2章「炎の高揚」 Ⅲ
Ⅲ
項垂れた俺は、アンネさんが出て行っても動くことが出来ずにいた。
いつもそうだ。うじうじと俯いて何も答えを出さずに居れば、正義感の強い誰かが問題を解決してくれる。学校で誰も挙手や立候補しないのと同じだ。その他大勢で居るのが、与えられる指示で動くだけの方が気が楽なんだ。何か起これば、指示を出したその人が悪い。解決すれば皆で頑張った成果。なんて楽なんだろうか。
そうして居ても、特に不自由することなく生きていけるんだ、楽な生き方をすることが間違っているはずが無い。
なのに、何故こんなにも罪悪感に苛まれないといけないのだろう。どうしてここまでアンネさんに申し訳ないという気持ちにならないといけないのだろう。
言われるがまま流されて、たまたま良い結果が出て有頂天になっていただけだ。俺はそんなに価値のある人間じゃない。褒められたって、少し必要とされたからといって、あんなのただの『仮』の力じゃないか。
即席の強力な力を持った人間が良い結果に終わるような漫画があっただろうか。大体身の丈に合わない力のせいで破滅するじゃないか。
だから、断って正解だ。何もしなくて平気だ。それで良いんだ。
―――そんなの、詭弁に過ぎない。
無理やり自分の行動を肯定したいだけ。言い訳だ。
そんな時、玄関の扉が開いた。
「ヒーロー君!まだ寝てるのー!?」
花蓮さんのキンキンと耳に響く声が鼓膜を揺らす。こんな夜更けに近所迷惑だから勘弁してくれと明後日の方向への心配をしてしまう。
ダンダンと大きな足音を立てながら、リビングの入り口から顔を出し、
「あ!起きてるじゃん!よーし、早く行くよ!アンネが君を求めてる……って、別にそういう意味じゃないからね!?勘違いしないでね!アンネとそんな仲になったら姉ちゃんが何するかわかんないからなー!あはははは!」
聞いてもいない事を捲くし立てる、俺の苦手なタイプだ。しかも多分思ったことを全部ストレートに言ってしまう、嘘の吐けない人。
起きてる、と言ったことから察するに、俺は寝ていると言って誤魔化し、アンネさんは一人で戦いに行ったんだろう。能力が意味を成さないというのに、一人で。
「俺は……その……行けないです……」
きょとんとした目で見つめられ、咄嗟に目を伏せる。どう思われても良い。今はもう、それどころじゃないんだ。世間体なんてどうでも良い。
「行けない?あ、起きてすぐはトイレ行きたくなるもんね!それくらい待ってるから平気平気!」
「違います!そうじゃなくて」
「ん?ご飯か!バイクにおにぎりあるから降りたらあげるよ!私の夜食だけどヒーロー君の力発揮できないのは困るからね!っていうかこの部屋なんか焦げ臭くない!?もしかしてまたアンネが料理焦がした!?ごめんねヒーロー君、アンネは料理だけは本当に昔から上達しなくてさ、ギャグ漫画みたいな料理の失敗ばっかりするんだよねー」
「俺は!ヒーローじゃ、な、ないです……」
「ん?あ、草太君だっけ?ごめんごめん、何とかヒーローだって聞いたからそっちの呼び方の方が良いかなーって思ってさ!」
「ダークヒーロー……」
「ああそうそうそれそれ!ダークヒーロー君!そう呼ぼう、うん!そうするね!」
だから苦手なんだ。まるで会話にならない。
こういう人は大体自分の思ったままにしか話さないから人の感情を読み取ろうとしない。だから苦手なんだ、こちらが煩わしそうな表情や言い方をしても動じないし、それを考慮する気も無い。
言い返す為に用意した言葉は、全部飲み込まれて掻き消されてしまう。
それが、今は不思議と心地良かった。
嫌なこと、ネガティブなこと、自分を卑下することを考えずに済む。
「さ、行こう、アンネが待ってる」
立ち上がらせる為に差し出された手。
『待ってる』なんて言葉、初めて言ってもらったかもしれない。
この手を払い除ければ、今度こそ本当に断ち切れる。日常を、取り戻すことが出来る。
簡単じゃないか。これが最後だ。
責任を背負い、命を賭すことを課せられる必要なんて、俺には無いんだ。
「うわ!な、なんで泣いてるの!?」
頬を伝う水の感触。言われて初めて、自分が泣いていることを知った。
ずっと思っていた。俺は特に必要の無い人間だって。居なくなれば、代わりの誰かがそこに入って、変わらず世界は回っていく。そう思って生きてきた。機械部品のように、消耗したらそこに新しい歯車が入って、それの繰り返しなんだって。
今、ここで、俺は『必要とされて』『代わりは居ない』。
「俺は……一体何なんだよ……」
自分で自分を責めた。今まで代わりは居ると思い込んでいた自分を。
「何って……さっき自分で言ってたじゃん、何とかヒーローだって」
ああ、そうだ、俺は、
「ダークヒーローです!」
俺は、立ち上がることを選択した。
もう後悔はそこには無い、コートハンガーに掛かった黒いマントを鷲掴みにした。
***
「さあ!飛ばすよー!」
「お、お手柔らかにお願いします」
花蓮さんのバイクの後ろに乗り、バイクの轟音と風を切る音だけが耳に入って来ている。
正直怖い。出来ることならばもう少しスピードを落として欲しい。曲がる度に地面と平行になっているのではないかという恐怖しかない。漏らしそうだ、やっぱりトイレに行っておくべきだった。
近くの風景はコンマ秒単位で吹き飛んでいく。赤いパトランプが煌々と光を発し、周囲の防音壁を赤く照らしていた。
