03:といただせば、マボロシ
「 」
03:といただせば、マボロシ
「っ……………」
視界がぼやける。想い瞼をゆるりと開けば、視界に入るのは白。
静まり返った中に規則的に落ちる水音。
鼻をつく香りは、良い思い出の無い薬品の匂い。
(久しぶりだなぁ、この、感じ)
生きてきたこの25年間で、何回この部屋に入ったことか。最近は、めっぽう少なくなった為かなんとなく懐かしい気持ちが沸き起こる。
千尋は小さく息を吐いた。
この先の展開は解りきっている。ゆったりとした動作で上体を起こせば、センサーが反応し自動でナースコール信号が送られる。その後看護師を伴った御医者様が駆け足でくるのだ。
そして、決まってこう言う――「貴女は、まだ生きていますよ」って。
「………起きなきゃ、何も始まらない」
寝起きで鈍い思考回路をむりやり動かすように、二三度頭を振る。
何時も通り、上体を起こすために両手をベッドに付こうと手に力を入れた。
「え?」
右腕が、重い。そして、なんだかとても暖かい。
そろりそろりと、視線を自らの右手に向ける。指先に触れるのは、黒く艶やかな短髪。
「高瀬、くん?」
千尋の少し掠れた声が言葉を紡げば、腕の上につっぷしていた黒髪がぴくりと動いた。
「あの……高瀬君、ですよね?どうして」
確認するかのように問いただせば、ゆったりと顔を上げた真っ黒な瞳と目があう。
「……先生、起きるの遅すぎ。もう夜の7時なんだけど」
「え?よる?う、うそ!授業っ!」
夜という言葉に、色々な絶望が一瞬で脳内に駆け巡る。
「早く行かなきゃ」と勢いよく起き上り、急いでベッドから降りようとすればマットレスに足を取られる。ふわふわとした足元により、バランスを崩し掛布団ごと床に転落した。寝起きの体は予想以上に動きが悪いことをすっかり忘れていたのだ。
短い悲鳴とドスンという鈍い音が響き、雅也が声を上げた。
「先生!?大丈夫!?点滴の針はっ、」
布団の皮に包まれた千尋は、点滴が刺さった左手をふらふらと見せる。
「あははは、だ、大丈夫みたい」
「はぁ。大丈夫じゃねーよ……ったく」
雅也は真っ白な布団に包まった千尋をそのまま抱きあげた。急な視界の浮上に千尋はまたもや声を上げる。
「え、なに?高瀬君?」
「ベットに戻すから、じっとして」
仰ぎ見れば、いつも精鍛な顔立ちをした彼の眉間に皺が寄っているのが解った。心なしか少し顔も赤い気がする。もしかしたら、彼にとって苦痛を強いているのかもしれない。
「あ、重いよね。ごめんなさい」
「っちが、……重くねーよ。それより、腹は痛くないの」
「うん?お腹?痛くないですよ」
「………そ」
「ありがとう、高瀬君」
「っ………別に」
ベッドに押し込むように千尋を降ろし、雅也は咳払いをしながら窓の外を見つめる。真っ暗な夜空には星は見えない。遠くの管制塔の赤いランプがチカチカと点滅していた。
「先生は、さ」
「なんですか?」
「本当に、飛べないの?」
「………」
先程までの和やかな空気が一変、ピリッと張り詰める。再び訪れた静寂。
互いに視線が合わないまま会話が流れて行く。
「高瀬君は、私が飛べないって解って驚きましたよね」
「悪いけど、正直……減滅した」
「解っています。それが、普通の反応ですから」
淡々と答える千尋に対し、雅也は徐々に苛立ちが募ってゆくのが傍から解るほど眉を吊り上げる。
「っ、言われっぱなしでいいのかよ」
「事実ですし、私に言い返す余地もないのは重々承知しています」
「そんなんだから、生徒から下に見られんだよ!」
「仕方がないことです」
「それでも、教員試験パスしたんだったら」
「…………」
全てを諦めたかの様な千尋の態度に、雅也は冷たい視線を向けながら言葉を投げつけた。
「アンタ……教員、向いてないよ」
室内のハンガーにかけた制服のジャケットを手荒く取る。その反動でハンガーが床に落ちたがそれには一切目もくれない。雅也によって扉が大きな音を立て閉められる。遠くなる足音に千尋は薄く笑った。
「そうですね、自分でもそう思います」
