第四十九話 御曹司、真実に近づく
それはどういう意味なのか、とたずねても、一朗は教えてくれなかった。あまり物事を秘密にする主義の人間ではないだけに、こうしたことは珍しい。
ひとまず、所長は彼を、人工知能開発セクションに案内することにした。自立思考botであるHARO9000は、合計で3台が稼働中。その膨大なブログラムを動かすためには、やはり高性能の量子コンピューターが必要である。これではメイドロボに搭載することなど夢のまた夢だ。廊下を歩きながらその話をする。
「量子コンピューターがもっと小さくならない限りはな。日本の技術力に期待だ」
「別に日本じゃなくても良いと思うんだけど。いくら僕がいるとは言え」
後半部は、本気で言ってんのかとつっこみたくなるような寝言ではある。
「日本では初等教育のカリキュラムに量子物理学を組み込んでいるんじゃないのか? ジュニアハイスクールに入る頃にはほとんどの子供が〝シュレディンガーの猫〟の話を知っていると聞いたぞ」
実は大抵の読者諸兄もご存知であろう〝シュレディンガーの猫〟は、量子もつれに関する仮説を皮肉ったものであるが、現在ではどちらかというと、量子もつれをわかりやすく解説した例え話として用いられることも多い。
量子コンピューターや量子通信技術に用いられる〝量子情報〟とは、要するにガシャポンのカプセルである。開けて見るまで何が入っているのかわからない。その、わからないものをこちらで操作するのが、大雑把に言えば量子技術なのだ。現在はまだ発展途上であり、量子情報は破損しやすいという欠点を解消できていない。一郎は、これをシスル本社がサーバーの強制遮断に踏み切れない要因のひとつと解釈していたが、まぁこのあたりは所長にも伝えていない部分の話になる。高速・大容量通信の代償として不安定性が増したのが量子通信であり、重要な情報を取り扱う一部の組織内ネットワークでは、いまだに光通信技術が用いられている。
「シュレディンガーの猫はサブカルチャーで多く取り上げられているだけだよ。使用人が言ってた」
「そうか……。俺もまだまだ不勉強だな。天才児がたくさん生まれてるっていうのも、あれも嘘か?」
「転生が流行ってるって言ってたからそれじゃないの」
「リインカーネーションは教義として信じないことにしている」
一朗『カトリックだっけ』とたずねると、『週末には教会にも行くが、俺が信奉しているのは空飛ぶスパゲッティ・モンスターだけだ』と言った。だが、本心はニャルラトホテプであろうと一朗は見ている。桜子が視聴していたアニメのキャラクターが、白衣の下にプリントされていたからだ。
「誰がそんなこと言ったんだ」
「使用人だけど」
「一郎のところの使用人は何者なんだ」
「ただのゲーマーだよ。美人だし仕事もできるけどね」
「おい一朗、それはメイド=サンか? 許さんぞ一朗」
一朗はそれ以上は『ナンセンス』と言ってすべての追求をひらりひらりとかわしてしまった。
ともあれ、2人はしばらくして目的のセクションにたどり着く。先ほど所長が話していた量子コンピューターが3台。一朗には見覚えがある、わけではないが、シスル本社で見かけた十賢者を彷彿とさせる。あれも、プログラムの動作にスパコンが必要なわけだから、当然ではあるか。
「このbotを開発したのはMITの卒業生だ。同期の、ほら、なんだっけ。10年くらい前に、マサチューセッツ工科大を卒業したおまえ顔負けの天才児がいただろう」
「野々あざみ」
「そう、それ。その野々が開発した人工知能のアーキテクチャを利用しているらしい」
となると、この自立思考botは、十賢者の兄弟か、従兄弟ということになる。アルゴリズムにも似通ったところがあるのだろう。一朗は、自身の立てた犯人への仮説を、もう一度脳内で検証した。やはり彼女か。自分が彼女をおかしくしてしまったのであれば、彼女にもまた、同じアルゴリズムを持った自立思考botを惑わせることも不可能ではないはずだ。やっていることはナンセンスではある。だが、
「一朗、難しい顔をしているな」
「専門家としての君に聞くんだけど」
「珍しいな。なんだ」
一朗は、しばし思案した後に、このような質問をした。
「機械が人間に嘘をつくことは、あると思うかい」
「そうプログラムされているなら、あるんじゃないか」
「じゃあ、自己成長するプログラムが、開発者の設計意図を越えて行動することは?」
「まるでSFだな」