深夜の高速道路とはいえトラックがぽつぽつと走っているが、花蓮さんはそれを気に留めるわけでもなく、次から次へと追い抜いていく。その度に吹き飛ばされそうになるので必死にしがみ付く。鼻腔を微かな油の臭いがくすぐった。
轟音に混じり、小さく建物の瓦解音が聞こえてくる。夕方の光景が脳裏に浮かび、無意識に歯を食いしばってしまう。
「どうして、あんなことが出来るんだ……」
ぽつり、と漏らした俺の言葉に花蓮さんは目敏く反応を見せる。
「ある日のこと、AS宛てに手紙が届いたんだよ」
え、と思わず出た相槌は届いているか否かは定かではないが、花蓮さんは気に留める様子も無く続けた。
「内容はね、簡単に言っちゃえば『私たちはこの世界に虐げられている。だから壊してしまうことにした』ってことだった。理不尽な暴力や謂れの無い悪意に晒されてるんだから、それを仕返すことは別に当たり前みたいな」
理不尽。それは記憶にあった。所謂、クラスのヒエラルキーの頂点部分に位置する人物、簡潔に言えばリア充と呼ばれる人達の気まぐれやなんとなくで、世界の隅に追いやられ自由を奪われるあの感覚。本人達は罪悪感だとかそんな気持ちは微塵も抱いていないだろう。彼らにとってそれは『ちょっとした遊び』なんだ。
きっかけなんてどうでも良い。些細なものだろう。気に食わない、なんかムカつく、生理的に受け付けない、何でも有りだ。子供の世界はブレーキが効かない、どんどん加速していってしまう。
「可哀想、しかたないって思った?」
「俺も、少し経験があるので……」
この轟音の中で、掠れた俺の声は果たして届いているんだろうか。
「殴られたら殴り返す、いじめられたらいじめ返す、そんなことやって良いなんてこと、絶対に無いんだよ」
それは、と声を出し続く言葉を無理やり飲み込む。
それは、恵まれた環境だからこそ言える言葉だ。泥臭い土の味を知らない人間だからこそ、今現在何も気にせず生きていられる環境に居るからこそ言えるんだ。溺れた時、何にも掴まることが出来ない絶望感を知らないんだ。
そんな言葉を飲み込んだ。
俺自身、小学校低学年の頃に両親や風香が居なければ、同じ立場に居たかもしれない。そう思うとゾッとする。
「やり返したい気持ちは当然出ると思う。けど、どちらかが手を止めなくちゃ何も解決しない」
「それは、そうかもしれないですけど」
「かも、じゃなくてそうなの。だってそんなこと続けていったらずっと繰り返しちゃうじゃない?」
そうやって自分の価値観を押し付けて、それが世界の全てだと言わんばかりの主張。
それに抑圧された感情は、行き場を失って心を蝕んでいく。あの頃の教師がそうだったように。
「花蓮さん、申し訳ないですけど、それ、間違ってます」
「……ヒーロー君はあっち側の人間なの?」
「どうして」
世の中には善と悪の二種類しか居ないと思えるんですか。否定する人間は敵なんですか。言葉は喉に詰まって、あの頃と同じように行き場を失った。
「じゃあ、今から証明して見せて。私の知らない答えを」
燃え上がる炎の熱で、周囲の気温は上がっていた。
気付かない内に汗が滲み、ヘルメットが蒸れて嫌な気分だ。
「ちょっと、花蓮さん!道、道が!」
高速道路は破壊され、進路が無くなっていた。
「行くよ、しっかり掴まって!」
「は!?ちょっと心の準備が」
「そんなことしてる暇なんて無いからっ!」
元々出していたスピードを更に上げ、前輪が少し浮き上がった。
そして。
砂利を巻き込む雑音が消え、飛んだ。
直後、内臓が掻き回されるような浮遊感が俺を襲い、花蓮さんのお腹に必死にしがみ付く。
「ぐえ、苦しいよ、男の子でしょ、こんなのジェットコースターで慣れてるでしょ」
あっけらかんと言われたが、俺にはそんな余裕は一切無いし、返事を搾り出すことも出来なかった。
何よりジェットコースターに頻繁に乗るほど俺の人生は充実していない。
「ヒーロー君!あれ見て!」
恐る恐る目を開けてみると、百メートルくらい先に炎の輪が見えた。その中心に赤いロリータ服を纏った少女の姿。間違いなく、夕方地元を焼き尽くした炎の能力者だった。
その頭上にはいくつもの炎の球体が浮かび、ふわふわと浮いている。
円の形状もどこか不自然だった。少女の正面の勢いは強く、後ろの勢いは弱いのである。普通逆じゃないのか、見えないからこそ後ろの守りを固めるのが定石ではないのか。
前方ではバイクが目まぐるしいスピードで動き回り、飛び交う火の玉を避け続けている。美羽さんだ。アンネさんは、と目を凝らすと後ろから近付いていく人影が見えた。
「衝撃来るよ!」
ズンッ!と着地の衝撃で尻を強打した。鋭い痛みが襲い、ぎ!と声が漏れた。
「か、花蓮さん!アンネさんが危ない、このままアンネさんに向かって直進して!」
「わかった!」
ブオン!とエンジンが悲鳴にも似た音を吐き出す。後ろへ吹き飛びそうになりながらも、必死に前を見る。
着地の衝撃で目を閉じていた間に、赤い少女はアンネさんへと振り向き、今まさに焼き尽くそうとしているところだった。
「間に合え……っ!」
飛び上がったアンネさんへ横から飛び掛る。今ならハリウッドでアクションスターになれるかもしれない。
突撃した直後、炎が俺の髪を掠めてチリリと音を立てた。
勿論着地は失敗、二人してごろごろと転がって、全身を痛みが襲った。