それって浮気なんでしょうか?
首都の賑やかさは、山奥の町出身の僕には眩しく映る。
そこを歩く人は様々で、西洋の甲冑を着た人からスーツを着た人、ドレス姿の人、着物の人と和洋折衷で様々だ。そんな人々が川のような流れを作り、時に布を敷いて作られた露店に足を止めることはあれど、最後には歩いて行く。
酒場の傍の路地裏から、僕はそれをぼんやりと眺めていた。
「どうしたの? ぼんやり人ごみなんて眺めちゃって」
シズクが、からかうように言う。彼女は樽の上に座って、左右の足を前後に振っていた。どこか子供っぽい仕草だ。
それが、昔の知人を思い出させて、僕はついつい苦笑してしまう。
「いえ、帰って来たんだなと思って」
「受験勉強中はログインせずに良く頑張ったねえ」
ここはオンラインゲーム、イグドラシルの世界だ。シズクはこの世界で、僕が所属するギルドのサブマスターだった。
ギルドとは、このゲームのシステムの一つだ。主催者が作ったそれに所属すると、同じギルドに所属する仲間と遠く離れていても会話ができるというメリットがある。つまるところ、自然と仲の良い人間、仲良くなろうとする人間の集まりとなるのだ。主催者はギルドマスターと呼ばれるが、特にメリットはない。
サブマスターは、その補佐をする立場だ。その肩書きを作るギルドもあるし、作らないギルドもある。と言っても、マスターが不定期接続のこのギルドでは彼女は実質マスターのようなものではあるのだが。
「嫁に会いたいんじゃないかい?」
「……メールのやり取りはしてましたから」
「お熱いことだね」
シズクは目を細めて意地悪く微笑む。
それも、昔の知人を思い出させる台詞と表情だ。僕は、ますます苦笑するしかない。
「そういうんじゃありませんよ、僕達は」
「まあ、そうだろうね。君達はネット恋愛してるわけじゃないから」
あっさりとからかうのをやめるのだな、と僕は意外に思った。
「ご賢察に感謝しますよ」
「君の本音はどうだかわかんないけどね」
シズクはやはり、意地悪く微笑んでいる。
痛い所を突かれたな、と僕は思う。僕には、このゲーム上で結婚している嫁がいる。リアルでメールをやり取りする間柄だ。けれどもその間に、恋愛感情はない。ただの、ゲームを一緒に遊ぶ友達だ。
なにせ、僕達は本当に会ったことすらないのだから。
会ったことがないのに、メールをやりとりして、ゲーム内では夫婦として振舞う。不思議な話のように聞こえるかもしれない。けれども、それがオンラインゲームというものなのだ。
そして、本音では、僕は嫁であるヤツハの現実の姿に興味を持っていた。
「怖いのかい? 相手の顔を見るのが」
「そういうんじゃないですよ。それを言ったら、シズクさんだって結婚してるじゃないですか」
シズクは、ギルドマスターの嫁なのだ。
「私達はオフ会で互いの顔を見てるし、古い付き合いだからねー。今更そういう初々しい感情はないさ」
枯れている、ということらしい。
「それなら、俺達も古い関係ですけれどね」
「何年目?」
「今年で、三年目に入ります」
「六年目だ、勝った」
こんな風に、年季の入った人々が多いのも息の長いMMORPGの特徴なのである。
「残念だね、丁度嫁がログイン控えてる時期で」
「ログイン控えてるって、何かあったんですか?」
「まあ、ちょーっとしたトラブルでね。サブマスターとして私も処理に困ってる」
「へえ……うちにもトラブルを起こすようなメンバーがいたんですね」
「一年も君はログインしてなかっただろう? それは人も増えるさ。ほれ、丁度元凶がログインした」
僕とシズクの目の前に、メンバーがログインしたという表示が浮かび上がる。吹雪丸という名前のギルドメンバーがゲームを再開したらしい。
それは、僕の知らない名前でもあった。
「キヅー、話があるんだけれど良いか?」
吹雪丸はこの場にはいないが、ギルドメンバー全体に発言が伝わるシステムを使って誰かに話しかけているらしい。
しかし、キヅと呼ばれるメンバーの返事はない。
「俺も反省してるんだよ、キヅ。話し合いたいんだ」
「どうなってるんすか、これ」
