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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
序節 忌地出立
7/43

幻視赤藍/アルレーン

序章 忌地ローレッド/出立 [ 第一部 琥珀の剣 ]

Δ



 煉瓦造りの暗い通路を少女が走っている。

 背後からは水音が迫っていた。


 琥珀色の髪をなびかせながら少女が振り返ると、そこに四本のぶよぶよとした脚を持つ巨躯の蛞蝓アルレーンがいるのが見えた。通路全体を埋めるようにして進むために体液が壁中に擦りつけられて滴っている。


『呪界』に映るいくつもの触手を目にして、少女は一人、顔をしかめた。


 思い出してみれば予兆はあった。


 たとえば、粘液に包まれていた道中の死体は、それ自体がゲロのように見えるほどの有様だった。その手の食い方は魔虫の仕業で、そのうえ人一人を丸呑みするような虫となると十数種。そのなかで洞窟を塒とするものはそう多くない。


 ――もしも少女の背丈がもう少しだけあれば、粘液が洞窟の上方にまで付着しているという事実に気付いた事だろう。そうすれば魔獣の正体も簡単に見破れたに違いなかった。人の背丈の三倍も大きい蟲は、アルレーンぐらいのものだ――


 しかしたとえ気が付いていたとしても意味があったかは怪しい。上級魔獣の肉は、信じられない程の弾力性と耐呪性を持っていて、魔鉄で作られている少女の剣といえども、傷一つ付けられない。


 何のなぐさめにもならないが、ここに入ったのが間違いだったのだ。


§



 高純度の鉄に魔素を加えて精錬したものを魔鉄という。自然にも多く採掘されるため、戦錬士が用いる武具の素材としては一般的なものである。原鉄よりも遥かに堅くて鋭い刃が打てるために重宝されるが重量はその分だけ上がる。また、加工も容易ではないために武具以外に使用されることは、それほど多くはない。


 兵士や戦錬士はそうした魔鉄剣のなかでも、特によく鍛錬された玉魔鋼と呼ばれる鋼を使用した。これは鉄を幾度も重ねて鍛造した物であり、単なる魔鉄の剣よりも切れ味も強度も上であるのが常である。戦錬士の言う魔鉄剣とは、基本的に玉魔鋼で造られたものを指しているが、その性能はピンからキリまであった。



§


 真っ白い耳元を一筋の汗が流れた。

 それは運動によるものではなく、恐怖によるものだ。


 少女は曲がりなりにも大陸五大流派がひとつ、真交流の中級剣術士であり、武器さえ持てない弱者ではない。湿部で危険とされる忌地であっても彼女が不覚を取ることはないはずだった。だがそれでもこの蛞蝓の前では弱者と化してしまう。


 なにせアルレーンは上級中位の魔獣なのだ。そして、上級魔獣はまかり間違っても単独で相手をするようなものではない。装備と道具を手抜かりなく揃えた手練れの傭兵が、数人がかりで、それも丸一日かけて討伐するものだ。


 どうしてこんな場所に上級魔獣がいるのか?


 少女はそれを告げるべき師匠の手によって、何も知らぬままに遺跡に放り込まれたのだが、これはもう、死ねというにふさわしい行いだった。これが常人ならばすぐに逃げ出すところを、少女は形だけでも遺跡探索をすることにした。


 ――逃げ帰ることは厄介な魔獣に出会うよりも面倒くさい――師匠との長い付き合いからそう判断したのだが、結果的にその判断は間違っていた。このまま何もしないと魔獣の腹のなかに収まってしまうだろう。


 そうなるともう面倒くさいとか、くさくないとかいう問題ではなくなる。


 汚いゲロの塊になるのだ。

 

 ゆえに少女は走り続けなければならない。


 壁の目印を見落としそうになった瞬間に、心臓が早鐘を打った。ここを通るのは二度目の気がしていた。道を間違ったのかもしれない。そう思いながらも足を止められずに走り続ける。ねとついた気配が角を曲がる度に大きくなった。すぐ後ろでアルレーンの触覚が蠢いているような、悍ましい感覚が彼女を走らせている。


 そして、少女にとっては残念なことに、それは実際にはただの感覚などではなかった。第二の界ーー『呪界』に映る触手は妄想ではなく、白い首筋を既に舐めている。ちろちろと見え隠れする舌のような桃色の肉は既に少女をじっとり撫でていた。触れられたところには、ほんものの湿り気があった。