静まり返った室内に小さな千尋の声が反響する。
何故、自分がこの場所で教鞭をとっているのか自分でももう解らなくなっていた。
「これで、本当に…いいのでしょうか」
じわりと滲む視界。ツンと痛くなる鼻先。微かに震える自らの指先を抑え込むかのように、力を込めて純白のシーツを硬く握りしめる。
「これで……ちゃんと、罪滅ぼしをできているのでしょうか」
絞り出した声が悲鳴をあげる。
「教えて……っ」
医者が看護師を伴い部屋に入ってくるまで、千尋は顔を上げなかった。
:::::
――やってしまった。
雅也は、額に手を当て夜空を見上げた。
「なに言ってんだよ、俺」
あんな事を言うつもりは無かったと言えば嘘になるかもしれない。しかし言い逃げのような形で、あんなに乱暴に言う予定は無かった。もっと問うように、彼女の真意を聞きたかっただけなのに。
「ガキかよ」
脳裏に焼き付いた彼女の姿が離れない。
ベッドに腰掛けるその背は、小さく儚い。何も見ないように、何も聞かないように、何も言わないようにしている、そんな姿に腹が立った。あと一分でも長くいたら、この手で彼女の胸ぐらを掴んでしまいそうだ。それぐらい、何故かむしゃくしゃしていた。
「って、なんで俺、先生の事でこんなに悩んで……」
自らの口からこぼれた言葉に、思わず口元に手を当てる。
(は、俺今何を?)
無意識に止まった足、キンと聞こえる飛行機の離陸音。風が吹きあがり、雅也の短髪を揺らす。
今まで恋をしたことがない、なんてそんな初心な事は言わない。比較的整った容姿と何でもこなしてしまう雅也を周囲の女子は放っておかなかったし、事実今までに彼女なんて指折り数えるほどいた。
「いや、いやいやいや………無い、だろ」
これは恋だとか愛だとかそんなものじゃない。自分の担当教員を気にしない生徒はいないだろう。ましてやあんなに取り乱した姿を目の前で見たのだ。そう、これは知人へ向けるような―――。
「何が無いんだ、高瀬?」
「っ、長谷教官」
突如雅也の思考に割って入ってきたテノールの凛とした声。振り返れば、やや疲れた表情を見せた長谷の姿があった。
「いえ、大丈夫です。無事のご帰還、大変嬉しく思います」
「ありがとう。……多少の犠牲はあったがな」
お互い敬礼を取り、目を合わせる。
「犠牲、ですか」
「あぁ、訓練機が1機、墜落した。彼らの弔いは来週の大戦記念日に共に行う。明日にでも、学園に掲示があるだろう」
「っ、それは何号機に搭乗していた者ですか」
まさか、と背に脂汗が滲み心臓が鼓動を早める。友人の貴志は、何号機だったか。一組目の後半番号だったはずだ。
「先頭09号機の松下と池永候補生だ。残念だった」
少し目線を落としながら話す長谷の口からでた名前に、無意識に雅也は安堵の息を小さく吐いた。
「……そう、ですか」
「木田は先ほどメディカルチェックを終了していたようだ。恐らく、寄宿舎に戻っている頃だろう」
「ありがとうございます」
「そうだ……小原の事、急に高瀬に頼んで悪かったな」
「え、いえ……」
「あれから、小原は大丈夫だったか?」
その言葉に、一瞬静寂が訪れる。
「先ほど、お目覚めになられました」
「そうか。……また、長く眠りについていたか。そろそろ、高瀬も寄宿舎に戻ったほうが良い。明日も通常通り授業はあるからな」
「はい。あの長谷教官」
「なんだ?」
真剣な雅也の視線に、長谷は僅かに目を見開いた。
「小原先生を昔から知っていらっしゃるんですか?」
「あぁ、そのことか」
オレンジ色の瞳が面白いものを見つけたと言わんばかりに、ゆるく細められる。そして、雅也の肩をぽんと叩く。
「俺の航空大時代の可愛い後輩、だ」
そう言い残し、長谷は病棟のある方向へ去って行った。
再び飛行機の離陸音が響き渡る。
巻き起こる風に押されるように、雅也も寄宿舎へ歩みを進める。
「あ―――、ダッセぇっ」
普段はこんなんじゃない。こんなに格好が悪い自分は、何時振りか。母に連れられて初めてキッズモデルの現場に行った時以来か。
空を見上げれば、飛行機のアウターランプの光が遠ざかっていった。