第二十話 御曹司、シスル本社へ行く
神田神保町にある小さなビルディング。シスル・コーポレーションの本社である。いかに小さなモルタル建造物と言えど、自社ビルは自社ビル。建ち並ぶ古書店に紛れて、そびえる姿は何やら誇らしげだ。
やや離れた場所にある駐車場に、この神保町の街並みにそぐわない、きらびやかなスーパーカーが停車した。まるで猛禽の翼を思わせるラプタードアがねじを緩めるように開き、中から一人の青年が姿を見せる。レイバンのサングラスを胸ポケットにしまい、照りつける太陽に目を細める。出迎えに来ていたシスル・コーポの社員が、ぼそりと口にした。
「ケーニッグセグだ……」
スウェーデンの自動車メーカーである。この特徴的なドアの構造は、世界に目を向けても同社のスーパーカーにしか見られない。
石蕗一朗の愛車のひとつであるケーニッグセグ・アゲーラだが、運転するのは久しぶりだ。普段ハンドルは使用人である扇桜子に預けているので、後部座席でゆったりできるリンカーンが主な移動手段である。今回、助手席から姿を見せるものはなく、神保町に降り立ったのは一朗ただ一人であった。上野から秋葉原、神田にかけては桜子が自身の庭であると豪語していたが、最近は雨続きで洗濯物もろくに干せず(乾燥機はあるが彼は自然乾燥が好きである)、ひとまず今日は家事に専念するよう言付けておいた。彼女は少し残念そうにしていたが、全て終わればログインして良いという旨を伝えると素直に喜んだ。
もうひとつ、彼女は朝食の時間から何かを言いたそうにしていたのだが、それには取り合わず、昼前に家を出る。ここ神保町についたのは11時半ごろになった。
先日、あざみ社長にホットラインを繋いで会社を訪問したい旨を伝えると、どうやら歓迎してくれるらしかった。セレモニーについての打ち合わせは済んでいたが、彼女に直接伝えたい感想や意見、頼みごともあったので、お邪魔させてもらうことにする。
「このあたりの町の雰囲気は良いね」
本社へ向かう短い道の上で、一朗がつぶやいた。せわしないセミの鳴き声が、日差しの熱をいっそう助長しているように感じる。
「神田も古い町ですからね」
「ナロファンのフィールドでは霊森海が一番好きだけど、現実世界となるとどこも甲乙つけがたいね。東京ひとつにしても、一番好きなスポットは決めきれないよ」
「石蕗さんなら高尾山だと思っていましたが」
「あぁ、東京都で言ったらそうだね」
本社ビルに入ると、適度なクーラーの風が汗を冷やしに来る。
本社ビルなどという大層なことを言っても、一階に受付があることを除けば、オフィス部分は二階のみだ。ごく少人数で構成されるシスル・コーポレーションである。そのビルの大部分を閉めるのはヒトではなくハードウェアだ。厳重に保管された無数のサーバーマシン。逆に言えば、ツワブキ・イチロー達が毎日過ごしている広大なアスガルドの大地が、この味気ないモルタルビルに全て詰まっているのであり、金属製の重厚な扉の向こうに稼動する味気ない機械の塊の中には、今も数多くの冒険者が未知なる戦いへと挑んでいるのだ。
数多くの削減策を用いているとは言え、情報量のやり取りが半端なもので済まないのがVRMMOの特徴である。必要なサーバーマシンも従来のMMOとは比べ物にならず、彼らもそうとうな出費を迫られた。社員の話では実はいまだに赤字へ傾いているのだという。
「おはようございます。お待ちしておりましたわ、一朗さん」
大型のコンピュータが立ち並び、手狭なオフィスの一番奥で、野々あざみ社長がそう言った。今まで会ったときと違い、縁の薄い眼鏡をかけている。服装もキャリアウーマンを思わせるパリッとしたものではなく、胸元のボタンを開けたワイシャツにタイトスカートだけというごく簡単な服装だ。オフィス内で行き来する社員達はもっとラフで、中にはアニメキャラがプリントされたTシャツを着ているものもいる。
「このような格好で、失礼だったかしら」
「ナンセンス。会うのが3回目にもなれば、そういうのは気にしないってわかりそうなもんだけどね」
「ですわね」