所長は、実にアメリカ人らしい仕草で肩を竦めて見せた。
「そういうプログラムが作れたらなぁ、とは思っている」
「なるほどね。まぁ、ひとまず知りたいことはだいたいわかったんだけど、このbotをいじりたい場合、責任者を待った方が良いかい」
「そりゃあな。いま呼び出しをかけているところだ」
「結構。じゃあ待たせてもらおうかな」
パチローの追撃をかい潜り、3人は渓谷に辿り着いた。
途中出現したMOBはティラミスが高レベルの攻撃アーツで叩き伏せ、追いすがろうとするパチローの魔法攻撃はユーリが弾き飛ばす。一瞬の隙をつきパチローが急接近する前に、岩陰からの隠し通路に逃げ込んで、反対側へと離脱する。〝死の山脈〟は、まるで迷路のような構造になっていた。苫小牧の用意してくれたマップのみを頼りに、なんとかここまで辿り着いたのである。
パチローの執念は、実際大したものであった。こちらが何度姿を眩ませようと、確実に発見し追い詰めようとしてくる。危うい場面は一度や二度ではなかったはずだが、ようやく終わりが見えてきた。ここで安堵をするでもなく、渓谷の中央を目掛けてスパートを切る。
「危ないっ!」
「きゃっ」
背中を突き飛ばされ、アイリスは転倒した。直後に、轟音と衝撃が傍を掠める。魔法エフェクトの着弾。砂塵と瓦礫が舞った。見やれば、自分の代わりにダメージを受けたのか、格闘着姿のプレイヤーがアバターが、言葉なく地面に転がっている。
「ユーリ!」
その姿が消えていないところを見るに、HPが尽きたわけではなさそうだ。が、こちらが足を止めた一瞬を突くように、パチローが目の前に立ち塞がった。アイリスは歯噛みする。ここまで来て。ニヤケ笑いを浮かべるパチローと、自分自身の間に、ティラミスがセレスティアルソードを構えて割り込んでくる。
だが、緊迫した状況にまず一撃を加えたのは、パチローでもティラミスでもユーリでも、もちろんアイリスでもない。
「きェェェアァァァァァァッ!」
いきなり怪鳥のごとき甲高い声が響いて、何事かと思う。水を流したように美しい髪を振り乱して、苫小牧がパチローに殴りかかっていた。《バーストペネトレイション》。防御修正と軽減、無効化効果を完全に無視して、純粋にダメージのみを叩き込む格闘家の秘奥技が炸裂する。勇ましくも荒々しいその奇態は、彼のメインクラスである哲人とは、もっとも遠い位置にあるような気がした。あるいはこれこそが、哲学の行き着く最後の極地なのであろうか。
果たして秘奥は成る。放たれた一打には《スマッシュヒット》が練りこまれ、パチローの身体を軽々と吹き飛ばした。ぽかんと口を開けるアイリスのもとにもう一人、ネコ耳の獣人が軽やかな着地を見せる。
「よくがんばったねー」
あめしょーはにこにこと笑みを浮かべて言った。ゴルゴンゾーラも遅れてたどり着き、ティラミスもようやく安堵を浮かべる。苫小牧は、ズレた眼鏡を直しながら、倒れたユーリに肩を貸した。
「ひとまず中心部へ」
その言葉に一同は頷く。苫小牧の言う渓谷の中央、もっとも開けた場所に向けて、アイリスとティラミスが走り出す。続いて苫小牧とユーリ。あめしょーがパチローの動きを牽制し、ゴルゴンゾーラが《アンチマジックフィールド》を展開しながら殿を務める。
当然、放置するパチローではない。渓谷の壁面に埋め込まれた彼は即座に抜け出して魔法を放つが、ゴルゴンゾーラの結界が魔法ダメージを著しく減衰させた。最後尾のあめしょーのもとにたどり着く頃には、炎の勢いはロウソクのそれよりも衰え、彼女の装備するやけに高性能な防具(本人曰く貰い物)を貫通しきれず虚しく消える。
パチローはそのまま翼を広げ、連なるようにして移動する6人を急襲した。
「今です!」
苫小牧が叫ぶ。
同時にゴルゴンゾーラが《キャンセルエンチャント》で結界の持続効果を解除、上空から雨あられの如く矢と魔法が降り注いだ。それを見上げるパチローの表情に驚愕はない。わずかに怒りを思わせる無表情が続き、いかなる心境からか致命的な隙を生む硬直を見せた。
パチローただ一人を狙って放たれ続ける射撃攻撃と魔法攻撃。そのいずれもが彼にダメージを与えられない。何かを弾くようなあえないエフェクトと、浮かび上がる0の数値。パチローは襲いかかる矢の数々を素手ではたき落とさんとしたが、如何せん数が多すぎる。絶え間無く猛烈に襲いかかる矢と魔法は、容赦なくバリアフェザーと相討って、彼のインベントリにおびただしい隙間を築き上げて行った。
