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武蔵が如く  作者: オサダアヤ
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武蔵が如く 後編

後編です。一番下に短くまとめたあらすじがあります。

次の日の朝、ココは泥のようになっていた。

「ほれ、水じゃ。飲めるか?」

武左衛門の手を借りて、やっとこ上半身を起こしたココは、渡されたそれを飲み干して、また倒れこむように床に就いた。

「頭が割れるように痛…」

ココは昨日の真っ赤な顔とは打って変わって、血の気のない顔をして弱音を吐きかけて止めた。でもそれは決して強い心でとかではなく、単に喋ると頭が痛いから止めただけである。

「すまんの、昨日俺が無理に飲ませたばかりに」

懺悔の言葉を口にした、昨日碗に10杯以上煽っていた酒豪武左衛門はココの疑いも晴れ昨日と変わって元気一杯である。

「いえ!そ…」

大声を出した後、頭を押さえてもがき苦しむココを見て、出かけるつもりだった武左衛門も流石に一人にさせるのは心配になってきた。

「やはり今日は仕事を休んでお前を見ておったほうが良いか」

「めっ!…」

主人に迷惑をかけるわけにはいかないと、懲りずに再び大声を出したココは無言で再び頭を強く押さえることとなった。

「滅相も無い…ココは…武左衛門様の…迷惑になることだけは…しとうないので…御座います」

息も絶え絶えに必死の懇願をするココの意思を汲み取って、武左衛門は仕事に出ることを決意した。

「そこまで言うなら俺は行こう。とりあえず昼には一回戻るからな。おとなしく横になっとれよ」

汲み置きの水をココの周りにこれでもかと並べて、武左衛門は「行ってくる」と家を出た。

だが、やはり心配で戸を閉める前にもう一度だけ振り返ると無理やりな笑顔を作ったココが、

「いってらっしゃいませ」

と言ったので武左衛門は思わず苦笑いを浮かべた。





この武左衛門を見送ったあと、あまりの激痛に頭を押さえながら悶え苦しんでいる少年、名を『川上 九蔵』という。まごう事なき川上道場の創始者、川上誠一郎の実子である。

だが彼は、そんな大道場の息子として生まれたにも関わらず、幼少の頃より先日まで剣等只の一度も握ったことがなかった。幼少の頃から握っていたのはもっと別のものだ。

川上道場の話をしよう。

川上道場は別に歴史が深い道場というわけではない。誠一郎が30年ほど前に作った新興の道場である。ならば、なぜ短期間にこれほどまでの大道場に成りえたのか。それは誠一郎の剣術が一流というのもあったが、なにより彼が絶世の美男子だったところが大きい。

この時代、身分ある人間にとって男色というのは嗜みの一つとされていた時代である。それ故に、剣の才が有り、美男子である彼が道場を起こすとなると、瞬く間に様々な方面の有力者が彼に目を付けて関係を迫ってきた。

もとより、道場を起こそうという時点で大抵は名声や金、権力が欲しい人間である。誠一郎もそれに漏れることなく、いや人並み以上のそれらを欲っしている人間だった。なので彼は、言い寄ってくるそれらを多く運んでくるもの全てと関係を結んだ。

金が入れば武左衛門のようなものを雇い、余所の名声を買うことが出来る。名声が増えれば周りに自分の色以外のものを求める多くのものが集まり権力になる。それを幾度も繰り返すうちに入門希望者が増える。入門希望者が増えればその中から良いものだけを選ぶことが出来る。ふるいをかけるようになってしばらく経つと、川上道場は一芸に秀でた者しか入れない道場との噂が広がりいつのまにか川上道場を出たということが大きなステータスとなっていた。そして、その天下の道場主川上誠一郎を抱くということは多くのものにとって大きな誉れとなるため、一晩共にするだけで莫大な金が入るようになった。そしてその莫大な金を使い大きな名声を買った。

幾年月経つとその繰り返しの結果、川上道場は名声、金、権力の全てにおいて名実共に町一番の道場になっていた。

彼はその経過の途中、良い家柄の妻を娶り、子を授かり、見てくれの良い妾を雇いはべらせた。

だが蒙古必衰とはよくいったもので、その栄華にも陰りが見え始める。齢を重ねる毎に体力、容姿共に衰えを見せ始めたからだ。皆、強く美しい川上誠一郎だからこそ大金を払ってこの男を汲み伏しているという優越感を買っていたのであって、彼が老け込んでしまえば全て意味がなくなってしまうことなのだ。溢れるほど入ってきていた資金はなくなり最早、彼の妻の実家からの援助でなんとかやっていけるほどに落ちぶれた。

彼は焦った。このままではいつか自分の積み重ねたものが全て水泡に帰すのではないかと、数百年先には誰も自分のことなど知らぬのではないかと。

一つだけ後世にこの栄華を誇る川上道場と自分の名を残せる方法を彼は考え付いていた。

それは自分の子孫に自分と全く同じことをさせることであった。だが本妻との間にもうけた長男である倫太郎は体格こそ、そこそこに立派だったものの、家柄で選んだ母に似て、容姿が激しく劣っていた。剣の腕は磨けばある程度どうとでもなるが容姿だけはどうにもならない。彼が行き詰まっていたそんな折、可愛がっていた容姿麗しい妾に男の子が生まれた。

その吉報を受けて彼はこの子を自分の後継者に据えようと考えた。


九蔵が生まれたあと、誠一郎はその存在を徹底的に表から隠した。母である妾を故郷に返し、出産に携わったもの全てのものに口止めをした。

九蔵は生まれてからすぐ、屋敷の奥まった部屋に隔離された。6畳ほどのその小さな部屋と天窓から見える外の景色が彼の世界の全てになった。

それは力を持った彼の妻の父親に対する配慮だった。もし彼の直系である倫太郎以外の息子がいると知られれば殺されるか、少なくとも剣は持てない身体にされるという核心があったからだ。

世間から隠された彼は時が経つにつれ父に似て美しく成長していった。

そんな彼が初めて客をとったのは実に齢十二の頃であった。

相手はどこから聞きつけたのか、誠一郎に九蔵の初めての客を自分にしてくれと前々から大金を積んでいた男であった。

誠一郎はそれを承諾せねば九蔵のことを妻の父親にばらすとまで脅され、ならばと決して口外せぬという約束で承諾した。

だが、その客はその後、我慢できずに…。いや元より自慢するために買ったのだから当然、「川上誠一郎には実は美しい息子がいてそれを初めて抱いたのは自分だ」と何人かに秘密の話と吹聴した。

やはり秘密の話とはあっという間に広がるもので、その話は誠一郎のスポンサーの間で瞬く間に広がった。そして隠されたものはやはりどうしても暴きたいもので、多くのものがそれを一目見たい、抱きたいと多くの金を積んだ。

川上道場に再び金が回るようになった。だが、所詮そんなものは一時のものであると誠一郎は考えていた。誠一郎の頭の中では九蔵のことはあくまで「隠しているから一度は見たい」そんな思いで皆が金を出しているという話だとまとまっていた。

だが、ここで予想外の出来事が生じる。一度彼を抱いたものが更に高い金を積み上げて彼を抱きたいと申し入れてきたのだ。そんな人間が後を絶たないため誠一郎はそのうち一人につい、

 「あなたは一度九蔵を見たし、抱いたであろう。なのに何故また金を出す?」

 と問うた。九蔵は自分の息子といっても剣の腕はもちろんない、汲み伏しても優越感には浸れない筈である。それにただ少年を抱きたいならば茶屋に行けばこの五十分の一の値で幾らでも買えるのである。

 「あの少年にはあんたの息子、それ以上の魅力があるということだ」

 誠一郎はそれを失念していた。自分とは関係がなく、少年であるという理由ではなく、皆はただ「川上九蔵」個人の魅力に惹かれ群がっていたのだ。

 それからも群がる人間は月日を追う事に多くなり、それに伴い動く金額も膨れ上がっていった。

彼はその金を使い、再び名声と権力を取り戻した。道場は再び活気付き、嘗ての勢いを取り戻した。

 だが、膨れ上がる過程で妻の実家に知られため、九蔵を処分するようにと求められる。彼は悩んだ末に妻を追い出し、実家に追いやって絶縁とした。

 九蔵のお陰で全てが上手くいき、これでようやく彼を外に出してやれる筈だった。

 そんなある日、九蔵を攫いに道場に雇われた野党が襲撃をかけた。幸い大事にはならなかったが誠一郎は心底震え上がった。九蔵は今の自分や道場の生命線であることを今更ながら実感したのだ。

 誠一郎はそれ以来、九蔵の部屋をより強固なものにして、屋敷の周り全てを高い塀で覆った。それは表向き暴漢からの守りと称していたが実際には九蔵を逃がさないという強い意志の表れでもあった。

 

 



 ちょっと前までそんな防犯三昧の御宅に住んでいたココだったが、今はがたがたのあばら家で一人、床に伏せって主の帰りを待っている。人生一寸先は…とよくいったものである。

 そんなココの前に面識のある来訪者が現れた。その派手な着物を着た男は家に入るなり

 「兄者!兄者!」

 と騒ぎ立てた。その男、名を右の字という。

 「おい、九蔵!兄者はどこだ!」

 ココは大声を出され、痛む頭を押さえながら本当に嫌そうに、

 「武左衛門様は働きに出ました」

 と無愛想に言い放ち、寝た。

 「なんじゃ!お前は居候の分際で兄者を働かせ己は家で寝とるのか、この駄目九蔵が!」

 喜々として語る右の字にココは返す言葉もなかった。仮にあったとしても頭が痛くて喋る気はなかった。

 「しかし、それなら兄者が来るまで何をして待とうか?」

 ふむ、と一呼吸置いた右の字を尻目にココは目を瞑った。

 「そうじゃ、九蔵でも抱くか」

 右の字がそれをなんてことないような口調で言い放ったため、ココは彼が一体何を言ったのか理解できなかった。右の字はココに近づき、その大きな身体で床に伏せったココに覆いかぶさる。

 「何を!お止め下さい!」

 ココは自分の身に何が起こっているのか重い頭で把握して、身をよじる様にして力任せに抱擁してきた右の字の腕から逃れようとする。

 「何をと?そりゃ抱くのよ!」

 右の字はわかりきったことを聞くなと言わんばかりに底意地の悪い笑みを浮かべ、ココの下腹部を弄った。が、

 「痛ぇ!」

 ココは右の字の肩口に思いっきり噛み付いた。右の字は肩口を抑えココの上から離れる。

それを見計らって、ココは這うようにして床を抜け、懐にしまった返すタイミングを見失っていた先日勘違いで武左衛門に託された短刀を手にした。

 「そんなお飾り持ったところで、わし相手には状況は変わらんぞ」

 そう言って右の字はやれやれと重い腰を上げ差した長物に手をかけた。

 「大人しく抱かれるのであれば手荒な真似はせず優しくしてやるぞ?」

 右の字は言葉とは裏腹に、鋭く釣り上がった瞳でココを睨みつけ、唇の端をグイッと持ち上げた。そんな表情を見せられココは竦んだ。だが

 「嫌で御座います」

 きっぱりと口にして短刀を正面に構えた。

 「どうしてもか?」

 まるで最終確認のように、右の字はずいっと前に出て睨みつける。ココは一歩も動けずに蛇に睨まれた蛙とはこのような気持ちだろうなと思い心底恐怖した。だが、それでも震えた上ずった声で

 「どうしても」

 とはっきり口にした。二人の間に沈黙が訪れ、しばし二人睨み合う格好となった。ココの頬に滝のような冷たい汗が流れる。だが、それでも決して右の字から視線を逸らさなかった。

 結局、その沈黙は先に右の字が破ることになった。彼は右手で自らの目を隠すように覆い上を向き声を上げて笑った。

 「かっかっか!そうか、どうしてもか!それは良い!実に良い!」

 笑い続ける右の字に対し呆気に取られていたココは正気を取り戻し、

 「意味がわかりませぬ」

 と嘆いた。いつか言った意味とは大分違う意味で。


それから数分後、昼までの仕事を終え武左衛門が戻ってくる。その途中、「旦那のところに誰か男がきていたよ」と聞いた。武左衛門は焦った、もしかしたら川上道場の手のものがココを攫いに来たのではないかと思い全力で駆けた。息を切らせて家につき、引き戸が壊れるような勢いでガシンと開けて愕然とした。

「お前は何をしとるんじゃ?」

そこには短刀を構えたココと、奇妙な笑い方をする右の字がいた。

「お帰りなさいませ!」

ココはすぐに短刀を手放し三つ指をついた。だが頭を下げると同時に思い出したように激痛が走り、その場に突っ伏した。突っ伏しながら彼は痛い頭で右の字に犯されそうになったという今の状況を伝えていいものか迷った。だが、そんなもの全くの杞憂であった。右の字が自分で今行った所業を包み隠さず喋ったからである。

「いや、兄者が帰ってくるまで暇だから九蔵を犯そうと思ったんじゃが、手荒く歯向かわれましての。見てくだされ、こんなに歯形をくっきりと残されましたぞ!」

右の字は肩をはだけさせ綺麗に残った歯形を指差した。

その瞬間『ごつり』という鈍い音が響く。それは武左衛門が鞘ごと引き抜いた延べ板で右の字の額を突いた音だった。右の字は額を押さえてその場にしゃがみ込んだ。

「痛ぇ…。今の一撃にはまったく愛が感じられませんでしたぞ兄者…」

そんな右の字のうめき声を無視して、武左衛門はココの方に向き直った。

「で、ココ。どうする?斬って捨てろというなら切り捨てるが?」

「ちょっと、兄者!それは愛情表現にしてはいささか過激すぎますぞ!ちょ、九蔵、俯いとらんとお主からも一言言って兄者を止めんか!九蔵!おい、きゅう…」

本日二度目の鈍い音が響いた。


「それで、結局お前は何しに来たんじゃ?」

胡坐をかいて、足に肘をつき、頬杖をついた武左衛門がねめつけるような視線で正座させている右の字を睨み、問うた。ちなみに逆側の足にはココが頭を乗っけている。

「いや、実はわしも今、川上道場の仕事を請けていての。それで兄者が昨日郷田と会ったという話を聞いて互いに話を交換しようと思っての」

「お前も仕事を請けておるなら郷田殿に聞けばよかろう」

「いや、わしは郷田派では御座らんのよ」

「なんじゃ、その郷田派とは?」

「兄者!仕事を請けておいて何も聞いておられんので?簡単に言えば川上道場では跡目を巡って現在2つの勢力が対立しております。一つは一番の古株郷田が率いる穏健派、ここは古参の者が多く、今までのやり方を変えたくないという考えで動いております。もう一つは誠一郎の長男、川上倫太郎の率いる革新派です」

『川上倫太郎』武左衛門にとっては三度負けた、いや負けてやった相手である。彼を一言で表すなら清廉潔白、真実剛健そんな真っ直ぐな男である。戦績は100戦練磨、生まれてから一度も負けたことがない豪傑である。町での評判は、容姿にこそ恵まれなかったがその実力は天下無双などといわれている。だが、実際は剣の才にはあまり恵まれた男ではなく、その実績は全て彼が望まずして周りが金で買ったものである。

「この派閥は若い者が中心で多くが理想を求めておりますな。まぁ、ほとんどが倫太郎の持つ『天下無双』とか『生涯無敗』とか馬鹿な称号に魅せられて集まったどうしようもない阿呆ばかりのところです」

右の字は言い切った後、若干眉をしかめた武左衛門の表情を見て、しまったとばかりに取り繕った。

「いや!これは別に兄者の夢についてどうこう言ったわけではなくて…」

武左衛門は不味いことを言いそうな右の字の唇を思わず手のひらで覆い、発言を遮った。

「別にそれが引っ掛かったわけじゃねぇ!ただ奴にした悪いことを思い出しただけだ!それにしても、あの川上倫太郎がお前を雇うなどとありえんと思うが」

武左衛門は倫太郎が自分や右の字のような人間を何より嫌っているのを知っているので不思議に思い、質問を投げかけ口から手を離してやった。

「そう仰る通り、実はわしは倫太郎本人ではなく、奴の派閥に属する剣豪に雇われておりましての。倫太郎はわしが雇われていることを多分知りませぬ。今日はそいつに兄者が郷田のもとを訪れたから探りを入れてこいと言われてここに来た次第です」

武左衛門は右の字の話を聞いて、派閥の中でも色々と揉め事があり泥沼になっていることを確信した。

「お前の意向はわかったが、俺も一応は郷田殿に雇われた身だ。そう簡単に雇い主を売るようなことは出来んよ」

「そうですか、実に兄者らしい。まぁ、わしもそこまで奴のために動いてやる気はないですからな。それではこれで」

実にあっさり引いた右の字はそう言って立ち上がった。

「もう行くのか?」

「兄者ほどではありませぬがこれでも結構使われておりまして。まぁ、それをどかしてわしに膝を貸してくださるなら今日一日居っても構いませぬが?」

ココはそれを聞いて、これみよがしに武左衛門の胴回りに腕を這わせた。その様子を見て右の字は唇の端だけをグイッと持ち上げ、のどの奥で「ククッ」っと笑った。

「愛しいものを奪われるのは実に歯がゆいものじゃな。それでは兄者、次に会う日までお元気で!」

騒々しく右の字が去り、武左衛門は先ほどから膝をまくらにして丸まっているココと二人となった。

「すまんな。怖い思いをさせて」

武左衛門はココに侘びをいれ、その頭に手を置いた。

「いえ、あの者は本気で犯す気がなかったようなので、そこまで怖くはありませんでした」

ココは途中から相手が本気ではないことに気づいていた。もし、彼が本気だったならば自分が今いかような状態にされていたかくらいはココにもわかっている。武左衛門もそれに気づいていたからこそ右の字を必要以上に咎めることをしなかった。

