第二話 御曹司、VRMMOを買う
ツワブキコンツェルンの御曹司、石蕗一朗。彼の名を知らぬ者など、世界の上流階級においても存在しない。親の仕事を手伝わず、暇さえあれば珍しい虫を探して喜んでいる一朗ではあるが、その実彼は脛かじりな道楽息子では決してない。彼の住まいも、生活費も、メイドの給料も、すべて彼自身の稼いだポケットマネーで賄われる。一朗が両親から小遣いを貰ったのなど、十歳の一月が最後だ。
何しろ孤高のロイヤル天才児・石蕗一朗である。九歳でハーバード大学を卒業したとき残した論文が、経済界に与えた影響について、今さら紙面を割くまでもないだろう。全世界の経営者を震撼させた新理論は、今なお威光を伴っていたるところに轟いている。
幼少期をウィーンで過ごしたこともある一朗は、ヴァイオリンとピアノの演奏もプロ級であり、上流階級の人間だけを集めた音楽イベントが開催される際は、必ず彼の姿がある。一朗が戯れに描いた絵画は、現代美術の最先端として多額で取引される。趣味の一環で世界を飛び回り、見つけた新種の昆虫は二十を下らない。
そうしたあれこれを、一朗は片手間でやってしまうのだ。
時間にゆとりが取れれば、大学の客員教授として講壇に立つこともある。経済学に精通する身として、有償で資産運用の相談に乗ることもある。アイドルデビューしてお茶の間を騒がせたのは二年とちょっとだけだったが、その時手にしたまとまったお金は、うまいこと回して何倍にも膨れ上がっている。不況不況と世の中が喚こうと、カネはあるところにはあるのだ。
自分自身で稼いだ金である。どのような使い道をしようと、人から文句を言われる筋合いはない。
世田谷区三軒茶屋に、一般人ではなかなか手の出せないような高級賃貸マンションがある。ツワブキパピヨン三軒茶屋。大家は石蕗一朗、設計は石蕗一朗。現在の一朗のおもな収入源であり、その最上階すべてが彼の住まいでもある。
ツワブキパピヨンの業務用エレベーターに、運送会社のスタッフが、なにやら巨大な梱包物をせっせと運び込んでいるのは、もう昼をだいぶ回った時刻のことであった。それに混じって見える黒いスーツの男。襟元には、国内大手のゲームメーカーであるポニー・エンタテイメント社の社章があった。
七月の頭。もう梅雨も明け、陽光がじりじりと額を焦がす時期だが、この男が浮かべる汗の原因は、果たして猛暑のせいだけでもあるまい。何よりツワブキパピヨンは、オートロック式の自動ドアをくぐれば空調が効いている。
「やぁ、どうも」
最上階にて彼らを迎えたのは、もちろん我らが天才御曹司・石蕗一朗である。ダンボールで大掛かりに梱包されたふたつの塊を見て、特に感慨を浮かべるでもない。黒いスーツの男を見かけても、その涼やかな表情に変化はなかった。
「いや、石蕗さま、今回は弊社の〝ミライヴギア・コクーン〟を直接ご購入いただいて……」
「うん。その辺の挨拶は省いて良いよ。ナンセンスだ」
とりあえず大きな両扉を開き、一朗は来客を招き入れる。作業着の男たちは、一生に一度拝めるかどうかというセレブリティ空間に、しかし浮かれる様子でもなく踏み込んだ。プロフェッショナルの鑑である。
対照的に緊張を隠しきれていないのがポニー社の男だ。出鼻をくじかれたところで、めげるわけにはいかない。
「わたくし、ポニー・エンタテイメント営業部課長の、荒垣大吾と申しまして……。立ち上げや設定などを……」
「いや、それも僕がやるから良いよ。自分で遊ぶものだしね。他人にいじらせるのもナンセンスだ」
取り付く島がないとは、まさにこれである。名刺も受け取ってもらえない。
絶妙なトークと押しの強さで、古巣では営業の鬼とまで言われた荒垣大吾の姿はここにない。相手は、この歳にして経済界の重鎮に数えられることすらある石蕗一朗。その気になれば、ポニー社の社長にホットラインを繋いで、荒垣の進退を決めることすら容易であろう。まさしく格が違う。
梱包物は一朗の誘導に従うままに一室へと運び込まれ、ダンボールと緩衝材、そしてビニール包装を剥き取られることでその姿を現す。傷一つ無いメタリックシルバーの曲面が真っ先に目を引き、スタイリッシュな青文字で〝Mi-L/RiveGear COCOON〟と刻印されていた。プラスチック素材の黒い透過板と、銀色のボディの兼ね合いは、絶妙に未来的だ。人間をすっぽり覆い隠して、なおもゆとりのあるフォルムである。
「うわぁ。本当に買っちゃったんですねぇ、コクーン」
喜色をにじませた感嘆と共に、一人のメイドが入ってきた。これには作業着の男たちもいささか面を食らう。両手で支えるトレーには人数分のグラス(スワロフスキー製)が乗せられていた。
「あ、皆さんお疲れ様です。暑い中大変ですよね。とりあえず喉でも潤してくださいね」