社長のデスクにはディスプレイが3台並べられ、それとは別にノートパソコンが1台、タブレットパソコンが1台繋がれている。充電スタンドに備え付けられたスマートフォンは2台、更に有線式の電話まで置いてある。よくこれだけ置いて頭が混乱しないもんだ、というのは凡夫の発想であって、一朗は『やるじゃん』くらいにしか見ていない。
「アップデートを控えていますから、追い込みが厳しくて」
「ふぅん。でも楽しそうで何よりだよ。デルヴェ亡魔領解放戦のグランドクエストは明日配信だっけ」
「えぇ、そちらは準備ももうできてますから。一朗さんも是非参加なさってね」
そう言って、あざみ社長はオフィス内にかけられたかざりっけのない時計を確認する。
「ひと段落もつきましたし、場所を変えましょう。一朗さん、少し早いですけど、お昼は? 神保町には良いカレー屋さんがいっぱいありますわ」
「実はこのあとも予定が幾らかあってね。お誘いはまた今度にさせてもらうよ」
あざみ社長は、オフィス内の部下に『少し席を外すからよろしくね』と声をかけ、一朗を三階へと案内する。三階は社員用のレストルームと応接室を兼ねるということだが、そこに業務用の〝ミライヴギア・コクーン〟が3台も置かれているのには一朗も目を細めた。うち一台は現在も稼働中だ。
ナローファンタジー・オンラインもMMOである以上、ゲームマスターと呼ばれるスタッフが存在する。常に最低1人はログインしていなければならず、誰がいつGMとして活動するかはシフト制で割り振られるのだそうだ。一朗はゲーム内で彼らに会ったことはないのだが、トラブルにおける公平な裁定などに始まり、イベントやグランドクエスト時のアナウンス役も彼らが行う。
「そう言えば、僕もこのあいだトラブルを起こしたなぁ」
おまえ自覚あるのかよ、とつっこみたくなることを、一朗は平然と言った。
それがグラスゴバラ職人街におけるトップギルド〝アキハバラ鍛造組〟とのいさかいを示すことであれば、当然あざみもそれを把握している。脳波スキャナーと集合知集積システムはログインしているプレイヤーの内、かなりの層がその件に対しての興味を示しているとの計算結果を算出していたし、実際、ある程度の顛末は運営としてモニターしている。
「あまり看過できない状況になりましたら、GMコールを使っていただいても良かったですのに」
「ナンセンスだね。なにごとも第三者の価値観が介入すると、事件の純粋性が失われてしまうと思うよ。民事不介入ってそういうことだし。まぁ僕が呼ばなくても、あの場にゲームマスターはいたんだろう?」
「あら、ご存知でしたの?」
「そうじゃないかなって思っただけさ」
実際、一朗の指摘どおり、グラスゴバラには一人ゲームマスターを派遣していた。プレイヤー同士のトラブルにしては、少々事態が大きくなりすぎていたし、その当事者の一人は、セレモニーにおいて来賓として壇上に上がるツワブキ・イチローである。厄介なことになれば、オフィスから直接GMに指示を飛ばして介入を行うことも考えていた。
当然、一朗はそうすることを嫌ったであろうし、結局彼があっさりあの場を納めてしまったのでそうはせずに済んだ。下手な介入は両者に遺恨を残したであろうから、結果としてはよかったのだが、線引きとしては難しいところだ。
あざみ社長はなにやら深刻な顔をみせた。
「VRMMOはリアリティがあると同時に、虚構の世界でもありますから、処理に難しい事件はよく起きるんです。PK行為にしてもそうですね。初心者の方が初めてフィールドに出るヴィスピアーニャ平原ではプレイヤー同士の戦闘を禁止しているんですけど、最初の頃はそうではありませんでした」
「何かきっかけになる事件があったんだね。まぁ、想像はできるよ」
「はい。心無いプレイヤーの方による初心者狩りがあったんです。これ自体は、普通のMMOでも無くはないことですが、ナロファンを始めて間もなくPKの被害に合われた方は、大抵二度とログインなさいません」
見知らぬアバター、すなわち意思を持つ人間が、恐ろしい武器を振りかざして自分を『殺しに』来るのだから、その恐怖は尋常ならざるものであっただろう。しかもモニター越しに発生する、遠い世界での出来事ではないのだ。VRMMOは、始めた瞬間プレイヤーが『当事者』となる。PK問題に関わらず、この現実と意識のギャップに気づかないで、心に傷を負う人間は少なくないのではないだろうか。
