前編
誰か一人にでも読んでいただければ嬉しい事この上ないです
暦は文月、人の通らぬような獣道で急な夕立に遭った浪人『武左衛門』は鬼のような形相で懐に風呂敷包みを抱え、辺りを見渡しながら走っていた。
武左衛門は身長6尺を超え、身体つきも誰が見ても見事と言う他ない引き締まった身体をした巨躯の男で、腰には二本の長物を落とし差しにしている。
そんな男が、鬼の形相で辺りを見渡しながら風呂敷包みを抱えて獣道を走っていては、その姿を見る物の十中八九、よほど血生臭い出来事があったのだろうと想像するだろう。
だが、事実は血生臭さとは対極にあると言ってもいい。なぜなら、彼の大切に持っている風呂敷包みの中身は盗品の類ではなく只の彼の着替えであり、それも価値的には二束三文の代物といってよい。
ならば、なぜそれを大切に抱えて走っているのか。それは単に雨が上がった後、べたべたな着物を着たくないという理由のみで他意はないという清潔感しか漂わない理由である。
「それなら傘くらい持っておけよ!」と言ってやりたいところであるが、生憎彼はいざという時がいつあるかわからないと考えており、そのため隙を作る無駄なものは極力持ち歩かないことを信条としている。
「それなら着替えも捨てろよ!」と言いたいところだが、彼はやたらと綺麗好きで毎日着るものを一式取り替えないと気が済まないという性質を持っており、そこだけは信条を破ってでも譲れないという残念と言わざるおえない信念を抱えている。
因みに、街道ではなくこの獣道をわざわざ選んだ理由も近くに川が流れているから洗濯がしやすいといったまこと残念な理由からであった。
以上の理由から獣道を血走った目で走り回る武左衛門は、ようやく古びた寺院を見つけた。随分くたびれた様子の建物だが軒下で雨くらいはしのげそうである。
「九死に一生とはこのことじゃ」
懐の着替えを濡らさずに済みそうな武左衛門は喜々揚々とそう口にした。随分と安い九死に一生である。
急いで軒下に入ろうとした武左衛門だったが、その手前で立ち止まり、大切に抱えていた風呂敷をその場に捨て、己の獲物に手を掛けた。
「誰じゃ!」
姿こそ見えないが、武左衛門にはそこに誰かがいる確信があった。理由は一つ、寺院の中から凄まじい殺気を感じたからである。その姿の見えない殺気に飲み込まれぬよう、武左衛門はもう一度腹に力を溜めて名乗りを上げた。
「俺の名は武左衛門!延べ板の武左衛門とは俺のことじゃ!俺を殺そうというなら…」
武左衛門の口上が止まった。古びた寺院の中から飛び出てきたものの姿を見て、口上など無駄な相手だと悟ったからだ。
寺院から飛び出してきたのは二本の牙が鋭く光る黒尽くめの獣だった。何にも言い表せない異形の獣、だが強いて言えば武左衛門の目には悪鬼、羅刹の類に映った。
「アァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
獣は咆哮を上げ、武左衛門へと真っ直ぐ襲い掛かる。
(俺にその牙を突きたてられるつもりか獣!)
武左衛門は獲物に手を掛け、腕に力を込める。右足を半歩前に出し、腰を落とした。
(獣が!貴様の飛び込みに合わせて真っ二つにさばいてくれるわ!)
武左衛門はこれから切り捨てる獣を強い意志を込めて睨み付ける。そのとき、夕立が止み、夕日の光が差し込んだ。柔らかな日の光に照らし出された獣の姿が武左衛門の瞳に映りこみ、彼の心に疑念が生まれた。
(もしかしてこいつは獣ではなく人じゃなかろうか?)
迫りくるそれを、もう一度目を見開いて睨み付ける。そこには二本の小太刀を持った汚れた小僧が奇声を発していた。
その小僧は上半身のはだけた破れた着物を着ており、そんな着物を着ていることすらわからないくらい身体中の全てが泥にまみれており、振り乱れた髪は顔を覆いつくしていた。
(大した気迫を持った小僧じゃ、俺にあんな錯覚を見せるとは…。が、技術の方はからきしのようじゃの)
あまりに無防備に突進する相手を見て、そう判断した武左衛門は獲物を持ち替えた。
持ち替えた獲物の名は『延べ板』、大層な名前をつけているが実際は刀の形をしたただの鉄の板である。刃がなく切っ先の潰された鉄の板、だが、その厚みだけは通常の刀の倍はあり、その無骨さがこれは人の命を狩れる代物だと警告を発している。
抜刀する音が『すらり』というより『ずるり』という擬音がよく似合うそれを腰から引き抜き、武左衛門はそれを上段に構えて静止する。
「アァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!」
少年の雄たけびも直進も止まらない。むしろ武左衛門に近づくに連れて一層激しさを増している。夕日に照らされた二本の牙が、武左衛門の命を飲み込もうと怪しい輝きを放ち目前に迫る。
(美しい…)
武左衛門は命のやり取りの最中、素直にそう思った。
(だが、それだけよ。そんな牙では俺には百歩は届かん!)
「ガァァ!」
迫り来る二振り小太刀に対して、武左衛門は上段に構えたそれを叩き付けるように振り下ろし、目前に迫った少年の命を賭けたであろう一撃を一振りで粉々に砕いた。文字通り砕いたのだ。少年の持っていた二振りの小太刀の刃は綺麗に砕けた。今、少年が握っているのは使い物にならない金属の欠片だ。
それは至極当然の結果である。資質に恵まれたものが絶えず努力して手に入れた一撃なのだ。例え少年一人が命を燃やしたところで到底超えることの出来ない絶対的な壁がそこにはあった。
(叩き落したつもりだったが、よく持ちこたえたものだ。やはり気迫は本物だったか)
武左衛門は少年の持つ刀の柄を見て心底感心をした。少年の顔を見ると、自分の牙が砕けたのを理解していないのか、それとも砕けたことを理解しつつもまだ抗おうというのか、振り乱れた髪の切れ間からギラリとした眼光が垣間見えた。この獣はまだ戦うことを諦めていない。そう判断した武左衛門は返す刀の柄で少年のみぞおちを叩きつけた。
「ぐぅ」
少年はやたらと甲高いうめき声を上げて、その場にべしゃりと崩れ落ちた。武左衛門は急いで辺りをもう一度見渡す。どうやら他には誰も潜んではいないようである。
「ふー、」
ようやく一息ついた武左衛門は確認のため、もう一度あたりを見渡した。雨上がりの夕焼けの下、そこには泥まみれの小僧とビシャビシャの泥だらけになった自分の着替えがあるだけであった。
「やっとれんわ」
そう言って、武左衛門はもう一度深く息をついた。正し今度のものは正真正銘只のため息である。
あれから四半刻、古い寺院の中、ふんどし一丁で刀を下げた不気味な格好の武左衛門は小僧の衣類を脱がせていた。
庶民が茶屋で少年の色を買うようなこの時代、それは特に珍しい趣味ではなかったが、別に武左衛門にそんな趣味があるわけではない。強いて言えば別の趣味の問題である。
武左衛門は小僧の纏ったぼろきれを、洗いたくて洗いたくて仕方がない衝動に駆られたのだ。
(別に俺が悪いわけじゃない、何が悪いかといえば打ち捨てられた出来の悪い水鉢の中に綺麗な雨水が溜まっていたのが悪いのじゃ)
武左衛門は小僧からぼろきれを剥ぎ取って、自分にそう言い聞かせた。因みに自分の衣類一式は既に川で全て洗った後、近くで切ってきた竹に引っ掛けて寺院の中で干している。幸い今は文月、この暖かさなら風邪を引くこともまずはない。
小僧から引き剥がした泥だらけのそれを勢い良く水鉢に投入する。
「なんという汚れじゃ!この綺麗な水が一瞬で泥水に!」
武左衛門は驚きと興奮のあまり思わず叫んでしまった。その興奮そのまま、その衣類を揉みしだく。
「ほぅ、まだまだ出るぞ!いかん!これはけしからん!」
水鉢の底にあっという間に泥が溜まった。この水だけではもう汚れをとりきることはできない。武左衛門は夕焼けの中、次なる獲物を探して寺院の周りを散策する。草が覆い茂る中、一際低いところに水溜りが出来ていた。幸い草のお陰でまだ汚れていない。武左衛門は嬉々としてその水溜りにぼろきれを投げ入れた。そしてまた時間を忘れ、揉んで揉んで揉みしだいた。
水が汚れればまた次の水溜りへ、次の水溜りへ…。それを5回程繰り返し、汚れが大体落ちた後、ようやく落ち着きを取り戻した武左衛門は
(こんなに嬉しい気分は死んだ師匠から免許皆伝を頂いたとき以来じゃ)
なんて、死んだ師匠が墓場から這い上がって来そうなことを半ば本気で考えていた。
ここ最近で一番良い顔をした武左衛門が寺院の周りを一周して帰ってくる最中、彼は見つけてはいけないものを見つけてしまう。
「水鉢がもう一つあるじゃと!」
思わず声に出して叫んだ。そう、水鉢はもう一つあったのだ。この一連の流れで武左衛門が一番楽しかったのは満を持して、最初の水鉢の中で洗ったあれである。試しに武左衛門はやたら綺麗になったぼろきれを投入してみる。水は全くと言って良いほど濁らない。
(最初に逆の方向に歩んでおればあの思いをもう一度味わうことが出来たというのに…)
武左衛門の心の中に悔しさが一杯に広がった。普通の人間なら「じゃぁ、そのぼろきれもう一回汚せばいいじゃん」と考えてしまうところだが、それは彼の意地が絶対に許さない。それではまったく意味がないのだ。
(一層、こんな水鉢最初からなかったことにして叩き割ってくれようか)
そんな想いを胸に、ふんどしに差した延べ板に手を掛けたが、彼は水鉢に浮かんだぼろきれを見て思わずパチンと手を合わせた。彼は急いでぼろきれの水を切り寺院の中へと急いだ。
「そうじゃ!あの小僧を洗えばいいんじゃ!」
興奮しすぎで頭がちょっとあれになっている武左衛門は、それを素晴らしい発想だと確信して夕日に向かい大声で高らかに宣言した。
寺院に戻りぼろきれを綺麗に干して、息荒く裸の小僧を抱え上げ、彼は急いで水鉢の元へと向かった。一瞬小僧に勝手にそんなことしていいものかと思ったが、
(俺はさっき命を狙われたんじゃ、このくらいは当然じゃ!)
己の欲望に抗えない彼の中ですぐにそういう結論が出た。
武左衛門は、泥だらけの小僧を勢い良く掛け声を上げて水鉢の中に放り込む!
