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掌編集

絶好のチャンス

作者: 和田喬助

 午後七時過ぎ。企画書を書き終えてノートパソコンを閉じた俺は、編集長席に座っている斎藤さんに手招きされた。

「お疲れ。どう? 企画書は一段落ついた?」

 背中まで伸びた黒髪が美しい彼女は、自分の髪を指にくるくる絡ませながらこちらを見上げた。

 人の話は相手の目を見て聞け、という斎藤さんのかつての忠告通り、しっかりと彼女の澄んだ黒い瞳を見る。相手も同様に凝視してくる。

「は、はい。ちょうど今終わりました」

 冷房が効いているはずなのに、なぜか脇汗が止まらない。それは、まるで彼女の視線が俺をどこにも逃がさぬように感じられ、金縛りに遭っているようだ。ただ、厳しい目をしているのではなく、むしろ姉や母親のように優しく見つめてくる。

「そう。うーん……」

 斎藤さんは持っているペンを回しながら考え事を始めた。俺が入社して四カ月。こんな状況で額にしわを寄せている時に彼女が考えることは、だいたい予想できるようになった。

「そうね。今日、みんなで飲みに行くわよ。高倉くんの仕事が終わったらそうしようって決めてたの」

 斎藤さんの口角が上がり、遊園地へ連れて行ってもらえて喜んでいる子どものような明るい表情を見せた。

「えっ、俺の仕事が終わるのを待ってたんですか? かまわず行っても良かったんですけど……」

 俺の言葉に、彼女は少し驚いたような顔をした。

「いくらわたしでもね、部下が必死になってがんばっている時に飲みに行ったりなんかしないわ。それじゃわたしが悪いことをしているみたいでしょ。みんなで飲んだ方が楽しいから」

 俺を待っててくれたなんて。これはもしかしたら気があるんじゃないか? そうすると、今日の飲み会は絶好のチャンスということになる。うまく行けば今夜酔っぱらった斎藤さんを連れてどこか二人になれる所で……。

 いやいや、何を考えているんだ俺は! 最初からそんな事をたくらむ男なんて最悪極まりない!

「言っておくけどね――」

 斎藤さんが頬杖をつきながら、ふふっと笑った。

「あなたがわたしを酔わせるなんて十年早いわよ?」

 まさかと思い、窓に写っている自分の顔を見てみると、予想通り鼻の下が伸びていた。たぶん、顔も真っ赤に染まっていることだろう。

 斎藤さんが席に座りながら部署の人間に飲み会のことを話し終えると、俺は急いでトイレへ向かった。一旦落ち着かないと、このままでは興奮して鼻血が出てきそうだ。


 居酒屋ののれんをくぐったのは、午後八時前のことだった。会社から歩いていく際、斎藤さんは常に先頭にいて、時折片足で回り始め、挙句の果ては「もう酔ったんですか?」と俺の先輩たちに笑われるしまつだ。

「いらっしゃいませ! 本日は四名様ですか?」

 まだ二十歳過ぎたばかりと思われる女の子が出迎えてくれた。そうよ、と斎藤さんが答える。

「小上がりでよろしいですか?」

 よく店内を覗きこむと、カウンター席はすべてスーツ姿の中年層で埋まっていた。みなさん、そんなにストレスたまっているんですか?

「ええ。いいわよね?」

 上機嫌で斎藤さんが俺たちへ向いた。上司にはできるだけ逆らわない方がいいという事を教えてくれたのも、彼女だ。だからここはもちろん――

「はい、斎藤さんに従います」

 と答えるしか選択肢がなかった。


 席に座って注文を終え、二分後に四つのビールジョッキが運ばれてきた。斎藤さんがいち早く手を伸ばして取っ手をつかむ。

「それでは、仕事お疲れ様! 乾杯!」

 彼女の音頭で、きれいな音が鳴り響いた。俺は対角線上に座っている斎藤さんのジョッキへ最初にぶつける。

「プハァ! やっぱりビール最高! しばらく我慢していた甲斐があったわ」

「えっ、斎藤さんとあろう方がどうしてそんなことを?」

 俺の隣に座っているメガネをかけた先輩が尋ねた。

「それはもちろん、仕事に集中するためよ。たまーに飲むから酒はおいしいんだから」

「斎藤さん、早く食い物を頼みましょうぜ」

 俺の前に座っている八谷という先輩がメニュー表を開く。

「そうね。ええと……とりあえず、串物を適当に頼んでおいて」

 どうやら彼女は、飲む方に専念したいらしい。すでにビールは半分しか入っていない。

 俺は焼き鳥が大好物なので、結局それしか頼まなかった。先輩方は他にもいろいろ注文していたが。

「高倉くん」

 ジョッキを置いた斎藤さんに呼ばれた。ちり紙で紙飛行機をつくっていた俺は、すばやく顔を上げる。

「もうすぐ小説大賞の締め切りだけど、覚悟してる?」

「え、どういうことですか?」

 すると、八谷さんに鼻で笑われた。酒に弱いのにビールを飲んでいるものだから、顔がタコみたいに真っ赤だ。

「あのな、お前は初体験かもしれねぇけどよ、次々と上がってくる小説を読むのってめちゃくちゃ大変なんだぜ?」

 そこで言葉を切り、再びジョッキの中身を流しいれた。今度は、隣に座っている三宅さんがこちらを向く。

「ストーリー・世界観・キャラクターの三要素をしっかり把握することは斎藤さんから聞いたと思うけど、他にも誤字脱字やたくさんのことに神経を張りめぐらさなくてはならないんだ。とてもきつい仕事さ」