「それに、ココが例えどのような目にあっていたとしても、武左衛門様がココに侘びを入れる必要など何があってもありませぬよ」

ココはその手の上に自分の手を重ね、その細い指を這わせ絡めた。

そんなココの言葉に、武左衛門はなんとなく返しに詰まって、目を瞑り押し黙った。だが悪い気はせず、その沈黙はなんとも心地よかった。

そんな心地よさに負けて気づいた頃には空が赤く染まっていた。


(ありえん…)

そう、それは武左衛門にとって本当にありえないことだった。今日は午後からも頼まれていた仕事があったのだ。起きた後、急いで顔を出しに行ったのだが夕暮れ時で、今日の仕事はもう終わっていた。寝過ごしたことを依頼主に詫びると、

「旦那は忙しいですから身体が疲れていたんでしょ。そんなこともありますよ。だからどうぞ気にしないで下さい」

と返されたが、武左衛門には今までそんなことは一度足りともなかったのだ。どれだけ心身ともに疲れていようが誰かに必要とされていれば呪いのように身体が動く人間である。なので、誰かとの約束をすっぽかすなど生まれて始めての出来事だったのだ。

そして、その出来事は行く先々で知れ渡っており、どこへ行っても心配した村人たちに「今日は休め」と言われてしまい、珍しく、まだ日が完全に落ちる前に帰宅することとなった。

「帰ったぞ」

力なく武左衛門が戸を開けると、ココが地面に突き刺さる勢いで頭を下げてきた。

「申し訳ありません!本当に申し訳ありません!」

同じく夕方までぐっすり寝ていて、武左衛門の「しまった!」という叫びで起きたココは主に恥をかかせた自らの失態を全力で詫びた。

「いや、お前は何も謝る必要などないよ」

武左衛門は力なく言い切って家に上がり、そのまま敷きっぱなしだった布団に崩れ落ちるように倒れこんだ。

「ありえん…。本当にありえん…」

武左衛門は思わず声に出して呟き、小さく丸まった。

そんな始めて見るへこんだ主にココはどう対応したらよいものか見当がつかない、こともなかった。この侍が好きなことなど人の役に立つこと以外ではこれしかないのだから。

「武左衛門様!湯屋に行かれては!」

死んだ目をしていた武左衛門は、その目にわずかな光を取り戻し、ふらふらと立ち上がった。

「そうか、湯屋か…。確かに湯屋に行けばなんとかなるかもしれん」

何がなんとかなるのかわからないが、一つ確かなことはきっと彼はお湯依存症である。

「ココが帰ってくるまでには美味しいものをこしらえておきます」

すっかり二日酔いが治ったココに送り出されて、ふらふらと足を引きずる様に風呂屋へ向かうと流石に夕方とあって風呂屋は掻き入れ時の時間帯で大混雑していた。

「旦那、こんな時間に珍しい。待ってください、今すぐ他の客を帰らせますんで」

早い時間に表れた武左衛門を見て、なにやら不穏な動きを見せようとした主人を武左衛門は全力で制した。

「いや、俺は全然構わんから!むしろたまには賑やかなのもよいわ!」

主人をなだめ、着物を脱いで他の客と雑談しながら順番を待って湯に浸かる。

(どうやら待っとる奴がおらんから俺が最後の客だったようじゃの。これでゆっくりと湯に浸かれる)

肩までゆっくり浸かって気分転換をする。そうしていると別に一度仕事をすっぽかしたくらいどっちでも良い気がしてくる。

(もしかしたら最近バタバタしとったから本当に疲れておったんかも知れんの…)

その疲れを癒すために武左衛門は一つ大きなため息を声に出して吐いた。

(まぁ、そのバタバタも無事に解決してよかったの。ココが川上誠一郎を殺した犯人でなくて本当によかった。これにて一件落着…)

「じゃ、ねーよ」

武左衛門は思わず自分にツッコミを入れた。当然である、だって事態は何一つ解決していないのだから。

(川上誠一郎殺しの犯人はまだ捕まえておらんし、そもそも俺は郷田殿に真犯人を捕まえたらあの者達のことを許してくれということすら忘れとった!一体俺はどうなっとるんじゃ!なぜ全て解決したという思いになって今日は普段の仕事をしとった?)

もう何がなんだかわからなくなって風呂に潜った武左衛門だったが、今日もココと共に酒を飲むことだけは決めた。



「酒だ!」

武左衛門は家の戸を開けるなりこう言って、部屋の隅においておる一途樽の蓋を開けた。

蓋を開けるなり昨日と同じく、部屋中に独特の匂いが充満した。武左衛門はそれをひしゃくですくい碗に注いだ。それをココに「ほれ」と渡す。ココはまさかのテンドンに戸惑いつつも、それを昨日と同じくおずおずと受け取った。武左衛門は自分の分も碗に並々と注ぎ、

「今日も飲むぞ!」

と一言って、それを一口で飲み干した。ふーっと息を吐き顔が一気に真っ赤になる。

完全にデジャブである。唯一昨日と違う点は、今日はご飯が用意されているのとココに渡した酒を少量に変更したところくらいである。

「うむ、今日もお前の作った飯は旨そうだな。いただきます」

「光栄で御座います。いただきます」

不意打ちで褒められたココは、少し頬を赤らめ、彼と共に目の前の膳に手を合わせた。

最初こそ「主が食べ終わるまで食べません」と言い張っていたココだったが武左衛門が何度か一緒に食べることをねだるうちに折れたのか、それとも別の理由からか、自然な流れで共に飯を食うようになった。

「して、ココは俺に何か聞きたいことはないか?」

膳を食い終わった後、武左衛門は昨日と同じく唐突にココに自分への質問を求めた。

「その、実は武左衛門様からお預かりしたこの短刀、どこにしまえばよいのかわからず困っておりました」

そう言って、ココはおずおずと懐にしまっていた短刀を差し出した。

「細工を見るに大層高価なものとお見受けしました」

だからココは防犯的な面でただ戸棚に入れておいて良いものなのか迷った。少なくとも、この古い長屋には似つかわしくない代物である。

「そうか、師匠の形見として貰ったものだから俺には価値はよくわからん。だが価値あるものなら大事にしてくれ」

ココは今までの経験から、この侍が何を言っているのか半分わかりながらも聞き返した。

「大事にしてくれとはどういう意味でしょうか?」

「大事にしてくれとは言葉通り、お前に大切に扱って欲しいということだ」

解釈していた通りの意味で、これにはココも絶句した。この男には大事なものが他人の願い以外ないのだろうかと流石に呆れた。

「そのような大事なもの受け取るわけにはいきませぬ!いつも誰かれ構わず人にばかり施して、失礼ですが武左衛門様はもう少し自分の幸せというものを考えたほうが良いと思います!」

ココはこの男のことを思い、叱るようなきつい口調で言った。そんなココに武左衛門は短い言葉で返答した

「だから俺はお前に持っていて欲しいのだ」

言葉足らずである。言葉足らずであるが彼の想いはココに届いた。だから、ココはこの少年にしては珍しく、耳まで真っ赤にして押し黙った。

武左衛門は今言った台詞を誤魔化すようにぶっきら棒に「他には何かないか」と促した。

「では」と耳まで真っ赤なココもまた誤魔化すように咳払いをした後、もう一つ気になっていたことを聞いた。

「そのよければで構いませぬが、武左衛門様の夢とは一体なんなので御座いますか?」

武左衛門は薄々この質問が来ることを予見していた。なぜなら、昼に右の字が兄者の夢がどうこう言っていたときにココがやたらとキラキラした興味ありげな顔をしていたからだ。

「その、なんだ…」

一応言う覚悟は決めてきたのだが、いざとなると多少言葉に詰まった。だがココにまた余計な気を遣わせたくない一心で、武左衛門は目を泳がせて歯切れ悪く言った。

「武蔵じゃ…。実は『宮本武蔵』になりたいとか、昔言ったこともあっての」

昔酒の席で口を滑らせ言ったがために、それから今まで師匠と右の字に事ある毎にからかわれてきた武左衛門の夢だ。確かに普通なら笑う。もしくは引く。だがココはいつもの満面の笑みで、

「宮本武蔵ですか!武左衛門様ならきっとなれますとも!」

力強く言い切った。師匠や右の字が他人の前でこれを言うたびに笑われてきた武左衛門だったので、これは例えお世辞でも大層嬉しかった。酒が入っていることと関係なく、彼の頭に血が上り顔が熱くなった。それを気取られないように武左衛門は碗の酒を一気に飲み干す。そして照れを隠すように、右手を顔の前で振ってその話を切った。

「もう、この話は終いにしてくれ。それでココ、俺からも一つ聞きたいことがあるんじゃが…」

「なんでしょうか?」

本当のところ、ココといるとそれだけで、何か満たされている気持ちになれていることは武左衛門自信わかっていた。その気持ちが、他人の役に立つという気持ちより上にきていたことも薄々わかっていた。昨日もココが川上 誠一郎殺しの犯人であるかも知れないと思っただけで頭が真っ白になった。今日も家に帰ってココが無事だった心底安堵した。

ココが自分の価値観の一番上にきている。だから他人との約束など寝過ごしたり、忘れていたりしたのである。ココが自分にとって代えの利かない存在になっていて、自分はそのココを失うことを何より恐れている。それは武左衛門自信薄々気づいている。だが、この男は変わることを恐れた。それを認めまいという気持ちがあった。だから、今ココを問い詰めるような真似までして今までの自分を保とうとしている。

「実は郷田という男に会った際、お前の人相書きを見せられ、この少年を連れてきて欲しいと頼まれた。お前は一体何者だ?」

質問を聞いて、ココの顔色が変わった。見る間に青ざめ下を向いた。その顔にははっきりと不安が表れていた。唇は振るえ、目を合わせようともしなかった。そんな様子に武左衛門はただならぬものを感じ、彼の横に行き肩を抱いた。

「お前が言いたくなければ構わんよ。忘れてくれ」

武左衛門はこれ以上問い詰めて、ココを失うことを恐れた。だから話を切った。

「こんなボロ長屋でよければ、お前が居たいだけ居れば良い」

そして武左衛門は彼らしくない、ココをこの場に縛るような言葉を吐いた。

武左衛門はココがこの家から出て行かない理由がわかったような気になった。彼はその場所に連れ戻されるのを恐れていたのだ。そこでよほどつらい目に遭ってきたのだ。そう自分にとって都合良く解釈した。

だが、武左衛門の勝手な思い込みはまたも検討外れで、今ココがもっとも恐れたのは連れ戻されることよりも、自分の素性が彼にばれることにあった。


「自分は汚れものである」それを武左衛門に知られることを彼は恐れていた。


この時代、今と違って貞操観念というものは薄い時代である。だから例え多くのものと関係を結ぼうと、金で身体を売ろうともそんな発想には普通ならない。だが、ココは普通の人間ではなく限られた檻の中で限られた人間としか関わってこなかった人間である。だから、そんな観念を知らない。

ならば、なぜ自分が汚れ物などと思うようになったか。それはきっかけもあったが、単にココ自身が他人と行うそういう行為を汚くて嫌だと思っていたからでしかない。

ココが相手をしてきたのは金で醜く肥えた醜悪な人間ばかりであった。そのためココはそういう人間に自分の身体をいいように使われるのをいつも汚されていると感じていた。野党に犯されたことを隠したのも同義である。

武左衛門は異常に綺麗好きな男である。だから、もし自分がそうやって汚れながら生きてきたことを知られれば、彼に嫌われるのではないかという強い恐れが彼にはあった。

だから今まで過去について語らなかったし、武左衛門が少し彼の過去が気になる素振りを見せても気づかぬ振りをしてきた。だが、先日武左衛門は自分に過去を語ってくれた。主と仰ぐ彼が包み隠さず喋ってくれるのに、自分は何も語らないというのは心苦しかったし、なにより彼に自分がどういう人間かしって欲しい、知った上で受け入れてもらいたいという気持ちは常にあった。

そして、今の状況なら武左衛門に対する、とある想いが幾分その不安を緩和してくれる。だからココは覚悟を決めた。


手がかりがなくなり、明日はどうするかと思案しながら武左衛門は碗に入った酒を口に含んだ。

「実はココは川上誠一郎の息子で名を川上九蔵と申します」

「ごふ!」

そしてむせた。ココのあまりの唐突な衝撃発言にむせ返った。

武左衛門は静かにココが語りだした彼の生い立ちを黙って聞いた。

自分の出生、自分の仕事、自分の価値、自分の知っている自分の全てを包み隠さず武左衛門に話した。そして、

「ある日の夜、黒尽くめの格好をした真っ赤な返り血を浴びた男がココの入れられている部屋に現れまして、ココは大した抵抗も出来ぬまま、その男に縛り上げられ、目隠しと猿轡をされ、屋敷から運び出されました。きっとその男が父を殺した犯人だと思います」

事件の顛末を語った。

(川上誠一郎が殺されたのはココを誘拐するためだったか。それにしても…)

武左衛門は話を聞き、ココのことが不憫で堪らなくなった。生まれたときから檻に入れられ、客をとらされた。確かに客観的に凄く可哀想な人生である。

「今、お聞きいただいた通り、ココは汚れ物でございます」

全てを語ったココは自嘲気味に笑った。そのどこかくすんだ笑顔が悲しくて、武左衛門は思わずココを力強く抱きしめた。

「お前はどこも汚れてなどおらんよ」

それは口先ではなく武左衛門の本心であった。

「…お優しい武左衛門様、それならココを抱きたいと思ってくれますか」

ココのその姿にはいつもと違い色めき立ったものがなく、その細身の身体は抱いているだけで壊れてしまいそうにさえ感じた。

「お前が抱いて欲しいというのなら抱こう」

それが期待されていた答えでないことは武左衛門にだってわかっていた。ただ、長い間武左衛門はこうやって生きてきたのだ。誰かに必要とされるならする。そんな逃げにも似た生き方を…。

「ありがとうございます、お優しい武左衛門様。でもそれはココが欲しかったものと少し違います」

そう言って力なく笑った。その顔はどこかこう言われることをわかっていたような諦めの入った笑顔だった。

武左衛門だってココにこんな顔をさせたいわけではなかった。それでも、これ以外の答えは今のこの男にはどうあっても出ず、やがてそれを口に出すきっかけも失った。

黙って酒に口をつけて、武左衛門は己の不甲斐無さを呪った。そんな中、遠くから無数の足音が聞こえ武左衛門は立ち上がった。


「頼もう!」


夜が更けているにも関わらず、大声を上げて一人の男が長屋を訪ねてきた。

戸が壊れる勢いで「ピシャリ」と開けたその男は毛深く、いかつく、まるで熊のような大男であり、その大きさは6尺の武左衛門を越すほどであった。

彼が長屋に踏み込むと、それに従っている無数の男達が次々と雪崩のように長屋に押し入ってきた。

「居りましたぞ!師範代!」

「うむ」

押し入ってきた男達が左右にはけ、師範代と呼ばれる男の道を作った。その道を悠々と入ってきた男は武左衛門も一応は知っている人間だった。

ひしゃげた鼻に分厚い唇、角ばった輪郭にそばかすだらけの頬、美しい父と似ても似付かぬその容姿、名を「川上 倫太郎」といった。

「ふん、やはり男に媚を売って生きていたか、この痴れ物が」

倫太郎は武左衛門に寄り添ったココを侮蔑の表情で見るなり、吐き捨てるように言った。ココは何も言わず静かに下を向く。

「よもや、貴様のような屑に我が父が殺されようとは思ってもみなかった」

倫太郎は視線を武左衛門に向けて、ありったけの怨嗟を込めて睨み付けた。

「俺がお前の父を殺したじゃと…。それは何かの勘違いではないのか?」

急に濡れ衣を着させられ、武左衛門は眉を顰め不快感を露にした。

「白を切るな!貴様が郷田と繋がっていたのは知っておる!どうせ奴に命じられて殺したのだろ!そして今そいつと一緒に居ることが何よりの証拠!黙って付いてこないならばこの場で斬って捨てるぞ!」

いきり立った倫太郎が、剃りの入った頭まで真っ赤にして刀に手をかけたので、武左衛門は話が通じないことを悟り、自らも刀に手をかけるとココが二人の間に割って入った。

「待ってください!誤解なのです!自分はこのお侍様に助けて頂いてここにいるのです!どうか刀をお納めください!」

ココは倫太郎に土下座をする形で許しを請うた。それを見た倫太郎は怒りに唇を震わせ、ココを思い切り蹴飛ばした。ココは吹き飛び転がった。

「貴様、この屑に誑かされたか!川上家の面汚しが!恥を知れ!」

倫太郎は尚も怒りが収まらず、吹き飛んだココに更なる一撃を加えんと歩を進めようとすると武左衛門が割って入った。

「どけ屑め!どかぬならこの場で殺してくれようぞ!」

武左衛門は無言で腰を落とし、刀に手をかけ、右足を半歩前に突き出した。辺りに緊張が走り、周りにいた男達も次々に刀に手をかけた。なかでも熊のような男が誰より強い殺気を放っている。

「なんだ、一丁前にやるつもりか?人に良い様に使われていつも骨を折り損のくたびれ儲け、村人からは『骨折り侍』と嘲笑されている屑の分際で、この『天下無双』川上 倫太郎と一戦交えるつもりか!」

怒り心頭といった表情の倫太郎左拳を壁に叩き付けた。そんな倫太郎の足に、起き上がったココはすがり付いて慈悲を請うた。

「倫太郎様!お願いします、どうかお許しをお願いします!」

「ええい、うるさい!これ以上こいつを庇い立てするなら貴様もただでは済まさんぞ!」

勢いに任せ、ココに手を上げようとした倫太郎の腕を後ろで待機していた一人の糸目の優男が制した。その男は細身の身体に2本の小太刀を差しており、明らかに周りのものとは纏う雰囲気が違っている。

「お待ちください、倫太郎様。もし九蔵様の顔に傷でもついたら大事ですぞ」

倫太郎は優男に諌められ息荒く揚げた拳を下した。

「それで九蔵様、先ほどこの侍に助けられたと言っておりましたがどういうことなのでしょうか?」

優男は、その容姿通りの柔和な声でココに説明を促した。

「自分は父を討った何者かによって攫われ、そこから野党どもの慰み者になり、そこから命かながら逃げ出したところ、このお侍様に拾って頂きました。だから、このお侍様は父とは一切関係ありませぬ」