「そぉぃ!」
「ヒャァ!」
冷たい水の中に投げ込まれれば流石に小僧も目が覚めた。手足をばたつかせもがきだす。だがそんなこと武左衛門はお構い無しに、小僧の倍の太さはあろう太く逞しい腕でもがく小僧を押さえつける。
「大人しくしておけ小僧!大人しくしておけば悪いようにはせん!」
武左衛門が声を張り上げると小僧はビクリと肩を震わせた後、
「お好きにしてくださいまし」
ぽつりと呟いて一切の抵抗を止め、身体を武左衛門のやたら太い腕に預けた。
(聞き分けのよい小僧じゃ。大人しくしておけば俺が隅々まで綺麗にしてやるからの)
頭に血が上りすぎている武左衛門は息荒く、一心不乱に小僧の身体を撫で回した。もしこの獣道に誰か通りかかれば「この人、あれな趣味の人だな」と思われること請け合いである。
小僧の身体の至る所を撫で回した武左衛門は水鉢から小僧を抱き上げ、最後の仕上げに取り掛かる。
「いいか、苦しかったら手を上げるんじゃぞ!」
そう小僧に言い聞かせ、武左衛門は小僧の泥だらけの頭を水鉢の中へ漬けさせ、水鉢一杯に広がった髪をわしゃわしゃと揉みしだいた。すると出るわ、出るわ。最初のぼろきれを洗ったあれを彷彿させるほど水がどんどん濁っていった。夢中で洗う武左衛門の腕を小僧がべしべしと叩いた。どうやら手を上げているのに気づかなかったらしい。小僧の頭を急いで引き上げる。ようやく呼吸を許可された小僧はぜぇぜぇと肩で息をするほど大きく呼吸をしていた。
「すまん、すまん。つい夢中になってしまった。だが小僧、俺はまだ満足しとらん!もう一度させてもらうぞ」
武左衛門の言葉に小僧は背中を預けたまま小さく頷いた。武左衛門は小僧の頭を再び水鉢の中へと漬け込む。結局、武左衛門が満足したのはそれを六度も繰り返した後だった。もうほぼ拷問と言っても差し支えはないだろう。
(思いがけず、誠に良き日であった)
夕日が消えかけ、一日の終わりに久しくなかった充足感を味わっている武左衛門はその充足感をより強固なものにしようと開放され、ようやく息の整ってきた綺麗に仕上がった小僧を見据えた。が、それで得たものは充足感とは別の感情だった。
「美しい…」
思わず声に出したそれが、小僧の外見に対する武左衛門の素直な感想だった。
見るものを取り込みそうな大きな黒い瞳、りんとすじの通った鼻立ちに薄っすらと朱の色が乗る瑞々しい唇。まだ熟れきっていないすらりとした陶器のようになめらかな肢体。そして腰まで掛かる絹のような艶のある黒髪は背負った夕日の色が透けてまばゆく輝き、神々しくすらあった。
それは先ほどこの少年から感じた張り詰めた美しさとは対極にある、なんとも柔らかな美しさであった。
「どうなされました。お侍様」
甘ったるく、どこか色のある声が武左衛門の耳に響く、それがこの小僧から発せられたことを上手く理解できずに武左衛門は
「あ、あぁ」
と、なんとも間の抜けた返事を返した。
「それでは、こちらはそろそろ冷えますゆえ、あちらの寺院の中へ入りましょう」
「あ、あぁ」
頭がついていかず、また間の抜けた声を出した武左衛門は小僧に誘われるまま、寺院の中へと吸い込まれていった。
中ほどまで入ったところで小僧の歩みが止まり、こちらに向き直った。そして潤んだ熱っぽい瞳で武左衛門を見上げて、
「どうぞこの身体、好きにしてくださいまし」
そう艶の入った声で鳴いて、小僧は武左衛門の厚い胸板に頬をあて身体を預けてきた。
柔らかな匂いが武左衛門の鼻についた。
何が何だかわからなくなってくる。身体の力が抜けていく。なすがまま、小僧にその大きな身体を押し倒され…、そうになったその刹那!武左衛門の目に竹に掛かった自らの洗濯物が映った。
「あ、」
正気に戻っても相変わらず間の抜けた声を出す武左衛門。だが今の彼は先ほどまでとは打って変わって溢れ出さんばかりの力がみなぎっていた。直角に曲げられていた膝を一気に小僧ごと押し返す。
「そぉい!」
弾き飛ばされ、崩れ落ちた小僧がその場でしなをつくった。そして先ほどと同じ声色で哀願をする。
「どうか、乱暴にはしないでくださいまし…。お侍様の望まれることならなんでもさせていただきますゆえに…」
「うるせぇ!」
武左衛門は小僧の言葉を遮って一喝した。
「何でもさせていただきますゆえに、どうか命だけは…」
そう言って小僧が武左衛門の足にしがみついてくる。
「誰がお主の命をとるか!俺にはお主の命をとる理由がない!」
武左衛門がそう叫ぶと今度は小僧が呆ける番だった。動かなくなった小僧を余所に武左衛門は乾かしていた洗濯物を手にとってみる。
(まぁ、着れんこともないか…)
そう判断を下した武左衛門は比較的乾いている薄手のほうに袖を通し、もう一方を綺麗に折りたたみ風呂敷に包んだ。そして呆ける小僧に向かって
「お主の着物はそこに干してある。それとな、人を斬ろうなんてこと、もうするではないぞ」
そう言い聞かせ、風呂敷を持ち上げ、その場から立ち去ることにする。背を向け歩き出す武左衛門の背中に我に帰った小僧が言葉を投げかける。
「お侍様!意味が…。意味がわかりませぬ!」
「なんじゃ!なら、もう一度言うぞ!お主の着物はそれじゃ!それともう人を斬ろう等と思ってはならんぞ!」
そう言って再び踵を返す武左衛門の背にまた同じ言葉が投げつけられる。
「お侍様!意味が…、意味がわかりませぬ!」
「ええい!何度同じことを言わせるか!だからお主の着物はあれで!もう人を斬ろうとするな!たったそれだけじゃ!わかったな!」
武左衛門が苛立ちを隠さず怒鳴り散らすと、小僧は大粒の涙をぼろぼろと零し、その場で泣き崩れた。嗚咽を上げ咳き込みながら、それでも瞳だけは武左衛門に向けて、もう一度途切れ途切れのかすれ声で叫ぶ。
「意味…が、わかり…ませぬ。意味が…、意味が」
(しまった、強く言い過ぎたか)
武左衛門は頭を掻きながら小僧に伝わるように今度は丁寧に伝えることにした。
「人を斬るなというのはお主に何があったかはわからんが、その実力で俺のような武芸者に斬りかかれば次こそ命はないということじゃ。それとじゃな」
武左衛門は言葉を切り「ごほん」と咳払いをした。
「わからんかったかもしれんが、そこの着物が正真正銘お主の着物じゃ。俺があんまり綺麗に洗い過ぎたのでわからんかったのも無理はないがの!」
そう言って褐色の肌の巨躯な男は照れくさそうに口の端を大きく持ち上げてにかりと笑った。半分沈んだ夕日の中、白い歯がキラリと光る。
「わかったか」
武左衛門の問いに少年は大きな瞳から溢れる涙を拭いながら、何度も何度も頷いていた。
武左衛門はついに寝苦しさに耐え切れなくなり、古びた長屋の中、目を覚ました。随分とくたびれた長屋のため、隙間から日の出の光が差し込んでいる。察するに、夜はもう明けたようだ。
(懐かしい夢だった。あれからもう一月が経つか)
まどろみの中、少しだけ感慨にふけりながらもう一眠りしようとしたが、やはりこのままではあまりに寝苦しい。なので、寝苦しさの原因を取り除くことにする。
「おい、『ココ』。重いのでよけ」
そう言って武左衛門は、自分の上に覆いかぶさって静かな寝息を立てている少年を揺すった。少年は気だるげな声で呻いた後、
「うう…、おはようございます。武左衛門様」
そう告げてにぱりと笑った。彼はいつも寝起きが良い。
「ココ、早うよけ」
武左衛門がもう一度催促すると、ココと呼ばれた少年は
「申し訳ありませぬ」
と侘び、武左衛門の上からするするとなだれ落ち、横へぴたりとくっついてきた。今の季節これは大層暑苦しい。
「自分の寝床へ行かぬか。それと、俺のむしろに勝手に入るなといつも言っておろうが」
そう言って武左衛門はココを自分の陣地から押し出し、彼がもう入ってこられぬようむしろを身体に巻きつけた。が、なぜか押し出した筈のココが共にむしろの中に入っていた。再び二人の身体が強く密着する。
「お慕い申しております。武左衛門様」
ココはそんな甘ったるい言葉を武左衛門の耳元で囁き、武左衛門のわき腹に太ももを摺り寄せた。
「もう知らん、勝手にせい」
そうため息まじりに告げた武左衛門はいろいろ諦めて、もう一度意識を落とすことに集中することにした。が、目が冴えてしまいさっぱり眠くならないし、やはり何より寝苦しいことこの上なかった。
「どうした小僧。他に用があるのか?」
武左衛門が寺院を出てから既に四半刻、なぜか一定の距離を保ち、ピタリとくっついてくる小僧にため息混じりに声を掛けた。小僧は気づかれていないと思っていたらしく、ビクリと大きく肩を震わせた。
「勝手に後をつけて申し訳ありませんお侍様!」
そう叫んで小僧は膝をつき、仰々しく頭を下げて地に頭をつけた。
「やめんか!折角洗った着物が台無しになるではないか!」
力作があっという間に台無しにされそうになり、武左衛門は思わず声を荒げた。
「も、申し訳ありませんお侍様!」
立ち上がり、再び頭を地に着ける勢いで小僧は頭を下げる。
「小僧、男がそんなに頭を下げるな。それで、お主は俺に何用か?」
「実は私どこにも行く当てがないのでございます!」
「そうか、それなら俺のところへ来るか?」
「ほえ?」
気の抜けた声を出し、少年は予想外といった表情で固まった。
「なんじゃ?そういうつもりで言ったんじゃなかったか?それなら金のほうか?すまんが今はあまり持ち合わせがなくての」
武左衛門は懐に入った銭入れを取り出し、表情が固まったままの小僧の腕を取り、手のひらに乗せた。
「それじゃ、その金が尽きるまでは悪さするではないぞ」
そう小僧に告げ、武左衛門は踵を返した。そして数十歩程歩いた後、
「違いまする!」
そう叫んだ小僧がまた駆け寄って、武左衛門の前に回りこみ、弁解するようにわたわたと手をせわしなく動かし言葉を続けた。
「全然違うのでございます!その、この獣道を抜けるまで同行させていただきたいというのが本音であったところ、あまりの破格の待遇に言葉を失っていたのであります」
小僧は武左衛門につき返すような勢いで両手に握り締めた銭入れを差し出した。
「何が破格なものか、悪いが俺が向かっているところはオンボロ長屋よ!それでもいいなら一緒に来い!」
そう言って武左衛門はガハハと笑い飛ばした。
「はい!お侍様!」
少年は太陽のように、にぱりと笑った。その顔を見て武左衛門は目を細め、
(良い顔じゃ。先ほどの鬼気迫る表情が嘘のようにな)
と思った。それと別にもう一つ思うたことがあった。少年の自分への呼び方があまりにもこそばゆい。
「おい、俺のことはお侍様等と呼ぶな。そんなに大層なものじゃないからの」
「それではお名前を!お名前をお聞かせください!」
「武蔵の武に左衛門で武左衛門と申す。お主は?」
「数字の九に蔵で九蔵と申します」
九蔵はうやうやしく頭を下げた。
「九蔵殿か…」
武左衛門はその名を聞いて、少し困ったように顔をしかめた。
