03
今日も海は凪いでいる。空も青く晴れて、暑いことは暑いけど、何しろ真夏なんだから当然だ。
まだまだ背は立つところだが、少し沖では、浮き輪につかまっている美佐緒を、カオルが引っ張って遊んでやっている。俺はといえば、今朝の失言のせいで、罰としてユキに一日くっついていなきゃならない。ちなみにユキは、睡眠不足でだるいって言って、パラソルを立てた下のデッキチェアで寝てる。一晩中カオルを苛めてたそうだし……、さぞ眠いだろう。カオルは、『ユキに絞られまくったけど、一方的にやられて、朝方には解放してくれたから』……、よく眠れたそうだ。訊くんじゃなかった、という気もする。
「退屈そうだね」
ユキが声をかけるから、俺は顔を上げた。
「飲み物か? タオル?」
何しろ会社で、おっさんの使い走りばっかりやってるから、もう慣れている。俺が座り込んでいたシートの端にはクーラーボックスが置いてあって、結構、色々入ってた。
「ううん」
「じゃあ何か、掛けるもの?」
薄手のパーカーだけじゃ、日陰の風に当たって寒いのかもしれないと思った。
「チカ、ここに来て」
「あん?」
うかうかと身体を伸ばし、膝立ちでユキを覗き込む。がっちり捕まって、引き寄せられた。
「おい何すんだよ大声出すぞ」
「どうぞ?」
確かに、カオルは気づいたってどうってことないだろうし、美佐緒は……、どういう反応するか分からないけど、気にしないのかもしれない。引っ張られてキスされる直前に、テーブルの上の眼鏡が見えた。全部、計算ずくか。ふざけて唇をつけてくるときはそのままだが、本気でキスを仕掛けてくるときは、こいつは眼鏡を外す。それを見たら、やばいから俺はとっとと逃げ出すことにしているが……、あんまり成功はしてない。
「ユ……キ、やめ……」
「ふふっ。今日は、僕の言うことを何でも聞く約束だよ」
そんな約束をした覚えはない。やっと唇が離れたから反論しようとしたが、そのとき、カオルの声が聞こえた。
「おい! 美佐緒?」
俺たちは驚いて、海面を振り返った。カオルと浮き輪だけが見える。すぐにカオルが潜ったんだが、俺の横にいたユキも、いきなり走って海に飛び込んだ。あいつが泳げることに驚いたくらいだ。もちろん、ユキが二人のところに着く前に、カオルが美佐緒を引き上げていたし、それから美佐緒をユキに渡して抱かせ、並んで帰ってくる。何の役にも立たなかった俺だが、一応バスタオルを敷いたりして待ってた。でも、美佐緒がピクリとも動かないから……、胸が苦しくなってきた。
「あ、あの……、美佐緒は?」
「ああ……、うん」
顔色の悪いユキが要領を得ない返事をして……、俺はますます、嫌な感じが強くなった。本当に何かあったら、ユキやカオルが大騒ぎするとは思うが、逆に、動揺しすぎて感情を失っているのかもしれない、とまで思う。そしたら、ユキがいきなり美佐緒の背中を強く叩いた。美佐緒は何度か咳き込み、それから、めそめそと泣き出す。
「怖がって、固まっただけだよ」
「……良かった。俺、そういうの、すごい苦手で……」
やっとそれだけ言って、俺が脳貧血でひっくり返った。情けない話では、ある。
次に気が付いたら、ベッドに寝かされていた。同じ部屋に、カオルも、ユキもいる。二人はちゃんと着替えて、椅子に座ってた。
「大丈夫か、チカ」
カオルが心配そうにのぞき込み、ユキも続ける。
「怖がらせて、ごめんね。美佐緒があんまりバカだから、腹が立って、無言になっちゃった。浮き輪から抜けてしまったんだよ。背の立つことも忘れ、溺れかけたのだと思う」