ココは強い口調で要点だけを的確にはっきりと口にした。

「それなら何故、貴様は郷田会っていた」

倫太郎はその負の感情を隠すことなく、武左衛門にぶつけるような口調で問うた。

「九蔵を探してくれと頼まれた」

武左衛門はいらただしげに答えを返した。

「なるほど、郷田め。最後に九蔵を押さえることに賭けていたか。それで貴様のような金に汚い男を集めて調べさせていたわけか」

この男も武左衛門を腕利きの八百長をする侍ということしか知らない。

「加藤殿、ただいま村人に聞きましたところこの者があの暗殺の晩、村にいたことを証言するものが幾人か居りました」

加藤と呼ばれた優男の命令で、村の人間の証言を集めていた者が戻ってきて報告をした。

「わかった。どうされますか倫太郎様、本当にこの者が九蔵様を保護していたのであれば『このままおとなしく返してくれるのなら』危害を加える必要はないと思いますが」

その一言でココの中で諦めがついた。だから全ての清算に入った。

「お待ち下さい、家に帰るにあたり一つ心残りがあります。実は先日川上誠一郎を暗殺したとして切腹を命じられていた者と会いました。そやつらは無罪でございます。どうか許してやって下さいませんか」

ココは先ほどとは打って変わって抑揚の無い声で彼らに対する慈悲を訴え出た。

「ああ、あれは郷田が勝手にやっていたことだ。あんな奴らに川上誠一郎が殺されたなどそれこそ名折れだ。まったくあの老害、何を企んでいたのやら。だが、奴らに罪はあるそれは川上誠一郎を守れなかったことだ。どちらにしろ切腹だ」

倫太郎は彼らを嘲笑するような口調でなじるように言った。ココの予想の通りだった。

「それではあまりに可哀想で御座います。それにあの晩は自分も屋敷におりました。彼らが腹を切るなら、自分にもそれなりの罰を与えてください。自分をお咎めなく迎え入れるのであれば彼らの罪をお許しください」

「それはつまり、戻ってくる代わりにあの腰抜け共の罪を許せということか。何故奴らに肩入れするのかは知らんが、フンよいだろう。そこまで言うなら奴らの罪を不問にしてやる」

心残りも清算して、ココは急展開についていけない元主の方へ振り向いた。

「武左衛門様」

名前を呼んで深々と立ったまま頭を下げた。

「それでは迎えが来たのでこれにて帰らせていただきます。もう会うこともないでしょう、どうぞお幸せに」

あまりに急な、あまりにあっけない別れの挨拶に武左衛門はようやくココがこの場を去ることを理解して言葉を返した。

「帰るのか?」

わかりきっていることを武左衛門はわざわざ口に出して言った。

「帰ります」

ココは淡々とした口調で告げた。

「何故帰る?お前はここにいたいと言っていたではないか。奴らの脅し等気にするな、俺に任せろ、俺には命を掛ける覚悟がある。だからここに居たいなら俺に頼め!」

武左衛門は半ば強要するようにココに自分を頼らせようとした。

「実は、本当はずっと前から帰りたかったのです。ですが、武左衛門様になんの恩も返さず帰るわけにはいかなかったのです。それなのに、武左衛門様ときたら身体も求めぬし、何かしてくれとも言わぬし、己をまったく必要としてくれぬから恩が返しにくいにも程がありました。ですがこれで、武左衛門様の頭を悩めていた問題を解決したのですから少しは恩返しになったでしょう。まぁ、もとを正せばうちの問題というところが少々引っかかるところではありますが」

だが、ココはそれを拒否して捲くし立てるような早口で自分がこの場所にいた理由を語った。そしてもう興味が無いと言わんばかりに前を向いた。

「待て、九蔵。お前は本当にそれでよいのか」

そんなココに思わず、後ろ髪を引くような言葉をかける。

「これでいいのでございます」

ココはもう武左衛門のほうへ振り向くこともしなかった。

「お前がよいのならそれでよい。では達者でな」

武左衛門はいつだってこういう言い方しかできない人間である。

ココはそんな武左衛門の別れの言葉を実に彼らしいと受け取って、そのまま振り返らずに家を出た。それに付き従って皆は次々家から出て行った。

家から出たところでココは籠に乗るように催促され乗った。籠からもう帰ることの無い家を一目見て、

(結局欲しいものは最後まで貰えなかったな)

と思い、小さなため息を吐いた。それでも愛する人に危害を加えるような事態だけは避けることができた。これで良かったのだと自分に言い聞かせた。籠が動いて、もう家は見えなくなった。

「どうかお幸せに」

ココは自分で言った後少し泣いた。




弱い犬ほどよく吼える。これほど自分に誂えた言葉はないと倫太郎は思っている。自分が弱いことをわかっているから虚勢を張り、威嚇をし、悲しいくらいに噛み付く。倫太郎はこんな自分が大嫌いであった。

彼の芯根は実直な男である。なぜそうかと問われれば、彼が幼少の頃よりそのように育てられてきたからに他ならない。

『強く正しくあれ』川上道場の跡取りとして、幼少の頃からそう言い聞かされて育った。物心ついたときから剣を持たされ、朝から晩まで剣を振るわされた。それは幼い彼には厳しく、辛いものだったが、父のような人間になりたい。その一心で耐えることが出来た。

齢六の頃、彼は初めて剣術の試合を経験した。相手は自分よりも4つは上の、当時の彼にとっては非常に大きな男であった。だが彼はそれに勝った。その次も勝った。その次も勝った。彼は負けなかった。それから彼は一切負けることなく、百戦練磨を誇った。誰もが彼を「天才」と賞賛し褒めてくれた。彼はそれを自分の努力の賜物だと信じていたし、誰もそれが嘘で塗り固めた勝利であること教えようとはしなかった。

彼がその真実に気づいたのは試合を始めて10年後、きっかけはある少年の一言だった。

「あいつはいつ来ても本当に弱いの」

それはある試合を勝って終えたあとにその対戦相手の弟弟子が言った一言だった。

倫太郎は彼と対戦するのは3回目で、その都度に彼は新しい称号を持っていた。因みに今回は名門 大河道場の跡取りに勝ったということだった。試合はいつも彼の圧勝で、今回も例に漏れなく竹刀を弾き飛ばして打ち負かし、彼に負ける大河道場も大したことないなと思っていたところであった。

彼の一言で周りの空気が凍った。それは流石の彼にもわかった。

「馬鹿!今俺が負けたじゃろうが!この人は強い人なんじゃ!」

彼の兄弟子が慌てふためいてその場を取り繕うと必死になった。すると、その少年は子供と思えぬ悪意のこもったまるで蛇のような笑い方をして告げた。

「兄者だって「今日は怪我をしたくないから指示さえなければ竹刀を飛ばされて負けにする。あれだけ腕が離れていればどんな負け方でもいける」って言ってたじゃろ?」

誰もが動けぬ空気の中、彼らの師匠は素早く動いてその少年を殴りながら抱え、試合をしていた少年に手で合図して脱兎の如く道場から走り去った。

誰もが呆けて動けぬ中、誰かがその重苦しさを吹き飛ばすように大声を上げた。

「これは罠である!倫太郎様の風評を貶めるために用意された罠である!あのもの共を捉えよ!捉えて誰の差し金か吐かせろ!」

まぁ、実際は誰の差し金とかではなく、ただあの右の字という少年が彼に真実を告げるとどんな顔をするか見たかっただけである。

彼は表情を浮かべていなかった。彼はそこまで馬鹿ではないから気づいたのだ。自分の対戦相手が『誰々に勝った』という触れ込みが多いことの仕組みに。

錯乱した彼は父の元に走った。尊敬する父の元へ走った。だがそこには仕事中の父の姿があった。彼はそれすらも知らなかった。父がそんなことをしているなんて夢にも思ったことがなかった。

そんな彼に追い討ちをかけるように母親が家を出て行くことになる。愛する母を唐突に失った。理由は彼の弟らしいことを聞かされた。だが彼は自分に弟がいることでさえ知らされていなかった。しかも父はその弟をいずれは跡継ぎにと思っていたらしい、その事実は更に倫太郎の全てを深くえぐり、削り取った。

倫太郎は最早何を信じていいのかわからなくなった。

川上 倫太郎とはそんな生い立ちを背負い生きている男である。






ココが去って一人残された武左衛門はその場で茫然自失としていた。あれから一刻の時が経ち、ようやく武左衛門は頭が動き出した。

「掃除せねば…」

荒れ果てた我が家の惨状を見て、掃き掃除やら、吹き掃除やらに精を出す。全てが終わった後、布団を一組だけ轢いて横になった。だが眠れるわけがなく、冴えきっている頭は同じことばかり考えていた。

(何故ココは俺の元から去った?)

流石に自分を庇い立てする意味があったのはこの男にもわかっていた。だが自分は命を掛ける覚悟があることは伝えた筈である。なのに、ココは帰ることを選んだ。あれほど帰りたくないと言っていた家に自ら帰った。何故自分の命を掛けてくれなかったか、それは自分を信じてくれなかったからなのか?



 そればかりを考え気づけば朝になっていた。

ココがいなくてもいつもと同じ時間に布団から出た。

ココがいなくても飯を炊き食った。

ココがいなくても仕事には行く。

だが、何をしていても考えることはやはり一つだった。

(何故ココはあっさり帰った?この家に居たいと言っておいて、十年先も一緒にいたいと言っておいて、俺を慕っていると言っておいて何故あんなにあっさり帰った?)

昨日からそればかりを考えていた。

「旦那、何かあったんですかい?」

仕事は普段どおりしているので気づかなかったが、武左衛門の顔色が若干悪いような気がした棟梁が昨日の事もあるので思い切って聞いてみた。

「実はココが出て行ってしまっての」

武左衛門は隠しもせず、落胆の表情を浮かべた。

「へぇ小僧が出て行ったんですか。でも旦那はそこまで困らないでしょ。旦那は全部自分で出来る人だから」

あまりに気落ちしている武左衛門を元気づけるつもりで棟梁は何気なく言った。

「あ、」

間の抜けた声を上げ、武左衛門はようやく答えに気づく。

答えは『自分がココを必要としていない』からである。

勿論そんなことはない、本当に必要ないならそもそもこんなに悩んでいない。

正確にはココには『武左衛門が自分を必要と感じていない』と思えたからである。

武左衛門はココに必要だと伝えていないからである。

ただ一緒に居てくれるだけで十分だったことをこの男はただの一度も伝えていなかったのである。

だからココは身を引いた。彼の気持ちを知らずに彼の命を掛けることなど出来るはずがなかった。

(俺は阿呆じゃ、大阿呆じゃ)

それに気づいて武左衛門は駆け出した。

「まぁ、夜の相手には困るか。旦那よろしければ家の娘をもら…って旦那どこに行くんで!」

「川上道場じゃ!」

仕事を放り出し、歯を食いしばって炎天下の中全力で駆け出した。

「俺は阿呆だ!愛する人に必要とされん苦しみは己がよく知っておったろうに!」

大事な人に自分の想いを伝えるために、伝えてもう一度答えを貰うために『骨折り侍』はようやく自分のために走りだした。





ココは自分の部屋へと戻ってきていた。

真っ白な小袖に身を包み、髪を高く結い上げ、自分からは決して逃げることの出来ない大きな檻に入れられていた。

実のところ、ココはこの檻が嫌いではなかった。

確かにこの場所には自由がなかったが、何不自由ない暮らしがあった。食べたいものを言えば必ず出てくるし、新しい着物が欲しいと言えばいくらでも用意された。女中達はココを哀れに思ってか大層優しくしてくれたし、偶に顔を見せる郷田たち重鎮も未来の当主であるココを大切にしていた。そしてなにより、彼の大好きな父、誠一郎が居てくれたからだ。

父はココに大層優しくしていた。幼い頃から仕事をさせてしまった負い目もあったのだろう。また自分の生命線だったかというのもあったかも知れない。だがそれより何より誠一郎は自分の息子を父として大事に思っていたのだ。

だからココはこの場所が嫌ではなかった。偶にさせられる仕事以外はむしろ好きだった。だがもうこの場所に父は居ない、郷田たちは反逆者として捕まって女中達は入れ替えられた。

残っているものは倫太郎と嫌な仕事の類である。

ココは倫太郎を恐れていた。ココが自分を汚れ物と思うようになったのは倫太郎の影響が大きい。それまで、ただ嫌だと思いながらやっていた仕事を倫太郎はそれはとても汚いことで恥ずかしいことであると吹聴した。そして、会うたびに蔑みの目で見られ、痴れ者、汚れ物と罵られてきた。暴力を振るわれたことも度々あった。その度に父に守ってもらってきたが今はその父もいない。

この場所はココにとってはもうただの檻でしかなかった。

その檻の中、ココはあの侍と出会った日のことを思い出していた。



ココは昔、父に何故多くの者が自分を抱きに来るのかと尋ねたことがある。父は、

「それはお前に皆が惚れておるからだ」

と答えた。ココにはその『惚れる』という概念がわからなかったため、それがどういうものなのか再び聞いた。

「惚れるということはつまり『恋する』ということよ」

「ならば恋とは?」と再びココは聞いた。すると父は腕組みをして、少し悩む素振りを見せた後、

「自分や家族以外の誰かを大切に想うということか?いや、」

誠一郎は自己問答をしたあと、考えるのを止めた。

「言葉では言えんが人生の最大の楽しみの一つではある。お前にもいつかわかることじゃろ」

そう言って、父は珍しく照れくさそうに笑った。ココはそれ以来、それがわかる日を楽しみに待っていた。

野党から命かながら逃げ出した後、ココは古びた寺院の中でそんな父との思い出を思い返しながら膝を抱え、一人震えていた。

「死にたくない。死にたくない」

口からは勝手に恐怖の声が漏れた。このまま何も残せず、ただ死んでしまうのが怖くて堪らなかった。結局それが何かわからず死んでしまうのが惨めで堪らなかった。

だから心の底から生きたいと願っていた。

そんな折、この寺院に向かって一人、鬼の形相で駆けてくる身体の大きな侍を見た。錯乱しているココはそれを野党の追っ手と思った。逃げる際、奴らは逃げれば必ず自分を殺すと言っていた。だからココの頭はこのままでは殺されるという強迫観念に支配された。

だからココは生き抜くために先ほど野党から逃げる際、必死で持ち出した二振りの小刀を握り締めて初めて戦う決意をした。

だが、それは無慈悲に打ち砕かれた。

目覚めたときにはココは殺されることを覚悟した。少なくとも痛い目に合わされた後、再び玩具にされることは確実だと思っていた。

だが、その男は違っていた。幼い頃から損得の中で育ってきたココには『意味がわからない』男だった。

ココはそんな男の『意味のわからない』ところに惚れてしまった。

だからココは檻の中、愛する侍の幸せをただ願っていた。父の言葉を思い出し、これがきっと惚れたということなのだろうなと思いながら。

そんな中、そこに一人の来訪者が訪れる。






「えぇい!俺は阿呆だ!本当に阿呆だ!」

町までのあぜ道を駆け抜けながら、武左衛門はもう何度目かになる自分に対する嫌悪を声に上げた。

「だがその阿呆なところも兄者の愛しいところよ!」

その独り言である叫びに、返す言葉が飛び交った。あぜみちの真ん中に陣取った艶やかな朱色の着物を着込んだ蛇のような男、彼の溢れんばかりの殺気に気おされて、武左衛門は歩みを止めた。

あぜ道に立ち尽くす彼は鋭く釣り上がった瞳をそのままに、唇の端だけをグイッと持ち上げ師匠譲りの独特の笑い顔を作り、腰に差した長物に手をかけた。

「勝負じゃ、兄者」

低く唸るような声で決闘を申し込んだこの男、名を『右の字』といった。

「ふはは!最愛の弟弟子であるわしが敵であったと知り、兄者が驚くのも無理は無い!実はわしがこの騒動の黒幕だったんじゃ!実はとある人物に依頼されて、川上誠一郎を暗殺した後、色々あってあのガキのことを知っての。これほどの美少年なら流石の兄者も骨抜きになるのではと思って上手いこと人を使い、奴を適度に酷い目に合わせながら兄者と鉢合わせになるように追いやったんじゃ!その後も兄者の行動を予想してとんとん拍子に話を進ませた!そしてわしの弛まぬ努力と苦労のお陰でようやくこの舞台まで辿り着いたというわけじゃ!って兄者!なんであんまり驚いとらんのじゃ!」

やたらと高いテンションでことの真相を語っていた右の字は落ち着き払っている武左衛門に気づいて逆に驚愕の表情を浮かべた。

「いや、事が大体お前の仕業だというのはある程度気づいておったからの」

武左衛門がちょっと申し訳なさそうに視線を逸らしながら呟いた。

「なんと!一体いつから?どこから?九蔵に聞いた?」

逆に焦りを隠しきれない右の字は食って掛かるようにことの真相を求めた。

「いや、ココはお前が黒幕で父殺しとは気づいとらんと思うぞ。俺が気づいたのは俺がココと会うた後、あの辺でいくつか足の切られた山賊の死体が出てきたという話を偶々聞いての。それでこの少年の件にはお前が絡んでおるのではと疑っておった。そしたら案の定しばらく音沙汰の無かったお前が現れて、結果お前が何か企んでおるのを確信した」

「なんと!そんな初めから!面倒がらずにもっとバラしておけばよかった!それでは山賊退治の帰り道、やたらと悩んでおったのは…」

右の字は口を金魚のようにパクパクさせて途中の言葉を見失った。

「うむ、このままお前の誘いに乗って川上道場に行くか、お前を引っ叩いて事の真相を聞きだすかで悩んでおった。大体の、村人が獣のせいだと思っておったのにお前は5人の野党が盗みを働いているって最初から口にしとったじゃろ。正直隠す気があるのかどうかも疑わしかった」