「どうか殿等付けずに呼び捨てにして下さいまし」
一方、九蔵は殿をつけられ困惑し必死に顔の前で手を振った。
「いや、それはいかん。実は九蔵という名は俺の師匠と同じ名での。それを呼び捨てにすることはまかりとおらん」
武左衛門は少し戸惑った理由と、呼び捨てに出来ない理由を九蔵に話した。
「それならばどうぞ武左衛門様のお好きなようにお呼びください。お前でも貴様でも犬でもなんでも構いませぬ」
「ふむ…、」
だが、武左衛門的には提案されたものにはしっくりとくるものがなかったらしく、考え込むように押し黙り、しばらくした後、口を開いた。
「…それならば数字の九つからとって『ココ』と呼ばせてはくれぬかの」
九蔵はわかったとばかりに大きく頷いて、
「自分にはもったいないくらいの素晴らしい呼び名でございます」
にぱりと笑った。そんな笑顔を向けられて少し照れくさくなった武左衛門はわざとらしい咳払いを一つしてから少年に告げた。
「それなら『ココ』参ろうぞ」
武左衛門に名前を呼ばれ、ここは嬉しそうにまたにぱりと笑った。そしてしおらしく一言告げる。
『武左衛門様、お慕い申しております』
夢と現実の声が重なった。武左衛門が目を開けると、目の前には彼を愛しむような瞳で見つめているココの姿があった。肌が密着していて暑苦しいからか、それとも別の理由か、目が覚めた武左衛門の身体からは滝のように汗が流れた。頬をつたる汗を武左衛門が頼みもしないのにココは自らの舌を這わせてふき取る。
「そぉい!」
武左衛門は大声を張り上げ、いろいろと妙な気を起こす前に布団ごとここを跳ね除けた。ココは自分の寝床へごろごろと転がされていく。
「非道ございます。武左衛門様。よよよ」
ココは飛ばされた布団の上でしなを作った。
「だから俺にその趣味はないと何度言えばわかる」
武左衛門は寝起きで崩れている頭を撫で付けながら、ため息まじりに言葉を吐いた。
「いえいえ、ココは武左衛門様篭絡まで後一歩と言うところまで迫っていることをちゃんと判っておりますゆえ」
そう言って、ここは人差し指を唇によせた。その仕草になんとも言えぬ色香が付きまとう。そんな仕草を見せ付けられ、武左衛門は思わずココから眼を背けた。
「顔を洗ってくる」
なんともいたたまれなくなった武左衛門は、ぶすりとした顔でそう告げて、逃げるように長屋から出ようとする。その背中に、尚もココは武左衛門を手篭めにしようと甘い誘惑の言葉を投げかける。
「武左衛門様、ココはいつでもあなた様だけを待っておりますゆえ」
投げかけられた武左衛門は、決して後ろを振り返らずに桶を抱え、大きな身体を丸めてそそくさと長屋を後にした。
武左衛門がいつも通りに長屋の前の井戸水で念入りに顔を洗っていると、後ろから声を掛けられた。
「左之字の旦那!おはようごぜぇやす!今日もよろしくお願いしやす!」
声を掛けてきたのは武左衛門が世話になっている大工の棟梁だった。
「応よ!存分に使ってくれ!」
武左衛門はニカリと笑って言葉を返した。武左衛門はここに居る間、基本的にはこの棟梁の世話になっている。巨躯の身体を持ち、本来二人で運ぶような重い荷物も一人で軽々と持ち運べる武左衛門は大変重宝されていた。
「あ、それと今日の朝、鯵を貰ったんで旦那のところにもおすそ分けをと思い、先ほど旦那の小僧に渡しておきやした」
だからこのように、いつも大層優遇されているのである。
「いつもすまんのう。なら今日は3人分働こうか」
武左衛門がそう軽口を返して、二人してガハハ!と笑った。
顔を洗い、桶一杯に水を汲んで武左衛門が帰ってくると布団を畳んでいたココがそれを中断し、満面の笑みで棟梁の置いていったであろう大量の小鯵が入った手桶を武左衛門の目の前に差し出した。
「亭主がよく慕われていて家内として鼻が高うございます」
ココがしたり顔でさらりと言ってのけたのに対し、武左衛門は苦い顔を浮かべ、ココの額を弾いた。
「誰が家内じゃ!阿呆なこと言っとらんと早う身なりを整えて来い!」
武左衛門にどやされながら、ココは長屋から押し出された。ようやく静まった長屋の中、武左衛門は朝食の準備を始める。だが朝食の準備といっても、
(鯵は一度濯いである様じゃの、それならこのまま全部醤油で煮てしまおう)
武左衛門が出来るのはこの程度である。貰った鯵をなべに全て入れ、先ほど汲んできた水を注ぎ適当に醤油を入れ煮る。後ついでに別の鍋に米を入れ、水を適当に入れて煮る。正に男の料理全開である。そうして全てが後に引けなくなった状態でやたら時間をかけ顔を洗い、髪を結い上げて、身なりを整えてきたココが戻ってくる。
「アァァァァァァァァ!!!!!!なぜ全て煮ているのでございますか!」
ココは帰ってくるなり悲鳴のような批判の声を上げた。
「うるせぇ!文句があるなら食うな!」
武左衛門も負けじとココに怒鳴り返す。
「文句はありまするが食べます!」
居候のココは力強く断言した。
―半刻後―
「折角の米が固うございます」
ココはぶすりとした顔で武左衛門に告げた。
「文句があるなら食うなと言うとるじゃろ。大体米は少し失敗したかもしれんが鯵は美味いからいいじゃろうが」
武左衛門は少し気まずそうに視線を逸らしながら自らの失態の挽回を図った。
「確かに美味しゅうございますが、こんな塩辛いもの鍋一杯に作ってどうするおつもりですか。十までなら美味しく食べれますでしょうが二十、三十となれば拷問にしかなりませんぞ」
その言葉は十個目の鯵を平らげ、もういいやと思った武左衛門に痛いほど突き刺さった。だが武左衛門は断じてそのことを認めない。
「えぇい!屁理屈ばかり言いおって!こんなもの三十でも鍋一杯でも平らげてくれるわ!」
―それから四半刻―
「先ほど見得を切った武左衛門様でしたが三十個にすら到達することなく降参することになりましたとさ」
朝食が終わり茶を出したココは一息つくようにそう吐き出した。
「うるせぇ!」
武左衛門は怒鳴った後、出された茶を一気に飲み干して湯飲みを「ガツン!」と音を立てて置き立ち上がった。
「俺はもう行くぞ!」
昼用の着替えが入った風呂敷を手に取り、玄関で腰を下ろし、わらじを履きながら武左衛門は自分の後ろで正座をしているココへそう声を掛けた。
「お昼をお忘れですよ。武左衛門様」
するとココは、武左衛門が意図的に忘れたことを承知しながら、やたら固いご飯で握られたおむすびと武左衛門がもう見るのも嫌になっている鯵の煮付けを大量に渡してきた。
受け取った武左衛門は「むぅ」と唸って表情を曇らせた。その顔を見て満足そうな顔をしたココが何かを言いかけた矢先、武左衛門がポンと手を打った。
「そうか、決して不味いわけではないのだから皆に分ければよいではないか!」
武左衛門が「どうじゃ」という顔で振り向くとここは再びぶすりとした顔で、
「よい案だと思います」
とそっぽを向いて武左衛門に伝えた。その顔を見て、武左衛門は立ち上がりくるりと回りココの両頬を掴んだ。
「ココ、仮にも俺を主と仰いでいるなら俺の言いたいことがわかろう」
武左衛門がそう促すと、何を勘違いしたのかココは両目を閉じ何かを待つ仕草を見せる。武左衛門は一瞬掴んだ目的を見失いそうになったが色々と踏みとどまり、掴んだ両頬を左右に持ち上げた。
「ら、らりをするろれす」
ココは予想していたこととまったく違うことをされ、狼狽した。
「見送るときは笑顔で見送れ!そんな顔だとゲンが悪くてかなわん!」
武左衛門がそう言って手を引っ込めると、ココは何が嬉しいのかにぱりと満面の笑みを浮かべて恭しく頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、武左衛門様!」
そんなココを見て満足そうに頷いた武左衛門は、こちらも負けじとにかっと笑みを浮かべ共に暮らす少年に挨拶を告げた。
「うむ!では、行って参る!」
武左衛門はこの時代に似合わぬ大きな身体を屈めて戸を潜り、我が家を後にして仕事現場へ向かった。
現場での武左衛門は仕事をなんでも率先してやる。他の者が渋るような仕事でも自ら名乗りを上げてやる。それを朝から夕まで徹底的にやる。
一日の仕事を終える。だが武左衛門はまだ家には帰らない。その足で近くの神社へ向かい近所の子供、大人相手に剣術の真似事を教える。銭を取ることなく、されども日が暮れるまで熱心に行う。
またこれらの行為を行っている間にも人に何かを頼まれれば絶対に行く。自分に出来ることならなんだって手伝う。
これらの行いは武左衛門が気風のよい男だから行っているというわけではない。ただ、武左衛門が病気なだけである。
多分精神の病気である。それは異常な綺麗好きを抜きにしてもいえることで、なぜならこの男はいつだって誰かに『必要とされたくてされたくて堪らない』からである。
誰かに必要とされれば何だってやる。今は町の人間から慕われているために至る所から声を掛けてもらっているが、誰にも相手にされないようになったときに頼まれれば、盗みくらいなら喜んでやる筈である。それほどまでに人に必要とされたがり、何かに乾いている。
だから彼は一部の人間からは他人のために走り回ってばかりの『骨折り侍』と揶揄されていた。
そんなこんなな一日を終えて、帰ってくる頃には皆が寝静まっている様な時間になっている。常人ならこんな生活3日でギブだが、武左衛門はそんな理由からこの生活に充実感を見出していた。
武左衛門は今日もそんな一日を終え、満足な顔をしてこの界隈では一軒だけ明かりの点いた我が家に帰ってくる。
「うむ、今帰ったぞ」
武左衛門は笑顔で家の引き戸を開けた。
「お帰りなさいませ!」
玄関の前に座って待っていたココは三つ指を立てて深々と笑顔で頭を下げ、帰ってきた主を出迎えた。
「ココよ。出迎えてくれるのは嬉しいがいつも大げさすぎるぞ」
武左衛門がそう苦言を促す。
「いえいえ、ここは命の恩人に対する礼は欠きとうなくございます。」
促されたココは大きく首を横に振る。もう三十回は繰り返された動作だ。つまりココが拾われてから飽きずに毎日やっているいわば帰宅の挨拶の様になっていた。
武左衛門はこれ以上続けてもお互いの意見は平行線を辿るだけなことは流石に学習しているのでこれ以上何も言わず、これから今日一番の楽しみに入ることに決めた。
徐に着ていた着流しを脱ごうとする武左衛門。それをココが武左衛門の手首にそっと手を当て制した。
「まだ、早ぅございます。武左衛門様」
武左衛門は苛ただししげにココの手を払いのける。
「うるさい!俺はもう我慢ならんのじゃ!」
そう叫び、武左衛門は着ていた着流しを肩まで脱いだ。そんな武左衛門にココがすがり寄る。
「こんなところで御止めください。武左衛門様!」
そんなココの必死の哀願を無視して、武左衛門は自らの着物を剥ぎ取った。今やふんどし一つになった武左衛門がここに向かい言葉を放つ。