石蕗一朗の専属メイド・扇桜子は、男たちの間を華やいだ笑顔で練り歩き、丁寧にグラスを手渡した。氷と一緒に、なにやら甘そうな液体がなみなみと注がれている。荒垣を含めた男たちは遠慮がちに縁へ口をつけ、あまりの美味さに目を見開いていた。
「まさか私の分まで買ってくれるなんて。このときほど一朗さまに雇われてよかったと思った時はありませんね」
「まぁ惜しむような金額でもなかったからね」
「今まで以上に充実したナロファンライフが送れそうです……。早く設定しちゃいましょうよ!」
一朗は、開梱作業中に荒垣から手渡されていた書類に目を通していた。300ページ近くの分厚さを持つマニュアルを、ぱらぱらとめくるように読む。天才である一朗は速読術にも長けているのだ。読み終えるや、一朗は桜子の持ってきた工具箱を受け取って、まるで手馴れたものであるかのように仮止めされた板を外す。中にぎっしりと詰め込まれたコード類も、正確に把握しつつ引き抜いては繋ぎ始めた。
一切の危なげがない作業である。荒垣も舌を巻くどころではない。こうなってしまえば、彼らのやれることなどありはしない。荒垣と運送屋の男たちは、桜子の天使のような笑顔に見送られて退散するより他は、無かったのである。
電源コードにLANケーブル。業務用の変圧器は家にあるもので十分まかなえる。配線類の作業を済ませてしまえば、あとは立ち上げと設定だ。外側にある電源を入れれば、重厚な作動音と共に〝ミライヴギア・コクーン〟が起動する。レバーを引いてハッチを開くと、中にはゆったりとしたシートと全天周型の液晶モニタがある。まるでロボットのコクピットだ。
ミライヴギア。ポニー・エンタテイメント社が開発した、バーチャル・リアリティ体感機能を備えるゲームハードである。ミライヴとは「未来」「ライヴ」「ドライブ」の複合語であり、それ自体がコントローラーであることを示すため、クラシックコントローラーのキーである「L」と「R」も名前に入っている。一般的に流通しているのは、頭部をすっぽり覆うフルフェイスヘルメット状の〝ミライヴギア・X〟、桜子が所持していたものと同様のものだ。
ここから本筋にあんまり関係ない話が進む。
ミライヴギア・コクーンは、ゲームセンターやインターネットカフェに少数導入されている業務用のミライヴギアである。ナローファンタジー・オンラインのほか、ポニー・エンタテイメント社のリリースしたネオリアリティ・オンラインなどのサービスも、いわゆるMMORPGだ。従来のものと同様に、インターネットカフェからログインすることで得られる特別なサービスを要求する企業も多く、リリース元もそれに乗らざるを得なかった。それに同調するように開発されたのがコクーンなのである。もちろん、通常のミライヴギア・Xを貸し出すインターネットカフェも多かったが、この大掛かりな装置はゲームセンターという新たなる顧客を開拓し、VRMMO用の長時間料金コースを用意するゲームセンターも増加した。結果として、全体的に下火であったゲームセンター業界にも新風が吹き込まれたのである。
当然、大掛かりなだけあって、コクーンの性能はミライヴギア・Xとは比べ物にならない。ゲームプレイ中、身体にかかる負担を大きく軽減し、またより多角的な手法で仮想現実を構築できる。操作の際の反応性も、コクーンのほうが上出来だ。桜子が大喜びしていた理由はこの辺にある。
あんまり関係ない話終わり。
「設定、終わったよ」
ハッチを閉じてから十数分後、ハッチが再び開いて一郎が出てくる。
「ゲームのインストールは外側からやるみたい」
「じゃあ、いよいよ……これの出番なんですね!」
そう言って桜子が取り出したのはゲームパッケージ。高くそびえる古塔をバックに、空を見上げる騎士が描かれている。鎧や武器の質感も当然リアルで、澄み渡る蒼穹は、狭苦しいパッケージのはるか向こうにまで広がっているのだと、錯覚を抱かせるにも十分すぎる。時計のイラストが交えて描かれたタイトルロゴは、『Narrow Fantasy Online』。その下に『プレミアムパッケージ』と書かれている。
初期生産ロットはわずか1000という文字通りの稀少ソフトだ。通常版に比べて5倍近い値段を持ち、当然それに見合うたくさんの特典が内蔵されている。サービス開始しから一周年を数えようとする現在でも、未開封品が心無き転売屋によって法外な値段で売られている。これは今朝、桜子が秋葉原の片隅で発見し、一朗から預かったクレジットカードであっさり買ってきてしまったものだ。
「私はもちろんこっちです」
桜子が取り出したのは、自室から持ってきた通常版のソフトだ。インストールするだけなら、プレミアムパッケージを二人で共有すればとも思ってしまうが、そうは問屋がおろさない。
