第一〇八話 御曹司、電話を受ける(1)
既に日は高く上り、道路を行き交うスーツ姿の人々も、額に玉の汗を浮かべる。クールビズが声高に叫ばれて久しい昨今だが、ヒートアイランド化が進む都心においては、さして意味をなしていると感じられない。高層ビルの窓ガラスが夏の陽光を照り返して、アスファルトを焦熱地獄へ変えていく。もうすぐ八月も終わりだが、猛暑は一向に落ち着く素振りを見せない。
一朗はカフェのテラス席に腰掛けながら、タブレット端末を眺めていた。相変わらず涼しげな顔をした一朗は、そこだけ切り取るとまるで初夏の風を楽しむ様子であるが、いかに日陰とは言え、やはり外は暑い。不快感を表に出さないどころか、汗の一粒さえ外に見せないのは、ひとえに一朗の常に優雅たろうとする美学によるものだ。石蕗一朗に限っての話であるが、時として美学は人体の常識を超越するのである。
「おう、石蕗、おつかれ」
こちらは、汗臭いのも男の魅力のひとつと公言してはばからない弁護士・著莪俊作である。一朗はちらりと顔を上げて、『うん』とだけ答えた。著莪はネクタイを緩め、胸元のボタンを外しながら、対面の椅子にどっかりと座り込む。どうやら、片付けねばならない仕事というのも終わった様子だ。
「あーそうそう、一応さ、知り合いの弁護士探しておいたから」
「ん、ありがとう」
著莪が言っているのは、一朗の無罪を証明するための弁護士だ。今回、一朗が逮捕される原因となった不正アクセスの件は、被害者がシスル・コーポレーションということもあり、シスルのインハウスローヤーのような立ち回りをしている著莪が、一朗の弁護を行うことはできない。そのため、著莪以外の優秀な弁護士を探しておく必要があったのだが、そのあたりはまぁ、さすがの人脈と言ったところだろうか。
「で、石蕗の方はどうなん?」
「ん、」
一朗は、視線だけはタブレット端末に目をやったまま、テーブルの上に積まれた書類を指した。
「おう、さんきゅ。ところでお前さっきから何見てるんだ」
「株の値動き。角紅の社長に相談を受けてね」
「如何にも日本橋らしいもの見てんな」
著莪は、一朗が示した書類に手を伸ばしながら、少し離れた場所にある東京証券取引所の建物を見た。ときおり、ニュースなどで流れる東証内部の映像などを見るたびに、周囲に『あれ見るとヱルトリウムの艦内思い出すよなー』と振ってきた著莪だが、同意を得られたことはない。
書類の量はそう大したものではなく、著莪はぱらぱらと斜め読みする。どれも英語で書かれたものではあったが、読解に支障はない。
「電子工学に脳科学に発達心理学か。よくもまぁ昨日の今日でここまで連絡をつけられたもんだ」
「全部知り合いだからね。レポートに関しては、すぐにとはいかないけど」
「まぁローズマリーの人格を認める審議までに間に合えば良いんだ。それよりも、お前はまず自分の方の心配でもしておけよ」
実際一朗の態度は、保釈中の容疑者とは思えないほどマイペースなものであった。
「君が優秀な弁護士を紹介してくれるし、僕の無実を証明するのはそう難しいことでもないんだろう。あまり心配はしていないし、必要とは思えないかなぁ」
「状況がいつもよく動くとは限らないんだぞ。ポニーの連中だって、ローズマリーが無事であると知ればどんなことをしてくるかって話だよ」
「その話か」
一朗は、若干暗い顔を作り、懐から携帯電話を取り出した。メールのアイコンをタップして、着信履歴を確認する。その様子を見て、著莪が『ああ』と呟いた。
「昨日のメールな。親父さんからなんだろ」
「ポニーの社長の話だよ。何をしてくるかわからない男だってさ」
一朗に言わせれば、父がそれを言えたことでもないと思うのだが、そのあたりを論じるのはまぁナンセンスではある。くわえて彼は、父とポニーの現社長が学生時代にどのような関係で、どのような確執を現代まで引き摺っているかなどということには、まったくもって興味がない。
ただ、実父であるところの石蕗明朗が、一朗のことを考えてメールを送ってきてくれたことには、素直に感謝である。
「例えばだが石蕗、」
「うん?」
ウェイトレスを呼び止め、注文を済ませた著莪がふと話を振ってきた。
「その何をするかわからない男がだ、ローズマリーの無事を知って、それに対して具体的なアクションを取ってきたとしたら、どうする」
「ナンセンスだね」
一朗はアンニュイ気味な声でそう応じる。