 ああ、この世界の別の位相において、アルレーンは少女を既に捕えてしまっていたのだ。もちろんアレは真に恐れるべき呪術士ではないのだから、少女がすぐさま死に至ることはない。だが、そのときはそう遠くはないとも思えた。


 まだ死なない。死んでいられない。


 アルレーンの這いずる音はずじゃりと近づいていた。


 もう触れられそうなほどに近い。思っていたよりも死はそばまで来ている。咄嗟に腰袋をまさぐると硬い手ごたえがある。緊急時の為に持ち歩いている魔術具のひとつが手に触れたのだ。すぐさま少女は、腰袋から小木板を取り出してそろりと置いた。それは傭兵がしばしば用いる魔法術式板だった。


 いわゆる魔道具であり、木板には細かな幾何学模様がある。びっしりと無秩序に刻まれているようにも見える術式線、その中央には黄褐色の小さなアスバリオンが深く嵌め込まれていた。これこそ土鉄属魔力を内包する魔導石である。


 ほんのりと輝く魔石に指先を走らせながら、眼を瞑る。

 魔法の文言を思い出さないといけない。

 アルレーンはすぐそばまで来ていた。


 頭から喉へ、喉から舌へ。

 舌から呪界へ。


 魔法文がこぼれる。


「――∫土壁《エダフォス/ティーツ》」


 そう唱えると同時に、周囲の煉瓦が生物の様に融解していった。流動する土がぐねぐねぐねと脈を打つと、みるみる内に通路を覆うように広がっていき、少女が再び走り出したそのときには、背後の通路は真新しい土色の壁で塞がれている。


 しばらくはアルレーンだって足止めできるかもしれない。

 しかし振り返る余裕はなく、少女はただただ走り続ける。


 ここから遺跡の出口までは長い直線だ。

 白い光が徐々に近づいて、新鮮な澄んだ空気が肺へと流れ込む。

 屍肉と魔獣によって汚染されたものとは異なる匂い。


 これは緑の匂いだ。


「らあっ」


 少女はほの暗い遺跡から飛び出す。

 文字通り、飛んでいた。


 彼女が飛び出た穴は緩い勾配の崖に無数にあいた内の一つ。そこは鬱蒼と茂る森に囲まれており、森の中には無数の魔獣が棲んでいた。鳴き声も笑い声もない。人の気配はわずかにもなくて死の森という呼称が相応しい静謐が垂れこめていた。


 されどこの世界に重なって存在している『呪界』には、なんとも禍々しい呪力が満ちており、凄まじい量の怨嗟が溢れていた。今でも濃密な気として感じ取れるある種の呪いが森全体に定着している。とりまく呪界の全てが負として現れているこの場所は、精神汚染さえも引き起こすであろう忌地だった。


§


 ノーラン皇国冷部イムファの森には呪を受けた古代遺跡が存在する。


 現在『術式宮』と呼ばれるそれが建造されたのは約二千五百年前である。当時グレルト人が住んでいたこの地域は天獣によって大旱魃に襲われていた。何万人もが飢え、渇きに苦しみ、国中のあらゆる動植物が死に絶える寸前に愚賢王ラクサ=ロマーナは、術式箱の建造を国中の高名な魔法士たちに命じたという。


 「王城ほどもある箱を造り、天候をも操作する強大な陣を描け」と。


 なんでも、それは煉瓦や魔鉄や人間などの多種多様な材料を用いて構築されたのだと伝えられている。長期間の降雨を目的とした大規模な立体術式陣、一年後に完成した『術式箱』はもはや人造の迷宮と呼称されるに相応しい物であった。完成を祝う宴の翌日、魔力と処女の生血を溶かした太古の魔法液が(そして精液が)迷宮に満たされて、希少な大魔晶石の魔力が迷宮へと注ぎ込まれた。


 それゆえの雨。

 長きにわたる忌々しき旱魃は打ち倒され、

 どこにも無かった雨が、天から落ちた。


 その夜に起こった大洪水の結果として、一夜にして国は滅んだ。

 城搭から国土を睥睨していた国王ラクサは発狂したという。


 そしてこの地域は長い年月をかけて自然に浸食され、

 多数の希少な動物や魔獣が生息するイムファの森となった。

 

 悍ましきこの場所に人間が帰ることはもはや無かった。


§


 少女はそんなことを知らないままに崖から呑気に落下する。


 風が少女の琥珀色の髪を揺らすが、それは心地良さしか与えなかったらしく、落ちていることに気付いたときには、落下は既に終わっていた。崖下に落ちたのではない。魔獣の皮で作った防具の首元を掴まれたのだ。


