第三十九話 御曹司、アカウントハックされる
異変に気づいたのは、ある夏の日の午後。具体的には8月3日。アニバーサリィ記念のセレモニーを、一週間の射程に捉えた、ちょうどその日の出来事である。
この時期になると、石蕗邸にはモノが増える。中元だ。いらないといっても律儀に送りつけてくる政治家やら企業の社長やら。実家が関西なので7月ではなく8月に送って欲しいなどと冗談のつもりで言うと、本当に8月に送ってくるようになったのだ。もう訂正するつもりにもなれない。せめて生ものはダメにしてしまうので控えてほしいという旨を通達してからは、高級そうなゼリーやジュース、時にはワインなどが放っておいても納品されてくる。すべてを消費するには半年ほどかかるし、半年たったころには歳暮が届くので、だいたい石蕗邸ではこうした類のものを欠かしたことがない。
もちろん、中元の仕分けは使用人である桜子の仕事であるが、気まぐれを見せれば一朗も手伝う。今日はそんな日であった。
なお、このエピソード自体は前述の〝異変〟とは直接関係ないが、我らが御曹司の夏の風物詩として挿入しておく。
「おや、マツナガからだ」
「えっ?」
送り主の名前を確かめながら、イチローがぽつりと言った。桜子が振り返って覗き込むと、確かに見知らぬ住所から届けられていた。名前欄のところに、わざわざ〝双頭の白蛇リーダー〟などという文句を付記しているのだから間違いないだろう。
「僕の正体は少し調べればわかるし、住所も秘密にしてるわけじゃないからね。律儀な男だなぁ」
「松永久秀って、これ本名ですか?」
「どうだろう。中身は茶釜かな……おや、ハムだ」
「茶釜だったら爆発を警戒しなきゃいけないところでしたね」
大して高級な贈り物ではないのだが、気分は悪くない。添えられた手紙には、先日のひと騒動に関して、『非常に世話になった』と綴られていた。嫌味の類ではなさそうだ。実際、キングとの一騎打ち以来、マツナガのブログはアクセス数を更に伸ばしていたし、記事を作る上でマツナガは一朗のことを悪者にしている向きもある。一朗自身そこは織り込み済みであったので気にもしていないが、そこを含めての『お礼』であろう。
「桜子さん、これ、晩御飯にしてよ」
「かしこまりました。何にします?」
「ん、ピカタが良いかな」
桜子は、マツナガから届けられたハムを丁重に運んだ。一朗はスマートフォンに、マツナガの住所を入力しておく。お返しくらいはするべきだろう。ハムの値段は3000円程度か。より高価なものを送り返すのも失礼にあたるので、ネットで適当な物品をあとで探すことにする。
他にとりたてて目ぼしいものはないかな。親戚筋からの中元は、普通に7月に届くのでこの中に混じってはいない。まだまだ元気な九州の曽祖父からのものや、こっそり又従妹の恋愛相談が同封された名古屋の従叔父一家からのものは微笑ましく受け取るが、やはり毎回辟易とするのは実父である石蕗明朗からの中元・歳暮だ。同封される手紙には、グループ傘下の企業がこれこれこういう事業にトライすると綴られ、そろそろ親の仕事を手伝う気はないか、と締められる。のしには『ナンセンス』と書いてお返しを送るのが年に2回の恒例行事だ。
まぁ、気が向いたら親の仕事を手伝うくらい悪くないかな、とは思っている。財閥解体後に力を失った石蕗の会社を現在の形にのし上げたのは父・明朗だ。そこは素直に尊敬する。父の要求する仕事など片手間でこなせるだろうと考えれば、今の生活スタイルが大きく崩れるとも思えないし、手伝うことが孝行であると言えばまぁそうなのだろう。ただし、今のところ『気が向く』気配は、無い。
「結局、一朗さまは〝ツワブキコンツェルンの御曹司〟っていう肩書きが不満なだけなんじゃないですか?」
「いきなり心の中を読んでくるなぁ。別にそれが僕個人の固有名詞として扱われるなら良いんだけどね。アイリスみたいにさ。桜子さん、残りのお中元もしまっておいて」
