2章「炎の高揚」 Ⅱ
Ⅱ
それは、漠然とした不安だった。
じわじわと黒い靄のようなものが、蛇のように足元から巻きついて上ってくる感覚。
覚悟を、か。
漫画やゲームの主人公みたいに、『覚悟はとっくに出来ている。人々を守るんだ』と言えたらどれだけカッコいいんだろう。
気持ちはあるんだ。そういう勇者みたいなことをしたくないってわけじゃない。
でも、俺で良いのか?大丈夫なのか?
自分に自信が無いから言葉に詰まる。足が動かない。
俺は昔から自分に自信が無かった。勉強も並程度、運動も全く出来ない程ではないがこれも並程度、顔は……髪型を整えてやっとまともになる程度。いわゆるクラスの中間層に位置する、食物連鎖の真ん中くらいの人種。誰とでも分け隔てなく話せるが、誰か特別仲の良い人物が居るかと言われればそれは否だ。
居ても居なくても特には変わらない、それが俺だ。
それが嫌で、自分の中で何かを変えたくて、自分は特別な人間なんだと思い込みたくて、中二病と蔑んだ目で見られてもキャラ作りをした。毎日当たり障りの無い会話をするだけの、機械的に毎日同じ行動を繰り返すだけの、そんな日常が嫌だったんだ。
でも、それは失策だった。
俺自身の性格を知っている人間にとってそれは『ただのごっこ遊び』に見えていた。
闇を纏い、人知れず弱い人を助ける、そんなダークヒーローは『ギャグ』として片付けられていったんだ。
自分には何も出来ない、コンプレックスの塊だ。
あの日渇望した世界に入り込む覚悟は、出来ていたと思い込んでいた。思い込んだままで良かった、実際に行動を起こすなんて俺なんかがおこがましい事だったんだ。
……やめよう。
あの時は風香を助けるために必死だった。ただそれ以上でも以下でもない。ただそれだけだった。
もう助けられたしもうそれで良いよな。うん、それで良いんだ。
そう自分に言い聞かせる。
部屋に鳴り響き続けていた通信機のアラームが、聞こえない振りをして俯いていると一層音量を上げた。
「草太、ありがとう。強引に誘ったとはいえ、協力してくれたこと感謝する」
そう言い残し、アンネさんは玄関から飛び出していった。
部屋に取り残された俺は、顔を上げることも出来なかった。部屋に残った焦げ臭い匂いが鼻をつき、燃える街で怯える風香の表情が何度も頭にチラついていた。
***
「現場は!?」
マンションの入り口で待機していた美羽のバイクに飛び乗りながら、状況の確認を行う。
「飛ばせば五分で着く、すぐそこ」
美羽がいつも通り低血圧そうな口調で応えた。このバイク乗りの橘姉妹とは高校からの同級生だが、何も変わらない。昔からこうだ。それが心地良かった。
「あれ?あの子は?」
花蓮があっけらかんとした声で疑問を口にする。
「いや……今日は疲れただろうから寝かせてある」
咄嗟の嘘。声が震えていないかどうか不安だった。ヘルメットを被るその手の震えを抑えるので精一杯で、声まで作れていただろうか。
「あ、なるほどー!アンネは優しいねー!」
ズキンと胸が痛む。嘘を吐くのは昔から苦手だった。姉の美羽は何も言わず、ただ前を見続けている。多分、いや昔からの仲だ、確実にバレているだろう。
「花蓮はここで待機していてくれ。草太が出てきたら……もし出てきたら現場に連れてきてくれ」
「りょーかい!」
言葉に詰まってしまい、自分でも恥ずかしい。僅かな希望を口にしてみたものの、恐らく彼は出てきてくれないだろう。
今まで何の不自由も無く生きてきた一般人に、今日の今日で命を賭けて世界を守れなどと、酷な話だ。今まで通りの日常を生きてくれればそれで良い。一度だけでも戦ってくれた、それだけで御の字じゃないか、今までそんな人は居なかった、尻込みして逃げ出していたじゃないか、そう自分に言い聞かせた。