その言葉に右の字はがくりと肩を落とした後、すぐに笑い飛ばして顔を上げた。

「いいわ!経過はどうあれ、とりあえず今はわしの望んだかたちにはなっておるからの!目論見通り兄者は九蔵に惹かれ、奴は兄者のなにより大切なものになった。そんな九蔵とわしを天秤にかければ優しい兄者とて、わしと本気で斬りあってくれる!さすればずっと出したかった答えが出せる!」

右の字はその大きな身体を異常に屈め、右ひざを大きく突き出し、突き出した右ひざに顎をつける、そんな異形の構えをとった。後ろにすらりと伸びた左足と彼の形相が相まってその姿はどこか大蛇に見えた。

「あの時は邪魔が入ったからの…」

感慨深く懐かしむ声で右の字が呟いた。

相対する武左衛門も右足を半歩前に出し、真剣に手をかけ居合いの構えをとった。

そんな彼を見て右の字は満足そうに舌なめずりをした。長い舌をしまい彼は腹一杯に空気を吸い込んで高らかに再戦を挑む。

「『足斬り』『腕斬り』どっちが上か!勝負じゃ!」


『腕斬り』という名の侍がいた。彼は父が死んだ後、父への思い全てを父の全てであった剣に対する憎しみに変えた。逃げるように家を出て各地を放浪した彼は行く先々でその剣を振るった。

彼が去った後、必ず剣技に自身のあった武芸者の腕が消えていた。だが、斬られた本人たちは決してそのことを口にしなかった。それはそうである。己の剣に自信があったものがなぜ齢十の子供に腕を落とされたと言えるのか。やがてその誰も姿を語らない侍を、人々は『腕斬り』と呼んだ。


『足斬り』という名の侍がいる。彼が初めて斬ったのは父親の足だった。だが、決して愛を求めていたからではない。ただ斬りたいから斬っただけだった。

彼の父は山賊の頭だった。母は父が攫ってきた村の娘である。母は彼が幼い頃に父に飽きたからと殺された。そんな父に彼が物心つくまで生かされていたのは親子の情からか、将来使えると思われていたか、それとも理由なんてなかったのかはわからない。一つ言えることはそれは彼にとって大きな失敗だったということだ。齢六歳の頃、彼は父の足を切り落とした。別に父を憎んでいたわけでも、愛したわけでもない。ただ父が攫ってきた娘を動けなくするのに足を斬っているのを見た彼は、それを楽しそうと真似をしただけである。そしてそれは彼にとって楽しかった。勢い良く吹き出る血しぶきが、命を請う断末魔の叫びが、散らばった真っ赤な肉塊が、全てが彼の心を捉えた。

父とその部下、捕らわれていた娘。周りにいたそれら全ての人間を殺した後、彼はもっと沢山の人間を探しに山を降りた。

それからしばらく、酷い有様な死体がこのあたりに出回るようになった。死体は身元がはっきりわかるものから、原型を留めていないものまで様々だったが皆一様に片足がなくなっていた。やがてその誰も姿を語れない人斬りを誰かが『足斬り』と呼んだ。


『腕斬り』と『足斬り』彼らが噂になって一月が経つころ、二人の辻斬りが横行する中、まともな人間であれば徘徊しない丑三つ時に彼らは出会った。

そこで出会った両者が殺しあうのは必然であり、運命であり、宿命であった。

互いにそれを感じ差した刀に手をかける。正に一色即発、互いの命を賭けじりじりと間合いを削り命までの距離を計る。張り詰め、凍てつき、常人なら息も継げぬ空気の中、それを引き裂くように発砲音が響いた。

乾いた炸裂音が夜の闇の中響き渡った直後、同時に二人の人斬りは泥の中に突っ伏した。

「お前らが最近噂の腕斬りと足斬りか」

ただ一人闇に立つ、年配の男が倒れこむ二人に銃口を向けた。絶対的な有利を見せ付けて、彼は実に底意地の悪そうに眉間にしわを寄せ唇の端をぐいっと歪めた。

「お前ら命が惜しくば俺の物になれ」


あれから長い年月が経ち、二人の身体は倍以上に大きくなり、共に剣を磨いたが、それでも結局二人が真に頼るものは変わらなかった。

腕斬りは相手の腕を絶つ神速の居合い切り。

足斬りは相手の足を絶つ必殺の居合い切り。

果たして本当に強いのはどちらなのか?


まるであの日の続きのように、互いに間合いをじりじりと詰めていく、1寸の距離を取り合いせめぎあいを繰り返す。そんな拮抗を先に崩したのは右の字の方だった。

「埒があかんわ…」

はき捨てるように言った彼は、大きな一歩を踏み込むと同時に己の長物を引いた。銀色の軌跡を描き、低い軌道で武左衛門へと襲い掛かる。

(浅すぎる。この距離では引けば届かん)

武左衛門は半歩突き出していた右足を引いて、それをかわし返しの一撃に備えた。一方の右の字は打ち終わりと同時に大きく後ろに跳び引く。同時に彼の袖口の下方がはらりと落ちた。

両者の距離は大きく離れ、互いに一呼吸置いた。

「ふぅ、流石は兄者、もう少しで腕を持っていかれるところじゃった。刀の出来損ないを振り回して腕が鈍っていないか心配しておりましたが杞憂でしたな」

右の字は切れた袖口を摘む素振りを見せた後、瞬時に両腕を袖口から引き抜いて羽織を脱いだ。羽織は袴にかかり垂れ下がり、背から右腕にかけて巻きつくように彫られた鮮やかなすみれ色をした大蛇があらわになった。

「相変わらず、趣味の悪い…」

武左衛門は嘆くようにため息を吐いた。

「何をいいますか。彫った切っ掛けは愛しい兄者がお前は蛇のような奴だと仰ったからだといいますのに!それにしても、手の内を知られとるとやはり勝手が違いますな。ここは首でも狙っておけばよかったか。だが外して愛する兄者の顔を無下には傷をつけたくないの。できれば首から上は無傷で持っておりたい」

いつもの口調で武左衛門への愛を説く右の字は、もう一度その大きな身体を異常に屈めて異様な構えを取った。

「なぁ、前から言おうと思っておったが、お前のそれは絶対に愛ではないぞ」

そう口にした武左衛門の頬に冷たいものが一滴流れた。彼もまた右足を半歩前に出し構えをとった。

右の字はそんな彼を満足そうに見つめて、鋭く釣り上がった瞳をそのままに、唇の端だけをグイッと持ち上げ、口を裂くような独特の笑い顔を作りあげ、長い舌を這わせた。そして彼なりのありったけの愛を込めて愛しい人の言葉を否定した。

「愛ですぞ。少し歪んでおりますがな」

「自覚してんじゃねぇよ!」

その叫びと共に武左衛門は大きく踏み込み剣を振るった。その軌跡は横一閃、常人には決して捉えることのできない神速の剣、だが相対する彼の弟弟子はそれがどこに到達するかを知っている。だから彼の剣はどこにも到達することなく空を切った。

だが、それは返しで剣を振るった右の字も同じことであった。彼の一撃も同じく空を斬り、また互いに距離をとった。お互いを知り尽くしている故に勝負は拮抗し、勝敗は両者の集中力にあるということは明白だった。だからこそ、右の字は相手の精神に揺さぶりをかけることにする。

「九蔵は本当に美しい男よな」

右の字は大げさに舌なめずりをして兄弟子の顔色を窺った。

「実はわしも九蔵の容姿と性格は憎からず想うておるのよ。だが、やはり想い人をとられたのは何とも憎い。奴に対する感情は正に愛憎入り混じっておる」

それは右の字の全くの本心であった。

「そこで、わしは兄者を殺した後には奴を犯して殺そうと思っております。いや殺してから犯すでもおもしろそうじゃの?兄者はどちらがよいと思いますかな?」

彼は自分で口に出したそれを想像し、楽しくなってきて笑った。唇の恥を持ち上げて、独特の笑い方で笑った。彼は嘘をつくのが極端に下手であるために、本当に思ったことしか口に出来ない。それは兄弟子である武左衛門も重々理解していることであった。だからこそ右の字はそこにつけ入った。

だが彼の兄弟子はそんな揺さぶりに全く動じず、静かに線の取り合いに終始していた。そんな兄弟子にもう一度揺さぶりをかけるべく、右の字は脅しをかける。

「兄者は本当にわしがやらないとでも思いか?」

「いや、お前はそれくらい絶対にやるじゃろ?むしろ俺はその程度じゃ済まんと思っておった」

そっけなく答える兄弟子に、自分の行動が全て見透かされていて、それらが既に織り込み済みだったことを知った。

(まったくやりにくい。だが愛しい人に己を知っていて貰えるというのは実に嬉しいの)

思わず彼らしくない苦笑を浮かべた右の字は、それならと少し趣向を変えて他人を使うことにした。

「まぁ、わしが川上道場へ出向くそれまでに九蔵が生きておればの話じゃがの」

その台詞に先ほどとは違い明らかに武左衛門の瞳が揺れた。それを右の字は逃がさない。

「奴の兄はわしの愛しい兄者と同じく少々潔癖なところがあっての。川上道場を新しく盛り立てていくためには過去の汚れ物全てと決別しなければと考えておる」

右の字は一度掴んだ糸口を離さないと絡みついた蛇のようにぐるぐると相手に巻きついていく。

「奴は見せしめの意味を含めて新しい川上道場のために九蔵を皆の前で殺すつもりであろうな」

新しい秩序に向かい歩むためには古い象徴を廃する。それが一番手っ取り早い士気を挙げる方法であった。

だが、実は倫太郎にはその意思はない。彼は彼なりに弟の幸福を祈っているのだから。

だが、彼の愛を知らない右の字にとっては彼の生きた中の経験と憶測上、倫太郎がそれをしない理由はなかった。だから嘘のつけない彼でもそれを真実のように語れる。

そして共に人生の大半を歩んできた武左衛門もまた、そういう事例をいくつも見てきた。だから彼の中に僅かながら早く勝負をつけなければという焦りが生じた。

だからこそ右の字の用意した餌に食いつく。

間合いの削りあいが続く中、右の字は武左衛門の間合いを半歩侵した。あまりのも不用意な半歩それを逃す武左衛門ではない。すぐに神速の刃が右の字が刃を抜き去る前に利き手を吹き飛ばす。筈だった。だが、その渾身の一太刀は身を屈めた右の字の頭上に銀色の軌跡を描いた。

(しまった!)

武左衛門は焦っていた。それ故に間合いに気を取られすぎ、結果的に先ほどまでより右の字の構えが頭一つ高くなっていたことを見落とした。

圧倒的有利に立った右の字は屈めた身体をそのままに、頭を落としまるで地面に這うように武左衛門へ向かって鋭く踏み込んだ。

「シャァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!」

奇声を上げ、その身体に彫られた大蛇の如く食らいつく、数多の命を削ぎ落とした正真正銘の魔剣を武左衛門にのたうち放つ。

武左衛門は体重のかかった右足を引くことなど到底出来ない。かといって振り切った刃を戻すことも出来ない。だから彼は跳んだ。右足に更なる力をかけて、左手で右の字の頭部を押さえつけて、彼の頭を飛び越えるために跳躍を果たす。

(逃がすか!)

右の字は頭部をはたきこまれる形になりながらも、太刀筋を武左衛門の跳躍に合わせて上方に修正し浮き上がる。だが、彼の足を切り飛ばすにはあと僅か足りなかった。

武左衛門はその勢いのまま肩から落下し、二転三転と横転して泥にまみれた。追撃をかわすために素早く立ち上がり、再び剣を仕舞い構える。両者の間にまた先ほどと同じく大きな距離が空いた。

しかし、両者の間には決定的な差が生まれた。武左衛門の右すねの辺り、袴が裂け血が滲み滴っていた。

(骨には届かんかったが確かな手応えはあった。あの足ではもう踏ん張りが利くまい)

右の字の予測はまさしく正しかった。斬られたのは武左衛門の右すね足首付近、幸い骨までは達しはしなかったが、筋肉組織の断裂により足首に力が入らない。

武左衛門はその右足を引きずるようにして右の字との距離をじりじりと詰め寄る。泥だらけのその風貌と相まって、最早悲壮感すら漂っている。

「綺麗好きな兄者には悪いことをしましたな。だが安心してくだされ。愛しい兄者が息絶えた後にはちゃんと舐って綺麗にさせて頂きますゆえに」

舌なめずりをした後、右の字はもう一度その大きな身体を異常に屈めて異様な構えを取った。今度は愛する武左衛門の命を斬り飛ばすために。

「それでは兄者、名残惜しいですが…」

右の字が握る刀に力を込めた。

相対する武左衛門は最早軽口を返す余裕すらない。だが、

(死なん。なぜなら俺は…俺はココにまだ何も伝えておらん!)

気持ちだけはかつてないほど燃え滾っていた。

彼はこの窮地に手にした真剣を…抜き放った。

(確かに踏ん張りの効かない足ではあの居合いは使えん。それは正しい選択かもしれん。じゃが兄者、自分の信じるものを捨てた時点でこの勝負わしの勝ちですぞ)

心の中で己の勝利を確信した右の字は一瞬、

(つまらん終わり方じゃった)

と嘆いた。だがそれは本当に一瞬だった。

次の瞬間、武左衛門は左手で『延べ板』を抜いた。右手を下方に、左手を上方に構えてピタリと静止する。その構え『天地陰陽の構え』といった。

「…宮本武蔵かよ」

右の字はそう呟き瞳を輝かせ、また独特の笑い顔を作った。

「いやはや、流石は兄者!本当に、本当におもしろい!これで幕引きになるのが本当に口惜しいほどに!」

高く声を上げ、右の字は自分から仕掛けるつもりで間合いを詰めた。

「それでは兄者、愛しておりますぞ」

言い終わるや否や、右の字は身体ごとぶつけるような渾身の居合い切りを放つ、もうその足では武左衛門も素早く動くことは出来ない。かといって彼の一撃は片手で受けられるようなものではない。これは武左衛門には避ける事も受けることも出来ぬ一撃。どちらを選んでも足を斬られた後、返しで命を絶たれるであろう。だがそんなことは武左衛門も十分承知している。


だから武左衛門は右の字に避けて貰うことにした。


武左衛門は右手に持った真剣を手首を返して地面に勢い良く突き刺し、その高さで伏せた。

(なにぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!)

地面に突き刺されたそれを見て右の字は心で驚愕の悲鳴を上げた。

なぜなら、彼にはこのまま振り切ればどうなるか予想がついているからだ。

答えは十中八九刀身が折れる、である。支点の定まらない金属の棒、そんな不安定なものに刀を叩きつければどんな達人であっても刀が折れる。また、地面に刺された刀を回転させ弾こうにもあそこに武左衛門がいては彼に当たってそれも無理である。

だが振るった刃は止まらない。

(上がれぇぇぇぇぇぇェェェェェェェェェ!!!!!!!!!!)

上半身を起こし、左手を押し上げ、刀の進行方向を無理に変えて右の字の態が一瞬崩れる。が、その一太刀はなんとか刀の柄を削る程度の位置まで上がっていた。これでなんとか振り切ることが出来る。

右の字は返しの刃で仕留めることに変更した。

振り切った後、返しで上から叩きつけて終わり、そんなシナリオを描いた。だが、

「アアアァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!」

雄たけびを上げた武左衛門が、足の怪我で咄嗟に立てぬのだろう、尻餅を付きながら左手一本で延べ板を振り回した。右の字は反す刀を振り下ろす前に、この無様な一撃を止めてから斬ろうと決める。

ここで勝敗は喫した。彼は見誤ったのだ。座り込んだ左腕一本の、しかも刃のない一撃と見誤ったのだ。

武左衛門の剛力を!

通常の倍の重さの分厚い鉄板の威力を!

愛する兄者の実力を!

それは薄い鉄切れがごときが受け止められる一撃ではなかった。両腕で正面から受け止めたにも関わらず、彼の刃は粉々に砕けるに留まらず、勢いそのままに、その分厚い鉄の塊は彼の右腕を捉えた。ゴキリという鈍い音が響く。

「がぁ!」

短い呻き声を上げ、右の字は押されるように半歩後退をし後ろから倒れこんだ。

武左衛門は延べ板を杖のようにして起き上がり、その切っ先を立ち尽くす右の字に向けた。彼は呆けたまま、

「強いのは腕斬りでも足斬りでもなく骨折りだったか…」

そう呟いた。そして声を上げて笑った。いつもの歪んだ笑みでなく目を細めて唇をただ持ち上げ『カラカラ』と本当に楽しそうに笑った。そしてその笑みを崩さず、でも少しだけ悔しそうに、

「参りました」

と口にして砕けた剣を落とした。

「うむ」

武左衛門は小さく頷いて剣を下げた。結果が出たことに満足した右の字は潔く目を閉じ、彼に似使わぬ穏やかな顔をした。だが彼は「やはり自分には似合わぬな」と思い直し、目を見開いて愛しい人を目に焼き付けておくことにする。

だが、目を開けると彼の足を引きずる後姿しか見えない。

(そうか、もう斬られた後、じゃったか?あ…?)