 筋力と靈気闘呪による肉体強化によって、少女を細腕一本で支えている、

 それこそは彼女の師匠であるリアトの片手であった。


 すくりと立つ筋肉質な女の肉体は鋼のように鍛えられており、一分の無駄なき身体は一種の芸術品の様に美しい。剣帯に無造作に差した剣に鞘は無く、鈍い紺色に輝いている。こちらも神々しいまでに美しい業物、藍神鋼で出来たバル二ュス。


 ノーラン人に特有といわれる美しい青髪が風に吹かれて剣の柄を隠す。

 その得物と同じ、夜の海のような深い群青が女の肩をしっかりと覆っていた。


「イルファン、何が居た?」少女の方を見もせずにリアトが問う。

「アルレーンです」少女、イルファンが答えた。

「そうか」リアトが言う。


 次の瞬間、そこに女の姿はない。


 彼女は少し離れた場所、イルファンが飛び出てきた穴の上にいた。


 崖に突き刺した藍剣の柄に柔らかく立っている。爪先立ちの器用さ。市井の曲芸のようにも見えるが女の身体は疑いなく静止しており、それはどこか尋常ではない無機質さを有していた。まるで機械か人形かのような。しかし、鋼鉄の肉体は、その内側に獣を飼っているかのごとく、荒々しい気配をも備えていた。


 同じ時、暗い遺跡の奥からもずもずと何かが蠢く気配が漏れる。


 驚くほどのことは何もない。呪界には既に零れんばかりの呪体があり、リアトにはそれが見えていた。当然のように魔獣の躰から伸びた数万本の触手が高速で空を走り、じゅるじゅると柔軟な肉を引き摺るような音が溢れだしたと同時に、


 ぼしゅり。


 アルレーンが飛び出す。


 それは第一界にも確かに映る姿、醜悪な巨大蛞蝓こそまさしく異形の怪物の実体。穢れた魔獣の触覚の先には倒れこんだ少女。師の手から放り出されて、斜面で無防備に尻餅をついていたイルファンがいる。ただただ呆けている。


 蛞蝓は四本足を自在に動かして生きた肉を呑もうと崖を駆ける。


 少女は動けない。


 アルレーンがぬちゃりと口腔を開く。

 開くその奥にも触手。

 その、さらに奥にも触手。

 さらに触手、何千ものざらざらが粘液にまみれていた。

 小さな舌の群れがてらてらと輝いていて、

 イルファンはそれに魅入られる。


 世界がゆっくりと動いて時間が止まる。

 まるで光を浴びた雪のようだった。



 触手が伸びる。

 アルレーンの身躰が、

 空間を引き裂いて伸びる。


 これこそ上級魔獣特有の位相反転移動術。アルレーンの姿が捻れるようにして『呪界』に消えた。そのとき少女の身体は金縛りにでもあったかのように動かない。恐るべき『魅了』の呪をかけられていたのである。


 そのためにイルファンは瞬間的に蛞蝓を見失うがその刹那。


 リアトが剣を振るった。


海尽みじん


 乾いた音がした。その振りは少女には見えなかったが、鋭気が幾つも空を裂いたことだけは感じられた。第四界を自在に舞う靈気の刃が同時に、恐らくは数千本放たれたのだ。少女の真上に現れていた魔獣の躰、弾性のある肉に細い切れ込みが入った。音も鳴らないでアルレーンは微塵になって飛び散って死んでいた。


 数千か数万の欠片に分かれた大魔虫。

 そして蠢く肉が盛大に降り注ぐ。


 魔虫の血肉は酸や毒を持っていることが多いが、もちろんアルレーンも例外ではない。この魔獣の体液は酸性を帯びていると聞かされたことがあった。そのことを何故だか思い出す。思考の端の方で、地面に落ちた最初の滴がぶすぶすと黒煙を上げるのが見えた。本能的にイルファンの頬がひきつった。


「避けろ」リアトが言った。


 避けれるわけがないと少女は思った。


 だが幸か不幸か。

 体液は一滴も当たらなかったのだった。


 

Δ



 もう日も暮れようかという頃、ローレッドの凍える山頂からリアトはようやく戻った。その肩には雪熊レルコオンの子どもが担がれており、死んだ魔獣の大きさはざっと見てもイルファン三人分はあった。今晩の飯にしてはいささか多い。夜に食べきれない分は山に埋めるのが二人の慣わしだったから少女は首を傾げた。