ひょっこりと顔を出した後、読心術を披露してから言われた通りに贈り物を片付けるまで一切の澱みがない。扇桜子。有能である。
「お父様だって、一朗さまに後継になって欲しくてハーバード大に送り出したんでしょうに」
「英才教育は母さんの方針だったよ。父さんは普通の小学校に行かせたがってた。まぁ、家庭教師くらいつけるつもりだったらしいけど」
中元に同封されていたお偉方の手紙だが、ひとまずまとめて書斎にしまうこととする。住所録ならできているし、毎回同じような文句なので捨てたところで支障はないのだが、せっかく美味しい贈り物をもらっているのだ。次の歳暮が送られてくるまでの半年間くらいはきっちり保存しておくのだ。
「あー、でも、日本の学校行きたかったなって思うことひとつだけあるよ」
「なんです?」
「学校給食」
「あー」
何しろ小学校に上がる年齢で渡米したので、みんなで机を寄せ合い給食を囲った経験がないのだ。
「転生してみたらどうでしょう。最近流行ってるらしいですよ」
「やり方がわからないしなぁ」
「ひとこと、『無念!』と叫べば良いんです」
そこで元ネタをぴたりと言い当てられるほど、一朗も日本の近代娯楽小説には明るくない。
手紙を段ボールに入れて書斎へ運び、去年の暮れに届いた手紙の多くを処分する。量があるので結構な労働になるが、地道にシュレッダーにかけてはゴミ袋に突っ込むという地道な作業を、桜子と二人で着々とこなした。
作業をしばらく続けた頃、時計は3時を回っていた。
「時間かかっちゃったなぁ。桜子さん、そろそろナロファンやる?」
「おっ、そうですねぇ。ログインしちゃいましょうか。アイリスが良いって言ったら、またデルヴェに行くのも良さそうですねぇ」
グランドクエストが終了したことで、先日小規模なアップデートが行われた。瘴気の晴れたデルヴェ亡魔領に、本国からの入植者と開拓団のメスが入り、〝武闘都市デルヴェ〟として生まれ変わったのである。〝亡却のカタコンベ〟を始めとした地下遺跡がまだ数多く残っていたり、都市内でのプレイヤー間戦闘が禁止されていない(ただし、敗北してもデスペナは発生しない)など、トッププレイヤー層向けの設備やシステムが充実した街となっている。
先日、親交を深めたばかりの赤き斜陽の騎士団や双頭の白蛇も本拠のギルドハウスをこちらに移し、新たに開放されたフィールドへと果敢に繰り出しているらしい。相変わらず本攻略には大した興味を抱かない桜子ではあるが、デルヴェが開拓された都市の中では最大規模ということもあって、一度〝観光〟してみたいとは思っていた。
一朗が『じゃあ、それで』と頷いて、二人は別室に移動した。ハッチを開いてコクーンのドライブシートに座り込む。
「じゃあ一朗さま、またあとでー」
桜子が笑顔でひらひらと手を振っていた。
レバーを下ろしてハッチを閉じる。リクライニング式ドライブシートのすわり心地にももう慣れた。ヘッドマウントギアが頭部をつつみ、顎を抑える形でがっちりとロックがかかる。意識が徐々に仮想世界へと浸透していき、浮かび上がったアイコンから『ナローファンタジー・オンライン プレミアムパック』を選択した。
さて、一朗が異変に気づくのはここからだ。
ポニー・エンタテイメント社、そしてシスル・コーポレーションのロゴが表示された後、『ナローファンタジー・オンラインへようこそ!』という、NPCアザミの元気な声が響く。ユーザーIDとパスワードを入力すれば、ログインは完了だ。16文字のパスワードを入力するまで、一朗の動作は実に澄んだものであったのだが、
『パスワードが間違っており、ユーザーIDを認証できません』
おや。
石蕗一朗にあっては、機械媒体において入力ミスをするなど生まれて初めての経験である。珍しいこともあるものだ、と思い、再度パスワードを入力する、
『パスワードが間違っており、ユーザーIDを認証できません』