初心者狩り自体はマナー的にも非常に問題のある行為なので、運営としてもそれらのプレイヤーに警告を行わざるを得なかった。平原におけるプレイヤー間の戦闘行為を禁止し、再発防止には務めたが、その後も一方的にPK行為を行うプレイヤーの事案は散見された。あまりにも悪質であり、警告にも耳を貸さなかった複数のプレイヤーは、すでにアカウントを停止させられている。
「エドがアイリスに手をあげた件も似たようなものだね」
紙コップのコーヒーに口をつけ、一朗が言う。レストルームの自動販売機で、品揃えはあまりよくない。
「戦闘禁止エリアにおける軽度の暴力事件でしたら、もっと多いんです。どのみち相手はダメージを負わない、という認識が、タガを緩めているのかもしれません。攻撃的な意識そのものに反応して行動を制限するアルゴリズムも開発中なんですけれど、やりすぎるとVRMMOの持つ独特の自由度を損ねることにもなります」
「好き好んでPK行為に手を染めるというのは、客観的に見てもよくわからないな。僕も決闘の上でエドを一回『殺した』わけだけど、良い気分だったかって言われるとそんなこともないしね。ナンセンスだ」
一朗が言えるのは、事実としてそういう人間がいることは認識している、というだけだ。歴史を紐解いても、彼の価値観、客観的な判断基準に照らし合わせることができない類の人間は大勢いる。だが、それは長い人類史においても散見される程度のものであって、VRMMOという市井の人間に馴染み深い娯楽の舞台で頻発するようなものではないはずだ。
あるいは、多くの人間の心には解明できないブラックボックスのようなものがあって、現実めいた虚構の世界において、秘匿されていたパスコードが開放されるという、ただそれだけのことなのかもしれない。どのみち、一朗には理解できない話だ。
「一朗さんの場合も、初日に何度もリザードマンゼブラに『殺される』感覚を味わって平然としていらっしゃるので……。あれも一般的な思考から見るとよくわかりませんわ。平原のMOBはなるべく可愛らしいものにして、『殺される』恐怖を紛らわせてますけど、火山帯のリザードマンはそうではありませんし」
「確かにあれはリアリティがあったよ。僕も今まで色々なことをやってきたけど、殺されたことはなかったからね。ゲーム上とは言え良い経験だった」
「一朗さんじゃなくても、人間としてカウントされる方は殺された経験なんてありませんわ」
このあたりで、一朗はそう言えば、と話題を切り替える。
「そう言えば、電話したときに頼んだものって用意できてる?」
あざみ社長もにこりと微笑んだ。
「えぇ、今すぐお持ちいたしましょうか?」
「どうしようかな。まだ時間があると言えばあるんだけど」
「そうだ、一朗さん。では先に十賢者に会って行かれませんか?」
それは、ナローファンタジー・オンラインのシステム運営に携わる人工知能であったはずだ。企業の人数構成が小規模でありながら、広大な世界観を維持できる理由のひとつ。あざみ社長が学生時代に開発したという十賢者か。確かに、彼女の卒業論文にも詳しい記載がなかったため。少しだけ興味はある。
「十賢者のひとつ、〝ローズマリー〟が一朗さんに興味を示しているんです」
「へぇ。興味を示している、っていうのは、僕のことを知りたがってるってこと?」
「そうですわね。十賢者には保持する情報を元に不可解な事象を自ら考えて〝解決〟するアルゴリズムを与えています。結論が導き出せない場合はずっと考えてしまうので、最近ちょっと処理効率が落ちてますの。一朗さんの行動が、ゲーム内におけるプレイヤーの平均値からかけ離れていたからだと思うんですけれど」
「人間一人の行動なんて、理解できなくて良いとは思うんだけど。僕に興味を持つなんてなかなか見所がある人工知能じゃないか。良いよ、会おう」
誰かに『興味』をもたれたことなど枚挙に暇が無い一朗である。数え切れない美女に声をかけられたし、戯れに興じたことも無いではないが(爆発しろ)、いずれもナンセンスなものだと考えていた。しかし、それが人工知能であったというのは初めての経験である。