「冗談でも、そういう話は考えたくないけどなぁ。でも、もしそんなことがあったなら……」
と、そのまま視線を往来に移した。道路や街路樹の向こう側に立つ、東証の建物を眺める。
「まぁ、何かしらの手段は、取らざるを得ないんじゃないのかな」
「そうかぁ」
一朗の発するその言葉が、彼自身が望むものではないと、著莪も気づいたのだろう。それ以上何かを言ってくることは、彼もなかった。
赤き斜陽の騎士団を中心とした、隠しフィールド調査隊は、どちらかというとピクニックのような様相を呈していた。トッププレイヤー集団が参加しているとは思えないほどに牧歌的な空気だ。実際、攻略の絡まないところでは、彼らもそうギスギスはしない。もちろん、隠しフィールドで運良く何かのアイテムを入手できないかという思惑はあったのだろうが、『どうせ運営にバレたら所持品修正されますよ』という、マツナガの言葉に少しだけ肩を落としていた。
ユーリやあめしょー、ザ・キリヒツなどは、完全に好奇心だ。マツナガも、ナロファンにおける探索・検証の中心人物として、ぜひとも覗いてみたいと言ったところであろうか。苫小牧は、相変わらず何を考えているのかわからない、不思議な微笑をたたえている。
アイリス、キルシュヴァッサー、そしてヨザクラの三人に限っては、少しばかり事情が違う。
彼女たちは、この隠しフィールドがいったい如何なるもので、どのような原因によってこのナローファンタジー・オンラインに接続されているかを知っていた。だが、同時にそれがどのような理由で、今もなお接続が残されているのかが、わからない。単なるミスとも、ヨザクラ=ローズマリーに対する温情とも思えない。何かしらの、明確な目的をもって残されていると思われた。
わからないが、ローズマリーのことを隠す手前そういった事情を説明するわけにもいかないし、騎士団をはじめとした知り合い達が、その中に踏み込んでいくのを、黙って見ているだけというのも、後味が悪い。アイリス達が調査隊に参加したのは、そうした理由だ。
「ねぇ、マツナガさん」
「はい、なんでしょうかね」
便宜上ワープゾーンと呼ばれる、フィールド同士をつなぐ〝穴〟がある。そこに向かう道すがら、アイリスはマツナガにたずねた。
「もし、あたし達が、その隠しフィールドに入ったとして」
「はいはい」
「その途中で、そのフィールドがゲームから切り離されたりしたら、どうなるの?」
本来、こうした話はエドワードあたりが詳しいのであろうが、彼は相変わらずリアルが忙しいようで姿が見られない。なので、次点で詳しそうなマツナガに、意見を仰ぐことにした。
「そもそもどういったプログラムで俺たちがゲーム内を移動しているかもわかりませんからね。まぁ確定じゃないですよ」
マツナガは少し考えた後に、まずこのように断った。
「多分ですけど、接続エラーか何かが起きて、ゲームが強制終了するんじゃないですかね。サーバーダウンと同じです。まぁ、実際ナロファンが鯖落ちしたことはないんですけどね。サーバーダウンの対する公式見解はそんな感じですし、まぁ、同じようなものだと思って良いんじゃないでしょうかね」
サーバーダウン時に何が起きるか、といった公式の解答があるのは、アイリスも知らなかった。だがまぁ、フルドライブ型のVRMMOという性質を考えれば、そのような質問があることも、それに対する解答があることも、妥当ではあるか。サーバー落ちはないにしても、アイリスは処理落ちの恐ろしさと退屈さを身をもって体感したプレイヤーである。
さらにマツナガはこうも続けた。
「問題は、プレイヤーのデータに位置情報が記録されているわけですから、そうなった場合、同じアバターで再度のログインができない可能性がありますね。運営にアバターの位置情報を、正規のものに直してもらうしかないでしょう」
ひとまず運営のサポートさえあれば、致命的なデータの破損には繋がらないと見て言いのだろうか。アイリスはひとまず安堵することにした。マツナガは『希望的観測ですけどね』と付け加えたが、安心が得られたのは何より大きい。
やがて、一行は武闘都市デルヴェの奥の方に存在する廃墟街へ到着する。
「見えてきたぞ、アレだ」
先頭を行くストロガノフが指したのは、確かに〝穴〟としか形容しようのないものであった。
