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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
第一部 第一綴 『眠る琥珀と禁忌の女』
6/43

一〇拾二/リルク

Δ



 始まり。物語の始まりなど誰が決めたのか。我らの生まれるよりも以前から、世界は無辺のものとして綴られてきた。一端を垣間見ることさえ到底能わぬ文字の彼方、羅列は儚くも必然なるものとして十二の世界に刻み込まれている。変じることなき光芒あるいは古びた燐光は、されども、未だ遮られぬ無限の曙光。無碍と呼ぶに相応しきあらわれ。其に触れ行く者とその影が熔けるまでは。永く。永く。



Δ



 肉がちぎれた。

 そんな音がした。


 自分を鞭で嬲っていたピケン帝国軍の子班長アグラ=オルトワの首が、切り裂かれるというよりも叩き斬られるのを目にして、リルクは腰を抜かした。


 眼前の化け物は血に塗れており、手には長大な剣を握っている。

 狂人の眼は爛々と輝いて戦場中を舐めるように見渡していた。


 当時のクルサナ境域湿地帯ではピケン温帝国とトルポール=マガリカ乾湿連合がまさに衝突している最中であり、そこら中に腕や脚といった肉体の断片が沈み込んでいた。まるでゴミ屑かなにかのように。


 それらを一瞥すると、化け物は品定めをするように帝国本陣のある方角に目を留め、それから苛立ったように舌打ちをして大剣をその背に戻した。同時にアグラの首級がぽいと放り投げられて泥濘に落ちる。


 どちりと鈍い音をさせたそれは、リルクの足元にまでゆっくりと転がった。それは見慣れた上官のものだったが、リルクにはどうしてもそのようには思えなかった。死ぬことを予期すらしていない死者の瞳は心をまったく揺さぶらなかった。


 徐々に光を失っていく上官の瞳に、琥珀色の何かがちらりと映る。


 それは髪の毛だった。琥珀色の。

 あれの毛だ。


 怪物のような男は琥珀色の長髪を背中に流している。


 琥珀髪。


 隆々と筋骨が盛り上がるその躰は、人間というよりも獣じみていて、そのときようやくリルクは一つの名前に思い至ったのだった。


「『剣獣』のヴォファン……」


 呼ばれた男がずるりとリルクの方を見た。その瞳は鋭く細められて獣のように光っている。殺気を向けられたわけではなかったが、それでも全身が小刻みに震えたのは、男の全身から恐ろしいまでに膨大な『靈気』がとめどなく噴出しているからだった。それは、これまでに浴びたどんな靈力よりも荒々しく、尖っていた。


 彼が口を開くと唸り声のような音がこぼれた。それを戦場の怒声と轟音のなかで聞き取るのはひどく難しいことだったが、リルクは自らの命のために必死でそれに耳を傾けた。ピケンの平兵なのかと聞こえたので彼は手を振りながら答えた。


「アルフォニアの傭兵です」


 命惜しさの嘘ではない。リルクはアルフォニア海王国出身の海刃流剣術士であり、同時に祖国の傭兵でもあった。目下の所、海王国はチュニス共和国を占領統治しているエズアル大帝国の支配下にあり、その同盟国であるピケンとの協力関係にある。リルクが隣国の境域まで駆り出されたのもそれが原因だった。


「殺しはせん。去れ」男が言う。

「俺の班長はあんたがさっき殺してしまいました。ピケン人共も撤退してしまったし、帰るところがない。恐らく戻っても軍規違反で処刑されるでしょう。見逃してくれるのは有り難いですが、」リルクがおそるおそる言葉を漏らす。

「傭兵気質だな」ヴォファンが言った。

「なにせ来たくて来たわけじゃない」


 男は眉を顰めた。化け物、そうは言ってもまだ三十を少し過ぎたばかりの精悍な顔つきにわずかに笑みを浮かべると、なにか欲しいものがあるのか、と言った。リルクは恐ろしいながらも勇気を振り絞って答えた。