自分の行動が規格外だったと言われたところで、別に気にも留めない。その規格は他人が決めたものであり、他人の評価などナンセンスだと考える以上、一朗が規格から飛び出るのは当然のことである。自分はそう思っているし、自分をよく知る周囲もそう思っていると考えていた。
十賢者はすべてビルの四階に保管されている。いずれもスーパーコンピュータ並のハードウェアを必要とし、あざみに連れられて室内に入ると、無機質な機械が十基、所狭しと並べられていた。
そのうちの一基がローズマリーだ。一朗が自宅の屋上で育てているハーブの名前と同じである。原産は地中海であったか、薄紫や白、桃色の小さな花が慎ましやかな低木である。ときおり葉を採取しては乾燥させ、桜子が料理に使用していた。
「で、僕はこれに話しかければ良いの?」
「はい。音声言語としては英語と日本語を理解できますので。こちらのヘッドセットを使っていただいて」
秋葉原で投売りされていそうな安っぽいものだったが、そんなことを気にする一朗でもない。ゲーム内でNPCとナンセンスな会話を交わしたことは数あるが、こうして人工知能と直接対話を行う経験には乏しい。これがどれだけ有機的な会話センスを持つのか、少し楽しみでもあった。
「やぁ、ローズマリー」
とりあえず簡単な挨拶から始める。数瞬の沈黙のあと、ヘッドセットから女性の合成音声が聞こえた。
『おはようございます。あなたのお名前を聞かせてください』
「いきなり本題で好感が持てるね。僕は石蕗一朗だ。君が僕のことを知りたいというから、あざみ社長に連れてきてもらった」
『イチロー。あなたは、ナローファンタジー・オンラインにおけるドラゴネットのアバターでしょうか』
「うん。僕はそのプレイヤーだ。君にゲームを通じて話しかけているわけじゃない」
『理解しました。あなたに関する情報が不足していたところです。問題解決のために情報の提示を求めます』
当然と言えば当然だが、機械的であまり面白みのない問答だな、と思ってしまう。
だが、あざみ社長の話やローズマリー自身の発言から察するに、この人工知能は自ら解決されていない、理論化されていない〝問題〟を発見し、〝解決〟しようというアルゴリズムを持つ。単純で原始的ではあるが〝知識欲〟と言って差し支えないものだ。その興味が人間の行動原理に向いているならば、あるいは、
少し、わくわくした気持ちを抑えられなくなる。
「良いよ。君が知りたいことを教えよう。どこからが良い?」
『ゲーム内におけるあなたの振る舞いが理解できません。人間の行動原理として、『見栄え』を重視する傾向があることは認識しています。ですが、ゲーム上大前提としてクエストのクリアが目的にあるのであり、性能を軽視する理由が理解できません』
「ナンセンス。そんなことしなくても、僕が一番強くて凄いからだよ」
一朗はさも当然であるかのように言った。
「それに、性能より見栄えを求めるプレイヤーは僕だけじゃない。まぁ、ナロファンでは僕がブレイクスルーであったかもしれないけどね。きっとこれからも増えるよ」
『それはイチローがゲーム内の傾向を変化させたということでしょうか』
「そうだよ」
何が『そうだよ』か。
その発言が傲慢増上慢以外の何物でもないのだが、突っ込みを入れてくる人間はここにいない。あざみ社長は、一朗から『頼まれたもの』を階下に取りに行ってしまったので、この御曹司が自らの開発した人工知能にとんでもないことを吹き込もうとしていることに関して、文句を言うことはできなかった。
その後も幾つかの問答を繰り返し、ローズマリーはふと、ある疑問を口にする。
『イチロー、あなたのそれは、理にかなっている言動ではありません』
「ナンセンス。正解は僕が決める」
だが、得られる回答は当然の如くそれであった。
「やりたいこと、したいこと、信じられることの思うままに行動することが重要なんだ。もちろん、全ての人間がそうではないかもしれないけどね。社会規範は必要だし、多くの人間は感情に左右されるから、ある程度の〝理〟は必要なんだろう。でも僕には必要ないかな。僕は、やりたいようにやるよ」
一朗がそう言い切ったあたりで、扉が開いてあざみ社長が姿を見せる。その手には、味気ない紙袋で包装されたA4サイズほどの薄い箱があった。