「では、湯屋に行こうぞ!」
ふんどしに二本の長物を差し、玄関前の着替えの入った風呂敷を手に取り、もう片手には今着ていた着流しと今日の洗濯物一式が入っている風呂敷を抱え、今日一日で一番良い笑顔でココにそう告げた。
「だから!いつも湯屋に行ってから脱げって言ってますでしょうが!」
そんなココの叫びなんてお構い無しに、武左衛門はすでに足踏みを始めている。湯屋までこの格好で激走する気満々である。
「では行くぞ!」
掛け声を上げ、武左衛門は外へ飛び出した。月明かりの中、ふんどし一丁の大男が大きな風呂敷を二つ持ち、美少年を従えて笑顔で全力疾走している。岡っ引きにでも見つかれば問答無用で御用になりそうな光景であった。
駆け出すこと3分。この界隈で一軒だけ明かりの点いている湯屋へと着いた。時刻は5つ半、本来湯屋はこの時間閉まっているのだが、この湯屋の主人が武左衛門に大きな恩を感じているのでいつも彼のためだけに店を開けて待っていてくれるのであった。
そんな湯屋に入り武左衛門は頭を下げ、礼を言った。
「主人、いつもすまんのう!」
すると従業員を先に帰らせた主人が、武左衛門の顔を見るなり番頭に頭をぶつけそうな勢いで頭を下げた。主人の貧相なちょん髷が激しく揺れる。
「旦那!お待ちしておりました!ですが実は風呂がまだ炊き上がっておらんのです。もうしばらくお待ちください」
「また、わざわざ風呂を入れなおしてくれたのか!気持ちは嬉しいが俺は残り湯でも一向に構わぬぞ?」
「そんな!旦那に残り湯なんて滅相もありませんよ!」
主人は細い目を更にきつくしばってバタバタと手を振った。
「武左衛門様…、速うございます…。こんな夜道一人で…、走らせて。ココが悪漢に襲われでも構わぬのですか!」
ぜぇぜぇと息絶え絶えにココは主に声を上げた。ココは体力というものをあまり有していない。
「お前が悲鳴の一つでも上げれば駆けつけるから安心せい。それよりココ、今風呂を焚いて貰っている最中だから俺は洗濯を先に済ませてくる。お前の今着ている着物も俺に貸せ!主人今日も桶を一つ借りるぞ?」
そう言ってココから着物を剥ぎ取った武左衛門は大きな丸い桶を抱え、どうぞと頷く主人に背を向けふらりと湯屋から出て行った。
ここからが待ちに待ったお楽しみの時間、洗濯である。
武左衛門の洗濯の仕方は独特だ。まずは湯屋の前の井戸でその大きな桶一杯に水を汲む。そして自分とここの洗濯物を投入し、それを力任せにかき回す。十回かき回した後、今度は逆に十回かき回す。それを何十回も延々と繰り返す。武左衛門は時代的に気づくはずがないが完璧に人力洗濯機である。
(この水の黒くなっていくところが堪らんのう)
月明かりの中でもあからさまに色の違いがわかるその様を見て武左衛門はにやりと笑う、その黒い水を捨てた後もう一度水をいれ同じ行動をとる。そして最後にもう一度綺麗な水で濯いで力任せに絞る。
(うむ、よい出来じゃ)
自分の着流しを満足そうに広げていると丁度主人から声が掛かった。
「旦那、準備が出来ました!」
脱水した洗濯物は流石に店の中で干すわけにはいかないので風呂敷に包んで店に置いておくことにする。
そしてこの先、町に居る間の日々の生活における最大最高の楽しみ入浴である。
桶で湯をすくい今日一日の汚れを落とし、そのあと肩までじっくり湯船に浸かり、今日一日の疲れを癒す。
簡略に記すとこれだけなのだが、武左衛門は時折このひと時のために生きているのではないかと真面目に考え込んでしまうほどである。無論湯船に浸かりながら。
因みに、武左衛門の隣でおとなしく良い顔をしながら湯船に浸かっているココは、以前に一度、風呂で武左衛門に仕掛けたことがあったのだがその折、武左衛門に鬼の形相で説教されたために入浴中は借りてきた猫のようになっていようと心に決めている。
心行くまで風呂を堪能した二人は店主と礼を言い合った後、ぼろい長屋に帰り、飯を食って、洗濯物を干して寝る。そして朝へ戻る。そんな生活を二人は互いのことを何も知らぬまま、また聞かぬままかれこれ一月も続けていた。
そんな二人の生活に終わりを告げたのは一人の男の来訪であった。
二人並んでオンボロ長屋に帰ると長屋の前に異様な一人の男が立ち尽くしていた。その男、身長は六尺近く、武左衛門と同じくらいの上背があるが体つきはどちらかといえばしなやかな印象で、すらりと伸びた長い手足がそう思わせることを後押ししている。肌の色は今出ている月のように青白く、目鼻立ちは割りと整っているが目がまるで蛇のように鋭く吊り上っている。結った髪は腰まで届くほど長く、上等な黒の袴と背に派手な虎の刺繍が入った真っ赤な着物を着ており、腰には派手な装飾のついた刃渡り4尺はありそうな長刀をかんぬき差ししている。
その男は並んで歩いてくる二人に気づいたらしくゆっくりと蛇のような眼光を二人に送った。そして、
「兄者!お久しゅうございます!」
挨拶をし、唇の端をグイッと持ち上げて口を裂くように笑い、左手を大きくぶんぶんと振り回した。
「おう、右の字!久しいの、二年振りか!」
兄者と呼ばれた武左衛門は見知った顔に久しぶりに再会した喜びから、ニカリと笑って同じく大きく左腕を振った。
二人は互いに駆け寄り、勢い任せに熱い抱擁を交わした。ドスンという音が響く。
「まったく、しばらく顔を見せなんだから死んだものかと思っておったぞ」
「いえいえ、某が愛しい兄者に黙って死ぬことなぞ全くありえません」
抱擁しながらゲラゲラと笑う二人を尻目に、一人状況についていくことの出来ないココが呆けた声で質問を上げた。
「武左衛門様、失礼ですがそちらの御仁はどなたでございますか?」
ココの質問に答える前に、右の字と呼ばれた男を引き離した武左衛門は照れを隠すような咳払いを一つ入れた後、男の紹介をした。
「おう、こいつの名前は右の字!俺の弟弟子じゃ」
紹介した武左衛門は、嬉しそうに右の字と呼ばれた男の背中をバシン!と叩いた。
「兄者の弟弟子の『西条 虎右之助』と申す。それにしても兄者、わしというものがありながらその小僧はなんじゃ?」
右の字と呼ばれた男はそう言いながらゆっくりとココに近づき、まるで品定めするかのようにココの顎を親指で押し上げ、顔と身体を交互にまじまじと見つめた。ココはその蛇のような眼光に当てられたからか、ピクリとも動かず、ただ一度大きく息を飲み込んだ。
「確かに顔の見てくれは好いが線があまりに細すぎるじゃろ。これじゃ兄者が力任せに抱いただけでも骨が折れてしまうぞ!悪いことは言わん!こんな小僧よりわしを力一杯抱いて…いてぇ!」
ココに対する総評を口にしている途中に興奮して、中盤から虫の鳴き声をかき消すかのような大声で語りだした右の字と呼ばれる男は、兄者と呼び慕っている男に頭を殴りつけられ、演説を途中放棄しざるおえなくなった。
「馬鹿!そんな大声出してご近所さんを起こすようなことになったらどうするつもりだ!それに大体俺はお前ともココともそんな関係になっとらんわ!」
近所での悪評を恐れる武左衛門に力任せに引っ叩かれた右の字と呼ばれる男は、殴られた頭をさすりつつ、もう一度ココを見据えた。
「ほう、ココと言うのか偉く変わった名前じゃのう。どういう字を書くんじゃ?」
相手に萎縮して何も答えることが出来なさそうなココに代わり、武左衛門が口を挟んだ。
「こいつの名前は数字の九に蔵で九蔵じゃ。師匠と同じ名前では呼びすてにするわけにはいかんので数字の九つからとってココと俺は呼んどる」
武左衛門がそこまで言うと、右の字と呼ばれた男はこれ以上持ち上がらないくらい唇の端をぐいっとと持ち上げにまりと笑った。
「そうか!お主の名は九蔵か!あの師匠と同じ名か!それは良い、実に良い!おい九蔵!わしのために一足先に家に入りお茶を淹れておけ!」
嬉しそうにココに催促した右の字はココの頬をべしべしと叩いた。これにはココも流石にムっとしたらしくその手を叩き払った。
「申し訳ありませんが、ココの全ては武左衛門様のもので御座いますゆえ、武左衛門様を通して頂かれねば茶の一杯も淹れる事はありませぬ」
真っ直ぐ自分と視線を合わせて物を言うココと、静かに首を横に振る武左衛門を見比べて右の字はけらけらと笑う。
「なんじゃ、見てくれからしてなよなよとした奴と決め付けていたが、このわしに臆せず物を言えるとは中々芯の通った男じゃねぇか!」
右の字はカラカラ笑って、ココの頭をくしゃくしゃと撫で回した後、「積もる話は明日しましょうぞ。今日はもう眠くて適わん」と言い放ち許可もとらずに長屋の中へ入っていった。
武左衛門は特にそれを気に掛けた様子もなく、先に右の字が入った我が家に入る。するとそこには先ほどまで話をしていた右の字がむしろを敷いていびきを掻いて眠っていた。
「なんとまぁ、相も変わらず自由な男よ」
やりたいことをやり、好きなように自分に正直に生きる。そんなこの男の性分が何一つ変わっていないことを呆れるようにため息を吐いた後、絶句しているココに向かって「今日は俺の寝床で一緒に寝てくれ」と頼んだ。
「現状がよくわかりませんがそれは得ですな♪」
ココはそう呟いて轢かれたむしろへと転がり込んだ。心の奥で明日がまだ続くようにと願いながら…。
「兄者、一緒に野党退治をして欲しいのじゃ」
3人で囲炉裏を囲み朝食をとりながら、右の字は久しぶりに訪ねてきた理由を唐突に喋った。因みに朝飯はココが武左衛門を制して用意したので今日のご飯は固くない。そんな固くない米を頬張りながら、
「よし行こう」
何の憂いもなく武左衛門は即答した。
「ちょっと、武左衛門様!どのような理由があるのか?とか、敵は何人だ?とか、引き受ける前に聞かなければいけないことが沢山あると思います!」
これには、なるべく口を挟まないようにしようと心密かに決めていたココも流石に制止に入った。
「まぁ、大丈夫じゃろ。それに野党が狼藉を働いとるとしたら近隣の村にはきっと助けを必要としておる人がおるからの。行かんわけにはいかん」
米を平らげた武左衛門はそう言ってすくっと立ち上がり、いつもより上等な着物を手に取った。
「何が大丈夫なのでありますか!野党は怖いですぞ!人を殺したりするような連中やも知れませんぞ!そんなもの奉行所にでも頼ればいいのです!」
ココは今すぐにでも、いつもの仕事にでも行くようなノリで出て行きそうな武左衛門を文字通り押しとどめようとするが、武左衛門はそれを何の意にも介さず黙々と準備を進めていく。そんな二人の様子をにやにやと見守りながら右の字がココの質問に答えた。
「それが頼れん状況になっとるのじゃ。実はこれはあまり公にされておらん話じゃが、1月ほど前死んだ『川上 誠一郎』は実は病気で死んだわけでなく剣で立ち会った後、殺されたようじゃ」
右の字の発言に武左衛門は思わず準備を進める手を一瞬止めた。
(あの『川上道場』の師範代、川上誠一郎がか!)