「これはなんですか?」


 問うた少女に笑み一つ返さず、リアトは塩の入った壺の横に肉を投げ捨てて、両手を払った。それから勿体ぶった様子で少女の顔を見ると、ひどく言いたくないことを無理やり絞り出すような表情をした。


「お前は優秀だ」師匠リアトが言った。

「え?」


 なにが師匠に奇妙な表情をさせているのかはともかく、イルファンにとって、話しかけられることと、褒められることは、ひどく怖いことだった。イルファンが拾われてから八年の月日が経つが、このように褒められて良かった試しがない。


 悪いことならば何度となくあったが。


 あれは五歳のときだった。お前には剣才があると言われた翌日から、修行が始まった。血反吐を吐くようなしごきは、そりゃ手加減されているとはいえ、柔い内臓を何度も吹き飛ばした。腕は折れて脚は潰れて、肌は血濡れになった。


 もちろんこれは修行だ。苦しみのあとには新しい何かを得られているのが常だ。無数の傷を自然に治癒する過程で、少女は呪力を身に纏う術を学習した。ただし、靈気という鎧を習得してからも修業が辛いことに変わりはなかった。


「お前には……才能がある」リアトが言う。

「何のですか?」少女は顔をしかめた。


 そう。才能といえば、身軽さを天性のものだと言われたこともあった。


 そのときは崖からいきなり叩き落とされたのだ。さっさと登ってこい、と逆光で影になったリアトが言った光景を忘れることはない。崖下には沢山の人骨が散らばっていて、その中には真交流の剣士と思わしき者もいた。


 イルファンは彼が帯びていた短剣を取って崖を登った。崖には大量のヌルソカ(魔液獣)が生息していたので、イルファンの全身は酸で爛れた。とはいえ、もはやそれはすぐに治る怪我だった。少女は確かに強くなっていたのだ。


 なんとか崖を登りきった少女は、休む間もなくまた突き落とされた。

 そのときは流石に、必ず殺してやると思ったものだった。


「剣と体術、霊力、あとは冷静さ」

「それって才能……?」イルファンが呟く。

「傭兵にも向いているだろうな」リアトが言った。

「傭兵にも……」またも表情が引きつった。


 そう、お前は傭兵としても大成する、と言われたときにはちゃんと覚悟ができていた。山奥の遺跡――鬱蒼とした森の中の上級魔獣の住処――に投げ込まれたのは記憶に新しい。随分と強くなったのだから、どんな試練も超えてみせると笑っていた少女が必死に逃げまどうのは、覚悟を決めた半刻後のことだった。


 最奥にある祭壇とやらには死骨が積み上げられていたが、それはまるで傭兵で組んだ薪だった。彼らの装備は歴戦の戦士に相応しい物であったけれど、それでも勝てなかったのだ。少女はそれを見た瞬間に愚を悟って、一目散に逃げた。


 しかしその真後ろにはアルレーンが迫っていた……。


「いずれは剣術士か傭兵か、国の正規兵か」

「ええと、次はどこに潜れば?」

 

 という次第だから、イルファンはすぐに抜剣出来る体勢を取る。


 そしてその状態で話を聞く、というか、何が来ようとも本気で受け止めることにした。初撃くらいならば致命傷は避けられると思ってのことだったが、リアト相手では初撃に気付くことすらできない、ということには気付かない。


 幸い、女は静かに口を開いただけだった。


「アルレーン(魔蛞蝓)の攻撃を躱しただろう」

「え、あ、はい。師匠の教えの賜ですが」

「見事だったぞ」


 珍しく褒められているけれど、あれはアルレーンというよりもお前の攻撃じゃないかと内心でイルファンは思い、そこで嫌な考えに突き当たる。


 流石にそれはないだろうけど、もしかして師匠は私を褒める為に、ただそれだけの為に魔獣を盛大にぶちまけたのでは。絶対にそうだ。当たらないように調節しながらアルレーンを微塵切りにしたのだ。この話をするためだけに。