果たして焦燥か苛立ちか。パチローは翼を広げて飛び上がった。驚異的な解析能力と判断能力で、わずかに生じたダメージ判定の合間を縫い、飛ぶ。渓谷の壁面、何人かのプレイヤーが隠れていた足場に身体ごとぶつかって行く。
「うっ、うわっ!」
「こっちに来たぞ!」
狭い足場に粉塵を巻き上げて、パチローは着弾した。ゆらりと立ち上がる姿を、彼らは見る。
わずかな驚きとたじろぎが見えたものの、彼らにとってこれは覚悟の上に参戦であった。パチローが静かな怒りを湛えたまま歩み寄る最中にも、攻撃の手を緩めない。パチローはダメージを無効化し続けながら、プレイヤーを殴り、あるいは魔法を叩き込み、その体力を削り取った後に、一切の慈悲を見せず谷底へと放り投げる。
「うわああああああっ!」
「ひええぇぇぇっ!」
「あめしょー結婚してくれえええ!」
高所落下ダメージはアバターが地面に激突すると同時に適用され、彼らの身体はガラス細工のように砕けて散って行った。10人に1人の割合で熱烈な愛情を表現して消滅するプレイヤーがいたが、あめしょーは何も言わずに彼らの冥福を祈り続けた。アイリスとユーリは冷ややかな目でそれを見ていた。
一方的な虐殺は絶え間無く続き、その足場にいたプレイヤーが全滅するまでは数分もかからない。パチローが再び足場から飛び立つと、それを射線に収めた射撃部隊が、再び雨のような集中砲火にさらした。
「こ、これ、本当に効果あるのよねぇ……?」
あれだけの攻撃を受けて起きながら、パチローへの通過ダメージはゼロである。唯一パチローのHPを削ったのは、苫小牧の放った《バーストペネトレイション》のみ。手応えのようなものはまるで感じられない。
「心配ありませんよ。彼もしょせんはプレイヤーキャラクターです」
苫小牧が理知的な微笑みで答えた。
どれほどの時間が過ぎ、プレイヤーが散り、そしてあめしょーが求愛をスルーし続けたであろうか。ついにその時はやってくる。
「うおおおお!」
その足場で最後に残っていたエルフの猟兵は、幾度となく弓に矢をつがえ、放ち、パチローの頭上にゼロという数値を叩き出していた。目の前で一人、また一人とプレイヤーがHPを散らして行く。ついに最後は彼の番だ。
パチローはもはや《ウェポンガード》の使用すら煩わしそうに、拳を握り、最後の彼へと歩み寄る。軽めのパンチであろうとも、防具の薄い彼にはほとんど致命傷に近い。壁面に叩きつけられ、ぐったりしたところに、パチローはその首を掴んで持ち上げる。
「あっ……がぁっ……!」
そのエルフは最後まで抵抗を諦めない。腰からダガーを抜いて、何度となくパチローの腕を切りつける。0、またしても0、さらに0。しかし、次の瞬間、それまでとは明らかに違う赤いエフェクトが走り、パチローの頭上には〝1〟という数字が弾き出された。
「やったぞ!!」
声をあげるのも苦しいであろう状況で、男は快哉を叫ぶ。パチローの怒気が膨れ上がった。
「ーーね!!」
口汚い禁止用語を言い放ち、パチローは男を遥か谷底へと投げつける。その猟兵は、落下ダメージに最後のHPを散らすその瞬間まで、会心の笑顔を絶やさなかった。
「俺の勝ちだ! あめしょー、結婚してくれ!」
「むり」
おそらく返事が届く前に、彼のアバターは砕け散っただろう。それが彼にとって幸せなことであったかどうかは、推して知ることしかできない。
攻撃に参加していたプレイヤーの数はすでに半分以下、150人前後まで数を減らしていた。彼らは一様に歓声を上げ、あるいはあめしょーへの求愛の機会を逃したことを悔しがっていた。ドラマチックな状況下でなければ告白もできないような連中なのである。
パチローは、まんまと術中にはまったと気づいたか、あるいは、すでに途中から気づいていたか。翼を広げ、渓谷の底へとゆっくり降下していく。あめしょー、苫小牧、ゴルゴンゾーラ、そして存外に損傷の少ないティラミスも混じり、決戦部隊が前に出る。
「見事ですね」
口だけでは理性的に、パチローは言った。
「アイリス、あなたの目的はこれでしたか。私の間違いを正そうとする理性的な部分が仇になったようですね」
「あんた、この後に及んでまだ自分が怒ってないとか言うつもりなの?」
言ってから、もう挑発する必要はないのだと思い直すが、ティラミス達は無言でゴーサインを出している。
「キングキリヒトも言ってたけど、あんた、幼稚なのよ。誰が動かしてるのか知らないけどさ」