「おれこそ、済まん。黙って引っ張り上げればよかったんだが、美佐緒がふざけてるのかと思ったのに、すぐに顔を出さなかったから慌てちまって」
「ううん。で、今は?」
美佐緒はどうなったんだろう。
「お風呂に入れて、昼寝させてる。そのうち起きて、またまとわりつきに来るだろう」
割と冷たくユキが言ったけど、どうせ元からこんな調子だし、さっきの、俺しか見てない慌て具合を思い出すと……、結構面白い。
「そうだよな、海水だし。二人もシャワー浴びて、着替えたんだろ。俺なんかも、」
起き上ろうとして、何か違うものを感じた。そうだ。俺はそれなりに濡れた海パンを穿いていたはずだ。何故……、乾いたバスローブをまとわされているんだ……? それも、それ一枚だけ……。
「ええっと、俺……、着替え……、あの……」
「濡れたものを身に着けていたら、気持ち悪いしね」
ユキの言葉が、耳に刺さる。非常に訊きにくいが、勇気を出して訊こう。
「二人が着替えさせてくれたのか……」
俺の裸を見たのか。身体に触ったのか。他の男なら、ちょっと恥ずかしいくらいで何でもないが、こいつらは、非常に危険だ。
「軽く温水シャワー浴びさせてから寝かせといたぞ。やっぱ男だからな、結構重かったぜ」
「カオルったら、僕に美佐緒を押し付けて、自分がチカをずっと抱いてたんだよ。腹立たしい」
「でも、チカを脱がせたのはユキだろ。布地が引っかかったとか言って、白々しく触ってたじゃないか」
「自分だって。可愛いなーとか言って、目を離さなかったじゃない」
何に触ったのか、何を可愛いと言って見ていたのか……、は、考えたくない。俺はまた、目が回ってくる。
「チカ? 大丈夫?」
「顔色が悪いな。熱があるんじゃね?」
熱も上がるよ。おまけに、震えも来た。
「寒いの? 温めるのなら、人肌だよね」
「添い寝しようぜ」
「頼む。一人で寝かせてくれ……」
俺は頭から肌掛けをかぶって、潜り込んだ。
後々、ユキに絡まれるかもしれないとは思ったが……、当面の危険を回避するために、俺は美佐緒と一緒にいることにした。もちろん、二人で風呂には入らないし、身体に触ったりも触らせたりもしない。だが、美佐緒とは仲良くなった。スキンシップがなくても、他人と仲良くなれるんだって、美佐緒も理解したと思う。
夏休みは終わったが、まだまだ暑い。そんな中を俺は書類を提出しに役所に行って、てくてく帰ってきた。三時のお茶が終わってから行けと言われて、窓口が閉まるぎりぎりだったし、これから会社に戻ったら間違いなく、おっさんたちは誰もいないだろうと思う。
役所から地下鉄の駅までの道は、レンガで舗装された歩道にファッションビルが並んでいて、まあ俺とは違う世界の人間が出入りするんだろうけと……、歩道のガードレールのところに、中学生くらいの子が二人、日傘を差して立っているのに気づいた。一人はスカートで、もう一人はズボンだが、上は同じだから制服のようだ。最近は全く同じものじゃなく、色々選べるとかいうからな。どこのお嬢様だか知らないが、子供のうちから日傘かと思って、いっそ気の毒になる。通りすがりに何の気なしに目をやった俺の、足が停まった。それこそ『傘のうち』とはいえ、とんでもない美少女だったのだが……。
「美佐緒?」
「チカお兄ちゃん!」
美佐緒が嬉しそうに俺を呼んだが、もう一つの声もかぶさる。
「チカちゃん?」
美佐緒と一緒にいたのは、こっちは本当にスカートをはいた女の子で、あの、白石社長の娘さんだった。
「ミサ、チカちゃんを知ってるの?」