 やはり師匠は狂っている。

 恐ろしさを感じたが、イルファンは取り敢えず話を聞くことにした。


「そこで、奥義を授けることにする」リアトが言った。

「奥義。飯炊きとかですか」


 奥義とは突然過ぎる。つまり怪しい。

 少女は疑念を悟られぬように注意深く答えた。


「それか、掃除」

「いや、違う」

「じゃあ、洗濯ですかね」


 掃除でも洗濯でもない。つまり怪しい。


 真面目に取り合うつもりは無い。リアトの言葉にぬか喜びするのは血反吐を喜んで吐くようなものなのだ。軽口を叩きながらも、眼光鋭く、油断なく少女は言葉を発する。ほんの少しの気の緩みが命取り。間違えても剣と言葉は正面から受けてはならない。会話の流れは第十界『綴界つづりのかい』に影響し、イルファンには知覚出来ないその界が、他の十界全てに波及し物事の流れを定めるからだ。


 後で思えば取り越し苦労であったが、この時の少女は綱渡りをしている気分だった。それに気付いているのか、いないのか、リアトが厳しい顔で口を開いた。


「確かにお前の家事能力は初級下位だが違う。お前に教えてきた真交流の奥義だ。習得に十年はかかると言われている中級。それも真交流という玄人向けの流派をよくぞ身につけた。誇っても良いのだ、イルファン。お前はいずれ、私にも勝てる」

「は、はー、それはないです!」

「そうでもないぞ」


 もちろんそれは、天地熱冷がひっくり返っても無理な話だった。


 少女は未だにリアトを目で追うことさえ出来ないのだ。それどころか普通の剣技も魔法にしか見えない。もちろん、第四界で行使される闘気剣術は呪導的であり、イルファンも時には魔法使いに見えるだろう。


 自分が剣を振れば、それは岩をも斬る。当然、雨だって切断出来る。

 地を走れば、実界中のあらゆる原種生物よりも速く動くことができた。


 だがリアトは速いどころではない。動きが見えないのだ。確かに自分は才能があるかもしれないけれど、それは人間の範囲での才能だ。師匠リアトはいうなれば化け物の才だった。なにせ彼女は真交流の『特級剣士』にして『七界繋者』である。すなわち、この世の理を極めてしまった人間。人間をやめた人間だ。


 リアトが習得しているという天技とは、五十年かかっても習得できないものだと聞いていた。まだ三十手前であろう師匠は、一体どれだけ幼い時から剣を振ってきたのか。そう思えば、自分がリアトと同じになるなど遠い先のことなのである。


 とはいえ、そう思いながらも抑えがたい高揚感が胸底に湧き上がってくるのをイルファンは感じていた。なんと言っても、イルファン調べで奥義習得は剣術士の憧れ度第三位。これが現実なのだとすれば自分はもっと喜ぶべきだったが、いまいち高揚感に身を任せられないのにもまぁそれなりのわけがあった。


 奥義習得となるとまた、あの地獄のような日々が待ち受けるのではないのか。いや、間違いなくそうだ。となると自分はまたも肉体と精神を粉々にするような修行をすることになる。強くなるのは嬉しいが代償に命を持っていかれては流石に困る。もう少しだけ、身体の基礎を作りたい。万全の体勢で奥義習得に挑みたい。


 なんたって、私まだ十三歳だし。

 言を呈そうとした時、顰め面のリアトが言った。


「そういうことだから、人に会いに行く」

「人ですって!?」


 イルファンは奥義習得を止めさせることを言い逃すほどに驚いた。

 もちろん彼女が驚いたのにはそれなりの理由があった。


 イルファンにとって、この堅物で剣の権化のようなリアトが人と会うことなど、自分が奥義習得をすること以上にあり得ないことだったのだ。



Δ



 ――二人はノーラン皇国冷部に位置するローレッド山脈の中腹に住んでいる。


 食料は自給自足だが困ることはない。魔獣の肉は下手な獣肉よりも旨かったし、世間の情報だって数か月に一度は入って来る。師匠の知り合いたちや通りすがる傭兵連中から話を聞いているお蔭で、山下の権力が絡むような厄介事はほとんど起こらず、隠れて修業をする上では、何不自由のない生活だった。


 実は、このような生活に至るまでは長い月日が必要だった。

 この山に住み始めた当初、イルファンとリアトは本当に二人きりだったのだ。


 二人だけで暮らしていたころのことを、少女は今でも思い出す。

 あのとき、少女はリアト以外の人間に会ったことがなかったのだ。


 記憶にはないが、昔には母親や父親や友達のようなものもいたのかもしれない。誰かと話をして、心を通わせて、誰かに触れる。触れられる。そうした営みへの渇望は、心の奥底から湧き上がるものだったし、それを抑え込むのに少女は苦労してきた。渇望は古い記憶を呼び覚まして、ひどい頭痛を引き起こしたからだ。