「そう。だから、企画書なんかでつまづいてちゃいけないの。これからが大事なのよ。貴重な人材をゲットするチャンスなんだから」

 斎藤さんがジョッキを空にした。

「そうなんですか……。分かりました。貴重なアドバイス感謝します。編集者のはしくれとしてがんばります!」

「そうだ、その意気だぜ。上手くいけば斎藤さんに変わって編集長になれるかもな」

 八谷さんが俺の頭をかきまわす。もう酒は控えるように言わなくては。

「ふふっ。このポジションは私のものよ。まあ、副編集長くらいにはしてやってもいいけど」

 今の彼女の言葉をまじめに聞きとってはいけない。たいてい次の日には忘れる。


「……ちょっとトイレに行ってくるわね」

 鳥串にパクついていると、斎藤さんは立ち上がって店の奥へ消えていった。彼女は酒には強いから、吐いているわけではないだろう。

「おい三宅」

「なんだい?」

「斎藤さん、絶対生理だぜ」

 突拍子もない言葉に、俺はむせてしまった。

「……まあ、そうかも分からないけど。どうしてそう言い切れる?」

「飲んでる時にめったにトイレに行かない斎藤さんだぞ。それしか考えられないだろ」

「いや、もしかしたら○○かもしれない」

「ハア? ここ居酒屋だぜ? そんな真似するかよ」

 すっかり酔っぱらってしまっている笑い上戸の二人は置いといて、俺はかなり盛り上がっている隣のグループに目を向けた。

 二十代前半くらいの八人の男女が分かれて座っている。どうやら合コンらしい。うらやましいなー。

 ふと、女性陣の真ん中あたりの子に目が止まった。地味な服装だが顔立ちが整っていて、おとなしそうな印象だ。かなり人気らしく、男性陣から注目のまなざしを受けている。

 女性陣は俺のななめ向かいの位置なので、彼女の表情をうかがい知ることが出来る。どうもさっきから、彼女の方から視線を感じていた。

 あの子、近くにいる男共は眼中にないのか? ――ということはもしかして、俺に気がある?

 さすがにあのグループに乱入する勇気をもらうほど、アルコールには弱くない。気付かれないように、そっと様子を見ることにした。

「ただいまー。お待たせ!」

「あ、斎藤さん。トイレで何してたんですか?」

「レディに対してそれは禁句よ、八谷。これ以上口を開くなら、ここでぶっ倒れても他人の振りするから」

 いくら酔っていても、さすがに斎藤さんの怒りを買ってはならないことは覚えているらしい。

 それにしても、隣はかなり盛り上がっている。女性陣の方から放送禁止用語が飛び出していて、それを肴に話がはずんでいる。

 おとなしそうな女の子はどうしているのかというと、やはり俺に向かってまなざしを向けてくる。それはまるで助けを求めているように見える。俺に話しかけるきっかけをうかがっているのだろう。

「初体験はもう済ませた?」

「最初はどんな感じだった?」

 俺なら喜んで話に参加するところだが、さすがにあの女の子にはこたえるようだ。

 それなら、俺が連れ出してあげようか。そうすれば感謝されるだろうし、アドレスを交換するきっかけにもなる。

「フフフ……」

 思わず感情がもれてしまった。だが、上司や先輩たちは男女の恋愛観についての話で盛り上がっている。気付かれてはいない。


 一時間が過ぎても、彼女に動きはなかった。ひたすら俺を見続けただけだ。

 よし。こうなったらあの子が店を出ていく時に俺も行こう。もしこっちが先に終わったとしても、うまく斎藤さんをごまかせば大丈夫だ。彼女、絶対俺に気がある。間違いない。

「よーし。次の店に行くわよ!」

 斎藤さんが二人を連れてレジの方へ向かう。俺は忘れられているのか。バッグを持って急いだ。

 斎藤さんが会計を済ませ、のれんをくぐった。俺は一番最後に店を出る。

「――すみません! ちょっと……待って……ください」

 若い女性の声が背中から聞こえた。振り向くと、なんとあの俺の彼女候補が目の前に立っていた。

「これ、受け取ってください!」

 そう言って紙切れを俺に押し付けると、また店の奥へ去っていった。

「高倉くーん、もしかしてデートのお誘い?」

 ほおを赤く染めた斎藤さんが覗きこんでくる。

 もしかしたらこれって……。俺は横線の入ったメモ用紙を開いた。

〈隣でうるさくしてごめんなさい〉

 ……俺は何も考えずに、ポケットへとねじ込んだ。


 翌日の昼、斎藤さんと会社の近くにある牛丼屋で腹ごしらえをしていた。

「その女の子、よっぽど心配症なのねぇ……」

 昨日の二次会で、俺はあの出来事を話してしまった。斎藤さんがこちらを向く。

「でも、視線があっただけで気があるなんて、普通思う?」

「いえ、一回ではなくて何回も目があったんですよ。あの時酔っていなくても、世の男たちはそう受け止めます」

 俺の言葉が終わったと同時に、斎藤さんがガタッと立ち上がった。

「ど、どうしたんですか?」

「掌編のアイデアが浮かんだわ。上司に飲み会へ誘われた青年が、理想のタイプの女の子に出会うの。でもそれは、結局男の勘違いだった。……これいけるわ」

 その青年って俺のことですよね、と訊く前に、彼女はさっさと席を離れ、

「支払いよろしく!」

 という言葉を残して店から出ていった。

「まったく、すばらしい行動力だな」

 俺は財布の中身を確認すると、今月は少し節約しなくてはと心に決め、千円札を出した。


 財布の中に、きれいにたたんだメモ用紙を大事に保管している。いつか会えるといいなぁと想いながら。胸まで控えめな彼女は、俺の好みだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  主人公の心情が丁寧に書き込まれていてその変化を追いやすく、心地よく読むことができました。 [一言]  電話番号は!? アドレスは!? メモの裏を見ましょう! いや、あぶり出しかもしれない…
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