僕は、シズクに話しかける。
「どうもこうも、あれだよ。愁嘆場って奴だ」
そう言って、シズクは肩をすくめた。どこか、投げやりな口調に聞こえた。
「そして、この問題を解決しないと、君は嫁には会えないんだなあ、残念ながら」
それは、非情に憂鬱な宣告でもあった。一年ぶりのログインだ。僕は一刻も早くヤツハに会いたかったのだ。メールのやり取りをしていたと言っても、伝えられる情報には限度がある。一年分積もった話を、すぐにでもヤツハと分かち合いたかった。
けれども、その願望の前には、深い壁があるようだった。
「事の発端は単純だよ。ヤツハちゃんが吹雪君と組むことが増えた」
そういうこともあるだろう。MMORPGでは、レベルの近いプレイヤー同志は遊ぶ機会が増える。
「嫉妬した?」
「しませんよ」
一々からかいを混ぜるのがシズクの嫌らしいところだ。
「つまるところ、それが全てだ」
「発端しか語ってなくて、途中を豪快に省きましたね……」
吹雪丸はギルド会話で、キヅという女性に話しかけ続けている。それが僕はなんだかどんどん鬱陶しく思えてきた。
「大体、吹雪丸って人とキヅって人はどういう関係なんですか?」
「ゲーム内夫婦。キヅって子も、受験勉強で最近はログインを控えてたんだ」
「へー、同じぐらいの歳かなあ」
「帰ってきたら旦那には仲の良い遊び友達がいる。そりゃ、拗ねるのもまあ仕方ないよね」
「……つまり、人間関係上でドロドロしてるってことですか」
「そゆこと」
「ヤツハはそんなこと一切言ってなかったんだけどなあ」
ヤツハとはメールのやり取りをしていたはずだ。だというのに、僕は今回の件に関する話を一つも聞いてはいない。
「君が不快がると思ったんじゃないのかい? 一応、嫁だからね」
「そういうの、僕は気にしませんよ。ゲームですからね」
「ゲームをゲームと割り切れない人がいるんだなあこれが」
吹雪は未だにキヅに呼びかけ続けている。
「……ギルド会話鬱陶しいんでオフにして良いですかね」
僕は面倒になってきたので、思わずそう問いかけていた。
「私はもうオフにしてる」
シズクは飄々とした口調で、そう言ってのけたのだった。それならば、僕も遠慮することはない。ギルド会話を聞こえないように設定すると、吹雪丸の悲痛な叫び声は聞こえなくなった。
物憂い気分だった。ヤツハに友達が出来たのは良いことだ。喜ぶべきことだ。
しかし、くだらない嫉妬が元で、彼女と遠ざかってしまうならば、それほど憂鬱なことはなかった。
「……彼女にお帰りって言ってもらえるの、楽しみにしてたのになあ」
思わず、本音が零れ出た。
「そういうもんだよ。一年ぶりだものね」
シズクは、意外とからかわなかった。
吹雪丸と僕が会うことになったのは、それから数時間後のことだった。一度ゲームから離れ、食事をして、僕は再度ゲームの世界に戻る。
パネルフォンにはヤツハからのメールの着信があったが、なんとなく返す気になれなかった。肝心なことを喋らずにいる彼女を責めてしまいそうで、そんな内容のメールを送ることは非建設的だと思ったのだ。
メールの内容は、簡潔だった。
『引越しが終わった直後ってなんだか寂しいよね。元気にしてる?』
肝心なことを黙っておきながら心配して見せるのがなんとも彼女らしかった。
六畳一間の部屋の一畳を、卵型の大きなゲームハードがしめている。体全体を包み込むのが、エッグというゲームハードの特徴だ。良くこんな場所を取るものが売れたものだ、と僕は思う。
エッグの中に入って、僕は再びイグドラシルオンラインの世界へと戻って行く。新太である僕が、シンタへと変わっていく。
画面に広がったのは、僕らの溜まり場である酒場傍の路地裏だった。
「おお、シンタだ!」
「久しぶりだね、元気にしてた?」
八時頃だから、ログインしているメンバーは多い。様々な声が僕の元に飛んでくる。
「元気だぞー。これからまたバンバン遊ぶからよろしくなー」
挨拶を返していると、溜まり場に二つの異変があることを感じ取っていた。