「白石さんこそ。チカお兄ちゃんは、ボクのお兄ちゃんのお友達だよ。会社の夏休みに、みんなで大磯のおうちに来てくれたから、一緒に遊んだんだ」
「ずるいわ、ミサだけ……。どうしてわたしの家には遊びに来てくれなかったの、チカちゃん」
呼び方も、関係を表しているようだ。どうも、女性の方が強いらしい。そして、彼女は美佐緒に向かって言葉を続けた。
「あのね。チカちゃんは、わたしのママの弟なのよ。だから、わたしの叔父さん」
「ええーっ」
美佐緒は驚いたが、俺も驚いた。そんな風に、言ってもらったことに、だ。
「……知香ちゃんのママが、そう言ったの?」
彼女の名前は、知香。ただの偶然だが、おかげで俺のこともチカちゃんと呼んで懐いてきたんだ。
「そうよ。また絶対、遊びに来てね」
「いいなあー。白石さんって、チカお兄ちゃんと親戚なんだ」
「うん。だけど、血が繋がってるから結婚できないって、パパに言われたの。がっかりだわ」
ませているというか、極端な発想だ。子供らしくて可愛いとも言えるけど。それでも、俺なんかのことを『叔父さん』って呼んでくれるのか。『オジサン』じゃないことを祈ろう。
「二人とも、こんなところで、どうしたの?」
「ミサが、タマちゃんに会わせてくれるっていうから待ってるんだけど。……本当に、知り合いなんでしょうね?」
じろりと美佐緒を睨む。割と怖い。
「タマちゃんって?」
「タマキお姉ちゃん。もうそろそろ、出てくると思うんだけど」
綺麗だから、と振り袖や女の子の服を着たがる美佐緒を、カオルの姉、いや戸籍上は兄の環さんが、自分の所属するモデル事務所に連れて行った。最初は普通の美少女だと思って、和風で可愛いけれど、女の子はたくさんいるし……と難色を示したところで性別を知って、事務所側はころりと態度を変えたらしい。おまけに、嫌々ながら付き添ったユキまでスカウトされそうになり、あいつは激怒して帰ってしまったとのことだ。まあ、性格と性癖に難がありすぎて目立たないが、ユキは確かに綺麗な顔をしてる。だからこそ、美佐緒が憧れるんだろう。
結局、仕事をするまでには至らないが、美佐緒は環さんに連れられて、事務所に出入りすることもあるらしい。そして、環さんはたまに雑誌に載ったりして、一部の女の子に人気があるそうだ。宝塚的な感覚なのかもしれない。
やがて現れた環さんが、俺を見て嬌声をあげて抱きついてきて……、知香ちゃんが色んな感情で泣きそうになり……、環さんの弟とも友達なんだって一生懸命説明して宥め、環さんも謝ってくれて……、機嫌を直した知香ちゃんは皆で写真を撮って、美佐緒と一緒に帰って行った。
「可愛いわね。お似合いじゃない?」
環さんに言われて、俺も頷く。
「かなり女性上位ですけどね」
「アタシとチカも、お似合いだと思うわ」
腰に手を回してくるから、俺はがくがくに引きつった。
「似合いませんって」
「ウフフッ」
環さんは俺をまた、ぎゅっと自分に押し付けて……、本物の女ならふんわり柔らかいんだろうが、ただ単に、逞しい腕に抱かれている感覚だ。だが、そんなにでかくはない。ハイヒールの分で、俺より背が少し高くなってる程度だ。おまけに、何というか……いい匂いがする……。髪も、頬も柔らかいし……。拙い。惑わされそうだ。俺は必死で、他のことを考える。
「環さんって」
「なあに?」
「この時間でも、ヒゲ伸びてこないんっすね」
環さんは無言で、俺の背中を思い切り叩いた。やっぱり、カオルの兄だった。すごい力で、俺は息が止まるかと思った……。
(了)
お読みいただき、ありがとうございました。世の中は女性の方が強い……のかな?