 父と母に抱き抱えられた記憶。暖かいぬくもりに包まれた記憶。そして言葉。断片的な言葉は愛おしく優しい。たぶんそれは愛されていた時の虚しい痕跡で、それらはイルファンにとって苦痛だった。文字通りの痛みを伴っていた。


 激しい頭痛にひどい苛立ちで、ぐらぐらと脳が揺れるとそれには抗えない。そのために、理由も分からぬまま記憶を嫌った。終いには、昔を思い出すことも止めてしまった。リアトもリアトで全然話をしない人間だったから、自然だったのだろう。ローレッドの山奥では獣と魔獣、そして山の音だけが存在していた。


 それ以外には音は無い。それで充分だった。


 とはいえもちろん、それが永遠に続いたわけではなかった。


 ある冬のこと。

 ローレッド山脈を横切る大街道がある理由から使えなくなってしまった。

 その為にエレングル王国の商人たちは湿部の山道を用いるようになる。


 こちらはリアトとイルファンの住み家により近く、少女が傭兵に会う事も多くなった。イルファンは六歳。このときようやく、他人と会話することになった。ほとんど剣の事しか話さないリアトと違って、傭兵たちはお喋りだった。


 最初の内はイルファンは話を聞くだけだった。だが次第に、自分から話をするようになっていった。不思議と記憶の痛みは来なかった。他人と近づき、触れ合っているというのに、いつしかイルファンは痛みも苦しみも感じなくなっていた。


 ぼやけた記憶の中に剣と師匠、そして二度と会わない友人たちが刻まれる。傭兵連中は少女の剣技に舌を巻いた。彼らは彼女を認めてくれたのだ。とはいえ、最初に出会った傭兵は翌月には死んでいた。雪狼の群れに襲われたためにローレッドを越えられずに死んでしまったのだ。仮に自分が一緒なら。


 幼い少女はそう思った。


 彼らの命は驚くほどに短くて軽い。

 だからそれらはイルファンにとって大事な出会いだった。


 それからまた数年が過ぎると湿部の道を使用する者は減り始めた。


 乾部の大街道が復活したためだが、それによって傭兵の数は眼に見えて少なくなった。しかし顔馴染みの傭兵は少女の為だけにローレッドに寄ってくれたものだった。いつしか、イルファンの一番の楽しみは、彼らとの会話になっていた。


 たまにやってくる旅人や傭兵の話を聞いていれば、広い世界に様々な人間たちが居ることに気付かされる。広大なローレッドさえも狭い世界。本当の世界には二人しかいないのではない。この世にはまだまだ知らないことがあるのだ。


 そうなると、師匠であるリアトとはあまり話さなくなった。


 一度だけ、傭兵とリアトを引き合わせようとしたことがある。彼女の気難しさを解そうと思ったのが、リアトは彼らに会う事もしなかった。イルファンはその時気が付いた。彼女が嫌いなのは会話ではない。人だ。リアトは人嫌いなのだ。


 その証拠に、二人だけのときはちゃんと話すようになった。少女が話しかければ言葉を返してくれる。それでも、他人とは話さない。自分や時たま訪ねてくる弟子としか話さない。関係の浅い人間とリアトは会おうとしなかった。


 それを治してやろうと思ったこともあるが、自分自身のことすらよく知らないっていうのに、人の心についてとやかく考えるのも馬鹿馬鹿しい気がした。


 リアトは強い師匠だしそれで別に良い。

 そう思ってイルファンはどうにかしようとするのをやめた。


 そんなわけで麓の村に降りることすらほとんどなく、リアトは、ほんのわずかな弟子たちとも二言三言話すのみで、剣だけを時たま振るう世捨て人となり、遂にはイルファンとも剣の話以外は、ほとんどしなくなってしまったのだった。


 この日までは。



Δ



 師匠が山を下りるという。

 しかも、わざわざ人に会いに行くという。

 イルファンは好奇心から思わず尋ねた。


「誰に会うんですか」

「レアーツ=ルーミン」即座にリアトが答えた。

「剣王ですか」


 イルファンは絶句しそうになった。

 

 自らの修める流派の、剣王の名前くらいは知っている。あのレアーツ=ルーミンと知り合いであるなど、リアトほどに強い剣術士ならば有り得ない話ではないが、それにしても剣王など簡単には信じられなかった。以前に聞いた話では、剣王とは、その流派で最も深くまで剣を修めた者であるらしい。リアトは話してくれないが、師匠の弟子や傭兵達に聞いた話ではそうらしかった。