そこで彼はようやく殺し合いをしていた相手が底抜けにお人よしな自分の愛しい兄弟子ということを再確認した。その後姿に右の字は頭ではわかりきっていることを問いかける。

「待ってくだされ!わしを殺さんので?」

武左衛門は歩みを止めずに視線だけを右の字に向けて不機嫌そうに言い放った。

「なんで俺が弟弟子を手にかけなきゃいかんのじゃ?それとも何か?お前は恥を晒すくらいならこの場で死にたいのか?それなら介錯くらいなら務めてやらんでもないが…」

右の字は口から失笑を漏した後、それを誤魔化すように唇の端をグイッと持ち上げ、いつもの笑い顔を作った。

「いえいえ、滅相もない!わしはこの世に未練たらたらですからな!生かして頂けるなら全力で生きますとも!とりあえず兄者、その足の怪我ではまず走れますまい!だからここは川上道場までわしの乗ってきた馬に乗って行ってくだされ!すぐに取ってきます故、兄者はそれまでにその足の止血をしといてくだされ!」

そう言い捨てて、元気に駆け回る先ほどまで殺しあっていた筈の弟弟子に向けて、武左衛門は大きなため息を吐いた。

「あの馬鹿は誰のせいで怪我したと思っておるんじゃ」

武左衛門がその場に座り込み止血をしていると、遠くから愛しい弟弟子の声が響いた。

「兄者!愛しておりますぞ!」

響き渡るそんな右の字の若干歪んだ愛の言葉に、武左衛門は「やっとれんわ」と苦笑した。






ことの始まりは誠一郎の殺された晩にあった。

川上 誠一郎はあの晩、道場で一人剣を振るっていた。ロウの明かりの中で剣を振るう、彼は心が落ち着かない夜はそれを日課としていた。そんな中、彼の前に一人の来訪者が現れた。その男全身黒尽くめの格好で姿を隠し、唯一、蛇のような鋭い瞳だけが闇に浮いている。そんな暗殺者にしか見えない男である。

「なんじゃ、助けを呼ばんのか?」

黒尽くめの男は意外そうに呟いた。

「有象無象では相手にならんということくらいはわかるよ。まぁ、道場に残っておる中に手だれの者もおるにはおるが、多分そいつがお前を雇ったのだと思うしな」

誠一郎がそう告げると、声を押し殺すように黒尽くめの男は「クク」と笑った。

「おお、鋭いですな。当たりですぞ」

自分の予想が当たっていることを告げられ、黒尽くめの男と同じように誠一郎も「クク」と笑った。

「それはよかった。息子から依頼されたと言われたら内心どうしようかと思っておったところだ」

本心である。倫太郎にも九蔵にも殺されても仕方がないことをしてきた自負はあったからだ。

「せっかく高い壁を作ったのに内部から手引きされると意味がなかったな、こんなことならその金で鉄砲隊でも雇って置けばよかったか」

そう言って誠一郎は大きな、とても大きなため息を吐いた。きっとそれ以外にも様々な後悔を吐き出したのだろう。

「それでは剣が意味のないものと露呈してしまいますぞ」

黒尽くめの男は声を押し殺すのを止めて声に出して笑った。だがその瞳からは狂気の色は何一つ抜けていない。

「そりゃ困る。道場がまた赤字に逆戻りだ」

誠一郎もまた声に出し笑い、そして構えた。

「それではそろそろ、始めるか。川上道場当主、川上 誠一郎参る!」

その切っ先をゆらりと暗殺者に向けて静止する。その構えを見て、暗殺者の目に狂気以外の色が宿る。

「ただの色ボケの御仁かと思いきや、これはなかなか。わしも本気でいかねばなるまいて」

そう言って暗殺者はその大きな身体を異常に屈め、右ひざを大きく突き出し、突き出した右ひざに顎がつく、そんな異形の構えをとった。

勝負は一瞬で決した。川上誠一郎の敗北をもって。

「まさかここまで差があろうとは」

壁に持たれ座り、他人事のように嘆いた川上誠一郎は、もう自らの足で生涯立てぬ身体とされていた。

(ここまで差を見せ付けられると案外諦めのつくものなのだな)

最早、剣には未練、執着がなくなっていた。全てのことをやるだけやった。己の道を全うした。そういった不思議な充足感があった。

だが心残りはある。九蔵のことだ。倫太郎は芯の強い息子であるから自分がここで果てても大丈夫であろうと誠一郎は思っていた。だが九蔵はきっと自分がそうしてきたようにこれから別の誰かに利用されその生涯を閉じるのであろう。好き勝手生きてきた自分の息子がこれからも誰かに利用されて生きていく、そう思うとそれはなんとも後味が悪かった。だから彼は最後まで好き勝手にすることに決めた。

「なぁ、一つ頼まれてくれないか」

「嫌じゃ。死にいくお前の遺言を聞いたところでわしに何の得がある」

「そう言うな。お前がこちらに来たときに地獄の案内くらいはしてやるから」

喋っているうちに誠一郎は身体の熱がどんどん失われていくのがわかった。

「極楽に行くわしには必要ないの」

暗殺者はさも当然のように言い切った。

「頼まれて人殺しをやる男がよく言うよ」

そこで会話は一旦途切れた。誠一郎はこの相手が泣き落としなど効かぬ男であることを承知しているから見苦しい真似はせずにただ諦めた。

「それで何じゃ?」

諦めていたところ、苛ただしげな男の一声が静寂を斬った。

「だから頼みごととは何じゃと言うておる。お主がここで死ねばわしはそれが一生わからず仕舞いになるではないか!わしはそういうのが一番嫌なんじゃ!」

そう言われ、一度諦めた誠一郎は駄目で元々願うだけ願ってみようと思った。

「この道場を出て、真っ直ぐ行った突き当りの部屋に俺の息子がいる。そいつを人助けばかりしているというお前の兄弟子に渡してくれぬか?」

「ああ、噂のあれか。誠一郎の色子とかいう…、って兄弟子ってなんじゃ!わしが誰だか知っておるのか?」

誠一郎を殺すとき、眉一つ動かさなかった暗殺者はバタバタと大層慌てた。

「その目は一度見たら忘れられんからな…。葵山の弟子、名は宗右二朗とか言ったか?」

「名前はよく変えるので忘れたが、それは多分わしじゃな。まったくこれなら目も隠しておけばよかったか?でも、そしたら何も見えんか」

彼はこんな状況でカッカッカと声に出して笑った。そして続けざまに、

「返答のほうはじゃな。別にお前の遺言なぞ聞く気はせぬが、一つおもしろいことを考え付いた。もし、お前の息子が噂通り美しかったら考えてやろう」

そこまで聞いた誠一郎はもう二度と目覚めることのない眠りに落ちた。どこか安心をした表情をして。ただ楽になれたからそんな顔をしたのか、それとも別に理由があったか、今となってはそれを知るものはいなかった。






ココは倫太郎に嫌われていると思っているようだが逆である。倫太郎は何よりもココを大事に思っている。思っているからこそ、ココを自分の思う真っ当な正しい道へ引っ張ろうとしている。

倫太郎がココの存在を知ったときの感情は跡目や母を奪われた怒りではなく、自分が継げなかった嫌な部分を一身に受けさせてしまったという深い罪悪感である。

聞くところによれば弟は檻に閉じ込められ、身体を売ることを強要され、そんな自分なら自害しかねない生活をさせられている。

全ては自分の器量が足りなかったからである。もっと自分が優れていれば弟は真っ当な人生を送れていたはずだった。全てを失ったあとにも関わらず、倫太郎はそう考えて自分を責めた。

自分が弟を犠牲にしていた。それが倫太郎は堪らなく歯がゆく、苦しく、涙が出るほど悔しかった。

その日を境に倫太郎は一つの誓いを立てる。

被れる泥を全部被って、

吐き気のするような偽の記録も利用して、

場合によっては尊敬する父すら排することも厭わずに、

絶対に弟を幸せにしてみせるという強い誓いである。

川上倫太郎はそういう男である。

彼は弟に自分にとっての正しい価値観をもって貰うために、ありったけの憎悪を使って弟のしている行為がいかに汚く醜悪なものであるかを語った。弟の幸せのために語った。その後も会うたびに叱責した。時には感情が高ぶりつい手を出してしまったこともあった。全ては弟に正しい生き方を知って欲しいからだった。

父にも何度も懇願した。父に意見することなど恐れ多いと知りつつも、何度も頭を地べたにぶつけた。父はいつも「すまない」というだけであった。

倫太郎は群がっている恥知らずの金持ちどもを一掃するために力を求めた。八百長で自分から星を買いあさり、『天下無双』の称号を確固たるものにして自らの力にした。

やがて、そんな倫太郎のもとに違う種類の人間が集まってくる。『天下無双』という看板に憧れて倫太郎のもとに弟子入りする世間知らずな金持ちの息子共である。

彼らは本物の強さではなく、世間的な強さを求めていた。具体的には川上道場の『免許皆伝』である。

彼らは稽古なしにそれらを欲していた。それも倫太郎にとって驚くべき金額で。

彼らのような者がいれば金には困らない、今までの後援者とも縁を切ることが出来る。

弟も無事取り返すことが出来て、今まで通りのやり方に拘っていた郷田の一派も一掃出来て、もうゴールは見え始めていた。見え始めていたはずだったのだがここで予期せぬ事態がおきた。

謀反である。

「どういうことだ、加藤!」

「どういうことも何もこういうことですよ?」

加藤は倫太郎に向けて、その細い目を更に細めいつものような柔和な薄い笑いを浮かべた。

その倫太郎は川上道場にて総勢およそ50人弱に囲まれていた。彼らが持っているのは全て真剣である。そしてその悪意は全て倫太郎に向けられていた。

謀反、それは育ちの良い倫太郎には考え付かない発想であった。

(もう少しで弟の幸せを掴んでやれたものを!)

倫太郎は自分の甘さに対する後悔からぎりぎりと歯軋りを漏らした。




時を同じくして、ココは来訪者に組み伏せられていた。熊のような大男、名を高田大五郎という武士である。彼はココを魅せられていて彼を抱くためだけに加藤側についた男だ。

「どういうつもりですか、高田」

ココは本当に無表情に押し倒している高田を見上げた。そこに感情は無く、彼は人形のような顔をしていた。

「どういうつもりも何も、抱かせて頂くほか何もあるまいて」

高田は下卑な笑いを浮かべてココの着物の襟に手をかけた。

「好きにすればよい」

ココは本当に興味がなさそうに呟いて、彼に身を委ねることにした。自分はここではそういう『モノ』である。それはココもよくわかっていることだ。 

そんなココの態度にいきり立った高田は、彼の唇に己の唇を這わせた筈だった。だがそうはならなかった。何故か、それはココが自らの唇を手のひらで覆い隠していたからであった。

「あれ?」

ココは無意識にそれをやったがために不可思議な声を上げた。そして手を唇から離す。高田はそれを見た後、気を取り直しもう一度彼の唇を奪おうとその分厚い唇を近づける。だがそれはまたしても彼の手に遮られ届かない、高田はそれがどういうことかを悟った。

「あれ?」

ココはまた同じことを繰り返してしまった自分に戸惑った。こんなことは今までなかったことだ。どんなに醜悪な相手だろうが、仕事は幼い頃からこなしてきた。それが出来なくなっている。

「あれ?」

ココはもう一度言った後、不意に目頭が熱くなってそこから涙が流れていることに気づいた。

「あれ?なんで?あれ?」

ぼろぼろと大粒の涙が彼の頬を伝う。「なんで」などと言ったくせに本当はもうそれが何故だかもう気づいている。視界はぼやけて見えないけれど、彼の脳裏にはあのお人よしな侍がくっきりと浮かんでいるから。

「あの侍だな…」

高田が嫉妬と殺意を隠さぬ、幼子ならそれを聞いただけで泣き出すような禍々しい怨嗟の声を上げた。

高田の中ではそれは決して許せないことだった。彼はココに惚れているものの何万両という金が動くココを自分が手に入れることを諦めていたからだ。手に入れることが出来ないならばせめてこの美しい少年が誰のものにもならなければよい。それが高田の切な願いであった。

だが、自分が手に入れることが出来なかった彼の愛をあんなあばら家に住んでいる浪人風情に奪われていた。それは筆舌し尽くしがたい屈辱だった。

「あの侍を殺してくれば良いのだな!」

嫉妬にかられ、高田は立ち上がった。ココはそんな高田の足にすがった。

「お待ちください、悪うございました!何でもさせて頂きますゆえに!どうぞ、どうぞお静まりください!」

高田は腕の確かな男だった。ココの知る限り『天下無双』と称される兄の次の位置には常にこの高田という男がいた。ただの野党風情とは格が違う、こんな男に命を狙われてはさすがの武左衛門とて殺されてしまう。だからココは懇願した。だがココの必死の哀願は逆効果だった。それは高田の自尊心にを更に深く抉り取った。

ココを跳ね除け、高田は武左衛門の首をとりに部屋を出ようとする。ココはようやく口では何を言っても駄目なことに気づく。

だから、彼はいつかのように刃を手に取った。だが今度は自分が生きるためではなく、愛する人を生かすためにだ。ココは懐に入れてあった武左衛門に返しそびれた短刀に手にとり高田に向かって突進した。

「アアアアァァァァァ!!!!!!」

だがそんなものは届かない、高田は倫太郎とは違い掛け値なしの本物である。不意打ちといえ、高々小僧の一撃など修練をひたすら積んだこの男に届くはずも無かった。だがその行為は高田の自尊心には届いた。彼はもう決壊している。

ココの刃は彼の腕ごと高田に掴まれて、そのまま床に身体ごと叩きつけられた。

「待っていろ!すぐにあの侍の首を届けてやる!」

高田はそうはき捨てて、怒りと嫉妬のままに武左衛門の首を刈りに出陣した。檻にはココ一人が残された。


早く武左衛門にこのことを知らさなければならない!だが四方を壁に囲まれ、入り口は外側から分厚い貫によって鍵をかけられている。今のココにはどうしようもできない。

この場所はココにとって初めて本当の意味での檻となった。それはココが初めて自分からその檻を出たいと思ったから他ならない。

「開けてください!開けてください!」

ココはその扉を力の限り叩きつけた。そして声の限り叫んで助けを求めた。だけど扉はピクリとも動かない。それでも力の限り叩きつけ、あらん限り叫ぶ。拳の感覚はなくなって、喉も血の味しかしなくなった。それでも彼はそれを止めない。彼の脳裏にはあの侍の笑顔が映っているから。

だから彼は絶対に止めない、諦めない。

(誰かに自分を必要とされたいくせに自分は誰も必要としない、そんな矛盾を抱えている寂しがりだから彼のすぐそばに居るのは本当に息苦しくて、居心地が悪くてつらいんだ)

武左衛門はココの前にも老若男女問わず沢山の困っていた人間を連れ込んだ。だがそのものたちは皆しばらくすると彼から逃げるように姿を消した。それは彼がその人たちを必要としていないことが伝わったからである。必要とされない場所に人は留まれない。

(だから彼を必要とするのは決まって少し遠くの人で、それは大半彼を利用するような人ばかりで、骨折り侍なんて揶揄されて、それでもやっぱり彼は人に必要とされないと生きていくことが出来ない、そんな幸せになれそうもない滑稽な寂しがりの侍で…)

彼の腕が痺れて感覚がなくなる。痛いとかじゃなくて気持ちが悪い。そんな感覚が脳に流れ込み吐き気がする。それでも彼は叩き続ける。

(でもあの人は誰かの役に立てて、寂しさが少し解消されたとき、本当に暖かくて優しくて包み込むような、まるで夕焼けみたいな顔で笑うんだ)

夕焼けみたいだと思ったのは彼が最初にその笑顔を見た時、偶々バックが夕焼けだったからかもしれないし、彼がその笑顔を見たとき、胸が締め付けられるような切なさが込み上げるからかもしれない。

(その顔が本当に好きだから、いつもあんな顔していて欲しいから、あの人に自分を必要として欲しかったんだ。そしたら寂しがりのあの人は、きっといつでもあの顔で笑ってくれるはずだから)

裂けた喉を必死で震わす。愛する人への想いを込めて叫び続ける。

(でも、汚れ物の自分にはそんなことやっぱり無理で、どうしようもなかった。だからせめて、せいぜい格好つけてあの人の笑顔だけは守ろうと思ったんだ)

彼はいくらなよなよしていても、やはり男であった。格好つけられる意地があり、愛するものを守る誇りがあった。

(だから―)

強い力を込めて扉を叩きつけるうちに腕が上がらなくなった。喉も枯れ果て、声もしゃがれた。それでもココは諦めない。歯を食いしばって、力を振り絞って腕を叩きつけ叫んだ!