「同行させてください。どうせこの乱戦じゃ死体なんて確認されない。このままあんたに付いてピケンを抜ける方が、よほど助かる望みがありそうなんでね」

「いいだろう。名は何と」

「リルク。家名も号名も持っていません」

「それはいい」


 彼は孤児だった。物心ついた時には海刃流の上級剣士に拾われて剣術を教え込まれていたが、それ以前の記憶はない。だから家名も持っていないのだ。リルクはそれを誇りに思っているわけではなかったが、自らのそうした来歴を嫌悪しているわけでもなかった。事実、このように役立つこともあった。


「面倒ごとは抱えちゃいませんよ」

「ないに越したことはない」


 琥珀髪の男ヴォファンは頷いて、リルクへと手を差し伸べた。男の掌はやけに強張っていて硬い。まるで岩のような手がそのまま彼を引き起こした。鞭打たれた背中を押さえながらリルクは立ち上がり、礼を言った。


「お前を助けたのではない」男が言う。

「それでも助かりました。何をすれば?」リルクが言った。


 ヴォファンは相変わらず本陣の方角を見つめながら呟いた。その瞳には悲しみの色がある。リルクは思わず、彼の来歴を根掘り葉掘り詮索したくなった。しかし問いが言葉となる前に、琥珀髪の男が言葉を紡いだ。


「歪みのひとつは殺した男に続いていた」

「貴方の、魔法士殺しの噂は聞いています」

「術式陣を壊しているだけだ」


 ヴォファンは遠くの方をちらちら見ながら答えた。


 その姿には一分の隙もない。彼は見えない世界のなにかを見るように目を細めると、目当てのものをやっと見つけたとばかりに口の端を上げた。それはやはり獣じみていて、リルクの身体は無意識にぶるりと震えた。


「魔法術式陣の位置を教えてくれ」

「本陣の右方、半馬遊ほどと聞いています」


 リルクはすぐさま答えを返した。


 それは軍事上の最高機密であり、此度の戦争を制するための最も重要な武器に関する情報であったから、本来ならば交渉の手札となるほどのものであったが、すでに青年は琥珀髪の男の言うことならば何でも答えようという気になっていた。


 それに、眼前の男の目的は戦の勝敗ではないと聞く。術式陣を攻撃するというのは戦術として価値あるものだったが、ヴォファンは戦争に勝つためにそうするわけではないらしかった。リルクはそのことを知っていた。


 もちろんその与太話を心から信じているわけではない。琥珀髪は誰かの命を受けて戦場をかく乱しているのだと、そういう噂も聞いたことがあったから、おそらくそちらが真実なのだろうとは思っていた。だが今はそうしたすべてが、関係のないことだった。男が誰の味方でも関係ない。自分の命だけが答えだった。


「攻撃用の術式は要地三箇所にあるはずです。戦場結界は会敵と同時に壊されました。たぶん優秀な斥候がいたんでしょう。あんたが殺したアグラ=オルトワも上級魔法士で、戦場結界を維持していました」リルクが言った。


 リルクの言葉を聞くとヴォファンは簡単に頷いて、クルサナの要地について確認を始めた。実のところ、戦場結界を破壊したのは琥珀髪の男自身だったのかもしれなかったが、それを彼は言わなかった。


「術式は残り三つか」男が言った。

「既に二つは使われたかもしれません」

「隠蔽型の罠か?」

「いえ、水流魔術と聞きました」

「その気配はない」

「ですがこの局面で使わないのは妙です」

「魔術士が死んだのかもしれん」


 そのとき少し遠くで聞こえていたはずの怒声と轟音が近付きはじめた。馬の蹄の音がどんどん大きくなってくる。軽い地響きが青年の身体を揺らしていた。


 リルクは眉を顰めながら振り返った。


 何かが見える。空気の揺らめきのような何か。


 おそらく、あれは魔力が生み出すゆらぎだ。

 強大な魔法士を取り巻く、あまりにも強大な魔力の残滓だ。


「来たか」


 その瞬間、ヴォファンはリルクの腕を掴んで無造作に岩陰に放り投げた。


 泥のなかに再び倒れこんだリルクが困惑とともに男を見やると、その体目掛けて数十本の魔法射撃がすでに飛んでいた。だが琥珀髪はそれを避ける様子もない。魔法射撃よりわずかに遅く、敵の馬が駆ける。その背の男が叫んだ。