「一朗さん、どうですか?」
「実のある議論だよ」
少なくとも彼の主観で嘘はついていない。
「ローズマリー、僕が言えるのはこんなところだ。わかったかい」
『得られた情報を元に、再び検証を行います。情報の提供には感謝します』
「結構」
一朗はヘッドセットを外し、あざみに返却する。
「結構楽しかった。そろそろ時間だからお暇させてもらうよ」
「こちらこそ、ローズマリーの相手をしていただいてありがとうございます。こちら、頼まれていたものですけれど……」
「あぁ、うん。わかってる。きちんと代金は支払うし、次のアップデートまでに使う予定はないよ」
一朗は箱を受け取る。そんなずしりとした重量はない。これを入手できたのは、一朗があざみと直接的な知り合いであるからであって、本来であればこの時点で手に入るものではなかった。一朗は、いわゆる客観的評価である自身の社会地位を、目的の達成に利用することを嫌っている。何かを為しえるのは常に一朗自身でなければならないという、彼の強い意識の表れであるが、それを考えるとこれはルール違反ギリギリといったところだ。
ナンセンス。
一朗は口の中でひとことだけそう言って、あざみ社長に別れの挨拶を告げた。
「じゃあ、また今度。次に会うのはセレモニーかもしれないし、もっと早くかもしれないけど」
「はい。今晩も、ログインをお待ちしておりますわ」
「どうかな。今日はちょっと遅くなるかもしれないけどね」
見送ろうかという申し出を断って、一朗はシスル・コーポレーションの本社ビルを出た。日差しがきつい。一朗の肌はどうした理由なのか紫外線にやたら強く、メラニン色素を合成せずとも細胞核のDNAが破壊されることはない。多くの化粧品メーカーが彼の細胞をサンプルとして欲しがる理由であるが、桜子などは『ただ単にDNAがわがままなだけでは?』と分析していた。
ただ、それでも眩しい日差しは苦手だ。
来たときよりも勢いを増したように感じるセミの声だが、一朗は彼らの短い生を思えば情緒を感じこそすれ、理不尽な怒りを抱くようなことはしない。日傘を差した婦人や、ハンカチで汗を拭く老人などに混じって横断歩道を渡り、駐車場に停めたケーニッグセグの運転席までたどり着く。
桜子には、今日遅くなるので夕食は6時くらいに準備を始めるよう伝えてある。それまでに、〝所用〟をすべて片付けなければならない。
まぁ、余裕だな。
一呼吸置いた後、駐車場の砂利の上を、ブルーのスーパーカーは滑らかに滑り出した。
「ただいま」
などと言っても、出迎えてくれる人間はいない。桜子はミライヴギアの構築した仮想世界にドライブ中で、まだ起きてくる気配はなかった。時刻は夕方4時半ごろ。まぁこんなものだろう。一朗は帰宅直後、洗面所へと一直線に向かう習慣がある。荷物は一端廊下に置き、手洗いとうがいを済ませてから向かう先は、普段は滅多に足を踏み入れない、使用人・扇桜子の城である。
要するにキッチンだ。
さすがに普段から優秀なメイドが立っているだけのことはあって、埃ひとつない清潔な台所だった。顔が映るほどに磨かれた包丁が数種、用途別に使い分けるのであろうそれを、一本一本丁寧に確認する。こうした仕事を見るにつけ、世界で一番すごい人間は自分だと公言してはばからない一朗も、彼女の実力を認めざるを得ない。
さて、あまり悠長にしている時間はないかな。買って来た食材をだだっ広いシンクに広げ、棚に並ぶ調味料や他の調理器具を引っ張り出していく。
以前夕食を食べながらの話ではあるが、桜子と好きな料理について真剣に談義したことがある。彼女が真っ先に挙げたのは〝パラクパニール〟であって、次に挙げたのが〝サグチキン〟。どちらもその時テーブルの上に並べられていた緑色のどろっとした半液状の料理だ。そろそろ身体の塩分がすべて香辛料になるのではないかと言うほど、インドカレーを食わされていた折の会話である。さすがに耐えかねた一朗は翌日自らキッチンに立った。
桜子を雇ってから一年と経たない時期の出来事であるものの、一朗はそれ以降も何の気まぐれか自らの手で料理を作ることがある。1年に3度あれば珍しいという頻度なのだが、そのうちの1回は必ず7月20日と決まっていた。