川上道場とは、多数の有力者に支援されているこの界隈で一番力を持った剣術道場であり、多少力を持った武士たちの間では、道場といえば川上道場を指すほどの、いわゆるエリートのための道場である。
そしてその道場の川上師範代は、世間への体裁と風評のため一月前に病気で死んだものと公表されてきたが、やはり人の口に戸は立てられず、師範代が何者かに殺害されたことは今では町の中心地では誰もが知るところとなっている。最早、この外れまで噂が浸透するのも時間の問題であった。
「だから同心の連中はみんなそちらの犯人探しと権力争いに夢中で、地方の野党なんかには構っておれんそうじゃ」
「そうだったのか。よし、では行こう」
そう言った武左衛門はもう既に着替えを一揃い風呂敷に包んで準備万端の体制になっていた。
「ちょっと待ってください。もう少し話を聞いてからにしてくださいませ!」
身体的には主をピクリとも止めることにできなかったココは、ならば精神的にどうにかしようと武左衛門のやる気を下げる要因を見つけようと必死になった。
「聞きたいか九蔵!しょうがない、さっきお前が聞いておったこと全部まとめて答えてくれよう!敵は5人程度で退治する理由はわしの名を売っておくためじゃ!」
右の字からそんな言葉を引き出して、ココは鬼の首を取ったかのようにはしゃぎ、大声を上げた。
「聞きましたか武左衛門様!野党は5人もおるらしいですぞ!それにこの者の理由は人を救うためではなくまったくの私欲!私欲です!そんなことに武左衛門様が付き合う必要なぞ御座いませぬ」
「うむ、そうか。だが俺は絶対に行く。では行って参る」
だが『誰かに必要とされたい病』の武左衛門はそんなココの必死の説得にも関わらず、行く以外の選択肢を持ち合わせていなかった。自分に背を向けわらじを履く主に、ココはもう一度声を張り上げ、その大きな背中に覆いすがった。
「御待ち下さい!今一度お考え直しを!」
そんなココの必死な様子を見て、武左衛門の中で見えない糸が繋がった。ココが野党を警戒している理由、あの日ぼろぼろの格好で自分に向かってきたこと、帰る場所がないとこの家に住み着いていること等全ての糸が繋がった。
(そうか、こいつはきっとあの日その野党共に襲われてしまって…。もしや家族や家も…)
勝手な想像で武左衛門の目に熱いものが込み上げる。武左衛門は堪らなくなり、覆いすがっているココを引き剥がし、正面に向き直り力一杯抱き寄せた。
「そうか、そうだったか。それならお前も一緒に来い。復讐が良いこととは思わんが、それでも俺はせめて野党共が罪を悔い、慈悲を請うところくらいはお前に見せてやりたい」
武左衛門の胸の中でそんなことを言われたココだったが、武左衛門はあまりに言葉に詰まりぐすぐす言っていたため、正直伝わりきらなかった。が、行くからお前も一緒に来いと言われたことは伝わったらしく、武左衛門が目頭を押さえている間に少し困った素振りをわざとらしく振舞いながら、満面の笑みでちゃっちゃと準備を済ませ最終的に3人で行くことになった。
出発してから二刻が経ち、3人は既に人の好んで入らないような山道に入り込んでいた。
「武左衛門様、そろそろ休憩をとりませぬか?」
ココは息をぜぇぜぇ切らせながら本日8度目の休憩を要求した。
「ええぃ!わしと兄者の二人旅を邪魔したばかりか、野党退治への進行すら邪魔する始末!まったくなんて邪魔な九蔵じゃ!この駄目九蔵!」
苛烈な文句とは裏腹に、右の字の顔には喜々とした表情が張り付いている。多分九蔵という名に対して十二分文句を言えるのが愉快極まりないのであろう。
「疲れたのなら俺の背に乗れ」
先行していた武左衛門は膝を落とし、大きな背を差し出した。
「命の恩人である武左衛門様にそんな迷惑を掛けることは出来ませぬ」
疲労困憊気味なココを見かねて、武左衛門はこのやり取りを先ほどから何度か行ったのだがココはその度にこう言って、断固として首を縦に振らなかった。
「それじゃ、わしが兄者に乗せて貰おうかの」
そう言って右の字は、武左衛門の背に飛びつこうとするが見事にかわされ、顔から山道に突っ込むこととなる。このやり取りも何度か目になる。そして仕方がないとばかりに休息を取ってきたのだが…。
「まぁ、こうやって兄者の足を止めるのも十分な迷惑というものよの」
地面に突っ伏した右の字が、ココに対してしたり顔な笑みを浮かべながら言葉を吐き捨てた。
それを聞いたココの表情は凍りつき、武左衛門はギロリという擬音が聞こえそうな眼光で右の字を睨みつけた。
「いや、ココ。俺も疲れて今休もうと思っておったところでな」
予測される事態に予防線を張る武左衛門、だが右の字はむくりと立ち上がり、大仰に両手を広げそんな予防線を嬉々として破壊する。
「まさか、わしと一緒に20里の距離を一度たりとも止まらず歩き続けた兄者がか!しかも師匠の乗った荷車を引きながらだったにも関わらず、丸1日止まらなかった兄者がか!」
囃し立てる右の字を尻目に、やたら体力のないココは流れる汗を拭いながら、歯を食いしばって再び歩を進めだした。それを心配そうに見つめる武左衛門対してココは首を横に振り、
「お気遣い無用で御座います。お優しい武左衛門様。ココは決してお邪魔になりませんし、五月蝿い姑にも決して負けませぬ故」
そう言って先人を切る勢いで歩き出す。それを見た右の字はカッカッカと大口を空けて笑い飛ばす。
「九蔵め、五月蝿い姑とは言ってくれるわ!わしは姑ではなく本妻だというのに!どれ、側室に己の立場をきっちり叩き込んでやろうかの」
そう宣言した右の字は先頭に立ち、ココがついてこられないギリギリのラインで足を進めた。そして、しばらくすると当然崩れかかるココにニマニマしながら嘲笑を浴びせた。
「おや、この程度で歩を緩めるとは。所詮兄者に寄せる愛もその程度か。所詮はにわか、わしの大きな愛と比べるまでもない」
「それは聞き捨てなりませぬ。ココが武左衛門様を想う気持ちはこの山の如し大きさ、そちらこそこんな物騒なことに武左衛門様を巻き込んで愛などと片腹痛い」
多分本当に片腹痛いココは苦悶の表情を浮かべつつ、右の字より先に歩を進めようとする。
「愛する兄者と一緒にいたいそんな基本的な気持ちもわからんとは、所詮まだ小僧よ」
どんどん歩く速度が加速していく二人を、
(主らの勝手にしたらよいわ)
等と思いながら、仕方なし二人の速度に合わせて歩いていた武左衛門は気配を察し、血相を変えてココを引っ手繰るように抱きかかえて道を外れて茂みに入る。
「武左衛門様!ココはまだ、」
自分は歩けると抗議の声を上げるココの口を片手で塞ぐ。
同じく茂みに飛び込んだ右の字が声を殺しカッカッカと笑いながら「来ましたな」と言った。
野党どもは、なにやら話をしながら山を下ってきた。今から村に襲撃に行くに当たっての作戦会議でもしているのであろうと武左衛門は判断した。そこにいるのはまだ少年と呼べるような若い男5人。それぞれが各々の武器を持ちいきり立っているのが100尺ほど離れたこの場所からでもよくわかった。
「よいか、絶対に音を立てるな。息を殺してこの場におれ」
ココが首を縦にこくりと動かしたことを確認し、武左衛門は彼の口から手を離した。
「右の字、なるべくなら峰打ちにしろ」
「はいよ♪」
右の字は武左衛門の注文に気の抜けた返事をし、挟撃するために茂みの奥へと消えてい…、きかけて踵を返した。
「ところで兄者、峰打ちとはどこまでなら切り飛ばしていいんじゃったか?」
そう言ってカカカと笑う右の字を武左衛門はじとりと睨んだ。
「愛嬌じゃよ、愛嬌。まったく、兄者はそのような表情ですら艶めかしい」
睨まれた右の字はそんな捨て台詞を残して今度こそ茂みの奥へと消えていった。
山賊との距離が近づくにつれて、息を断ち、延べ板を握り締める武左衛門。同じく息を断ち、小さくうずくまるココ。そんなことを知らず、無警戒に歩を進める山賊達がついに武左衛門の射程に入りかける。
「おい、ココ。一応目を瞑っておけ」
武左衛門は万が一の、いや三に一くらいの確立で目の前に広がるであろう惨劇をココに見せないように配慮して、茂みから勢い良く飛び出した。だがココは大きく目を見開き茂みの中で懐にこっそり入れた布に包んだ包丁を震える手できつく握り締めた。
ココは野党が怖い。いや、普通の人は確かに怖いのだが、それに輪をかけて怖がっている。実は先ほどの武左衛門の予想、まるっきり外れという訳ではないのだ。ココは武左衛門と出会う前、その美しさ故に野党どもの玩具にされていた。三日三晩嬲り者にされ、ありとあらゆる陵辱をされ、死に匹敵する恥辱を味わわされていた。そこから命かながら逃げ出したところに武左衛門と会い現在に至っている。
だから出来ることならこんなところ来ずに家でおとなしくしていたかった。だが、それにもましてとある大きな思いで今彼はここにいる。
「俺の名は延べ板の武左衛門!貴様らを成敗しにきた素浪人よ!いざ参る!」
武左衛門の名乗りが響く。茂みの中にいるココには事の顛末がよく見えない。ただ金属のぶつかる音や鈍い音、絶叫音が耳をついた。だがそれもほんの一呼吸ほどの間、すぐに奇声と悲鳴だけしか聞こえなくなった。
そして遂にはその悲鳴すらも聞こえなり、ココが不安に包まれつつ覚悟を決めて立ち上がるとその不安を拭うようにいつもの声が聞こえた。
「もう、大丈夫じゃ」
ココが余程酷い惨劇があったのかと怖々と辺りを見渡し状況を確認すると、そこには返り血すら浴びていない武左衛門の姿があった。そして彼の周りにはへし折られた無数の刀とうめき声すら上げない大の男が幾人も地面に突っ伏している。
(一体どれほどの力差があればこんな芸当ができるのか)
剣術等かじったこともないココだが、この惨状には流石に背筋に冷たいものが走り、思わず息を呑んだ。
そんなココの心境等察することはない武左衛門は別の理由で息を呑んでいた。倒した野党の手足を持ってきた縄で縛りつけていく。そして珍しく表情が固まっているココに神妙な面持ちで、
「ココ、この中に敵はおるか?」
抑揚のない声で是非を説いた。
そこには彼を襲った人間はいなかったのでココは内心ホッとした。そして、何もわかっていないような顔をして武左衛門に聞き返した。
「敵とは何のことでございましょう?」
ココの答えに武左衛門は全て己の先走りだったことを悟った。
「ゴホン、なんでもない」
わざとらしく咳払いした武左衛門は呆けているココを見て、心に一つ疑問が湧き上がった。
(敵を討ちたかったわけではないのならば、何故こいつはわざわざこんな危険なところに同行してきたのだろうか?)
だが、武左衛門がそんな疑問を投げかけるべきか思案しているうちに、根城に偵察に行っていた右の字が帰ってきて大声を張り上げた。
「本当につまらん奴らじゃ!お宝どころか女も囲うとらん、あるのは少しの作物だけじゃ!」
「女もか?」
武左衛門にとってそれは以外だった。お宝がないのはこんな辺鄙なところでは仕方ないとして、女ならば付近の村から連れてこられた筈である。
「仕方ない、せめてこいつらの首だけ村に持っていって幾文かの金にしようかの。わしが2つに兄者が1つ九蔵が2つで運べばいいじゃろ?」
そう言って、腰に下げた長物に手を掛けた右の字の頭を武左衛門は勢い良くはたいた。バシリという子気味の良い音が響く。
「これは申し訳ない!兄者に持っていただこうなど、わしとしたことが頭が少し曇っていたようじゃ、わしが二つに九蔵が三つでしたな!」
右の字に、ギョロリとした、まるで絡みつく蛇のような視線を向けられたココは先ほどから震わせていた肩をさらにビクリと大きく跳ね上がらせ、思わず武左衛門の袖口を握り締めた。一方の武左衛門はため息でも吐きそうな淡々とした表情で、曇りきっている弟弟子の頭をもう一度はたき再び軽やかな音が響かせた。
「阿呆が!ココに首なぞ持たせられるか!いや、それ以前にこいつらは首にするほどの悪人なのか?こいつらは一体何人殺したんじゃ?」
「さて、わしは村の人間に盗みを働くものを退治して欲しいと頼まれただけですからの。そんな些細なことは知りませんな!それで首がお嫌ならどこを証拠に持っていきましょう?」