「開けェェェェェェェェェ!!!!!!!!!!!!」

結局、叩きつけても扉はビクともしなかった。想い程度では奇跡なんて起こりはしないのだ。

だから今起こっているこれは奇跡ではなく想いが生んだ『ただの必然』である。


薄暗い部屋の中、暖かな光が入った。それは夕焼けの光。その光は優しく、ココを包み込むように照らした。その光に惹かれるようにココはゆっくりと振り向く。

ココにはその発想はなかった。扉ではなく分厚い土塗りの壁を叩き壊すなど、そんな馬鹿げた発想考え付きさえしなかった。

夕焼けの中、一人の男が立ち尽くす。分厚い鉄の塊を肩にあて、全身泥だらけで右足が真っ赤に染まった褐色の肌の大男、名を武左衛門といった。

「何をしに来たのですか」

ココは武左衛門の見たことのない、まるで人形のような冷たい表情を浮かべて咎めるように言った。自分の感情を押し殺すために。

ココは真っ白な小袖を着ていた。髪を高く結い上げ、まるで罪人の様に佇む彼は人を惑わせ狂わせる、魔性のものを確かに持っていた。武左衛門はその姿に心を飲まれ息を呑み、素直に美しいと思った。

(こうして見ると改めてわかる。これほどの美しさを持った人間は男女問わず、世に幾人もおるものではあるまいて)

武左衛門はこの少年の周りに莫大な金が動いていたことをすべからく納得した。だが、納得したところで彼がやろうと決めた何かが変わるわけではなかった。だから、彼ははっきりと口にする。

「お前を連れ戻しに来た」

ココは思わず自分の心臓を鷲摑んだ。未練がましく高鳴る鼓動を止めてしまうように。

「お断り致します。自分は自分の意思で川上家におりますので。大体そんなことをすれば『あの5人』の命はありませぬぞ」

事務的な口調でココは淡々とそうした場合の事実を伝えた。本当はその胸に飛び込みたかった。だがそれは彼の中では到底許されぬことであった。

「そうか」

武左衛門はため息を吐くようにココの予想通りの言葉を返した。そういう言い方をすればこの男が何も出来なくなることをココはよく知っていた。

「それと以前、命を救ってもらった礼に一つ忠告しておきたいことがあります。高田という男があなたを狙っております。その男は本当に強い、だから命が惜しければどこか遠くへ逃げください。さもなくば、あなたを必要とする『村の人間』にも迷惑がかかるでしょうから」

ココはまた淡々と事実を告げた。本当は迷惑をかけてしまったことを泣いて謝りたかった。彼の生活を壊してしまったことを腹を切ってでも詫びたかった。だがそれは出来なかった。そんなことをすればこの侍の負担になることはわかりきっているから。

「そうか」

侍はまたココの予想通りに言葉を返した。そういう言い方をすればこの男が何も出来なくなることをココはよく知っていた。

だが、それは先ほどまでのこの男の話だ。

「では家に帰るそ、ココ」

武左衛門はそう言って、その無骨な手でココの華奢な手首を掴み強く握った。

「え?」

暖かいものが触れた自分の手首にココは視線を移した。その手は武左衛門の大きな手にきつく握られている。予想外、あまりに予想外の答えにココは思わず、その表情を崩してしまった。崩れたところから感情が漏れる。

「話を聞いていなかったので?そんなことをすれば5人はきっと殺されますぞ!」

ココはあからさまに戸惑いの表情を浮かべる。この侍は自分の話を聞いていなかったのではないかと聞き返す。

「そうかもしれんの」

だが、その手は離れない。

「村人だって酷い目に合いますぞ!」

 ココは狼狽しつつ、その手を引き抜こうと力を入れた。

「そうかもしれんの」

だが、ココがいくら力を入れようとその手は離れない。離してもらえない。

「…武左衛門様だって、武左衛門様だって殺されますぞ…」

ココはとうとう俯いた。そして声を絞り出すように嘆いた。

「そうかもしれんの。まぁ、全部そうならぬよう尽力はするつもりじゃ」

武左衛門は掴んだ手首ごとココをそばに引き寄せた。

「同情なぞいりませぬ!」

ココは俯いたまま、自棄になって叫んだ。優しいこの男が自分のせいで不幸になるのが嫌で力一杯叫んだ。

「同情などではない!」

掴まれた細い手首に軋むような強い力が掛かる。武左衛門の絶対に離さないという強い意志がココにも伝わる。

「なぜです…」

彼は自分を抱きもしないし、客をとらせることもしない、自分は彼にとって価値の無い人間である。そう思うココにはこの侍の真意が本当にわからなかった。

「なぜ、そこまでしてこの『川上 九蔵』の何が欲しいのです?」

だから聞いた。自分の何がこの侍に必要なのかを聞いた。

武左衛門はしばし黙り込んだあと、

「…むぅ、二人の名前を合わせれば『武蔵』という字が出来るから?」

残念な答えを返した。この侍は肝心なところで照れてしまった。「居てくれるだけでよい」とはどうしても言えなかった。

「へ?」

ココはそのあまりに間抜けな答えに唖然としながら顔を上げてしまう。彼の瞳には刀を落とし、顔を真っ赤にした焦りをまったく隠せていない、彼の想い人が映る。だけどその手は離れない。それに今は振りほどこうとも思わない。あまりに言葉足らずだったが、彼の言いたいことは十二分に伝わったから。ココの口から思わず笑みがこぼれる。目頭がやたらと熱くなるのを感じる。

「ハ…、ハハ!アハハハ!」

ココは大きな声で笑う。それは腹の底から笑いが込み上げるから。嬉しくて、楽しくて、どうしようもないほど幸せだから。両の大きな瞳からは、ボロボロと大粒の涙が絶え間なくこぼれ続けていた。

ココはひとしきり笑った後、残った左腕で涙を拭いた。

そして、困ったような表情で、顔を耳まで真っ赤にして視線を逸らす武左衛門のそれでも決して離れない掌を自分の左手で愛おしく包んで告げる。

「それなら、八蔵や七蔵でもよいのではありませぬか?」

わかっているくせにココはにまにまとしながら意地の悪い質問をした。

「いや、今のはなしじゃ!えっとじゃな!えっと…、えぇい!すまんが、お前が考えてくれ!」

初めて必要とされたことが『自分で自分に対する求愛の言葉を考えろ』なんていかにもこの間の抜けた侍らしくてココはもう一度笑った。

笑いながらココは人差し指を唇に添えて、潤んだ瞳で彼を見上げて、彼を虜にするようにありったけの想いを込めて愛を告げた。

「それならば、『黙って俺に付いて来い』などいかがで御座いましょうか?」

褐色の肌の巨躯な男は口の端を大きく持ち上げて実に嬉しそうににかりと笑った。夕日の中、白い歯がキラリと光る。

「うむ、それはよい。ココ!黙って俺に付いて来い!」

武左衛門の手が離れる。それでも二人はきっともう離れることはないだろう。

「はい、武左衛門様!ココはどこまででも付いていきます!」

少年はにぱりと笑って愛しい侍の後を追った。




「何故裏切った加藤!」

倫太郎は声を荒げた。向こうは総勢50人、こちらは自分を含めて7人である。しかも殆どが自分の取り巻きの金しかとりえの無い坊ちゃん共である。あまりにも絶対的な戦力差、勝ち負けは既に明白で、取り巻きの中には泣き出し、命乞いをするものまでいる始末であった。

「裏切ったのはあなたでしょう倫太郎様、『免許皆伝』を金で売ろうなどと恥を知りなさい。それにあなたがお父上の誠一郎様を殺したことは調べがついております」

加藤はその細い目を更に細めて薄く笑った。そこで倫太郎はようやくこの男に自分が嵌められたことに気づく。

なぜなら、父が殺された後、免許を売れば金に困りませぬと進言したのはこの加藤であったからだ。

倫太郎はその話に乗った。それは武人であった倫太郎にとっては苦渋の選択だったが彼は誇りを捨てて、弟の幸せを願った。その結果がこれである。

だが、今更何を言っても始まらない。もう言い逃れの出来る状況に無い。何を言ったところで彼らには言い訳にしか聞こえないであろうから。なぜなら、加藤側の50人は自分が金で『天下無双』を買ったことを知っているのだから。

だから倫太郎に出来ることはもう一つしかなかった。弟を守るために出来ることは一つしかなかった。

この場で50人を斬り捨てる。それだけである。

倫太郎は覚悟を決めて前だけ向いてその銀の刃を抜き放った。

加藤はそれを見て失笑した。彼が周りをあまりに見ていないために。

途端に倫太郎の右ふとともに激痛が走る。先ほどまで命乞いをしていた男が刀を刺したからだ。太もも上部だったのは命を奪うことが怖かったのか、刀をまともに持つことすらできなかったのか。

「り、倫太郎を刺しました!こ、これで私もそちらの仲間に…」

言葉が途切れた。倫太郎がそいつの鼻つらを抜いた刃の逆刃でぶん殴ったからだ。

 「これはこれは、『天下無双』の川上倫太郎様がそんな刀もまともにもてないクズに刺されるとは」

加藤がわざとらしくそう言うと幾人から笑いが漏れた。

「これでは『天下無双』の実力も怪しいものです。一体本来はどの程度の実力なのやら」

加藤は倫太郎の持つ『天下無双』、『生涯無敗』という看板を羨んでいた。自分の持ちきれなかったものをこの男程度が持っていることをひたすらに憎んでいた。

だから加藤はその称号を剥ぎ取るために一つ悪趣味な趣向を思いつき、喉の奥でククッと笑った。

「一つ、おもしろいもことを考えました。お前らは全員殺すつもりでしたが川上倫太郎を殺すことが出来た一人だけは生かして差し上げましょう」

無論、加藤にそのような腹積もりはない。あくまでただの余興である。だが、この絶望的な状況では皆がそれにすがるしかなかった。

幾人が剣を抜き、倫太郎にじりじりとにじり寄る。最早倫太郎に味方をするものは一人しか残っていなかった。だが裏切り者はすぐには斬りかからない、一番最初に出た者が斬られることは明白だからだ。

(本物の強さが欲しくて俺なりにやってきたつもりだったが修練が足りなかったか)

それは違う。倫太郎は努力というものはこの場にいる誰よりもしていた。足りなかったのはもっとどうにもならないもの、悲しいことに才能である。

(結局俺は何一つ欲しいものを手に入れることは出来なかった。強さも、弟の幸せも、父の期待も…)

そう思いながらも彼の心はまだ折れていなかった。なぜなら弟の幸せという点においてはまだ万に一つの可能性が残っているから。彼はその万に一つに全てをかけるため剣を構え直した。

ギリギリとした命の綱引きが始まる中、どこか場違いな声がこの場に響く。

「頼もう!」

閉め切っていた道場の扉が開けられて、一人の巨躯な男が入ってくる。その男を見て倫太郎も加藤も絶句した。

「貴様!ここへ何をしにきた!」

突然入ってきた大柄な男に対して、扉のそばにいた男は刃を突きつけたはずだった。だが、その刀の刀身は今や影も形もなくなっていた。残ったものはありえない方向に曲がった己の腕だけである。

「ヒィ!」

刀を突きつけた男は自分の曲がった腕を見て、その場で腰を抜かし尻餅をついた。

この場に現れた場違いな侍、名を武左衛門という。

「こいつを貰いにきた」

そう言って指した先にはココが控えている。ココは肩を震わせながら叫ぶ。

「付いていくとは言いましたが、わざわざ敵の懐へ飛び込む意味がわかりませぬ!」

黙っての部分はいきなり破られていた。

「いや、だってお前をさらったのがばれたら結局あの5人も殺されるし、村に嫌がらせだってされるじゃろ?でもこいつらの全員の骨を折っておけば、少なくとも骨がくっつくまでの間は大丈夫なわけじゃ」

独自の理論でメチャクチャなことを言い出した主にココは、

「そんなこと…」

出来るわけがないと言いかけて口を噤んだ。武左衛門から異様な重圧を感じたからだ。

「できるさ」

そう呟いた武左衛門はココの頭に片手を乗せ撫でた。そして愛刀延べ板を『ずるり』と抜き放ち正面に構えた。

「何をするつもりだ!貴様九蔵を連れてとっとと逃げろ!」

倫太郎は弟の身を案じ叫んだ。武左衛門の腕を知る倫太郎は、彼なら弟をここから連れ出して逃げることが出来ると思った。少なくとも、自分がこの50人相手に戦うなどという夢物語よりはよほど現実的だった。離れた場所にいた倫太郎の耳には武左衛門の理論等聞こえていない。もっとも聞こえていたところで言う台詞は変わらないだろうが。

「倫太郎様!」

ココはようやく兄が血を流して倒れていることに気づき、彼の身を案じた。二人の目から見てもこの場で何かしらのいざこざがあったのは疑いようがなかった。

「なんだか取り込み中のようじゃが、そんなこと俺は知らん」

武左衛門は言い放った。刀を持つ腕に力を込める。彼の周りの空気が歪む。

「貴様一体何者だ!」

加藤を取り巻いていた一人がその異質な来訪者へ向かって叫んだ。来訪者はこんな状況で笑った。そして気を取り直すように、咳払いを一つして名乗りを上げる。

「いつだって他人のために右往左往、だが今宵だけは己のために駆け回ろうぞ。骨折り侍、『延べ板の武左衛門』推して参る!」

滑稽な名乗りを上げた彼の見開いた瞳から、異質な空気が溢れる。ほとんどのものが息を呑む中、危険を察知できない者が数にして2人ほど距離を詰め、一斉に斬りかかろうとした。

だが、結局斬りかかる事は出来なかった。その前に勝敗が決したから。男達は折れ曲がった腕を抱えてその場でのた打ち回った。

「ギャアァァァ!!!!!!!!」

彼らは不用意にこの男の間合いに入りすぎた。もっとも、この巨躯な男の太刀間合いが通常と違い規格外だから勝手がわからなかったのかもしれないが。

絶叫が響く中、誰もがその場を動くことが出来なくなる。

「来ぬか、ならばこちらから行くぞ!」

武左衛門は延べ板を鞘にしまい、足を引きずりながら歩く。

途端白い軌跡が走り、また誰かの腕が曲がった。曲がったものは何がなんだかわからずに奇声を上げる。

「腕がァァァ!!!!!」

一歩、一歩牛歩のように進む男に飲まれぬために年長のものが咆哮を上げた。

「えぇい!相手はただの手負いだ!かかれ!かかれ!」

『アアアアァァァァァァ!!!!!!!!!』

恐怖を撃つ消すために皆も咆哮を上げて斬りかかる。

だが、そんな程度では届かない、その差は簡単には埋まらない。

次々に仲間が倒れていく中、一人の男が絶叫を上げた。

「思い出しました!『延べ板』という刀を使う男が侍10人相手に勝利をしたという噂話を!奴が!奴がきっとその『延べ板』です!」

 その声に皆がまたざわめく、誰もが向かうことにしり込みをした。

「九蔵殿だ!九蔵殿を人質にとれ!」

年長の男が叫ぶ。こうなっては最悪ココに傷をつけてでもこの侍を止めなければいけない。年長の男はそう判断を下した。

(しまった、ココと離れすぎたか!)

武左衛門は人を守りながらという戦いの経験が少ない、だから隙が生まれていた。おまけに四方は敵がいる状態で足は怪我をしていて走ることもできない。

男達が数人、武左衛門より早くココに向かいこの争いの収束を図る。だがココは動かない。微動だにしない。だがそれは決して恐怖でというわけではなかった。

パン!

乾いた炸裂音が道場内に響き渡る。それは剣術道場できっともっともさせてはいけない音、銃声であった。

「勝つ前に賞品に手を出したらいかんじゃろ」

そう言って現れた男は腰に差したもう1丁の銃と持っていたものを交換し、彼らに向けて構えなおした。そして、唇の端をグイッと持ち上げ独特の笑みをつくる。

「こいつに近づいた者は確実に殺すぞ。殺されるのが嫌なら大人しくあちらで骨を折られて来い」

この、この場に持ち込んではいけないものを空気をまったく読まずに持ち込んだ男、名を右の字といった。

「兄者!愛する兄者の危機に間一髪でこの右の字が駆けつけましたぞ!是非、褒めてくだされ!愛してくだされ!」

右袖が欠けた赤い着物を纏った右の字は、左手に持った銃を構えながら、緊迫した空気など欠片も読まずにいつもの口調で騒ぎ立てた。

「武左衛門様!こやつは先ほどからここで出るに一番良い瞬間を見計らっておりました!」

物陰でこそこそしている図体の大きな男を先ほどから視界に入れていたココは冷めた目をしたまま主に真相を告げた。

「この九蔵が!何を暴露しておるか!今すぐ奴らに突きつけるぞ!」

右の字は銃身でチクッたココの頭頂部をぐりぐり押し付けた。

「貴様、裏切るつもりか『西条 虎右之助』!」

年長の男は自分たちのことを棚に上げ、忌々しげに裏切りに対する糾弾の声を上げた。

「誰じゃそれは?わしの名は『青木 龍右乃心』と申す。勝手な勘違いを起こさないで欲しいものじゃ」

右の字は当然のように言い放ち、歪んだ笑みを浮かべた。

だが、そんな彼の言い分など隣にいるココ以外には誰にも聞こえない。道場の中は悲鳴で溢れかえっているからだ。

銃を持った男の登場でますますうろたえる奴らを次々と容赦なく排除していく。

「高田を呼び戻しなさい!早くだ!」

いつも温和な声色しか出さない加藤が、初めて怒気を込めて命令したことで彼を取り巻いていたうちの1人が血相を変えて道場から逃げるように飛び出していく。

道場では武左衛門が一歩踏み出すごとに悲鳴があがる。

「お前達も行きなさい!」

加藤は倫太郎の周りにいた者たちにも戦うように促した。彼の指示で、先ほど倫太郎に剣を向けていたものたちも訳がわからぬまま武左衛門へと斬りかかる。

この騒動の中、倫太郎も動く。先ほど唯一味方をしたものに耳打ちをし、とある鍵を渡した。渡された男はこの騒乱に乗じてこっそりと駆け出した。パニックに陥っている現場では最早止めるものはいなかった。その間にも次々と武左衛門は次々と有象無象をなぎ払う。

「何故だ!手負いの男一人に何故敵わぬ!勝ったといっても、たかが10人相手にであろう!こちらは50人いるのだぞ!」

年長の男が戸惑いを隠さず、うろたえた声を上げた。それを右の字は笑い飛ばす。

「バカが!兄者は10人の『侍』相手に勝った男じゃ!怪我をしとったところで貴様ら烏合の衆が100人、200人いようとどうにか出来る訳がなかろう!」

右の字は彼らが物の数にならないことを嬉々として叫び、罵倒する。だがその声は年長の男には届いていない、彼はもう己の腕を押さえてその場でのた打ち回っている。それでも右の字は続ける。

「まぁ、そうじゃな。せいぜい相手になるのは加藤に」

右の字は折れた腕にココの首を絡めて、道場の入り口からどいて通り道を作ってやった。

「貴様かァァァァァァ!!!!!!!!!!!」

息を切らした熊のような大男が血相を変えて道場へと飛び込んできた。嫉妬に狂うその熊、高田 大吾朗である。

「高田くらいじゃろ」

右の字の言ったそれは高田の気迫にかき消されて誰にも聞こえることがなかった。

高田は身の丈にあった、刃渡り4尺はありそうな長物を、怒り任せにその豪腕で武左衛門の頭上へと叩きつけた。

ガキンという金属音が響く、十字に絡み合った刃がギリギリと音を立てた。道場の床はみしりと軋み、武左衛門の足から血が噴出した。

「武左衛門様!」

その様子を見て、ココは悲鳴を上げた。それがますます高田の気に触った。彼はココのそんな声一度たりとも聞いたことがないのだ。

「ガァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!」

その風貌に似合う獣のような雄たけびを上げて、高田は押しつぶすように更なる力をかける。

だが、相対する武左衛門も力では負けていない。逆にじりじりと押し上げて対等に顔が合う位置まで押し返した。

「殺す!殺してくれる!」

高田はありったけの怨嗟を吐きかけるように殺意を込めて睨みつけ、腹の底から吼えた。

ギリギリとした拮抗が続く。先に痺れを切らしたのは高田だった。一刻も早くこの男を消してやりたいという気持ちが彼を逸らせた。

武左衛門の血の滴る右足を蹴飛ばしてやろうと足を宙に上げた。そこを狙われた。

「ハアァ!!」

武左衛門はここ一番の力を込めた。高田は片足で踏ん張りが利かずに押し飛ばされる。だが、少々バランスを崩した程度で隙が出来るまでは至らない。だが、そんなこともう関係がなかった。両者との間には7尺ほどの距離が出来た。それが勝負の結末をほぼ決定付けた。

