでしたが、その声におもわず足を止めてしまいました。そして、

「こんにちは」とあいさつをしました。

するとうれしそうに笑って話しかけてきてくれました。


「若い人がこんな時間に通りかかるのはめずらしい。仕事は今日はお休みかな?」


といってきた。

無職なので答えづらかったのだが、返事に窮したことで老人も察してくれたらしい。すぐに、


「まあ、よろしい」


といって話題を変えてくれた。

少しの雑談をしたあと、


「時間があるなら、お茶でも飲んでいかんかい? 退屈でなあ。掃除をするか経をあげるぐらいしかひまつぶしがないんだ」


と誘ってきた。


不思議な魅力を感じさせる人で、たぶんこういう人を人格者というのだろうと思いました。


「はい」


と私は答えていました。

そして、誘われるまま本堂の中へ入らせてもらいました。たたみの上に座り老人が出してくれたお茶を二人で飲みながら、取り留めのない話をしていました。


いつの間にか私はこの老人を「おじいさん」と呼んでいました。住職と呼ぶのは堅苦しいからと自分からそう呼んだのか、それともこの老人がそう呼ぶようにいわれたからかは忘れてしまいましが、いつの間にかそう呼んでいました。


本物のお坊さんと話せるせっかくの機会でしたので、先日疑問に思ったことを聞いて見ました。親鸞の本来の教えと現代の浄土真宗が大きく違っていることについてです。


「ほう、勉強もしたのかな?」


私は少し本を読んでそう思っただけですと答えた。おじいさんはうんうんと頷いてはなしを始めた。


「時代とともに教えや信仰のあり方は変わっていく。いろいろな理由があるだろう。時代の問題、昔と今とでは違って当然だし、ほかに権力者の都合であったり、法律の関係であったりと時の流れとともに変わっていく。浄土真宗と親鸞の関係だけでなく、仏教そのものがシャカとの関わりを変化させてきた」


そして私はおじいさんのはなしの続きに驚愕した。


「なぜ変わるか。その根本の原因は、わしが思うに仏教が落伍者の宗教だからではないかと思う。シャカ本人がもともと落伍者なんだよ」

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