「美羽、頼む」
唸り声を出しながらバイクは走り出した。
風を切る音とバイクの轟音、一瞬で消し飛んでいく風景。
前方のビルとビルの隙間から、仄かに炎の赤色が目に入った。
「アンネ」
騒音の中、美羽がぽつりと呟いた。
「嘘は良くない。強がらなくても良い。私、たちが居る」
ああ、と一言だけ応える。それが彼女の耳に届いたかどうかは定かではないが、どちらでも良かった。
炎の光がさらに大きく見えるようになると、五月蝿いくらいの騒音がふっと聞こえなくなった。気付かれることなく近付く為に、美羽が消している。
炎の熱で蒸し暑くなってきても、私に何が出来るというのか、そんなことばかり考えていた。
***
焦げ臭い。
現場に到着し、物陰に身を潜めながらの最初の感想はそれだった。
暗いはずの夜の闇は、燃え盛る炎によって霧散させられ、オレンジ色の光が辺りを照らしていた。
一日に二度もこのような光景を見せられることになるとは。屈辱から拳を握り締める。食いしばった歯がぎちぎちと嫌な音を立てた。
「何故私たちはいつもいつも後手後手に回らなければならない……!未然に防ぐことは出来ないのか……!」
愚痴とも取れる声が漏れ出してしまった。悪が暴れださなければ何も出来ない、平穏を守ることが出来ない、昔からあるヒーロー番組だってそうだ。怪人が暴れださなければ現場に居ることすら叶わない。被害を最小限にしたいのではない、被害を無くしたいのだ。理想と現実の違いがもどかしい。
「アンネ、私が囮になるからその内に奴を」
真紅のフランス人形のような服を翻し、尚も暴れ続ける対象を前に怯むことなく自分が囮になると言い放つ美羽。
「しかし……!」
止めたい。私しか居ないこの場では、私は通常の人程度の働きしか出来ない。そんな私が止められるわけがなかった。
「わかった……、しかし能力の制約が未だはっきりしていない以上、無理だけはしないでくれ……」
私の懇願に美羽は何もう言わず頷く。
「音を消してバイクで突っ込んでいくから、アンネは後ろから」
言葉に詰まりながらも、わかったと一言告げ、炎の能力者を中心にして円を描くように回り込む。
屈みながら瓦礫の散らばる中を駆けるのは少々足に負担が掛かるが、それでも1秒でも早く、アイツを止めなければという気持ちで駆けた。迷いなど感じている暇は無い。今、この瞬間にも被害は出続けているのだから。
数時間前に退けられたことがかなり癪に障ったのか、先刻よりもさらに甲高い奇声を上げ、街を焼いている。さながらその姿は、親に叱られて癇癪を起こす子供のようだった。
少しずつだが人物像が見えてきた。
初見では単純な破壊衝動を抑えられない、無差別で破壊行為を楽しんでいるような人物だと思っていた。
しかし今はどうだ?喚きながら手を振り回し。鬱憤を晴らすように滅茶苦茶な動作をしているではないか。
ここで導き出される答えはそう多くは無い。
恐らくだが、夕方の破壊行為には何らかの指示があった。だが今行っているのは独断で勝手に暴走している可能性が高い。
草太によって撤退を余儀なくされ、彼女の上の立場に当たる人物に叱責された。退けたのが強力な力を持った能力者ならまだしも、能力を持たないはずの『男』に追い詰められたのだ、屈辱極まりないだろう。
回り込み、再度物陰に腰を落とす。燃え盛る火の手の轟音が、駆ける足音を掻き消してくれているのは皮肉なものだったが、お陰で全力疾走したところで全く気付かれる様子は無かった。
ASは、対能力犯罪用に武器を持ち歩いている。私は腰からぶら下げていた警棒に手を伸ばした。持ち手部分にあるスイッチを押すと、気絶させられる程度の電気が流れるようになっている。