「ナンセンス。私は多くの知識と、冷静かつ的確な判断力を有しています。ツワブキ・イチローにも引けを取りません」
「そういうとこが幼稚だっつってんの」
一度言わせてしまえば、もう止まらなくなる。才能があると言えば確かにそうなのかもしれない。アイリスは少しだけ嫌気がさすのを感じながら、それでも無遠慮にまくしたてることを決めた。
「あんたは、その、冷静かつ的確な判断力をひけらかしたいだけなんでしょ。それすらもできてないんだけどさ。自分が、誰かに認められていないのが、我慢できないんだ? まぁネトゲユーザーの心理よね。だからあんたはパチローなのよ」
パチローがアイリスに向けて、無言で《スパイラルブレイズ》を放つ。ユーリが黙って前に出ようとしたが、この時ばかりは、アイリスも意地を張る。《アルケミカルサークル》と《アンチマジックコーティング》の併用で、自身の防具の魔法耐性を瞬間的に跳ねあげる。パチローの攻撃魔法を殺し切るにはまったく足りていないが、一撃くらいなら耐えきれる。
「ほらね、こういうところがカッコ悪いのよね」
HPを半分以下まで削りながらも憎まれ口を叩くアイリスに、周囲は『言うなぁ』だのなんだの、好き勝手な感想を述べていた。パチローが無言のまま、魔法攻撃による更なる追撃を加えようとする。が、瞬間、その両腕に赤い血飛沫のエフェクトが入り、発動は強制的に中断させられた。
ざわめきが広がる。なんだ、と一同が周囲に視線を巡らせると、複数の影がアクロバティックな動きをしながら飛び退く様が見える。今のが《ハイディング》を併用した奇襲攻撃だと悟る頃には、彼らは周囲に規則正しく整列していた。鎖帷子に般若面をつけた謎の集団である。
「な、なにっ!」
なぜか驚きを見せたのはゴルゴンゾーラであった。
「双頭の白蛇の忍者部隊だと! 実在していたのか!」
「今更驚かれてもテンポが悪いんですがね」
そこに、ハイドコートを羽織ったエルフの斥候マツナガが、ようやく姿を見せる。それまでアイリスに向けられていた注目は、今度は一様に彼が浴びることとなった。そもそもアイリスは悪目立ちするのは好きでないので一向に構わないのだが、何かにつけて上手に視線をさらって行くマツナガのやり方にちょっとだけ釈然としないものを感じる。
パチローは、憮然とした態度を崩さないままに、やはり一同と同じく注目をマツナガへと移した。命拾いしたか、どうかはともかくとして、一時的に彼のヘイトがアイリスから逸れる。ユーリは『ハラハラしちゃったよ』と言った。ごめんね。
「あー、ここは礼儀に沿いましょうかね。どうも、パチローさん。マツナガです」
「マツナガ、それは私の名前ではありません」
「そう? でもツワブキさんって呼ぶのもなんか違うしねぇ。パチローさんで通させてもらいますよ」
90度きっかり頭を下げた後、マツナガはそんなことを言う。彼も挑発しているわけではないだろうが、やはり癪に障る言い方をするな、とアイリスは思った。見習わないようにしよう。
「ねーマツナガ、キルシュは?」
「まぁ待ちなさいよ。順番に話しますって」
外野のアイリスの言葉を、マツナガは抑える。
「パチローさん。あんたの目的について、まぁ聞こうとも思いませんけどね。あんたのやってることはそれなりにルール違反ですよ。それに関しての自覚はある?」
「ナンセンス。ルールは私が決めます」
それは、イチローが話をはぐらかす時の定型句であるように聞こえたが、同時にどこかが本質的にことなっているようにも聞こえる。その違いまでは、アイリスにはわからない。
「あー、これはちょっと悪い方向にこじらせてますねぇ」
マツナガはへらへらとした薄笑いを絶やさずに頬を掻いた。
「まぁ良いでしょう。あんたと戦いたいって人がいるんだ。どうですかね」
「ナンセンス。私は誰の挑戦でも受けます」
でも、キングからは逃げたじゃない。などと言うと、絶対に話がややこしくなるのでやめておいた。
しかし、話が妙な方向へ行きつつある気がする。マツナガの言う人物とは、現在秘密の特訓中であったはずのキルシュヴァッサーのことであろうか。しかし、この言い方だと彼一人でパチローと戦うかのような話である。如何に特訓をしたといっても、今まで中堅プレイヤーだったキルシュヴァッサーにパチローとのタイマンを任せて良いものか? この場にいるプレイヤー全員で一斉に殴りかかったほうが確実ではないか?