「『剣獣』ヴォファン!! こんなところで油を売っていたか!!」


 けたたましくしわがれた声と共に、幾本もの魔法がヴォファンの肉体に刺さる刹那、男はその長大な剣をゆらりと振りうごかした。すると体の前でぐるりと一回転した剣に魔法が吸い込まれ、傷一つつけることの出来ないままに霧散消滅する。


 それを見て、先ほどの老人が笑い声をあげた。


「なぁに、挨拶がわりだとも」

「相変わらず物騒だ」ヴォファンが言った。


 リルクは恐ろしいながらも岩陰から様子を覗くことにした。少し離れたところに十人ほどの魔法剣術士が大馬に乗って杖を構えているのが見えた。その中でもひと際立派な馬に跨る男が、手に持った長杖をヴォファンに向けながら喋っている。生気に満ち溢れた老人、彼の姿はリルクも見たことがあった。


「見事な剣の冴え。貴殿ほどの男が、未だにその力をエズアルの為に使う気はないというのか。それこそ、まったく恐ろしいばかりの損失だろう。此度の敗北よりもそなたが惜しい。ここらで一つ、エズアルに与せんかね?」老人が言った。

「アマラン=アッシーク、貴様も懲りんな」


 ヴォファンが表情ひとつ変えずに言った。


 アマラン。

 それはエズアル大帝国の限定魔術士『炎海』の名だった。


 人違いでなければ、老人は、かの大国からピケンへと戦力提供された武人の一人であり、大地を焼き尽くすまでの火炎魔法の達人であるという。アマランの武名は傭兵であるリルクでさえも何度か聞いており、畏敬の念をもっていた。


 その男とヴォファンが睨み合っている。見るところ、状況は明らかに琥珀髪に劣勢であるように思われた。何しろ敵は十人、そのいずれもが恐らくは手練れである。これではいずれ琥珀髪も力尽きるだろう。青年は琥珀髪に加勢するために、こっそりと岩を登り始めた。あの二人の男の声だけが聞こえた。


「ここで貴殿を処理するのは忍びない」

「十人殺すのも気が引ける」


 ヴォファンの挑発は見事な決まり文句だった。剣術士は戦いの際にまず『流れ』を支配しようとするから、このように使い古された文句を用いるのである。アマランの面白そうな笑い声が響き渡った。しかしその杖先はわずかにも標的から逸れてはいないようで、身じろぎひとつ、蹄の音ひとつ、聞こえない。


「なんとか半分で勘弁してくれんかね」老人が言った。

「腕次第だな」


 丁度リルクが岩上から顔を出したそのとき、ヴォファンの身体が沈み込んだ。


 同時に周囲の魔法士から数十の魔法球が撃ち出される。その属性は様々だがいずれも流れるような剣の前に両断された。不思議なことにヴォファンの剣に触れた魔法はその形を維持できなくなるようで、爆発することもなしに消滅していく。


 二撃目は時間差で撃ちだされた魔法射撃だったが、これは魔法球よりも遥かに速く、魔法を斬りおえたばかりの男へと間髪入れずに迫った。本来ならば避けられない攻撃であったが、男はまるで猫かギリベスのように身体をくねらせて魔法射撃を擦り抜けた。同時に一行流歩法《瞬飛》を用いて、瞬間的に移動する。


 ヴォファンが着地した時には、馬上の魔法士が二人ほど両断されていた。彼らの張っていた魔法障壁を物ともせずに、まるで紙を裂くように骨を断ったのだ。


 一瞬にしてアマランの額に汗が浮かんだ。


「見たか! 奴は魔法を無効化する! 一撃であの世行きだぞ!! おおお!! ∫炎形《フローガ/シンテグマ》∫炎弾《フローガ/シドロスヘラ》!!」


 詠唱とともにアマラン=アッシークの両手を包むようにして現れた巨大な炎が、うねうねうねと無数の小弾に姿を変えていく。まるで生き物だった。それらは螺旋状に回転しながら高速度で飛び、飛びだし、無数で、ヴォファンを襲った。