ふむ。
こうなると一朗の判断は早い。2度もパスワードの入力を誤ることなど、いかなる可能性を勘案してもまずありえないことだ。となると、パスワード自体が、彼の知らない間に書き換えられていると考えるほうが自然である。
一朗はドライブの中断を選択し、ヘッドマウントギアを外した。レバーを上げてハッチを開き、カードスロットに挿入しっぱなしであったクレジットカードを引き抜く。備え付けの外部端末で、おそらくもうアスガルド大陸に降り立っているであろう桜子へのメッセージを作成してから、スマートフォンを取り出してシスル・コーポレーションの本社へ繋いだ。これはあくまでゲームプレイ上の問題だ。あざみ社長へのホットラインは使わない。
『はい、こちらシスル・コーポレーションお客様窓口。担当長谷川です』
「やぁ、僕だけど」
ただし、それでも喋り口はいつもと代わらないのだった。
三軒茶屋から神保町まで、首都高速を使えば20分もかからない。青のケーニッグセグを車庫から出して、一朗は真っ先にシスル・コーポレーションの本社を目指した。キルシュヴァッサーはもうログインしているだろうし、一朗が送ったメッセージも見たことだろう。一緒に楽しめないのは残念なことだが、そもそも一朗がイチローとしてログインできない以上、どうしようもない。
シスル本社にコンタクトを取ったところ、結局そのままあざみ社長に代わられてしまったので、ホットラインを繋ぐのと大して変わらなかった。
アカウントが使用できない旨を伝えると、すぐに調べてみると言われた。現在は大規模アップデートを前にしたシステムセキュリティの強化中であり、それに関連して一部のアカウント使用に影響している可能性もなくはないということである。
とは言え、セキュリティプログラムは外注であり、調査には時間がかかるとのことだ。0と1で構成された大規模な数字の世界を手探りで調査するとなれば、確かにすぐにとはいかないだろう。どうせ大した時間も要さないので、本社にお邪魔していいかとたずねると、しばらくの逡巡の後『歓迎しますわ』と言われた。
ので、一朗はいま、アゲーラで首都高を走っている。車が港区に入れば、左手に赤坂御用地や神宮御苑などを拝めるが、いま一朗はそちらのほうに気を向けるつもりはなかった。
ただアカウントが使用できないだけでなく、パスワードが書き換えられているのであれば、何者かが意図的にアカウントを乗っ取って不正に書き換えた可能性が高い。いわゆるアカウントハックだ。桜子の話では、バーチャル技術が発達する以前のMMOでもときおり発生するトラブルであったという。
ただ、その多くが、ユーザー側のセキュリティ意識に欠如に起因するものだ。秘匿性の欠いたパスワードで、他者からも容易に乗っ取りが可能であった。そのあたりに関して、一朗は注意を欠いたことはない。パスワードは完全ランダムの16文字を使用していたし、それも1週間ごとにやはりランダムで書き換えていた。この臆病なまでのセキュリティ意識は、小心で狭量な父・明朗のものであるが、彼の言う『インターネット上のパスワードが保護してくれるものの量を考えれば、臆病になりすぎることはない』という言葉自体には、一朗も賛同している。
それでも乗っ取りにあってしまったのならば、お笑いだな。
多くのMMORPGにおいて、アカウントハックの目的はゲーム上財産の横領であると桜子は言っていた。高価なアイテムやレアリティの高いアイテムを共犯アカウントに譲渡し、売却する。正直、一朗の保有アイテムはほとんどがオーダーメイドの一品物(シルバーリーフは2本残していたか)であり、ただ売却するだけならすぐに足がついてしまいそうなものばかりだ。一見すれば重課金プレイヤーで、ゲーム内財産も豊富に持っていそうではあるのだが。まぁ通貨は確かにたくさんあるな。