タコ殴り上等という発想がまるで山賊であるが、アイリスの考え自体は間違っていない。マツナガはこの状況でなおエンターテイメント性を重視している。ゲームだから、という、お得意のタテマエを使ってだ。
「マツナガさん、いくらなんでもそれは……」
ティラミスやゴルゴンゾーラも、アイリスと同じ意見であったらしい。まずは抗議する。
「まぁまぁ心配なさらないで。こういうのは手順が大事ですしね。楽しまなきゃ損ですよ。ほら、来ましたよ」
遥か後方より、リズミカルな蹄の音が響いてくる。キルシュヴァッサーの愛馬、ミドリオウカオーであろう。
アイリスは、その音を聞きながら、あの人の良さそうな銀髪の騎士のことを考えた。実年齢は見た目よりも若そうだが、何よりも見たまんま紳士的なプレイヤーである。同じゲームをプレイするものとして、アイリスは密かにキルシュヴァッサーのことを尊敬していた。彼もPvPに否定的な立場ではないが、主のアバターに対して全力で戦い、倒そうとするなどというのは、実力差を差し引いても考えにくい。仮に特訓を重ねたものだとしても、結局は彼の優しさが足を引っ張ることにはならないだろうか。
そう思って振り返り、アイリスは自分の考えをすべて取り下げた。
騎士のカラーは大きく変貌していた。おそらく、防具を新調したのだろうということはわかる。さもありなん。レベルが上がれば装備重量の上限が更に上がり、より上質なものを揃えられる。愛馬と同じ漆黒の鎧は、わずかに差し込む陽の光すらも妖しく照り返し、見た者の魂を引き込む魔性の輝きを放っていた。戦を前に引き締まった、と表現するにはあまりにも険しい表情は、果たして本当にあのキルシュヴァッサーと同一人物であるのか。実は彼もまたアカウントハックの被害に遭っているのではないか。澄んだ青色ではずだった双眸は今や血よりも紅い不気味な光に尾を引かせ、一直線にこちらへ迫る様は、ペイルライダーじみた印象を与える。
「俺も恐ろしい魔物を育ててしまったものです」
マツナガはしみじみと頷いた。確かに恐ろしいが、なぜ目のカラーリングまで変わるのだ。
彼はたどり着いた。心なしか、数倍に膨れ上がったようにすら感じるミドリオウカオーから下馬し、キルシュヴァッサーは大地を踏みしめる。その姿は、ほんの一週間前に見たばかりの妖魔ゾンビよりも、数倍も禍々しいエフェクトを放っていた。
「き、キルシュさん……」
「アイリス」
こちらに視線を向けなかったが、キルシュヴァッサーは応じた。
「大丈夫です。私は、勝ちますよ。フフフ……カネの力でね……」
キルシュヴァッサーらしからぬ発言に、アイリスは戦慄を隠せない。その向こう側では、すでに騎士団の二人が解説モードに突入していた。
「卿、まさか、カネの力に呑み込まれている……!?」
「散財の波動に目覚めたキルシュヴァッサーということか……」
何なのよそれは。
この、本気とも冗談ともつかないような空気がはびこる空間において、唯一真剣と言い切れるのは、やはりパチローであった。キルシュヴァッサーの明確な変化に、果たして気づいているだろうか。怒気をにじませた無表情から、再びニヤケ笑いへと変化して、黒騎士とは極めて近い距離で相対する。
「キルシュヴァッサー、あなたに対して、多少の不義理を働いているという自覚はあります」
「ほう?」
その発言を意外と感じたのは、アイリスだけではないらしい。キルシュヴァッサーも首をかしげた。
「では、イチロー様のアカウントを返していただけると?」
「それはナンセンスです」
パチローはニヤケ笑いを絶やさずに言う。
「一撃、あなたの攻撃を無防備で受けます。それで不義理を返上とし、あなたの挑戦を受けます」