警棒を持つ掌から、じわりと汗が滲むのを感じる。滑って放してしまうことの無いように、付けられた紐の輪に手を通す。
やれる、私一人でも、やれる。
そう自分に言い聞かせた。
真紅のドレスを着た少女が、一息吐く。ばさばさと逆立っていた髪がふわりと力無く落ちた瞬間だった。
音も無くバイクが宙へ飛び上がる。エンジン音は消され、聞こえない。しかし着地の音までは消すことが出来ず、ガシャリと砕けたコンクリを弾き飛ばす音が響く。
音と同時に真紅の女が俯いていた顔を上げ、反応を見せた。
その背に向かって駆け出す、ここまでは予定通り。
響き渡る騒音、反応を見せたことで美羽が音を消すことを止めた。代わりに私の足音を出来る限り消し去っている。瓦礫の飛び散る音や服の布ずれの音は消えていないものの、バイクの轟音がそれらを掻き消していた。
「ASの犬共めええええええ!消し炭にしてやるぅ!」
相変わらず大きな声で、狂ったように声を張り上げている。発した言葉と共に、円を描くように火の手が上がった。
その時折裏返る声を聞きながら、無理して張り上げているのか?と小さな疑問が浮かぶ。能力の制約は、その人物が毛嫌いすることや、大切にする物を代償とすることが多い。美羽が音楽関係の道を諦めざるを得なくなった時に、音感を利用した能力を使わなくてはいけなくなってしまったように。
それを踏まえて対象を見るに『大きな声を出すこと』や『荒い言葉遣いをする』などの可能性が高い。それならば美羽の能力を使うことで炎の能力を消せるかもしれない。
ふわふわと浮かぶ火の玉が、次々に美羽へ飛んでいく。紙一重のテクニックでそれを避けているのは、日々暴走とも言えるスピードで走り回っている賜物だろう。しかし特攻するにも、周りを炎で守っているせいで攻めあぐねている。本来であればバイクごと突っ込んでいくところだが、前方をうろうろと気を引くように走ることで手一杯のようだった。
いける!このまま美羽に気を取られてくれていれば一撃を与えられる!
炎に囲まれているとはいえ、飛び越えられないほど燃え上がっているわけではい。前方の美羽へと意識が集中しているのか、後方は火の手が弱い。
駆ける足を一段と速め、加速をつけ脚に力を込める。警棒を持った腕を振り上げ、炎を飛び越えるようにして私は跳び上がった、
瞬間、
首だけがぐるりと回り、真っ暗な闇のように黒い瞳と目が合った。
「待ってたよぉ……ASの犬共がぁ……」
歪んだ笑みの端に、尖った八重歯が覗いた。
―――やられた、誘い込まれていたんだ。
そう理解するまで、少し時間が掛かった。跳び上がった私に選択肢は無い。死ぬ。脳が認識しているのか、活性化し、走馬灯のように過去のことが思い出される。炎の女の動きがやたらとゆっくりに見え、身体ごとこちらを向く瞬間がコマ送りのように再生されている。腕が上がっていき、浮いていた火の玉の一つが大きさを増していく。
ぎらついた邪な笑みが張り付いた顔で、嬉しそうに私を見つめながら、指差した。
その動きと同時に火球が動き出し、周りの温度が上がる。
不思議と焦りは無かった。顔が熱いな、私は色白なせいで顔が赤くなりやすいからやめてくれ、そんな程度のことしか考えていなかった。
「ア、アンネ!」
美羽が柄にも無く声を張り上げている。すまない、作戦は失敗みたいだ。
死ぬ、私は死ぬのか、嫌だな、熱いだろうな。
悪に、屈するのか。
私の力は、この程度か。
父さんのような、立派な人間に私は少しでも近付けただろうか。
そこまで思考が出来たところで、強い衝撃に私は飲み込まれた。