高田はもう一度感情任せに武左衛門の頭に振り下ろしてやるつもりだった…が、それを躊躇った。武左衛門の纏う空気がピリピリと張り付いていたからである。

武左衛門の愛刀『延べ板』は既に鞘に収まっていた。彼は怪我した右足を前に突き出して腰を落とした。彼の必殺の構えである。

その構えを見て高田の頭がようやく冷える。だが冷えたところでやることは大した差はない。頭に熱がこもったまま上段からの渾身の一太刀を振るうか、頭を冷やして上段から渾身の一太刀を放つかの違いだけだ。高田は己の強力を最大限に生かせるこの一撃で成り上がってきた男である。故にそれ以外の選択肢等持ち合わせていない。

「豪腕、高田 大吾朗。貴殿のお命頂戴仕る」

まぁ、それでも名乗りをあげる程度の差はあった。

「延べ板、武左衛門お相手いたす」

相手の名乗りを聞き届けた後、高田は息を大きく一度吸って、渾身の一撃を振り下ろした。

「ガアァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!」

だが、それは武左衛門に当たることはなかった。まるで、彼を避けるかのように真横に振り下ろされていた。振り切る前に武左衛門の一撃により、進行方向を骨ごと変えられていたから。その彼の得物はそのまま地面に突き刺さることとなった。

彼の目前に、両手に持ち替え上段に構えた武左衛門の姿が映る。

(なんだよ、結構いい男じゃねぇか)

そう思ったあと、高田の頭部に強いノイズのようなものが入り彼はそのまま意識を失った。

「まさか、あの高田殿までが敗れるとは…。なんだあの化け物は?」

もう片手ほどしか残っていない加藤一派の一人から畏怖の声が漏れた。そして一人の男が恐怖に耐えかねてその場から逃げ出した。だが、それは叶わなかった。何者かの拳で殴りつけられその男は昏倒した。殴りつけた男はこの場をあざ笑った。

「は!加藤よ、策に溺れたな!いい様よ!」

郷田 梁闇斎、白い髭を蓄えたその初老の男はにやりと笑って剣を引き抜いた。

「大体のことはわかっておるつもりだ。貴様らわしを嵌めて、倫太郎を殺し、九蔵を言いように操りこの川上道場を乗っ取るつもりだったんじゃろ。だがそこの葵山の弟子どもが報酬に納得が出来ずに反乱を起こした。その隙に乗じて、自分の間違いに気づいた倫太郎がわしを牢から出したと言うことじゃろ」

老人は何一つわかっていなかった。全然状況を把握できていなかった。もしかしたらもう呆けているのかもしれない。だが厄介なことに彼は腕だけはまだ確かなのだ。

「倫太郎、お前もこれでわかっただろう。今までのやり方が一番良いと、九蔵を真に想うならお前は支えてやる役に徹するが良い」

郷田は誠一郎と共に川上道場をつくってきた男である。だから、倫太郎が新しいやり方をするといったときに自分のやってきたことを否定されたような気になって、それに反対をし、袂を分けた。

郷田は倫太郎と九蔵に自分と誠一郎のような関係になって欲しかったのである。

「全然違いますぞ!そのお侍様は自分を守ってくれた良いお侍様です!」

今にも自分の妄想を頼りに武左衛門に斬りかかりそうな老人に、ココは自分にとっての真実を告げた。だが、郷田の耳にはまったく届かない。

「わかっておる、九蔵。お前はその男に銃で脅されているのであろう。この爺に任せろ!今すぐ助けてやるからな!」

「全然違いまする!この呆け老人!」

九蔵の罵倒など、この老人にはまったく届かない。彼にもまた彼の真実があるのだから。

「郷田、一度落ち着け!」

倫太郎はいきり立つ還暦近いのに落ち着きのない初老の男を諌めた。だが彼は止まらない、自分の作り上げた『川上道場』に仇なすものを許さない。倫太郎は「出したのは失敗だったやもしれん」と悔いた。

「川上道場師範代、郷田 梁闇斎捺して参る!」

左肩を突き出し、切っ先を武左衛門へと向けた。突き技の構えである。

(まぁ、あっちは色々とあるようじゃが何でもいい。俺はただ全部倒してココを貰っていくのみよ)

「延べ板、武左衛門お相手致す!」

郷田は武左衛門目掛けて爆ぜる様に突進していく、突きというものは隙が生じやすいため、実戦においてはよほどの勇気がないと放てない技である。この男は老いてもなお、一切の気力が衰えていなかった。

「キエェェェェェェェェイ!!!!!!!」

まずは1の突き、刃を外に向けて武左衛門の喉目掛けて全身を乗せるような一突きを繰り出す。だが、それは武左衛門の居合いによって弾かれた。

(抜いたな。これでわしの本命は届く)

郷田は心の中で笑った。彼が繰り出す技はもとより喉と心臓目掛けて繰り出す2段突き。この心臓目掛けて放つ2の突きに、彼は自分の命をとす覚悟があった。

だが、郷田の刃はもう決して届くことはない。もう刀身は根元から折れているから誰も傷つけることなんて出来はしない。

郷田は2段目の突きを放つ直後、それに気づいて動転した。

「なんと!」

居合いからの返しが振り下ろされる。郷田の両腕に鈍い衝撃が走った。

「ガァ!」

郷田の腕から残った柄、そして身体までが落ちた。

「まさか、郷田様までこうも簡単にありえん。ありえん!」

加藤の取り巻きたちは今にも泣き出しそうにわめいた。それを加藤は一喝する。

「あなたたちも行きなさい、行かぬのなら私がこの場で斬ります!」

加藤に凄まれて、彼を取り囲んでいた数人も悲鳴のようなものを上げながら武左衛門へと斬りかかった。だが、やはりまったく相手にはならずにすぐにその場に蹲ることとなった。

残されたのは加藤だけである。彼はこの50人以上が無数の散らばった刃と共に倒れている異様な惨状を見渡して、片手で顔を覆うようにコメカミを抑え力なく笑った。

「ははは…。まただ、また『あなた』だ。やっともう一度這い上がることが出来ると思ったところでまた『あなた』が現れた」

彼は自分が武左衛門と旧知の仲であるような物言いをした。

「何故、高田と二人でかからなかったんじゃ?二人でかかれば相手が兄者とて手負いの今なら少しは勝機を見出すことが出来たやも知れぬのに」

右の字は加藤と高田の二人だけは侍として実力を認めていた。そして高田はともかく、この加藤は右の字の見てきた限り合理を優先してきた人間であった。だから、そこにいささかの疑問を持った。

「何、怖くて怯えすくんでいただけですよ」

加藤が顔を覆っていた手を離すと、そこにはもう薄い笑いは張り付いていなかった。

「まったく何の縁でこんな化け物と2度も対峙しなければならないのやら」

彼はそう言って、右に通常よりも分厚いまるで延べ板のような小太刀を、左にはぬめり脂ぎった光り方をする小太刀を引き抜いた。

「毒か、意外じゃな。加藤殿はわしと同じで最後にはこいつに頼る人間だと思っておったが」

右の字は左手の中の拳銃をくるりと回した。

「使っていいなら貸していただけますかな」

その言葉とは裏腹に、加藤はその目を見開いて、右手の刀を逆手にとって自身の右腕に添えるように持つ独特の構えをした。

「借りる気などないではないか」

右の字は質問の答えを貰えて満足そうにいつもの笑みを浮かべた。

「そうか、貴様は秋名九段だったか」

武左衛門はようやく旧知の言い方をしたこの男の正体がわかった。姿かたち、剣の構えまでもが変わり果てていたが、その眼光だけは武左衛門の知るその男のものであったからだ。

「いやはや、某のようなものを覚えていただけておりましたか。いかにも、私はそのような名を名乗っていたこともあった男です。だが、今の名は加藤 最蔵。その名を持って再びあなたに挑ませて頂きましょう」

相対する武左衛門は、右足を突き出し、腰を落とし、抜刀の構えに入った。

「来い!」

「いざ、勝負!」

吼えた加藤のこの独特の構えは武左衛門に勝つために編み出した専用のものである。

加藤は以前の名を『秋名 十郎太』といった。秋名道場の4男として生まれ、幼い頃、神童と称され八百長無しに負けなしだった男である。その強さは尋常ではなく、弱冠十四歳にしてその強さ塾頭目前とされ、『秋名九段』と呼ばれていた。

だが、それは武左衛門に会うまでの話である。彼が初めて負けたのはなんと自分よりも年下の齢十歳の少年だった。

木剣で勝負し、気づけば彼の腕は折られていた。圧倒的な敗北だった。

そこから彼の人生の歯車は少しずつ狂うこととなる。彼を負かした彼が他の誰かにたやすく負ける。気づけば、自分は世間的にやたらと沢山の人間の下に位置することとなっていた。そんな周りの反応もあり、彼の父は彼を跡取りとすることを取りやめ養子に出された。

敗北の苦渋を味わった彼は、何をしてでももう一度這い上がることを決めた。そしてもう少しで全てが取り戻せたところで、またこの男が現れた。

(結局のところ、私はこの男に勝たなければこれ以上登れないということであろうな)

加藤は数奇な運命を感じて、ぎりぎりと歯軋りをした。歯を食いしばるためである。

「相手は毒を使っているのですか?武左衛門様は大丈夫なのですか?」

押し黙っていたココは、途端に表情を曇らせ、右の字に問うた。

「阿呆九蔵が、わしはさっき言ったであろう。二人なら勝機を見出すことが出来たかも知れんと。二人でしか出来んものを一人で出来るわけがなかろうが。この勝負、つまらん意地と誇りを捨て切れんかった奴の負けはもう決まっておる」

右の字の言うとおりであった。汚い手を使い、のし上がってきた加藤だが、最後の最後で結局、自分の生涯に唯一の黒星をつけたこの武左衛門をサシで打ち破るという意地と、剣術の申し子、秋名九段であった誇りを捨て去ることが出来なかったのだ。

(奴の武器はあの居合いだ。あの神速の居合い、あれを一度でも忘れたことなどない。負けてから気づけばいつでもあの居合いに打ち勝つ方法を探していた。結論としては私ではあの居合いに打ち勝つことなどできない。どう思い描いても自分の腕はいつもそぎ落とされる。それほどの技量差が彼と私の間にある。そして今でも彼を見る限り、その技量差は縮まってはいない。だが、腕を捨てる覚悟をすれば少しは埋まる。勝つ条件はあの神速の居合いを右手で受け止めることにある。それさえ出来れば、左でどんなに浅くで良いから、傷さえつけることが出来れば私の勝ちなのだ。そのためには、骨などいくら折れようが耐え切って見せる)

文字通り肉を切らせて、いや骨を折らせて命を絶つ、その一撃を放つために加藤はもう一度強く奥歯を噛み締めた。

その気迫が武左衛門にも伝わった。なればこそ、彼はそれを全身全霊望み通りのかたちで打ち砕くことと決めた。

武左衛門がじりじりと間合いを詰め始める。

(来るか)

加藤は息を呑み、右腕に力を込めた。だが、武左衛門の身体は彼の思った方向とは逆に回る。

逆時計回りに武左衛門は彼に背中が見えるほど大きく身体を捻った。だが彼の両の眼だけは加藤を捉え続けている。加藤は気づいた、これは力を溜めているのだと。先ほどまでは速度を重視していたか、怪我をした右足を庇っていたのだと。

瞬間、武左衛門が限界まで捻ったバネ仕掛けの人形のように回った。何もかも飲み込む暴風雨のような横薙ぎの一太刀が加藤へと迫る。

その一撃は分厚い刃を砕き、続けざまに彼の腕を砕いた。

ここまでは加藤の目論見どおりだった。だが、その勢いは彼の骨を砕いた程度では収まらなかった。その叩きつけるような一撃は彼の身体を根こそぎ浮き上がらせた。彼は砕けた刃の欠片と共に宙に舞った。加藤はもうどうにもならないことを察して、噛み締めていた歯をもう一度ぎりぎりと鳴らした。加藤はそのまま壁に叩きつけられ、言いようの無い悔しさの中、暗闇に意識を落とした。





無数の折れた刃と、痛みに蹲る人間で溢れかえった道場の中、一人立ち尽くす想い人の姿にココは現実を感じられなかった。

「意味がわかりませぬ…」

ココはまるで夢でも見ているかの心境だった。いや、たった一人でこの場にいた五十数人を殺さずにねじ伏せるなど夢でさえもありえないことだった。

「意味ならわかるじゃろ、最強が兄者。2番はわしということじゃ!」

そう言って、右の字はココの額をべしりと叩いた。ココにとってそれは確かに痛かったのでこれが夢ではないことは確かだった。だが、彼の精神はいまだに夢の中にいるような状況である。そんなココを尻目に右の字は大きくのびをして、

「うーん、それではわしは家捜しでもして旅費でも稼ぐか。おい九蔵、金目の物はこの屋敷のどこにある?」

右の字の問いに呆けているココは何も答えない。聞こえていたとしても何も答えないだろうが。

右の字は武左衛門に見惚れてポーっとしているココの横顔を見てニマリと笑った。

「まぁ、一番金になりそうなものは盗るわけにはいかんか、なんせわしは負けたからの」

右の字は誰にも聞こえない声で悔しそうに呟いて、賞品を勝ち取った愛しい兄者へ、暫しの別れの言葉を告げた。

「兄者、わしはこれにて失礼致す!」

右の字は身体を翻し、武左衛門へ背を向け、歩を進めた。

「そうか、達者でな」

武左衛門も右の字の背に向かって、短い別れの言葉を返す。

「あ、そうじゃ」

右の字は去り際に何かを思い出し、顔だけ半分武左衛門へ向けて立ち止まった。唇の端をグイッと持ち上げ彼独特のどこか歪んだ満面の笑みを作る。そしてその笑顔のまま、

「兄者、どうかお幸せに!」

武左衛門は先ほどまで殺し合いをしていた弟弟子に唐突に幸せを願われて、それがあまりに彼らしく、思わず噴出した。

そして、もう姿が見えなくなった弟弟子に対して心の中で「お前もな」と返答をしておくことにした。


呆けていたココは右の字と会話をしていた武左衛門を見てようやく彼に駆け寄って良い事に気づいた。

「武左衛門様!」

自分のために闘ってくれた想い人に、ココは急いで駆け寄ろうとした。だが、その両者の間に一人の男が割って入る。その男、川上 倫太郎という。

「り、倫太郎様!」

倫太郎とて、己と武左衛門の実力差はわかっているつもりである。だが、それでも彼にはやらねばならないことがあるのだ。彼は腰に差した業物を引き放った。

「川上 倫太郎参る!」

「延べ板 武左衛門受けて立つ」

それは勝負にすらならなかった。上段で構えていた倫太郎の右腕はあっという間に折られてしまった。

「ガァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!」

味わったことのない激痛に倫太郎は身をよじり、無様な絶叫を上げた。その姿は天下無双などとは程遠い、だが、彼はすぐさま悲鳴を上げながら左手で落とした剣を拾う。それを力任せに振り回す。武左衛門はそんな彼の左手を折った。

「ギヤァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!」

再び倫太郎に激痛が走る。彼は悲鳴を上げて、頭から蹲った。だが、それは根を上げたからではない。戦うためである。彼は落とした刀を口にくわえて立ち上がった。

その悲壮な姿にココは思わず止めに入った。

「倫太郎様、もう止めてください!」

しゃがれた声で叫んだ。だが、その叫びは倫太郎には届かない。彼は刀を咥えおぼつかない足取りでふらふらと武左衛門へ歩みを進める。

何故それほどまでに天下無双に拘るのか、ココには理解できなかった。だが、その兄の鬼気迫る表情から止めることは出来ないと思った。

「武左衛門様、兄をどうか許してやってください!」

ココは武左衛門に懇願した。この優しい侍ならもう止めてくれると信じた。だが、

「ならん」

武左衛門はそれを拒否した。なぜなら、倫太郎はまだ諦めていないからだ。彼の目はまだ鋭さを失ってはいない。命を賭して自分に勝負を挑んでいる。だから、ここで止めるということはココを渡すということである。それが出来ぬから彼はここにいるのだ。

倫太郎は刀を咥え、武左衛門の首を目掛け駆ける。命を燃やすその気迫は確かに本物だった。

(美しく、そして似ているな…)

武左衛門はその姿に姿かたちは似ていなくても彼らは兄弟なのだと思い知った。

だが、だからといってココを渡す気は武左衛門には微塵もない。武左衛門は口に咥えた刀に向かって剣を振るった。

「ガッ!」

倫太郎は小さなうめき声を上げて、刀を口から落とした。同時に白いものや赤いものも彼の口から零れ落ちた。それでも倫太郎は戦うことを止めようとしない、床に這い蹲り、何本か歯の折れた口でまたそれを拾い上げようとする。それを流石にココは止めた。

「もうお止めください!そこまで天下無双が大事なのですか!」

だが、返ってきた言葉はココにとって予想外の言葉であった。

「あの男に…お前をやるか。俺はお前に武勲をやって…汚れ仕事もさせないで…幸せにしてやるんだ」

倫太郎は虚ろな瞳で息絶え絶えに語った。ココは知った。自分はこの兄に想われていたことに。彼は己の名誉のためでなく自分の幸せの一つのために戦っていてくれたのだ。ココはそれを知って天下無双のために戦っているのだと勝手に思い込んでいた自分を恥じて、彼の前で跪き、這い蹲り小刻みに震える兄の身体を正面からそっと抱きしめた。