 間髪入れずに周囲の魔法士からも数百の炎球が打ち出され、ヴォファンの肉体を勢いよく吹き飛ばした。琥珀髪は傷一つなかったものの地面に転がった。


 そこへ撃ち出されるのは二十四定式魔法の奥義、

 ∫炎砲《フローガ/アノータトス》。


 視界のすべてを覆いつくす赤き閃光が一瞬の収縮ののちに膨張。クルサナ湿地の地面もろともヴォファンの肉体を瞬く間に呑み込んだ。鼓膜を破るがごとき轟音とともにただ一度だけの爆発が生じて、リルクは思わず顔を背ける。


 ヴァファンが熱光の中に消えるとともに強烈な熱風が鼻と喉の粘膜を焼いたが、帝国兵に発見されないために咳込むことはできなかった。そうして炎が過ぎた場所には黒焦げの大地と、一本の巨剣だけが残った。


「仕留めたり」老人が言った。


 その瞬間、中空が歪む。


 空から捻れるようにして現れた男は易々とアマランの背後を取ると、その馬の後脚を鋭い手刀にて切断した。馬が嘶きとともに暴れ出し、老人は泥のなかへとあえなく転げ落ちる。そこは既に琥珀髪の間合いだった。


 男はいかなる手段を用いてか、空間を移動したのだ。


「決着だ」ヴォファンが言った。


 側に控えていた魔法士連中が驚きとともに老人と琥珀髪の男を取り囲む。


 だが今やヴォファンはアマランの首筋に鋭い手刀を添えていた。誰も動くことが出来ないまま、リルクが息を吞んだとき、遥か高空から鳥のように甲高い音が響いた。それはゆっくりと伸びるように柔らかい音色だった。


「まさか!」ヴォファンが言った。


 あれはなんだというのか、アマランよりも警戒すべき相手なのか。リルクは身を強張らせたが、動けないのは彼だけではなかった。自分以外の魔法士もアマランさえも驚愕の表情を張り付けたまま、その口を大きく開けていた。


「なぜここにいる」ヴォファンが言った。

「ありえん」アマランが言う。


 それらに答えるように鳴き声が一つ。空には一体の鳥竜がいた。小さな黒点ほどにしか見えないそれはぐんぐんと大地に迫り、豪風でもってヴォファンたちを怯ませると、鉤爪のついた前足でアマランを拾い上げた。


 その六馬躰ほどの胴体には猛禽のような形の四本の脚が生えており、足首から双翼、頸に至るまで滑らかな濃緑の鱗でびっしりと覆われている。尾はまるで触手のように自在に動き、時折思い出したようにぬかるんだ地面を叩いていた。


「邪魔をするか」


 琥珀髪の男が巨獣へと剣を向けると、竜がその嘴を擦り合わせてぎちぎちと不快な音を鳴らした。思わずリルクは岩上から転げて、丁度竜の正面に落ちる。そこは奇しくもヴォファンの真隣であった。


 見上げれば、竜の背には一人の男が乗っていた。

 男は琥珀髪を見つめると、冷ややかな声で呟いた。


「臆病ならば、それらしく震えていればよいものを」

「斬るべきものが目に入ったのだ」

「くだらない。その自己満足で何を救える?」

「未来だ」琥珀髪の男が言った。

 

 それを聞いて男が大げさに笑った。


「はは。未来か。なに、この戦もそう長くは続かん。いずれ術式陣は争いごとのためには利用されなくなるとも。さすれば大規模術式陣などという馬鹿げた代物も無くなり、お前の望む未来が来る。それまで待つが良いさ」男が穏やかに言う。


 それを聞いたヴォファンは、憎々しげに男を睨んだ。


 竜の背に乗る男は銀色の髪をなびかせながら堂々と琥珀髪に相対しており、そこにはある種の風格のようなものがある。厳粛さと神聖さ。王族かあるいは貴族のような神秘的な雰囲気を纏っていて、獣であるヴォファンとは対照的であった。