単純な嫌がらせの可能性もあるか。一朗は、この2、3週間ほどで、いろんなプレイヤーの注目を浴びた。お行儀よくはしていたつもりだが、多くのプレイヤーにとって面白くない立ち振る舞いもしただろう。まさかいきなりアカウントハックとは思わなかったが、反感を買ったユーザーが何かしらの手段で彼のアカウントを乗っ取った可能性はある。
どちらにしても、嫌な話だなぁ。一朗は頭を掻いた。
通貨をすべて持っていかれるくらいならばどうとでもなるのだが、完全オリジナルグラフィックのアイテムを破棄されたり、売却されたりするのは辛い。作り直す上での費用を惜しむつもりはないと言っても、特に防具に関してはアイリスの努力の結晶でもある。同じグラフィックと同じ性能で防具を作っても、やはり出来上がるのは別のものだろう。
考え事をしているうち、青のアゲーラは環状線を抜けて内堀通りへ降りる。ここまでくれば神田も目前だ。神保町に入り、駐車場に車を停め、モルタル製のシスル本社を目指す。ほんの1週間前に訪れたきりの場所だが、うだるような直射日光も、賑やかなセミの鳴き声も変わっていない。
「石蕗さん、お待ちしておりました」
迎えてくれたのは、以前あざみ社長と共に家までやってきた男性社員である。ゲームマスターとしての名前はラズベリーであったか。さすがにこのときばかりは『笑顔』とはいかない。
「調べてみて、何かわかった?」
「IPを辿ってみたんですが、一度アメリカからログインされた形跡がありますね」
「ナロファンってアメリカでも売ってるの?」
ラズベリー氏は、一朗をオフィスへ案内しながら首を横に振った。
「国内だけです。ミライヴギア自体は海外でも発売されているんですが……」
「なるほど。海外か。面倒くさそうだね」
一朗のアカウントはプレミアムパック製であるが、このパッケージで作れるアカウントが1つ限りということであって、完成したアカウントはソフトと稼動環境さえあればどこからでもアクセスが可能だ。ユーザーIDとパスワードを何かの手段で取得できたとすれば、海外のどこからでもログインできる。
となると、問題は犯人がそれをどうやって知ったのかだな。
「失礼ですが、石蕗さんは他のパスワードを誰かに教えたりは?」
「ナンセンス。桜子さんにだって教えていないよ。教えて覚えられるものでもないしね。もちろん、他の管理パスワードとも違うものだ」
オフィスに入る直前、ラズベリー氏は非常に難しい顔を作って見せた。
「どうかした?」
「いえ……。石蕗さんのセキュリティに問題がなかったとすると……」
「まぁ僕の家にクラッキングしてきた可能性もあるけど、シスルのアカウント管理システムが解析されているかもしれないね」
「…………」
ラズベリー氏が2階、オフィスルームのドアを開ける。
中ではそれなりに修羅場を展開していた。と言っても、電話がそこかしこで鳴り響き、クレーム対応と怒号が行き交い、などという騒がしいものではない。みな、一様に黙り込んだまま、鬼気迫る表情でパソコンに向かっている。静かな修羅場だ。机の上には栄養ドリンクの空き瓶が散乱し、彼らの目は血走っている。
「あまり、恨みがましい話はしたくないのですが、最近は課金システムやサーバー補強についても見直さなければならないところが多かったので……」
「なるほど」
さしもの一朗も、責任を感じないことはない。彼は厚顔無恥であるが、ここで『より良いサービスを目指すのは運営として当然の姿勢では?』などと言うのは悪役の仕事だ。
この中にあって、あざみ社長だけは他の社員となにやら真剣な表情で会話を続けている。いや、社員ではないな。あざみ社長が話している相手は、この真夏日にぴっちりとしたスーツを着こなしていた。やや疲れた風貌の青年で、体格はひょろ長い。シスル・コーポレーションはクールビズを推進しているし、何より私服勤務がOKな風潮だ。となると外部の人間だろう。セキュリティシステムは外注だと言っていたか。
「社長、」