一つは、常駐しているシズクがいない。彼女はゲームをしていない時でも、キャラクターは樽の上に座らせて放置していくのだ。そしてもう一つは、陰気臭い表情の男が一人、体育座りで溜まり場に鎮座していた。
ギルドメンバー一覧表を僕は呼び出す。彼が件の吹雪丸であると、それで調べて知れた。
「こんばんは」
声をかける僕に、吹雪丸は顔を上げる。
「……こんばんは」
戸惑うような表情だった。僕のことを知らないのだから、それも当たり前だろう。
「シンタって言います。ヤツハの結婚相手の」
「……僕を、責めるんですか」
緊迫した口調で、彼は言う。だから、僕は出来るだけ穏やかな口調で話をするように勤めた。
「いや、ヤツハとはしばらく一緒に遊べなかったし、その間に友達が増えたなら良いことだと思うけれど?」
「そうですか……」
吹雪丸は、安堵したような口調になる。そして、再度黙り込んだ。
間が持たない。この男は、キヅという少女以外に興味を持っていないのかもしれない。だから、溜まり場から自然と人が遠ざかっているのだろうか。
「キヅって子を待ってるの?」
僕は、吹雪丸の傍に座って話しかける。
「ええ。キヅが戻って来たら色々な場所へ遊びに出かけるはずだったのに、どうしてこうなってしまったんだろう」
そう言って、吹雪丸は右手で頭を抑える。
エッグというハードは優秀だ。声、表情、仕草を忠実にトレースしてゲーム内に反映する。だから実際に、吹雪丸を操るプレイヤーは陰鬱な表情で、頭に手を置いているのだろう。
僕は状況を知るためにも、吹雪丸の愚痴に付き合うことにした。
キヅの復帰は、劇的だったらしい。
その日、吹雪丸とヤツハは、たまたま溜まり場に二人きりだったそうだ。その直前にプレイしたクエストの会話で盛り上がっていたらしい。
そこに、隠れていたキヅが姿を現した。
彼女にとってみれば、これはどういうことだと言うことになったらしい。そして、吹雪丸は激しい詰問を受けた。新しく実装したクエストでどれか未プレイなものはあるか、と。
吹雪丸は馬鹿正直に、全部消化済みだと答えてしまったらしい。そこから、今の状況が続いているそうだ。
「……未プレイだって誤魔化せば良かったんじゃ?」
「あの時は、キヅが怒っているのと、突然現われたのに驚いて、それどころじゃなかったんですよ」
そう言って、吹雪丸は深々と溜息を吐く。
「なんか浮気現場を押さえられた亭主みたいだな、あんた」
半ばからかい混じりに、僕は言う。
「ゲームだから、そういうんじゃないって言っても、キヅはわかってくれなくて……」
僕もだんだん、これがそういう話のように思えてきてしまった。
ヤツハはクエストマニアだ。新しいクエストが実装されたら、一にも二にもプレイしてみようと思うだろう。しかし、一人でプレイするのは寂しい。その間、一緒に遊んでいたのがいつも吹雪丸だとしたら。
僕も、少しだけ心の表面に爪を立てられたような気分になった。
けれども、それは子供っぽい独占欲だ。だから僕は、それを心の中にしまいこむ。
「元々嫉妬深い子なの?」
「一緒に遊んでる時は、いつもべったりだったからわからなかったけど、こうなってしまっては嫉妬深いと考えるべきなのかも……」
「そうなんだろうなあ」
「けど、僕はキヅが大好きなんですよ。帰って来たなら、また一緒に遊びたいと思ってる。まさか、話すら聞いてもらえないなんて……」
そう言って、吹雪丸は深々と溜息を吐いた。それきり、沈黙が周囲を包む。
相手をしていたら僕まで憂鬱になってきた。仕方がないので、僕は溜まり場を後にすることにした。吹雪丸がいるから、溜まり場を他のギルドに乗っ取られる、なんて心配はないだろう。
ヤツハへのメールの返事を、僕はぼんやりと考え込む。
どうして肝心なことを何も相談してくれないの?
そんな、彼女に追い討ちをかけるような言葉しか思い浮かばなくて、僕は少しだけ自分自身に呆れた。
結局、まだまだ僕もガキということなのだろうと思う。
ただ、そんなメールを送れば、ますますヤツハは遠ざかる。そうと判断できるだけの分別は、持っていた。
キヅと僕が会ったのは、それから一週間後のことだった。