 琥珀髪が口を開いた。


「それまでに、次はもっと多くの人間が死ぬ。その時には、誰が貴様らを守ってくれるのだ。脳子か。それとも呪術士か。どちらも信用はできんだろうに」

「だとしても、過去には戻れないのだよ」

「過去だと」琥珀髪が唸った。

「人は栄華の前には戻りたくとも戻れないのだ」


 男がそう言うと同時に竜が翼を大きく打つ。


 強い風が巻き起こり、リルクの全身に泥濘が降りかかる。アマランを連れたまま空へと去っていく竜を見ながら、ヴォファンは苦々しげに身体の泥を払った。


 もはや地上の魔法士たちは彼を襲うことはしなかった。彼らは怯える馬を連れて、本陣へと足早に去っていった。リルクは消えそうになっている『ハオンの光』を見ながら、戦争の終結が近いという銀髪の男の言葉を考える。


 少し離れた戦場で鬨の声が上がった。


 どうやらピケン温帝国はこの戦に敗北したらしかった。エズアルと冷湿同盟の長きに渡る乾湿戦争はひょっとすると大帝国の敗北に終わるのかもしれない。そんなことを思いながら、リルクは、歩き出したヴォファンに続いて戦場を後にした。


「戦争は終わるんですか」青年が聞いた。

「終わる。四日前に皇国とノーラン剣王はエレングルを奪還した」


 ヴォファンは疲れた声でそう言った。


「じゃあなぜ戦ったんで?」

「術式陣を壊しに来たと言ったろう」

「放っておいても壊れたはずです」

「それでは汚染は止められん」

「まさか本当に呪界汚染を防ぐためだけに?」


 リルクはあらためて驚いた。


 この男は戦争の終わりが近いことを知っていたというのに、ピケンの戦場に現れたのだ。戦乱が終わるのを待たず、ただ術式陣を誰にも使わせないためだけに。


 リルクのいたピケン帝国のみならず、大陸中の傭兵組合で『魔術殺し』の噂は流れていた。金や名誉を求めるのではなく、大規模な呪界汚染を食い止めるためだけに戦っているという奇妙な男。術式を忌み嫌う、琥珀髪の怪物。


 その存在は知っていたが、実際に目の当たりにすると信じられなかった。


「愚かに見えるか」ヴォファンが言った。

「なぜ? 人々のためでしょう?」

「いや、違う。俺は抑えきれぬ激情にこの身を捧げている。恐怖が俺の身を駆り立てていて、怒りと臆病さで俺の戦いは作られている。大義などどこにもない。狩人におびえた動物が逆上しているのと大して変わらん」ヴォファンが言う。


「ふつうは大義なんてありませんよ、俺にも」リルクは言った。

「若いうちに見つけておくべきものだ」

「いりませんよそんなもの」

「それも一つの大義かもしれん」


 琥珀髪の男はそう言いながら剣に付着した血を拭った。滑らかな銀色の剣身に血塗れた琥珀の色が映った。それから彼は戦場から離れた場所で、目に見えぬ誰かに向かって祈りを捧げた。リルクは、きっと彼が戦死者の冥福を祈っているのだろうと思ったが、本当にそうだったのかはついぞ分からなかった。


 戦場の死肉を狙って魔獣どもがうようよと現れ始めたころ、ヴォファンはリルクを連れて、何も言わないままに一番近くの街へと馬を走らせた。そこには戦争を終えたばかりの、たくさんの剣術士がいて、そして「彼女」もいたのだ――。



 今でもリルクは考えることがある。


 あのとき街へと行かなければ、自分が酒場を選ばなければ、いやそもそも自分がヴォファンと会わなければ、あのような悲劇は起きなかったのではないだろうか。しかし、戦争が終わりを迎えようとしていたあの瞬間、運命は動きだしたのだ。


 乾いた土に鮮血が染みこまれていくのを見て、男は目を瞑る。


 そうすると、あの日のことが鮮明に思い出された。

 そしてあの輝かしい日々のことが。

 

 今はもう青年ではないリルクは、燃え落ちた城を横目に、空に向かって呟いた。


「イルファン」


 呟きは、煙のなかに溶けていった。


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