空間にぽっかりと、黒い渦のようなものが存在している。精緻なグラフィックを侵蝕するかのように、その渦の周囲はやけに荒いポリゴンとなっていた。騎士団のメンバーが、その渦の前に立ってストロガノフと挨拶をかわす。
アイリスは後ろを振り向いた。やはりキルシュヴァッサーは難しい顔を作っている。ヨザクラは無表情のままであるが、内心は同じところであろうか。やはり誰がどのような意図で、ここにこの〝穴〟を放置しているのかが、わからない。
「アイ、どうしたの?」
さすがに様子がおかしいことに気づいたか、ユーリが、顔を覗き込むようにしてたずねてきた。
「ん、なんでもないわ」
友人に対してこのような嘘をつくことは若干心が痛んだものの、アイリスはそう答えざるを得ない。
「やー、ゲームのバグとか不具合って、なんか心が踊るにゃー」
あめしょーはウキウキした表情でそんなことを言っている。
「VRMMOは現実に近い分、そういうドキドキが多いよなぁ」
のんきなのはキリヒト(リーダー)も同じだ。
ここで難しいことを考えていても、自体は進展しないな、というのはアイリスも思った。キルシュヴァッサーの視線を送ると、彼も頷く。楽しみに水をさすことにはなるだろうが、途中、仲間たちの目を盗んででもGMコールを送るしかない。それまではまぁ、自分たちものんきになれば良い。
「そう言えばさ、」
気分を変えるためにも、アイリスは別の話題を振ることにした。
「ヨザクラさん、御曹司のことを知るためにいろいろ話を聞いてるけど、あいつとは話したの?」
「あいつ、ですか」
ヨザクラは平坦な声音で聞き返してくる。
「そー、あいつ。話をするなら、大事なのがもうひとりいるわよね」
「ココでしょうか」
「あー、ココさんは、なんか違うかなー。御曹司はご執心だったけど、ココさん自身はフツーって感じだったし」
ヨザクラは、棒立ちのまましばし黙考した。この間にもきっと、御曹司の家のスパコンはヒートアップしていることであろう。
「芙蓉めぐみは、脅威としては認識していませんが」
「芙蓉さんじゃ……あー、そーなんだ。まぁそうよね」
大親友がいないからこそ頷くが客観的な評価としては妥当であろう。
「では誰ですか」
「あいつよ、あいつ」
アイリスは人差し指を立てた。キルシュヴァッサーも、彼女が誰のことを言おうとしているのか心当たりをつけたのか、腕を組んだまま頷いている。自然、言葉が重なる。
「キングキリヒト」
「ローズマリー達が〝禁足地〟に踏み入ったようです」
秘書がそう言うと、株式会社ポニー・エンタテイメントのCEOであるその男は、机の上に山と並べた調味料の瓶を真剣な顔で見つめながら、こう言った。
「禁足地とは洒落た言い方だなァ」
「社長はこう言った物言いがお好きだと思いましたので」
「うん、まぁそうだね」
男のデスクには大量の調味料の他、大型のサラダボウルがいくつか並んでいる。いかにも高級といったスーツの上から、フリルつきの白エプロンを着用し、男は瓶の中身をサラダボウルに投入し始めた。何やら楽しそうに鼻歌を鳴らすあたり、結構なことである。
秘書のパソコンは、シスル・コーポレーションの有するナロファンの運営システムと、一部のシステムを共有している。このあたりはシスルも、というよりは、野々あざみも大変頑固であり、システムに直接介入を行うような部分や、会話ログの自由閲覧などは共有させてもらえなかった。結局、秘書のパソコンで確認できるのは、GMコールなどの緊急性が高いもののみである。
そのGMコールに、隠しフィールドとの接続を報告するメッセージがあったことを、秘書は確認していた。発信者はアイリス。アカウントユーザーは杜若あいり。先ほど、男と秘書は直接確かめた。石蕗一朗と知り合いであり、おそらくはローズマリーとも行動を共にしている。
「その、石蕗の家からアクセスしているもうひとりのユーザーは?」
「同行しています」
「じゃあ、実行のしどきだなァ」
男は、調味料の海にロリポップキャンディーを放り込み、立ち上がる。
「秘書山くんは、その、人工知能の解体作業? っていうのを、始めてくれたまえ。僕の方は、シスルに接続を遮断するよう直接連絡をしよう」
「かしこまりました」
「あとまぁ、石蕗が何をしてくるかわからないから、防衛策はとっておかないといけないねぇ」
そう言って、男はキャンディーを口に放り込む。その後、ぼそりと呟いた。
「やはり刺激が足りないなァ」
「味覚障害なのでは」
秘書は画面を見つめたまま、至極冷静に言った。