武左衛門は、そう言って笑い飛ばす右の字に向かってため息を吐きつけて、捕まえた若い野党の頬をはたいた。野党が意識を取り戻す。身動きが取れない状態にされていることを理解し開口一番命乞いを始めた。
「ヒィィィ!!命だけはお助けを!なんでも、なんでもしますから!」
武左衛門はそんな野党を真っ直ぐに見て、低くうなるような声で語りかけた。
「お前は村の人を何人殺した?」
「こ、殺してないです!殺してないです!俺たちは食い物盗んだけど殺しはしてないです!本当です!だから命だけは助けてください!」
必死で懇願する男の目を武左衛門は目を見開いて凝視する。
「ひぃ!」
屈強な大男に睨みつけられ若い野党は思わず悲鳴を上げた。
「うむ、わからん。偉い坊さんは目を見ただけで嘘か本当かわかるらしいが俺にはさっぱりわからんの。ここはやはり村人に任せるしかあるまい」
図りかねた武左衛門は悲鳴を上げていた若い野党を軽々と肩口に抱え上げた。そしてもう片方の肩にものびた野党を抱え上げる。
「おい、右の字!俺が2でお前が3じゃ!よし、行くぞココ!」
「はい、武左衛門様♪」
「ちょ、兄者じゃあるまいし、こんなもの持てませぬぞ!おい、九蔵!お主何手ぶらで兄者にくっついておるか!こちらにきて二つ持て!ちょ、無視するな!この際一つでもいいから!」
結局、右の字の力足らずから、野党は起こして縄をつけ村まで歩かせることになった。村までの道中、武左衛門は彼らの身の上話が聞きたくて言葉を振った。
「それで、お前らはどうして野党なんてやっとったんじゃ?」
年の若い野党たちの中で一番年のいった、それでも18前後といった男が口を開いた。
「食い物がなく、腹が減って…。このまま死にたくないとつい盗みを働いてしまいました。どうか命だけはお助けを!」
必死に命乞いする男に武左衛門は首を横に振った。
「それは俺が決めることではないわ。これからお前らを突き出す村人や役人の決めることじゃ」
彼らの罪を決めるのは実際に被害にあった人物であるべきである。武左衛門の中にはそういう考えがあった。
「我らを村に突き出すのですか!それだけは、それだけはご勘弁を!」
野党たちはその言葉に狼狽し、涙を流し、再び慈悲を請うた。
「なに、本当に作物を盗んだだけなら命まではとられまい」
武左衛門の言葉に野党どもは押し黙り、頭を垂れうなだれた。そんな中、年長の野党がおずおずと搾り出した声で呟いた。
「そ、それがとられるのでございます」
「何、作物だけというのは嘘だったのか?」
武左衛門が思わず食って掛かるような声を出したので、野党は再び震え上がり、回答する声が裏返った。
「嘘ではございません!ですが他に事情がありまして…。その川上師範代が殺されたことはご存知か?」
その話を今朝聞いたばかりの武左衛門は「承知しておる」と頷いた。
「実は私どもは川上師範代が殺された夜の当直だったばかりに、その犯人に仕立て上げられているのです」
項垂れた野党は搾り出すような声で自分の境遇を嘆いた。
「仕立て上げられたとは?」
「実は川上師範代を殺した犯人は見つかっておりません。だがそれでは格好がつかない、だから当直でそのとき屋敷にいた我らを犯人とすることで一応の面子を守り事態の収拾をつけようとしているのです」
それを聞いた右の字はガハハと腹一杯に笑い飛ばして会話に割り込んできた。
「なるほど、責任をとるのが嫌で逃げていたわけじゃの!武士の風上にもおけん奴らじゃ!それじゃこいつらは川上道場に持っていった方がいい金になるということじゃの!さすが兄者!これを見越して首にするなと言った訳ですな!」
武左衛門は会話に割り込んできた右の字の足を思い切り踏みつけてやった。右の字は「いてぇ!」と踏まれた足を押さえて片足で飛び回る。
「弟弟子が失礼なことを申した」
「いえ、おっしゃる通りでありますから。私どもは責任をとるのが嫌で逃げ出した臆病者ですから。誰かが責任を取らなければいけないことはわかっています。そして、その役目に一番相応しいのは我らということもわかってはおるのです。ですが、やはり死ぬのは嫌です。嫌だ!お願いです、どうぞ、どうぞ見逃してください!それが無理ならせめてわし以外の奴を逃がしてやってください!こいつらはわしよりまだ若く15にもなっとらんのです!お願いします!お侍様どうぞお助けを!」
年長の男が膝を折り、頭を地面に擦り付けて、他の者への慈悲を請うと他のものも同じような台詞を吐いて他の人間の許しと助けを請うて「お侍様どうぞお助けを」とおいおいと泣き喚いた。そんな光景を見て、右の字が深いため息を吐いて嘲る様に言葉を放った。
「何を馬鹿なことを言っとるんじゃ、わしらに捕まっているお前らの命なぞ、最初からわしらのものに決まっておるじゃろ?そんなものが交換材料になるわけがなかろう!そこそこの年数生きておるわりにどうしようもない馬鹿じゃの。兄者もそう思うじゃろ?」
皆につられて目頭を押さえていた武左衛門は「馬鹿はお前だ!」と言わん勢いで右の字の頭を突き飛ばした。そして彼らに向かい直り膝を折った。
「また弟弟子が失礼なことを言って申し訳ない。詫びといってはなんだが―」
「助けてくれ」とせがまれて、武左衛門の必要とされることに生きがいを感じる悪い病気が起き上がった。白い歯を光らせ、彼らに向き直った武左衛門は高らかに宣言をした。
「お前らが俺を頼るなら、俺はきっとお主らの罪の事実無根を証明してみせようぞ」
日が傾いての帰り道、3人は朝来た道を戻っていく。結局武左衛門は彼らを村に突き出さなかった。理由は野党をそこらの木に括りつけたあと村に行って事情を聞いたところ、人も殺されておらぬし、盗まれたのはわずかな作物だけだし、なにより村人はこれは野党のせいではなく動物の仕業だと思っていたらしく右の字が頼まれていたのは実は害獣駆除だったということが主な理由だ。
村には獣はいくらか退治したのでしばらくは出ないだろうと嘘の報告をし、野党どもの元へ戻り、縄を解き、事の経緯を説明し、彼らにもう二度と盗みをしないと誓ってもらい今に至る。
「獣退治を依頼したはずが届けられたのは人の首、そんな愉快な出来事にならなくてよかったですな兄者!まぁ、首を届けられたときの村人の顔を見てみたかったといえば見てみたかったですが、それはまた次の機会ということですな!」
まったく反省のない右の字は、ガハハと笑い飛ばしてその辺でむしったヤマモモを齧った。そんな態度にココはひどく憤慨した。
「今日一日、武左衛門様を勘違いで引っ張りまわしてなんという言い草!しかも謝罪の言葉一つ出さないとは本当にどうしようもない!こやつはどうしようもないですぞ武左衛門様!」
ココは整った顔を歪ませて、思いのたけを投げつけるような口調で武左衛門に言って聞かせる。
「ふむ」
武左衛門の肯定ととれる発言を受け、ココはにまりとした笑みを右の字に送った。右の字はそんな彼の頭を鷲摑みにしてくしゃくしゃと揺さぶる。
「なんの役にも立たぬばかりか、帰りは兄者の背におぶさっている駄目九蔵がなにを一人前の口を聞いとるか!兄者そんな九蔵この山に捨てていきましょうぞ」
「ふむ」
武左衛門のまさかの肯定発言におぶさられていたココは大層慌てた。
「武左衛門様!ココは歩きます!歩きますゆえに…」
懇願するココの発言を遮るように武左衛門はまた「ふむ」と相槌を打った。そこでココはようやく武左衛門が思案にふけって生返事をしていることに気づいた。
そして、ささやかな希望を叶えるチャンスであることにも気づいた。生返事でも、意味がなくても、どうしても貰っておきたい答えがあるのだ。その生返事を期待して、ココは思わずしがみつく腕に力を込める。唇を武左衛門の耳元に近づけて、ありったけの色を込めた声で鳴いた。
「…、武左衛門様はココを…」
「兄者!」
右の字がそれを遮って大声を上げた。耳元で大声を上げられた武左衛門はキーンとした耳に思わず手を当てて、しかめっ面で弟弟子を睨みつける。
「なんじゃ!」
「何をそんなに考えこんでおられるのですかな」
「今はあいつらに無罪を証明すると約束してきたが、どうやって証明したらいいか考えとった」
武左衛門は悩みからか、コメカミを強く抑え唸った。
「まったく、他人の厄介ごとに首を突っ込む兄者の病気は相変わらずですな。だが、そんなところも堪らなく愛おしい!」
両手を大きく広げ、ハグを求めてきた右の字の頭を武左衛門はアイアンクローで押しとどめ、武左衛門はもう一度低く唸って結論を出した。
「うむ。やはり、行くことにするかの」
「それは実に兄者らしい選択ですな。是非真犯人を見つけてください。それでは名残惜しいですがわしはここらで!」
右の字は二手に分かれた道で飛び乗るように跳ねて、武左衛門とは逆に進んだ。
「もう行くのか?相変わらず騒がしい男じゃ」
「兄者、それではお達者で!あと駄目九蔵はあまり調子に乗るなよ!では!」
そう言い残し、振り返ることもせず逆方向に右の字は駆けていった。情緒もへったくれもない別れ方であったが武左衛門は実にらしいと思った。その背に「お主もな!」と投げかけると右の字は手を大きく上げたがやがて遠ざかり姿が見えなくなった。
二人となった帰り道、おぶさられたココが武左衛門に朝から、いや実は1月前から聞きたかったことを思い切って聞いてみることにした。
「武左衛門様は昔どこで何をしておられたのですか?」
今までは聞きたくてもきっかけがなかったのだが、今日は右の字という旧知の者が現れたことによって幾分その話題を振りやすくなっている。そこをココは狙った。
「ふむ…、何をしていたか…か。色々やっておったがやはり生業にしとったのは星売りかの」
「星売りとは?」
ココはその言葉の意味を知らず説明を求めた。
「金を貰ってわざと負けてやることじゃ」
武左衛門は特に悪びれもなくそう言い切った。
「負けてあげるとなぜ金になるのでございますか?」
「ふむ、例えばじゃな。俺が強い男に勝ったとしよう。それで、次に俺が弱い男にわざと負ける。さすれば、俺に勝った弱い男は間接的に俺が負かした強い男より強いと世間は思うじゃろ。さすれば、弱い男でも名声を得られるというわけじゃ。名声は欲しいが腕は無い金持ちが今は腐るほどいるからの」
「そのようなことを!」
ココは思わず驚愕の声を上げた。なぜなら彼は、勝手に武左衛門を正義の侍と思い込んでいたところがあり、過去とはいえその武左衛門がそんな行為を行っていたことにココは相当な衝撃を受けた。
「して、どのような成り行きでそのようなことをしていたのでございますか?」
だが、ただ衝撃を受けただけで武左衛門へ対する想いは一つも色あせず欠けなかった。ココは想い人のことを知るチャンスを逃さんとばかりに矢次に質問を投げかける。
「成り行きか…。行く当てもなく彷徨っとった俺を師匠が剣の腕を見込んで拾ってくれての。まぁ、その師匠に言われるままにあっちで勝ってこっちで負けてと色んな国でやっとった訳じゃ」
そう言って武左衛門はにかりと笑った。夕日に映えるどこか子供のようなその笑顔にココの心は奪われる。
「何故、行く当てがなかったのでございますか?」
彼のことをもっと知りたいと矢次に投げかけたその質問は地雷だった。武左衛門の顔から柔らかな笑みが消え、しばし押し黙った後困ったように質問の回答を差し出した。
「…、父を殺したからじゃ」
夏だというのにココは空気が凍り付いていくように感じた。その重々しく感じる空気の中、ココは勢いにまかせて質問をした3秒前の己を蹴り飛ばしてやりたいと心底思った。
ココが口をパクパクさせてなんと口を聞けばよいのかわからぬまま時が経ち、会話は完全に途切れた。その後、ココが時折何か話しかけるも武左衛門からの返事はなく、最終的に二人は押し黙ったまま長い道のりを歩き長屋へと着くことになり、帰って来たのが深夜とあって風呂にも行けず、疲れていた武左衛門は帰るなり泥のように眠った。
誰かに必要とされたい病は幼少の頃からの思いの積み重ねでかかった病である。
武左衛門は東郷道場という剣術道場の跡取りとして生まれた。
だが、期待をかけられていたかと言えばそうでもない。かといって期待をかけられていなかったと言えばまたそうでもない。