ラズベリー氏が声をかけると、あざみ社長はようやくこちらに気づき、立ち上がった。隣の青年も、こちらを振り向く。初めて見る顔であったが、彼は一朗を見てぎょっとしたように表情をこわばらせる。
「ご足労いただいでありがとうございますわ、一朗さん。今回は迷惑をおかけしています」
「ん、こっちも散々迷惑をかけちゃったから、そのあたりはなんとも言えないかな」
そう言って、一朗はスーツの青年に視線を移した。
「あぁ、紹介しますわね。こちら、株式会社システム・アイアスの江戸川さん。江戸川さん、こちら、ナローファンタジー・オンラインのユーザーで、ツワブキコンツェルン総裁石蕗明朗氏のご子息、石蕗一朗さんです」
「どうも。えぇと、石蕗さん。江戸川と申します」
江戸川は、機械のようにぎこちない笑顔で名刺を差し出してきた。ここは公の場であるし、礼儀を重んじたほうがいいか。一朗も、普段は滅多に取り出さない名刺入れを取り出し、中から数枚の名刺を吟味する。何しろ肩書きは山のようにあるのだ。
受け取った名刺には、『(株)システム・アイアス技術部・営業部 江戸川土門』とある。古風な名前だ。システム・アイアスはそこまで有名な企業ではない。一朗は名前くらい知っているが、確か本社を静岡に置く、小さなソフトウェア関連の会社だ。他の同業他社に埋没する程度の規模であって、新たなクライアントとしてシスル・コーポレーションを開拓できたのは、彼らにとってビジネスチャンスというところだろうか。その矢先にアカウントハックなのだから、幸先が悪くはあるな。
ともあれ、
一朗は、当たり障りのない肩書きが書かれた名刺を取り出して手渡し、挨拶する。
「はじめまして、と、言うべきなのかな。僕が石蕗一朗だ。よろしく、エド」
江戸川の笑顔が凍りついた。
キルシュヴァッサーがログインしたのは、アイリスブランドのギルドハウス。その2階部分だ。試着室や採寸室といった、ゲームシステム上大して必要ない名目の部屋が割り当てられ、アイリスの工房や、顧客とデザインに関して打ち合わせをする応接室も2階にある。彼が銀髪の騎士として目を覚ましたとき、隣にあるべき主人ツワブキ・イチローの姿はなかった。
よもやイチロー様がログインに手間取るはずは、と思った直後、『ぽーん』という音がしてメッセージが着信する。外部端末から送られたもの。要するに、一朗が直接入力して送ったものだということがわかる。
『パスワードが書き換えられていてログインできない。今からシスルへ連絡してくる』
簡潔にまとめられているだけに、キルシュヴァッサーも事情を飲み込むのに少し時間がかかった。
「えっ、えぇ~っ……?」
口をついて出たのは、どちらかというと、扇桜子としての感想である。
要するに、アカウントハック? 一朗さまが? オンラインゲームをプレイする上で、常に他人事だと思ってはいけないと自らを戒めていたが、よもやご主人様である石蕗一朗がその被害に合われるとは。いますぐログアウトしてお供するべきかと思ったが、どうせ『ナンセンス』と言われるな、と思い直した。
ログインしているからこそ確認できる事情もあるわけだし。
キルシュヴァッサーは、メニューウィンドウを開いてギルドメンバーの項目をタッチした。アカウントハックの被害にあっているのならば、アイテムや所持通貨が奪われている可能性がある。ギルドメンバー同士は、そうしたステータス情報をある程度共有できるし、奪われているのであれば、周囲のプレイヤーに聞き込みをして、イチローのアバターが怪しい動きをしていなかった聞きだすまでだ。
ギルドリーダーであるイチローのステータス情報をチェックしようとして、キルシュヴァッサーは手を止めた。
名前表示が緑色。下に続くアイリス、キルシュヴァッサーの名前も緑色だ。これはつまり、そのギルドメンバーが現在ログイン状態にあることを示している。
イチローが、ログインしている? あるいは、たった今、したのか?