フライパンの上で具材を転がし、和え、出来たものから皿によそっていく内に時間は過ぎる。2品、3品と作るうち、時計は6時に追いつこうとしていた。
なお、残念ながらインド料理ではない。
「まぁ、こんなものかな」
作ったものにひとしきり満足してから、ダイニングに運ぶ。皿を並べ、フォークとスプーンを揃え、グラスを置いて白ワインを用意する。
このワインだ。以前オオムラサキを探しに行ったとき懇意にさせてもらったワイン蔵があって、その蔵に87年物の良いワインをとっておいてもらった。こいつをわざわざ山梨まで取りに行っていたので、彼のケーニッグセグの足を持ってしても、ややあわただしい一日を過ごしてしまったのだ。神保町のカレー屋におけるあざみ社長との会食は、それなりに魅力的な提案ではあったのだが。
だいたい準備が出来た頃、時計が6時ちょうどを指す。同時に廊下越しにやたら仰々しいコクーンの停止音が聞こえ、しばらくしてから足音と共に、清楚なヴィクトリアンメイドがダイニングの扉を開けた。
「あ、あれ……。一朗さま、おかえりなさいませ……?」
「ん、ただいま」
目をぱちくりと瞬かせ、桜子は一朗の顔を見、次にテーブルの上に並べられた料理に気づく。
「お、おおう……。一朗さま、これは……」
「ああ、うん。誕生日おめでとう」
ここでまたしばらくの間を置いてから、彼女はやや気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「おぉう。覚えていてくれたんですか。朝、ガンスルーだったからちょっと寂しかったんですよ?」
「たまにはサプライズパーティーでもやってみたくなって。まぁ座りなよ」
「ではお言葉に甘えて……。なんか、一朗さまがお料理作るといっつもイタリアンかフレンチですねぇ。イメージからずれないと言いますか」
「ナンセンス。君がいっつもアジア系ばっか作るからじゃないか」
そう、7月20日と言えば扇桜子の誕生日であって、一朗が彼女のためにキッチンに立ってやる唯一の日でもある。一朗が、彼女の生年に作られたワインボトルに手をかけて、ふと、疑問を口にした。
「そういえば、なんで旧海の日に生まれたのに桜子さんなの?」
「なんででしょう、親に聞いても答えてくれないんです。適当なんじゃないでしょうか……。あ、お酒は後にしましょうよ。実はこのあと、アイリスにも祝ってもらうことになったんです」
「ん、じゃあ止そう。オレンジジュースで良い?」
「はい。えっと、ジュースは冷蔵庫の……」
「あー、ナンセンスナンセンス。いいから座っていなよ。だいたいわかるからさ」
いつもの癖で席を立ちそうになる桜子を押さえつけて、一朗は冷蔵庫から2リットルパックのジュースを引っ張り出す。
このあとはアイリスと一緒にか。悪い提案ではないな、と一朗も思う。最初に桜子の誕生日を祝ってからというもの、面と向かって彼女におめでとうを言う人間は自分しかいなかったように思う。仮想世界では腹も膨れないし、《茶道》スキルも《調理》スキルもない自分に何かを振る舞うことはできないが、一緒に『おめでとう』を言うだけでも良いだろう。
「それじゃあ、桜子さん。改めて誕生日おめでとう。これからもよろしく」
「ありがとうございます。一朗さま、こちらこそよろしく」
グラスにジュースを注ぎ、注がれながらの挨拶。一朗も席に腰を下ろし、互いのグラスを軽く打ち付けあった。ちん、という冷涼な音が静かに響く。
「これで桜子さんも僕の3つ上になるのかな」
「な、ナンセンスっ! どーせすぐ2歳差に縮まりますもん!」
ところで、この楽しい会話の後日になるのだが、一朗のもとにあざみ社長から連絡が届いた。
人工知能ローズマリーの思考パターンに明確な変化が生じたという旨のもので、『何かにつけて屁理屈をこねるようになった』『ナンセンスという言葉を多用するようになった』と綴られた後、『いったい何を吹き込んだのか』という、やや糾弾じみた内容が続いていたのだが、一朗はいつも通りの台詞で返答したとのことである。
7/22
表記ゆれを訂正
×ケーニッヒセグ
○ケーニッグセグ
ワインの年号にまつわる表記を訂正。
×26年もの
○87年もの
×生年と同じ日
○生年