答えは『ただ何も思われていなかった』だけである。
武左衛門の生まれた東郷道場の話をしよう。
武左衛門が生まれる30年前、どこにでもあるような道場、東郷道場は跡取り問題で悩まされていた。武左衛門の祖父にあたる当時の道場主には実子が女しかおらず、また養子に貰った遠縁の男も流行り病で死んでしまっていたのだ。途方にくれていた武左衛門の祖父の目の前に現れたのが武左衛門の父、半十郎だった。
彼は身分こそ無いが少し名の通った剣豪で、その才に惹かれた武左衛門の祖父は彼を自分の娘と結婚させ、跡取りとすることを考えた。一方、半十郎もいつか道場を構えて自分の剣を広く世に知らしめてやりたいと思っていたので、渡りに船と道場欲しさにそれを容認しこの道場へ跡取りとして入ることにすることとなった。祝言を挙げ、女は子を宿し、そして生まれた子に武左衛門と名づけた。
ここで話が終われば彼はきっとそんな病にかかりはしなかっただろう。
武左衛門が生まれしばらくの後、母が亡くなった。元々身体は強いほうではなかったのだが子を産んで身体を大きく壊したのが災いし、あくる日、息を引き取った。それからしばらくして、武左衛門の祖父と半十郎との間に決定的な確執が生まれることとなる。当然である、己の実戦で磨いた剣を広めたい半十郎とあくまで習い事としての剣を教えてきた武左衛門の祖父とでは元より考えに差がありすぎたのである。今までは二人の間に上手く入っていた妻、ないし娘がいなくなったことによって歩み寄れる人間がいなくなり、日々二人の仲は険悪になる一方だった。
そんなある日、事件は起こる。半十郎が東郷道場の剣を実戦では何一つ役に立たない無意味なものだと罵倒したことを武左衛門の祖父が怒り、半十郎に実戦を持って思い知らせるとしたところ逆にあっけなく殺されてしまった。先に切りかかったのが祖父ということもあって半十郎は大したお咎めも無く、そのままこの道場を頂くことになる。
東郷道場は半十郎の剣のための道場となった。
武左衛門が物心ついた頃、彼の肉親は父一人だった。
だが、その肉親は彼のことを衣食住こそ雇った女中に用意させているものの普段は武左衛門のことなどまるで見えていないかのように振舞い、名前すらも口にしなかった。元々、跡取りをと頼まれたから作った子である。だから彼には欠片も息子に対する興味がなかった。全ての興味は剣にしかない男だったのだ。
だが、武左衛門はそんな父からの愛を求めた。つながりを求めた。
当然である。子を愛さない親はいても親の愛を求めない子はいないのだから。
その父は暇さえあれば道場で剣を振るっていた。熱心に剣を振るうその姿は幼い武左衛門に剣を振るうようになれば父に必要としてもらえると思わせるに十分な姿だった。
だから武左衛門は物心ついたときから剣を振るった。己で愛を勝ち取り、その乾いた心を潤すために必死で振るった。
親は無くても子は育つ、月日の流れは少年を日に日に大きく育てていった。
齢五歳を越えた頃には、彼は自分の父が剣にしか興味が無いことを完璧に頭で理解していた。そして、そんな父をどうやって自分へと振り向かせるか、自分なりの答えを出していた。その答えに向かい、彼は毎日父に見えぬところで黙々と剣を振るい続けた。
武左衛門の剣は我流の剣である。毎日目に焼き付けていた父の剣を真似るようなことは決してしなかった。それは父から教わるものと決めていたからだ。父から剣を教わるために彼は毎日自ら編み出した唯一つの型を朝から晩まで文字通り血の滲む努力で体得をしようと試みた。
その修練が自らの納得のいく形に達したのは彼が齢十歳を越えた頃だった。
その日、いつものように一人剣を振るう半十郎の前に彼の息子が現れた。いつもなら相手をしないところだがその日は違った。彼が帯刀していたからだ。
「なんのつもりだ?」
彼がつまらなそうに吐いたその言葉は実に何年振り、いや初めて武左衛門に向けて発した言葉だった。武左衛門はそれに高揚しながらもこの父の声を全て自分のものにするために刃に手をかけた。
「一手試合うてもらいます」
武左衛門は興奮を抑えるよう声の抑揚を抑えて言った。
「どういう意味かわかっているのか?」
半十郎は咎めるような視線で武左衛門を睨みつけた。
「はい」
武左衛門は返答をしながらも、父の視界に捕らえて貰ったことが嬉しくて、堪らず笑いを噛み殺した。そして、その視線を全て自分のものにするために右足を半歩前に出した。
「ならばよい」
父はそれを特に気にかけず、つまらなそうに立掛けていた『真剣』に手をかけた。それを抜き放ち、自分の息子にその銀の刃の切っ先を向けて静止する。
武左衛門は愛しい父の全てを手に入れるために腰を落とし、目を見開き、剣を持った父の最後の姿を目に焼き付けた。
「参る」
そう言って、半十郎が息子を斬るために一歩歩を進めると『ゴトリ』という鈍い音が響いた。半十郎は気づかなかった。武左衛門がもう既に刀を一度抜いていたことに、彼が毎日異常な鍛錬を積んでいたことに、彼が父の愛を求めていたことに、今の音が自分の右腕が落ちた音だということに。
「あああああああああああああァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!」
自分の利き腕が肘から先、無くなっていることにようやく気づいて狂ったように悲鳴を上げた。
気づいたときには全てが遅すぎたのだ。もっとも、息子が愛を求めていたことには最後まで気づかなかったが。
一方の武左衛門は女中に父の血止めを命じて、狂ったように叫ぶ父を救うため医者を呼びに行った。その甲斐あって、父はその命を取り留めることに成功した。全てが武左衛門の予定通りに進んだ。父が自ら剣を振るうことが出来なくなった今、剣にしか興味の無い父親はきっと自分に自らの剣を教えることを生きがいにしてくれる筈である。
だが、その目測は大きく外れていた。彼は剣にしか興味が無いのではなく『自分の』剣にしか興味がなかったのだ。
半十郎は意識を取り戻した後、自分の腕が無いことを確認し自害した。
少年の乾いた心はひび割れバラバラとなり壊れた。
泥のように眠っていた武左衛門が目を覚ますと、ココは何故か布団に入っておらず、部屋の隅で膝を抱えていた。
「何故そんなところで丸まっておるのじゃ?」
武左衛門は湧き上がった疑問をココに投げかけた。
武左衛門が目覚めたことに気が付いたココは、座りなおし床に頭をつけた。武左衛門には何が何だか何のことだかわからない。あまりに不思議な光景にまだ夢の中かと疑った。
「…どうして頭を下げる?俺がここまでおぶってきたことか?そんなことなら気にするな」
武左衛門は寝ぼけた頭で必死に回想し、一番それらしい出来事を探し当てた。
「いえ、そのことではございません。その、『昨日、何故行く当てがなかったのですか』と質問して」
ココは頭を伏せたまま喋っているので武左衛門には彼の表情が読み取れない。だから彼はココの真意とは全く別の解釈をした。
(そうか、そういうことか。確かにこんな人殺しと一緒にいるのは気味が悪いよの)
「そうか、先に寝てしまって本当に悪かったの。別れの挨拶なぞ、わざわざせんでもよいのに律儀なやつじゃ」
ココはそれを『出て行け』という意味で捉えて、その場でうずくまったまま嗚咽を殺すように泣いた。そして搾り出す声で「…お願いします」と鳴いた。
(あぁ、そうか金か。こいつは行く当てもないかもしれんからの)
勝手な勘違いを続行している武左衛門はむくりと起き上がり、戸棚から一つの包みを取り出した。それをうずくまっているココの前に差し出して腰を下ろした。目を真っ赤に晴らしたココはその包みを開いて絶句した。そこには綺麗な彫刻を施した短刀が一振り包まれていた。その心理がわからず、おろおろするココに武左衛門はいつも通りの笑みを浮かべて見せる。
「生憎、今持ち合わせはなくての。代わりにこれを持っていってくれ。売れば幾らかの金になろう」
それを聞いて、ココは金を払ってまで自分に出て行って欲しいと言われたのだと思い込み、とうとう声を上げて泣いた。
喜んで貰えてよかったと勘違いを続行し続ける武左衛門は「幸せにな」と一言付け加えて、もう一眠りするために立ち上がりココに背を向けた。その背にドスンという衝撃が加わる。ココが武左衛門の腰に覆いすがったのだ。
「申し訳ありませぬ!もう二度とあのようなことを言いませぬ!だからそのようなことをおっしゃらないで下さいませ!どうぞココを捨てないで下さいませ!」
泣き叫びながらすがるココに、次は武左衛門がおろおろする番だった。予想外の展開に思わず声を荒げる。
「なんじゃ!捨てるってなんじゃ!」
「何でもします!武左衛門様の望むことなら何でもします故!どうかココをここに置いて下さい!」
ココは腰に回した腕にありったけの力を込めた。離れたくない意思をけなげに込めてすがった。
「なんでじゃ?お前は俺のような人殺しと一緒にいるのが嫌でここを出て行くのではなかったのか?」
「おっしゃる意味がよくわかりませぬが、ココは武左衛門様と一緒にいたいので御座います!」
「よくわからんが、それなら飽きるまで一緒におればよい」
そう言って、武左衛門はココの正面に向き直り、覆いすがる彼の身体を抱きとめてやると全身に身震いが走った。
「冷てぇ、お前身体が冷え切っておるではないか!まさか一晩中そこに座っておったのか?」
武左衛門の問いに対し、彼の腹の辺りに埋めていたココの頭が縦に揺れた。武左衛門は「やれやれ」と声を上げ、自分の入っていた布団にココごと戻った。だが、抱きとめているココが余りに冷え切っているので武左衛門の目は冴えきってしまった。
「それにしても結局何が原因だったんじゃ?」
武左衛門は今までの不可解な流れの原因を喋るようココに促した。
「ココは自分の不用意な言葉で武左衛門様が押し黙られたので、嫌われたのではないかと心配をしておりました」
非が自分の行動にあったことを知り、武左衛門は何ともいたたまれない気持ちになり、抱いた腕に力を込めた。そして正直に謝罪した。
「すまん、多分考え事をしていて上の空になっとった」
ココはそれを聞いて「よかった」と一言呟き、安心したのか、しばらくすると小さな寝息を立て始めた。そんなココの頭を撫で付けながら、武左衛門は彼にもう聞こえていないことを承知で、それでも言い聞かせるように言った。
「でもなココ、それは絶対にありえないことじゃ。俺は俺を必要としてくれる人間は絶対に嫌わん。だからお前が必要としてくれる限り、絶対にお前を嫌わん。だから安心して眠れ」
それはココの求めた回答ではなかった。
昼、一向に起きる気配の無いココを家に置いて、武左衛門は今日も遠出していた。昨日色々考えた結果、彼らの濡れ衣を晴らすために現地に赴いて交渉するという結論にいたって、彼は町で一番の道場『川上道場』に直接出向くことにした。
川上道場は町にあるといっても大分外れの小高い丘の上にあり、そこは周囲とは隔離された独特の雰囲気を醸し出している。
武左衛門が石段を上がると、周囲を威圧するやたらと高い城壁に囲んだ川上道場が姿を見えてきた。
(金に物を言わせてこんなものまで作ったのに殺されるとは、何ともな話しよの)
武左衛門は内心で少し、川上誠一郎を哀れんだ。石段を登りきると、白木の大きな門の前で二人の門番が武左衛門を視界に捕らえ槍を構えた。
「何者だ!」
(流石に殺気だっておるの)
そんなものを突きつけられたら敵わんと、武左衛門はその場で立ち止まり、両の腕をひらひらと挙げた。
「俺の名は葵山武左衛門!今日は郷田 梁闇斎殿に折り入ってお話があって参った!取り次いで貰えまいか!」
二人の門番は顔を見合わせた後「待っていろ!」と言い放ち、大きな声を上げて、中にいる人間に今の武左衛門の口上を郷田に伝えるように頼んだ。
3人の間には何ともいえない居心地の悪い空気が流れている中で待つことしばし。大きな音を立て門が開き、そこから白い髭を蓄えた初老の男が姿を現した。
(随分と老け込んだものじゃのう)
白髪となった彼の姿を見て武左衛門は長い時の流れを感じた。
「御仁、お久しぶりですでございます」
武左衛門は深々と頭を下げた。