 なんでも剣王と呼ばれる存在は、単騎で数千の歩兵の軍勢を打ち払えるし、その剣は一振りで山を斬り飛ばせるほどだとかなんとか。それが本当だとしたらあまりにも強すぎる。イルファンは剣王に、勝手な敬意と憧れを持っていた。


 だが、それよりももっと気になることがある。


「剣王ということは皇都ですね」

「その通り。エルトリアムだ」リアトが言う。

「私、行ったことが」

「ないな」


 実のところ、少女は剣王よりも皇都に上る方に好奇心を擽られていたのだ。


 皇都エルトリアムは真交流の聖地であると同時に、ノーラン皇国最大の都市でもある。もう十三にはなるが、大都市に行ったことはなかったのである。イルファンの顔が想像しただけで綻ぶ。皇都では一体なにをしようか。何を食べようか。


 空想がどんどん膨らみ、都の姿を想像しようとする。

 

 たくさんの人々と巨大な城。

 騒めきや笑い声、そんなものをイルファンは思い浮かべた。


「あ、」


 その瞬間、少女は奇妙な熱を感じて眉を顰めた。

 あつい。燃えるようにあつい。

 私の身体が熱を感じているのだ。

 それはまるで、血をすべて熱されているかのようだった。

 

「どうした?」女が問う。

「気分が……悪いというか……あっ!!」


 そう言うやいなや、少女は己の頭蓋を抱え込んで、その場にしゃがみ込んだ。焼けた針で脳の奥を突きさされたような痛みが唐突に奔ったのである。久々の痛みだ。記憶を探ろうとしたわけでもないのに、どうしてまたこんなことになっているのか。分からないが、耐えて治るような生ぬるい類のものではない。


 嗚咽と涙を堪えながらイルファンはぎっと歯を食いしばる。

 不思議そうな顔をする師匠から逃れるように厠へと走り出した。


「どこへ行くのだ」リアトが言う。

「粗相!!」イルファンが言った。


 言葉と裏腹に少女には余裕がなかった。


 脳中の痛みはもはや耐え難いまでに己を主張しており、それはむしろ肉体の痛みというよりは魂の痛みのように思われた。苦しみのなかで少女は庭の井戸へと走った。瓶には冷えた水がこんこんと溜められている。


 なりふり構わず頭を突っ込めば、きんと耳鳴りが響き、少女はその水奥の暗やみにちらちらと輝く光を見た。それは血のように赤い炎の燃え広がる様であった。


「赤い」


 イルファンは思わず声をあげようとして気付いた。

 息ができる。


 大きく息を吸い込めば暗やみの奥から火の粉交じりの空気が流れ込む。どうやら自分は瓶のなかに異なる位相を見ているらしい。どういうことなのか。奇妙なことだと思いながらも手さぐりで幻の底へ沈んでいく。いつしか全身が水に沈み込んでいた。重たい水だ。だがそれがいつの間にやら燻る黒煙へと変化していく。


 焦げたにおいを感じたとき、少女はようやく、どこかの地面に着地した。


 ――そのとき少女は知覚した。


 足が着いた瞬間、

 そこがもはやローレッドではないことをイルファンは知ったのだ。


 木切れの粗末な小屋はどこにもなく、その場所は炎。眼の前には燃えたぎる王城。石造りの巨大な建造物がごうごうと崩れ落ちていく光景を動けぬままに見ていた。世界のすべてが焼け落ちている。まるで炎で造られた町のようにも見える。


 そうして立ち尽くすイルファンの背後には誰もいない。夜のように深い暗闇が背後から、やってくる。その存在のすべてを呑み込もうといくつもの手を伸ばしている。遠く、炎と城の向こうに、山の上の、幾つもの家々の煌めきと逃げ惑う人々が見えた。いまや少女は別の位相のなか、巨大な都市の光景に立っていた。


「紅い、幻。貴女の記憶」

「逃げて、イルファン」女の声だった。


 聴こえる声には覚えがない。

 だがイルファンは頭を振ってそれを払おうとした。


 何かを応えようとするも喉が焼けていて掠れ声すら絶叫に代わった。朧げな記憶の中に燃える街の光景が浮かび上がった。知らない景色だと意識した瞬間の例えようのない違和感。人間たち。紅い巨城。それが異相を通して流れ込む。