プレミアムパッケージにはシリアルナンバーが記載されており、ひとつのパッケージにつきひとつしかアカウントを作れない。特典内容もゲームプレイを有利にするものばかりで、当時は露骨な課金仕様であると多くのユーザーが眉をひそめたものだが、ナローファンタジー・オンラインの緻密なライティング技術が描く世界観を目の当たりにしては、そんなものどうでもよくなってしまった。通常版で始めた多くのユーザーも、多少ムチャをしてでもプレミアムパッケージを買っておけばよかったと後悔しているらしい。
一朗は、別にプレミアムパッケージを見つけたら買っても良いよと言っていたのだが、桜子自身、一年かけて育て上げたアカウントを放り出すのは気が引けたらしい。もちろん、秋葉原を練り歩いても二つ目を見つけられなかったという事実もあるのだが。
「うわー。やっぱプレミアム版はいいなー。見てくださいよ。こんな種族選べるんですねー。いいなー。ずるいなー」
桜子が説明書をぐいぐいと押し付けてくる。キャラクター設定時に選択できる種族が複数あるが、通常版で選択できるものよりも強力なものが複数ある。ゲーム内格差を生みそうなほど致命的な差になるかどうかは、始めてみないとわからないが。ひょっとすると、これらの種族を選択すると風当たりが強い、ということくらいは、あるかもしれない。
ま、だからという理由でこれらの種族を選ばないのはナンセンスだな。
「桜子さんは何選んだの?」
「普通の人間ですよ。エルフと迷ったんですけどね! 前衛職やる気だったし、キャライメージを大事にしました!」
「ふーん」
最初に決めておかなければならないのは、種族と性別、あとはクラスくらいか。
クラスに関しては、プレミアムパッケージ限定の特別クラスというものはないらしい。自分に相応しいものになると限られてくるだろうか、と、一覧を物色してみる。
「私、前衛ですから、一朗さまは後衛にしましょうよ。魔術師とかそういうの」
「僕、剣使いたいんだけど。あぁ、魔法剣士ってあるね。これにしようかな」
「それ地雷ですよ!?」
反射的に食らいついてきた専属メイドの言葉だったが、一朗はいつもの台詞で一蹴した。
「ナンセンス。地雷かどうかは僕が決める」
「えぇ、まぁー。一朗さまならそう言うと思ってましたけどぉー」
MMORPGに限らず、基本的にキャラクターメイクを行うゲームでは、得てして複数の方向性に手を出すよりも、ひとつの要素をまっすぐに伸ばしたほうが強力なキャラクターに成長する。だからこそ、役割分担が成立するのであって、これはもう、卓上でダイスを転がしていた時代から不変の法則なのだ。だいたいのゲームにおいて、魔法と剣技を両立すると残念な性能のキャラクターになる。
が、桜子がそう声高に叫んだところで、聞き入れてくれるような一朗でもあるまい。噛み付きすぎて口論を続けるのも、それこそナンセンスだ。
「魔法剣士だとスキル構成もカツカツになりそうですねー」
それでも、年季の入ったゲーマーとして、桜子は主人の決定にいまいち納得がいっていないようだった。
「その辺はゲームを始めてからだね。スキルとアーツを決めるのは開始後かな」
「そーですね。メイク時点で、装備とスキルとアーツが自動取得されるんで、あとは自由に伸ばしていくカンジです」
コクーンのマニュアルを読んだときとは違い、一朗も説明書をじっくりと眺めている。言葉の端々からにじんでくる飲み込みの早さは、さすがと言えるだろうか。
壁にかけられた時計(ARTI&MESTIERI製)はいつの間にか四時過ぎを指している。一朗は、ようやく説明書を閉じて立ち上がった。
「じゃあ桜子さん、インストールも済んだことだし、そろそろ始めようか」
「おっ? おぉぉっ!」
言われて桜子も、拳を握ったまま勢いよく立ち上がる。
「ついに、ついにですね一朗さま! まさか一朗さまと一緒にゲームをする日が来るなんて思ってませんでした!」
「まぁ、すぐに飽きるかもしれないけどね」
そもそもこのゲームを始めるきっかけだって、昨晩のグランドヒルズでの小さな出会いでしかないわけだし。興味が沸かなければ、ナローファンタジー・オンラインはもちろん、野々あざみとの縁もそれまでということになる。つまらないことに時間は割かない。
「とりあえず、軽くちょっとだけやって……六時すぎくらいになったら、桜子さんは夕飯の支度に戻ってね」
「えっ、今日は徹夜で朝までやるんじゃないんですか?」
一朗は肩をすくめ、結局、今日何度目かになるその言葉をつぶやく。
「ナンセンス」
7/16
誤用を修正。
×軽く触りだけやって
○軽くちょっとだけやって
7/18
現実的に不自然な点を修正。
×そうしたあれこれが、一朗の資金源となるのだ。
○そうしたあれこれを、一朗は片手間でやってしまうのだ。