「うむ、本当に久しいな。老いたわしと違いお前は随分と見てくれが良くなったな。おい、お前ら!わしは奴と少し外で話をしてくる!」
そう言って、武左衛門の下へ歩み寄る初老の男を門番は引きとめた。
「お待ちください郷田様!せめて何人か護衛を!」
そんな門番を郷田は睨みを利かせて一喝した。
「なんじゃ、わしの腕が信頼できんのか!老いたとはいえこの郷田、自分の身くらい自分で守れるわ!」
吐き出すように叫んだ後、武左衛門にだけ聞こえる小声で呟いた。
「それにお前らみたいな真面目な弟子に聞かれたら困ることばかりじゃからの」
郷田に「ついてこい」と言われ案内されるままに折角上った石段を降り、町まで戻ってきて、とある茶屋の奥の間へと誘われた。
「ここなら誰にも聞かれずに話が出来るというものよ」
郷田はどかりと腰を下ろした。郷田の発言に、武左衛門は彼が権力争い中で気が抜けない状態であることを察した。その予想は当たっており、現在内部ではどろどろした内紛劇が繰り広げられている。
「まさか、こうもすんなりと会っていただけるとは思いませんでしたな」
武左衛門もどかりと腰を下ろした。会って貰えなければ「過去の不正な試合をばらすぞ」、などといった脅しの類も必要かと思っていた彼にとっては非常に良い意味で予想外だった。
「ふむ、わしだって普段なら好き好んで主になど会いたくはないが、今は主のような人間がどうしても欲しいところでな。まったく、どこから金の匂いを嗅ぎ付けてきたのやら」
郷田の言う『主のような人間』とはつまり金次第で何でもやる人間ということだ。郷田と武左衛門の接点は、実のところ八百長を頼んだ人間と頼まれた人間という関係でしかない。それも六年は前の話である。
「実のところ一つお主に頼みたいことがあるのじゃ」
武左衛門はこれを川上誠一郎暗殺の真犯人を探せということだと勝手に確信した。こうも話が上手く転がることがあるのかと内心ほくそ笑んだ。
「実は人を探して欲しくての。こいつを見つけてわしのところに連れてきてくれれば金はいくらでも払う。くれぐれも、わしのところに連れてくるんじゃぞ。そしてなるべくなら、他の誰にも悟られずにな」
強く念を押されて一枚の人相書きを渡された。
(どれ、川上誠一郎を殺したのはどんな奴じゃ)
描かれた人相書きの顔を見て、武左衛門の頭は真っ白になった。
(いくらなんでも、もう犯人が見つかるとか話が上手く転がりすぎとるじゃろ)
そこには、今朝がた家に置いてきた同居人の顔が描かれていた。
日が暮れての帰り道、武左衛門は迷いに迷っていた。
あれからいくつかのことを説明され郷田と別れた。説明された内容は、序盤この人相書きの少年のことについてで、彼は今より1月程前に行方をくらませたこと、大層色気のある少年ということ、など少年に関する様々なことを聞いたがそのどれもがココと共通していた。
それを聞いて表面上は平静を保っていたが、頭はあまりの衝撃過ぎる展開に全く付いていけず、中盤からの仕事の話は言葉半分も彼の頭には入らなかった。
唯一はっきり覚えているのは3日後の昼、またこの茶屋で落ち合おうと約束したことだけだ。
ココにこのことを問うべきか、問わぬべきか?頭の中はそのことの堂々巡りで一向に進まなかった。だが思考は進まずとも歩は進む。いつのまにか、武左衛門は自宅前まで帰ってきていた。
そこでまず、彼は自宅に明かりが点っていることに少し安堵した。
(とりあえず結論を出すまでは、ココにこのことを気取られぬようにいつも通りに振舞わなければ)
そう固く決意し、なるべくいつもの風を装って目の前の引き戸を開いた。
「うむ、今帰ったぞ」
「お帰りなさいませ!」
玄関の前に座って待っていたココは、三つ指を立てて深々と笑顔で頭を下げ、帰ってきた主を出迎えた。
まったく変わらぬいつもの通りのココである。
「ココよ。出迎えてくれるのは嬉しいがいつも大げさすぎるぞ」
武左衛門がいつも通りの苦言を促す。
「いえいえ、ここは命の恩人に対する礼は欠きとうなくございます。」
促されたココは大きく首を横に振る。帰宅の挨拶をいつも通りにこなす。
そんな日常にひとまず胸を撫で下ろした武左衛門は、家に上がり、囲炉裏の前にどかりと腰を下ろした。そんな武左衛門を見て、ココが心底不思議そうな顔をして小首をかしげた。
「なんじゃ?」
「いえ、いつもの武左衛門様なら帰ってくるなり「風呂だ!風呂だ!」と騒ぎ立てるのに今日はしおらしいので」
普段どおりに振舞うことに早くも失敗した武左衛門は、動揺を気取られるのを恐れ、
「あぁ、そうじゃった。風呂に行かねばならん」
と誤魔化すように言った後、玄関前の着替えの入った風呂敷を手に取り、ココと共に風呂屋へと向かうことにした。
湯屋に行き、いつもの主人と顔を合わせる。
「これは武左衛門様!丁度今炊き上がったところです!」
「いつも、すまんの」
今日一日の精神的な疲れを癒すように肩まで浸かり、さっぱりして出てきた後、またもやココは心底不思議そうな、いや驚愕の表情を浮かべて武左衛門を見つめていた。
「なんじゃ?」
「いえ、そちらの着物は今し方脱いだものなのですが…」
「あぁ、そうじゃったか。うっかりしとったの。まぁ、いいじゃろ」
武左衛門がまた誤魔化すようにそう言うと、先ほどまで驚愕の表情を浮かべていたココの表情が目に見えてわかるほど見る見ると青ざめていった。
「大丈夫で御座いますか!体調が悪いので御座いますか!熱は?脈は?命は?死んでは駄目ですぞ武左衛門様!ココはこの若さで未亡人なんて御免ですぞ!」
そう言ったココは、泣き出しそうな顔で武左衛門の手首の辺りをぎゅっと握った。
「駄目だ!ココでは熱とか脈とか全然わかりませぬ!とりあえず医者を!医者を!」
今にも夜の通りに医者を呼びに駆け出しそうなココの右手を武左衛門は強く握った。
「何を馬鹿なこと言っとるか!俺はいつも通りじゃ!どこも悪くないわ!ちょっと主人までどこへ行くつもりじゃ!」
夜の通りへ駆け出していく主人を武左衛門は残った片手で掴み止めた。
「離してください!早く医者を呼ばねば!風呂に来たのに元気が無い武左衛門様を見て、どこか体調が悪いのはわかっていたんです!ですがこんなに酷かったとは…」
「主人までしっかりしてくれ!」
おろおろと取り乱す主人と、泣き出しながら「医者!医者!」とわめくココを押さえつけ武左衛門は深いため息を吐いた。
「やっとれんわ…」
慌てふためく二人に「大事にされては敵わん」と観念した武左衛門は、正直に「実は相当気に病んでいることがあって心が晴れない」といった趣旨の説明をし、この場をなんとか収めた。去り際に風呂屋の主人から「力になれることがあればなんでも言ってください」と送り出され、やたらとぶすりとしたココを引きつれ家へと戻った。
「酒だ!」
武左衛門は家の戸を開けるなり、こう声を上げ、部屋の隅においておる一途樽の蓋を開けた。この酒は以前ここらで有名な酒蔵でお礼にと貰ったものである。普段なら、こういうものはこの界隈の人間にまとめて振舞ってしまうのだが、この酒は訳有りで「武左衛門殿に飲んでもらうために作りました」と蔵元に念を押され貰った酒なので、義理立てて振舞うことが出来なかった酒である。
蓋を開けるなり、部屋中に独特の匂いが充満した。武左衛門はそれをひしゃくですくい、碗に並々と注いだ。それをココに「ほれ」と渡す。ココは何が始まったのかと戸惑いつつも、それをおずおずと受け取った。武左衛門は自分の分も碗に並々と注ぎ、
「飲むぞ!」
と一言ってそれを一口で飲み干した。ふーっと息を吐き顔が一気に真っ赤になる。
「どうした、俺の酒が飲めんのか?」
武左衛門は既にココにこのことを問おうと覚悟を決めていた。では何故酒を飲むのか?それは酔った勢いでという訳ではなく、彼は昔から男同士大事な話をするときは酒を飲み交わしながらと決めているからだ。
武左衛門に促されては断るわけにはいかないと、渋々といった様子でココは碗を口元に運び一口含んで飲み込んだ。胸が熱くなり、頭がくらりときた。それでも、
「酒とは意外と美味しいものでございますね」
ココは始めて飲んだ酒について、世辞抜きの素直な感想を漏らした。
「なんじゃ、その年で酒も飲んだことがなかったのか!」
齢十の頃から師匠に飲まされてきた武左衛門は「ありえん」と首を振り、空になった碗にひしゃくでもう一杯並々と注ぎ、また一気に飲み干した。
「して、ココは俺に何か聞きたいことはないか?」
武左衛門は唐突にココに自分への質問を求めた。これからココに質問する前に、もし彼が自分に何か聞きたいことがあれば答えておこうと思ったからだ。
「聞きたい事でございますか?」
ココは碗一杯の酒を舐めるように飲んでいたのを止め、急に舞い降りた彼のことを知る法外なチャンスに喰らいつく様に身を乗り出した。
「お…おう、なんでもよいぞ」
ココは大きな瞳をギラギラと輝かせ、はちきれんばかりの笑顔で
「武左衛門様の昔の話が聞き問う御座います!師匠と出会ってからの!」
彼の昔話をねだった。武左衛門が子供のように笑って懐かしんでいた、本当は自分が下手な質問をしなければ聞けていた筈の昔話をココは聞きたくて聞きたくてしょうがなかった。あと地雷を避けることだけは舞い上がった頭でも忘れなかった。
一方の武左衛門は、先ほどまでは少しぶすりとしていたココが突然嬉々として身を乗り出してきたとあって、内心は何を聞かれるのかと身構えていたがこれには少々拍子抜けした。
「そんな話でよいのか?」
「その話が聞きたいので御座います!」
ココのそんな力強い断言に武左衛門は気の抜けた顔で照れくさそうに笑った。
「期待に応えられるかわからんが…」
あれから一刻が経ち、ココはべろべろになっていた。途中までちびちび飲んでいたココだったが酔いが回って気が大きくなったのか、武左衛門の真似をして一気に煽ったのが不味かったらしい。お陰で今ではもうロレツも回らなくなっている。
「武左衛門ひゃま、もっろ、つづきを…」
視界を泳がせ、真っ赤な顔をして、頭を回しながらも昔話の続きを催促するココに対して、もう無理と判断した武左衛門はタオルを投入してやった。
「いや、今日はもう止めておこう。あまり飲むと明日に響くからの」
「いやれす!ココはもっろ、武左衛門ひゃまのころを知りらい!」
そう叫び、ココは武左衛門の膝元に倒れこむように突っ伏した。自分のことを知りたいと言われ、武左衛門も悪い気はしなかったがココはやはり目に見えて限界である。
「俺のことでよければいつでも何でも答えてやるから、今日はもう寝ろ」
武左衛門がココを納得させるためにそんなことを口走ると、ココは突っ伏した頭を持ち上げて彼を潤んだ瞳で見上げた。
「いつれもとは10年先れも?」
「10年先でもじゃ」
酔っ払いのたわごとと決め付けて、受け流すように武左衛門は答えた。
「やっらぁ、武左衛門ひゃまは10年先もココと居てくれるのれすれ」
ココは嬉しそうに目を細めた後、満開の笑顔で武左衛門の胸に力一杯抱きついた。そんなココの様子に流石の武左衛門も、
(そういう意味だったか)
と察した。しがみつくココを抱きかかえて、武左衛門は彼を布団へと運ぶ。その間に彼は実に彼らしい台詞でココの想いに応えた。
「お前がそれを望むならな」
そんな武左衛門の精一杯の返しに満面の笑みだったココは、それをころりとぶすりとした表情に変えて、下された布団の上で手足をバタバタとさせた。
「まっらく、武左衛門ひゃまはわかっれいるようれ、わかっれらい…」
わめいた後、ココは小さな寝息を立て始めた。どうやら寝落ちしたらしい。そんなココの頭を柔らかく撫で付けながら、武左衛門は結局聞けなかった質問を口にした。
「…ココ、お前は人を殺したことがあるのか?」
武左衛門が静かに問うた。
「ありませぬ。ろころか、人に怪我をさせらころもありませぬ」
静寂が返ってくると思っていた武左衛門の予想に反して、実は半落ち状態だったココは彼の不安を察して包み込むような柔らかな声でそれに答えた。
(そうか、殺しておらぬか。そうか…)
武左衛門は空になった碗ごと酒樽に突っ込んで一杯ぐいと飲み干した。
よろしければどのようなことでもいいのでご指導、ご感想いただけたら嬉しいことこの上ないです