「私はこれを知っている……」

「イルファン!」


 誰かの声が聞こえた。幾つも折り重なった女性の声は自分を呼んでいる。自分を助けようとしている。空の向こうに大きな船のようなものが浮かび上がり、そこから何かが落ちて爆ぜる。それが墜落することも知っていた、とイルファンは思う。初めてなんて嘘なのだと思い知らされる。


「こっちだ」男の声だった。


 逞しい男の腕がイルファンを抱え上げて何かを叫んだ。

 しかしそれは数瞬後にはもう聞こえない。


 鮮血が迸って少女の顔に降りかかった。

 何人もの魔獣が火の中で殺し合っていた。


 琥珀の髪の毛。

 誰もが赤々と染まる世界では何もかもが血の色に見える。

 炎の色に見える。


 一滴の滴が男の頬を伝って、少女の胸に落ちた。

 その背後では誰かの絶叫が聞こえる。

 黒焦げになった数万の死体。女性の死体。

 伸びる男の掌がイルファンの眼を覆い、「見るな」と言った。

 暗転……。暗転、暗転する細切れの夢。


「あの街へ行け、イルファン」男が言った。

「そこに何があるの」

「お前自身がそこにいる」男はすでに死んでいる。


 だれだ。だれだ。

 何を見てはいけない。

 言葉はもどかしいほど細切れで、届かない。

 これは自分の記憶なんだろうか。

 遥か昔に沈めたはずのそれが。

 なぜ。なぜいま。


 逆流し、記憶が消え。また蘇り。

 そしてまた背後の暗闇から少女を呑み込もうとする影の孤独。


 恐ろしいほど不快だった。

 こんな記憶は知らない。


 リアトに助けられる以前に何があったかなど知りたくはないつもりだった。いらない記憶は消えていればいい。何もかも初めてでいい。鮮明には思い出せないが、それでも何かの片鱗が脳に流れ込んでくる。


「エルトリアムには彼がいる」女の声。

「エルミスタットに会いなさい」

「会わないといずれ消えるわ」

「あなたはいつか消えてしまうわ」

「死と同じように」女の声だった。


 だがそんな名は聞いたこともない。


「わけのわからないことばかり言うのはやめて!!」


 するとその瞬間に、紅い城の記憶はおぼろげなものとなっていた。

 その気持ちの悪い痕跡を感じて身震いする。

 急速に熱が冷めていくと同時に、目の前が真っ暗になった。

 喉へと流れ込んでくるのは、水。


「ぷはっ」息を切らしていた。


 と、肩に誰かの手が触れた。

 振り返るとそこにはリアト。


「大丈夫か?」

「あ、はい」イルファンが言う。


 少女はすでに甕から顔をあげていた。


 濡れた髪からぽたぽたとしずくが落ちる。もちろん、どこにも焦げた様子はない。火屑ひとつ付いていない。ただの幻覚。幻だったのだ。裏庭で呆けたように甕をのぞきこむ自分は、さぞかし間抜けに見えたことだろう。


 でもあれは確かにそこにあった。だが、そう考えているうちに、あの光景の現実感は、みるみる薄れていった。残るのはあやふやな炎だけ。その赤色だけだった。こめかみを押さえる少女を見て、不思議そうにリアトは首を傾げた。


「何事だったのだ」

「ちょっと気分が悪く」少女が言った。

「む。もうそんな歳だったか」


 リアトは何かを勘違いしているようで眼を丸くしていた。ひとしきり驚いたあとに、彼女は何事も無かったように話を続けた。いつも聞いている声がやけに響いて、イルファンは頭の片方に手を当てながら首をくるくると回した。


「それでな、奥義の伝授は皇都エルトリアムの剣王に伺いを立てねばならない。奥義を知るに相応しい技靈心を持っているのかを確かめる為にな。我が兄にそれが務まるとは思わんが、厄介なことに呪がかかっているのでな」


 眉間に深い皺を寄せながらリアトが言う。


「兄」少女が繰り返す。

「そうだ。私よりも強い」リアトが答えた。


 彼女が剣王の妹であるという事実をイルファンは、今知った。それはそれで驚くべき事実であっただろうが、少女は大した反応を見せることができなかった。それよりも水瓶のなかに視えた物の方が深く、深く、少女を捕えていたのだ。


 よく分からない炎の幻視。

 あれは私の記憶なのだろうか。

 いつかは知らなければならないことなのか。

 

 ならば。


 うわの空で、

 イルファンはただ師匠の言葉に頷いていた。

 まずは街へ行くのだ。


 それが予言暦千二一年の氷炎月のことだった。

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