「ありがとうございます兄上、ですが大丈夫でございます。私はもう幸せですから」

ココは自分の想いが伝わるように兄の耳元で呟いた。

「何故だ、武勲も…地位も権力も…ないのにか?」

倫太郎は戸惑いを見せた。だって彼の中では自分は弟の幸せの条件を何一つ満たせてやれていないのだ。

「えぇ、私の欲しいものはもう手に入りましたから」

ココは倫太郎に向けてにぱりと笑って見せた。初めて見る弟の笑顔に倫太郎は彼が幸せなことを納得した。

「そうか」

倫太郎はようやく、自分のやっていたことが価値観の押し付けだったことを知った。そして自嘲するように笑いながら呟いた。

「おい、骨折り侍。弟を頼む」

「ああ」

武左衛門は力強く頷いた。倫太郎はその言葉を聞きうけて、安心したように眠った。






二人が道場の外へ出ると、日はもう半分隠れ、落ちる寸前だった。半分だけ真っ赤な空の下、大きな影を引き連れて二人は石段を下る。

ふと、ココの足が止まった。

「結局ココは何もお役に立てませんでしたな」

そんなことを言うココに対して、武左衛門は心を決めて振り返って願い事をした。

「ココ、足が痛むから肩を貸してくれ」

だが、ココはその場を動かない、動かずに

「武左衛門様はココで本当に良いので御座いますか」

彼はどうしても、もう一度確認しておきたかった。

「あぁ、俺はお前に居て欲しい」

武左衛門は今度は2度目とあって照れずに言えた。

「でも、でもココは汚れ物ですぞ?」

やはり、ココはどうしてもそこに負い目を感じていた。そんな彼に対して

「まぁ、俺はそんなこと思っておらぬが、」

武左衛門はそこで言葉を切り「ごほん」と咳払いをした。

「お前がそう思うのなら俺が何度だって洗ってやるさ!」

そう告げて、褐色の肌をした巨躯な男は照れくさそうに口の端を大きく持ち上げて、にかりと笑った。半分沈んだ夕日の中、白い歯がキラリと光る。

そう、ココはこの夕焼けのような笑顔に惚れたのだ。

「どうした、肩を貸してはくれぬのか?」

声を掛けられたココは吹っ切れたのか、にぱりと笑って武左衛門に飛びつくように彼の腕を掴み自分の肩へと回した。沈みかけた夕焼けの中、伸びた二つの影が重なり一つとなった。

「いえいえ、ココは武左衛門様に望んで頂けるならなんだっていたします!」

だが、ココの力不足と二人の身長差も手伝って、それは中々上手くはいかない。

「いや、ココ。言ったのは俺じゃが、やはり止めておいた良いのではないか?」

ようやく、なんとか持ち上がったものの、足取りはおぼつかず、ふらふらと今にも倒れてしまいそうなココを見かねて武左衛門は止めに入った。

「大丈夫です!だい…あ!」

案の定、ココはバランスを崩し、もつれ合った二人はそのまま階段から転がるように落ちていく。

こんな二人だから最初はきっと上手くいかないだろう。お互いに傷つけあい、邪魔しあい、二人でもつれて倒れこむこともあるだろう。だが、それでもきっと二人は大きく伸びたこの重なった影のように離れることは決してない。なぜなら彼らは二人で『武蔵』なのだから。






「武左衛門様、お慕い申しております」

いつもの声で目が覚める。武左衛門が目を開けると、目の前には火傷しそうな熱視線を送るココの姿があった。肌が密着していて暑苦しいからか、それとも別の理由か、目が覚めた武左衛門の身体からは滝のように汗が流れた。

「そぉい!」

武左衛門は大声を張り上げ、先手必勝でココごとむしろを跳ね除けた。ココは自分の寝床へごろごろと転がされていく。

「非道ございます。武左衛門様。ココはまだ何もしておらぬのに。よよよ」

ココは飛ばされたむしろの上でしなを作った。

「やっぱり何かするつもりだったんじゃねぇか!大体、俺にその趣味はないと何度言えばわかる!」

「ありえませぬ。あれだけココを大事に想っていると言っておきながらこの仕打ち。一体、武左衛門様はいつになったら素直になってココを抱く気になってくれますのやら。ココはこんなにも武左衛門様を慕っておりますのに」

ココは人差し指を唇によせた。その仕草には今日もなんとも言えぬ色香が付きまとう。そんなココのおでこを武左衛門は人差し指で弾いた。

「バカやっとらんと顔を洗ってくるぞ、道具を持て」

そう言って、振り返らずに長屋を後にする武左衛門。告げられたココはにぱりと笑って桶を手に取り主の後を付いて回った。


川上道場の決戦から一月が経った。

川上道場でその場にいた全員が腕を折れた。その話は瞬く間に広まった。

広まった噂の内容はこうだ。あくる日、加藤という重鎮が謀反を起こし、門下生数十人を率いて川上倫太郎暗殺を謀った。だがそれは川上倫太郎自身や懐刀の郷田、豪腕の高田等の活躍によって阻まれ数十人の弟子は次々と打ちのめされ、首班の加藤も倫太郎にやられ、その計画は失敗に終わった。そして、流石の倫太郎もその人数相手に無傷というわけにはいかず、深手を負った。というものだった。

この噂、川上道場自身が流したものである。

だが、それとは別にもう一つ広まった噂があった。

川上道場の倫太郎に、郷田に高田、加藤率いる50人の門下生その全てがたった一人の侍に殺さずに、腕を折られ打ち負かされたという荒唐無稽な噂話にもならない噂話だった。だが、その話は大層おもしろく、娯楽に飢えていた町人達の間で大いに流行った。信じられているかどうかは別としてだが。

その主人公の侍は6尺を越す大男で、居合いの達人であり、襲い掛かる敵を片っ端から命をとらずになぎ払う。その強さ、伝説の剣豪『武蔵が如く』であったという。

その侍の名『青木 龍右乃心』と言った。


武左衛門がココと顔を洗っていると一人の男が尋ねてきた。

「兄者!おはようございます!」

右手を吊ったその声の主は、唇の端をグイッと持ち上げ、折れていない左手を大きくぶんぶんと振り回した。

上等な黒の袴と、背に派手な龍の刺繍が入った真っ青な着物を着ており、腰には派手な装飾のついた刃渡り4尺はありそうな長刀を差している。

釣りあがった瞳がどこか蛇を思わせる、町で流行のもう一つの噂話を広めた男、名を『青木 龍右乃心』通称『右の字』という。

 「おう、右の字!元気そうだな!」

 二人は互いに駆け寄り勢い任せに熱い抱擁を交わそうとしたが、その間にこの年にしては若干小柄な武左衛門の同居人が割って入った。ドスンという音が響く。大男二人に潰されたココは思わず「ぎゃふ」と嘆いた。

 「すまんココ、大丈夫か?」

 「この駄目九蔵!なにわしと兄者との感動の再会を邪魔しておるか!」

 右の字が着物の襟元を掴み、この少年を高々と持ち上げると、武左衛門はすぐさまそれを奪い取って地面に下した。

「大丈夫です、お優しい武左衛門様!ですがお忘れですか、この男は武左衛門様の手柄を横取りした男ですぞ!」

「なんじゃ、人聞きの悪いことを申すな。わしは愛する兄者が余計な厄介ごとに巻き込まれぬよう自ら悪名を買って出たというのに。まぁ、この悪名はこれからもしばらくはわしが有用に使わせてもらうがな」

右の字は悪びれなくカッカッカと笑った。そんな様子にココは憤り抗議の声を上げた。

「武左衛門様!この男はどうしようもない男ですぞ!」

「知っておる」

だが、それは武左衛門とて十数年前から知っていることだった。

「そんなことより九蔵。貴様は結局、兄者に抱かれなんだようじゃな」

右の字は腰を屈め、にまりと笑い、ココに顔を近づけた。ココの視線が何かを隠すように泳ぐ。

「な、なにをそのような根拠無根な…」

「まぁ、俺にそのような趣味はないからな」

対抗意識から、誤魔化そうとしていたココの意向をまったく汲み取れない武左衛門は、当然とばかりにしれっと右の字の意見を肯定した。

「そうじゃろ、そうじゃろ!兄者に相応しいのはやはりわし!このわし以外に他ならぬ!だから兄者…って痛ぇ!」

余計なことをべらべら喋る前に武左衛門は弟弟子の頭を殴りつけた。右の字はその場で頭を抱え蹲った。

「愛が痛ぅございますぞ兄者…」

「それで、お前は今日何しに来たんじゃ?」

武左衛門はため息混じりにこの間、まるで今生の別れのような台詞を吐いたくせに今日はまるで何事もなかったように現れた弟弟子の趣旨を聞いた。

「何とは当然今回の騒動の結果発表に御座います」

右の字はすくりと立ち上がり、もう一度彼独特の笑みをつくって、勝手に長屋の中に入っていった。


朝食をとった後、3人で囲炉裏を囲みながら茶を啜る。

「それで結果発表とはどういうことじゃ?」

「単に今回の騒動の事後報告でございます」

確かに武左衛門もそこは気になっていた。流れとはいえ名門の道場一つを潰すようなことをしでかした張本人であるのだから。

「とりあえず、川上道場は存続することになったらしいですな。大恥をかかされて潰れると思っておりましたが、あの道場側の流した噂話と偉い方に道場出身者が多いことが功を奏してなんとか世間への体面を整えることに成功したらしいですぞ」

「そうか!」

武左衛門は一先ず胸を撫で下ろす思いとなった。さすがに潰れてしまってはこの男としても後味が悪かった。

「それがおもしろいことに、道場では危機を脱するため、倫太郎と郷田、高田が手を取り合うという混沌した模様になっておりますようで、そんなことなら最初から仲たがいなどしなければよかったものを」

右の字は言いながらカッカッカと笑う。結局のところ加藤がそれぞれの想いを振り回し、操っていたのであろうと武左衛門は思った。

「他のものはどうした?」

「なんと、それが大甘の処分で加藤が率いた裏切った50人は特に処断されることなく道場にそのまま残るとのことです」

彼らもまた川上道場の行く末を案じて加藤の口車に乗せられたのだ。倫太郎は自分自身がそうであるために彼らを処分することが出来なかった。

「それでその加藤は?」

「公には謀反の罪で斬首したと言われておりますが、実のところ奴はそのまま逃げて行方を眩ませたらしいですぞ。まったく往生際の悪い男ですな」

加藤は右の字の話どおりに行方を眩ませていた。今はどこかで再び這い上がるための計画を練っているか。はたまた、それをもう実行しているか。いずれにせよ、このまま終わる男でないことは確かであった。

「往生際が悪いといえば川上道場そのものがそうですな。誰一人として腹を切る気概さえ持たぬとはまったく聞いて呆れる」

武左衛門に敗れた後、腹を切る素振りさえ見せなかった男は他人に対して好き放題に言い散らかした。

「結局のところ今回の騒動、我らを抜かせばこの男の一人勝ちだったわけでございますね」

ココは苦々しげに言葉を吐いた。ココも今回の騒動の一件、武左衛門の知る限りの情報は聞いていた。だから、実のところ父を殺したのも、自分を攫い野党に渡したのもこの男だということを知っていた。

だが、それを聞いたところでこの男をどうにかしようとは思わなかった。父は武左衛門が思うに武人として真っ向から勝負し敗れたということだし、考えようによってはこの男のお陰で武左衛門に出会えたということもある。それにそもそもココには自分がこの男をどうにかできると思えなかった。だからココの中ではこの男に関して特別に感情が変わることがなかった。

『目の上のたんこぶ』彼の中で右の字はそんな男である。

(わしの一人勝ちか。だがわしは死んだ川上 誠一郎にとっても勝ちであったと思うがな。いや、死んだから負けか)

右の字はそんなことを思ったが特に意味はないので声には出さなかった。代わりに今のココの発言に思うところがあったのでそこを問い詰める。

「最強だった兄者が勝ったのはわかるが、何も出来なんだ駄目九蔵は何に勝ったつもりじゃ?」

「どこぞの誰かに勝ち、武左衛門様を勝ち取りました」

勝利宣言したココはにまにまと笑い武左衛門に擦り寄った。

「調子に乗るな!九蔵が!」

やんや、やんやと口やかましく言い争う二人を尻目に武左衛門は深いため息を吐いた。

「まぁ、なんにせよ。これにて一件落着ということじゃろ」

一息ついて、武左衛門は肩の荷がおりたような気になったが何か一つ心に引っかかりが残った。

「でも、何か忘れておるきがするが気のせいかの?」

武左衛門は大きく首を捻った。何か根本的なことが抜けているような気がしてならない。

「それでは兄者、わしはこれにて失礼させていただきます」

言い争いを、ココの頬をつねり上げるという暴力で制した右の字はすくりと立ち上がり、この場から退席をすることを告げた。

「もう行くのか?相変わらず騒がしい男じゃ」

「早く出て行って下さり助かります。また、武左衛門様を引っ張り回されてはかないませぬからな」

頬の痛みも引かないのに懲りないココは、これ見よがしに武左衛門の腕を絡めとり、意地の悪い顔で微笑みそう告げた。

「あ」

そこで武左衛門はようやく自分が忘れていたこの騒動の出発点を思い出した。

「そうじゃった!すっかり忘れておった!あの5人はどうなった?」

武左衛門は血相を変えてココを跳ね除け、右の字の肩を揺すった。

「はて?あの5人とは?」

「野党の!」

「あー、おりましたな。わしもすっかり忘れておりました。とりあえず川上道場に戻ったという話は聞きませんでしたな。多分、誰にも気にかけられずに今でも腹を空かせて兄者を待っているのでは?」

「しまったァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!」

武左衛門両手で顔を覆い、天を仰いで声を張り上げ自らの失態を悔いた。

「おい、ココ!俺は今すぐ出掛ける用意をせい!」

「は、はい!」

「着替えはどこじゃ!」

「えっと…」

バタバタと慌しい二人の様子を尻目に、右の字はカッカッカと笑いながら長屋の敷居を潜り歩き出した。

「さて、今度はどんなおもしろいことをしようかの♪」

今回の騒動を最初から最後まで散々楽しんだ男は次の娯楽に思いをはせて独り言を呟き、唇の端をグイッと持ち上げ、舌を這わせてまるで蛇のように笑った。

 

 右の字が出て行った後も二人は狭い長屋を慌しく駆け回る。

 「今日はどこで仕事じゃったっけ?」

 武左衛門は今日の本来の予定をココに尋ねた。

 「今日は農作業の手伝いを頼まれておりました」

 ココが風呂敷に、着替えや弁当を積み込みながら答える。

 「ココ、すまんが俺が帰ってくるまで代わり手伝ってやってくれ!」

 「わかりました!」

 ココは間髪いれずに良い返事をした。武左衛門の代わりなど、その細腕で務まるわけがないだろうが、まぁ、彼なりに主の顔に泥を塗らないよう一生懸命やるはずである。

 ココは返事をした後、包んだ風呂敷を武左衛門に手渡した。そして、

 「いってらっしゃいませ!」

 にぱりと、太陽のような満面の笑みを浮かべて主を送り出す。

そんなココを見て、満足そうに頷いた武左衛門はこちらも負けじとにかっと笑みを浮かべ、大切な家族に出発の挨拶を告げた。

「うむ!では、行って参る!」

長屋を出ると、照りつけ始めた太陽が今日も暑くなることを教えていた。武左衛門はこの日が沈むまでには帰ろうと、全速力で彼らがいるであろう山へ向かって駆け出す。

ココはその小さくなっていく背に手を振って、今日も主が無事に帰ってくることに祈りをかけた。


少し変わりはしたものの、結局『骨折り侍』は今日も誰かのためにひた走る。



あらすじ


夕立に遭った綺麗好きな侍『武左衛門』は古びた寺院で雨宿りをしていたところ、泥だらけの小僧に襲われこれを撃退する。彼は小僧の衣類を洗いたい衝動に駆られ洗う。その後、小僧も洗う。洗ってみるとその小僧が美少年だったことが発覚する。小僧は自分の命を守るため抱かれようとするが、武左衛門がそれを拒否したため、小僧は彼に懐く。小僧は『九蔵』という名前だったが死んだ師匠と同じ名前という理由で『ココ』と呼ばれることになる。ココが行く当てがないというので共に住むことにする。二人で暮らし始め1月後、武左衛門の弟弟子『右の字』という蛇のような男が現れる。

武左衛門は彼に一緒に野党退治をしてくれと頼まれ承諾する。野党を捕まえると彼らは名門川上道場の師範殺しの濡れ衣を着せられ野党になったという。幼い頃、父に必要とされなかったトラウマから人の役に立ちたい病気の武左衛門は彼らを救うために道場へと向かう。

そこで旧知の郷田という男と再会し、仕事を頼まれココの人相書きを渡される。ココは川上道場の次男で自分は金で色を売っていた汚れ物だと告げる。そんな中、ココの兄が現れ、手下を率いてココを連れ戻す。ココは武左衛門に迷惑をかけたくないと帰る。

武左衛門は自分が彼を必要としていなかったから彼が帰ったことに気づく。彼を迎えに行く途中、右の字が武左衛門に勝負を挑む。彼は武左衛門と本気で勝負するために今回の騒動をしかけたのだと話す。彼の右腕を折り撃退する。ココを迎えにいくと、彼はなぜ抱きもしない、売りもしない自分が必要なのか問う。それに武左衛門は照れて二人の名前を合わせると『武蔵』になるからと微妙な言い回しをしたものの真意は伝わる。武左衛門は道場に渦巻く因縁全てを粉砕する。その後、「汚れ物の自分でいいのか」と問うココに「そう思うなら何度でも洗う」と武左衛門は返した。その一月後、野党をほったらかしにしていたことを思い出す。


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