「なるほど、ハンデということですかな」
「そう受け取っていただいても構いません」
最初の一撃はあえて受ける。まるでアニメか漫画の展開だと、アイリスは思った。あまりそうしたものに詳しくない彼女でも、少年マンガの王道展開くらいは理解できる。散財の波動に目覚めたキルシュヴァッサーがどれほどの実力を持つかはわからないが、確かに、ハンデとしてはアリだろう。ここまで堂々とした態度をパチローが取るとは予想外だった。あるいは、アイリスの挑発が、見えないところで効いているのかもしれない。格下の相手に対して、極力フェアなところを見せようということか。
特訓を重ねたキルシュヴァッサーである。おそらくここで最高威力の一撃を叩き出すに違いない、と一同は思った。無防備に立ち尽くすパチローは、その目すらも閉じていた。キルシュヴァッサーの動きを知る術はない。だから、まさか目の前の黒騎士が、武器すら構えずにガントレットごと拳を握りしめていることにも、気づきはしない。どよめきが広がった。
「そうですか、では」
それは渾身の腹パンであった。戦士の攻撃アーツのひとつに《ガントレットブロウ》という緊急攻撃手段がある。武器を失くした時、ガントレットで相手を殴りつけてダメージを与えるアーツだ。そこに《スマッシュヒット》と《パワーゲイン》そして、成長ポイントを極限まで注ぎ込んだ筋力ステータスをが合わさればどうなるか。
発生したダメージ自体は、大したものではなかった。
だが、見るものが見れば、それはかつてツワブキ・イチローがエドワードを殴り飛ばしたときの再来であっただろう。キルシュヴァッサーの拳はパチローのみぞおちへとめり込んで、愚かにも無防備で立ち尽くしていた彼の身体を、軽々と吹き飛ばす。直後には、パチローは渓谷の壁に深々とめり込むハメになっていた。一定以上の速度で壁に叩きつけられた場合、高所落下ダメージが発生するという噂があったが、どうやらアレはデマらしい。
「では、これでチャラですな。パチロー様?」
言うや否や、キルシュヴァッサーは片手にシールドを構え、もう片方の手でメニュー画面を操作する。コンフィグから課金画面の呼び出し、動作に一切の澱みはなく、まるで精密機械のようですらあった。直後、キルシュヴァッサーの手に1振りの直剣が呼び出される。
「あれは……!」
「課金剣!?」
ギャラリーの間に戦慄が走った。課金剣アロンダイト。このタイミングでそのような武器を呼び出す目的など、ただひとつしか考えられない。キルシュヴァッサーは本気だ。本気でカネの力でパチローを叩きのめすつもりであるのだ。
アイリスは叫んだ。
「キルシュさん、ダメ! それは悪しき力よ! 呑み込まれないで!」
「アイリスさん、カネの力はニュートラルですよ。使う人間が善人か悪人かってだけです」
「マツナガさんちょっと黙ってて!」
だが、キルシュヴァッサーは怪しく笑うだけだった。何かに取り憑かれたかのように目を見開き、幽鬼じみた、しかしそれでいてしっかりした足取りで、壁から抜け出そうとするパチローに向けて歩みを進める。
「アイリス、ご心配なく。私だって庶民です。謙虚、堅実をモットーに生きておりますよ」
なんかダメくさいな、とアイリスは思った。
8/24
誤字を修正
× 科学
○ 空飛ぶスパゲッティ・モンスター
8/26
表現ミスを修正
× レベルが上がれば装備の重量制限も上がり
○ レベルが上がれば装備重量の上限が更に上がり
9/2
誤字を修正
× 合っている
○ 遭っている
× パチローを取るとは
○ パチローが取るとは