パスワードが書き換えられたというのは嘘で、ただ単に忘れていただけとか。いや、それであれば、昨日ログアウトしたときと同じ、自分の隣に姿を見せるはずだ。そうでないということは、自分や一朗が感知していない時間帯に、一旦ログインして移動したことを示している。
つまり、いまログインしているのは、石蕗一朗ではなく、
思考の最中、ウィンドウに表示された新たな変更メッセージが、キルシュヴァッサーの脳を揺さぶる。
『ギルドリーダーにより、ハウス内の戦闘禁止規定が解除されました』
直後、階下から悲鳴が響く。キルシュヴァッサーに考えている余裕はなかった。剣と盾を引き抜き、部屋を飛び出す。手すりを掴み、吹き抜けからエントランスへと飛び降りた。目の前に人影が2人。メイジサーベルを構え、もう1人に対してにじり寄るのが、あぁ、ツワブキ・イチローではないか!
「アイリス!」
キルシュヴァッサーは少女の名前を叫び、シールドを構えてイチローへと体当たりを敢行した。騎士専用アーツ《シールドバッシュ》。ダメージ判定は発生しないが、イチローの身体が大きくバランスを崩し、バッドステータス「めまい」を与える。更に《タックル》で彼の身体を床に叩き伏せる。
「き、キルシュさん!」
「ご無事ですか」
片手でアイリスを庇うようにしながら2歩、3歩と後退する。
「お、御曹司どうしちゃったの。なんかさっきから様子がおかしくて……」
「ログインしているユーザーが別人なのです。アカウントハックですよ」
「あ、アカウントハック……? 御曹司が……?」
イチローのアバターは、「めまい」を振り払うと、ゆっくりと立ち上がって見せた。
キルシュヴァッサーはごくりと喉を鳴らした。現在、イチローのレベルは130を突破する。リザードマン道場で鍛えたステータスの下地や、豊富なスキル、遠近に対応した様々なアーツ。今のキルシュヴァッサーが、一人で太刀打ちできる相手ではないのだ。たとえその中身が、石蕗一朗でなかったとしても。ステータスの格差はやはり大きい。
だが、幸運と言うべきなのだろうか。イチローはメイジサーベルを仕舞い、ギルドハウスを飛び出した。その際に見せた、口端を大きく吊り上げる笑み。にやけ笑いとも称せるそれは、普段のツワブキ・イチローが浮かべるものでは、決してない。
「つまり、御曹司のニセモノ……ってこと?」
首をかしげるアイリスに、キルシュヴァッサーは頷いた。
相手の目的が掴めない。単にアイテムや通貨を売却することではないのか? RMTを目的とした違法業者の仕業ではない? イチロー個人に対する嫌がらせであるのか?
「追うわよ、キルシュさん」
アイリスがそんなことを言うので、キルシュヴァッサーも驚いた。
「お、追うとおっしゃいましても……。ニセイチロー様、パチロー様は強いですよ?」
「さ、さりげなく面白いこと言うわね……。そんなのわかってるけど、でも、放っておいたらあいつ、何するかわかんないでしょ! 御曹司の姿で!」
「それは、そうですが……。うむ、そうですな」
キルシュヴァッサーはメニューウィンドウを開き、先日開拓した頼れそうな知己たちにメッセージを送信した。ひとまず捕まえて止めるにしても戦力は必要だ。しばらくすれば運営からの裁きも下ると信じたいが、それまでにどれだけの時間を要するかわからない。
「では、追いましょうか。アイリス」
「うん!」
二人は、ニセ御曹司・パチローのあとを追うべく、ギルドハウスを飛び出した。
8/31
誤字を修正
× 一端ログイン
○ 一旦ログイン
9/22
誤字を修正
× キングとの一騎打ち依頼
○ キングとの一騎打ち以来




