02
素直すぎる美佐緒に、危うさを覚えるチカ。少しシリアスです。
想像通り、クソでかい屋敷で昼飯を食わせてもらって、午後は海辺でダラダラ過ごした。敷地内の砂浜で、文字通りのプライベートビーチだ。ユキが俺をしっかりガードしてるもんだから、美佐緒はずっとカオルと一緒に、海で遊んでた。それで疲れたのか、夕飯の後は、眠いと言って早めに引っ込む。こっちは……、ユキが使ってるという離れの洋館の二階に、客間を二つ用意はしてくれてたんだけど、ユキがさり気なくカオルの背を押して、自分の部屋に連れ込んでしまったから、用意してくれるのは俺の分の部屋だけでよかったんじゃないか……、と、余計なことを考えてしまいそうだ。だが、逃げ回らなくて済んだのは有難い。何しろ普段は、俺を玩具代わりにして、二人が取り合ってるからな……。
ゆっくり眠れて、翌朝は早く目が覚めた。バルコニーから外を見たら、だだっ広い庭を、美佐緒が大きな犬に引っ張られて歩いてる。あれじゃ散歩にならないだろうと思いながら、一応声をかけた。
「美佐緒、早起きだな」
「チカお兄ちゃん」
結局降りて行って、俺が犬と一緒に走り回った。ユキが『見るからに受くさい』などと言ったように……そのときは理解できなかったが……、俺は母親似だし女顔だし、正直言って貧弱な身体つきだが、一応、美佐緒よりは体力もある。懐かれるのは年寄りと小動物だけじゃなかったらしく、この犬にまで懐かれた。
「はー、疲れた。朝飯が美味そうだ」
犬は満足したようだが、俺は芝生にへたり込んでしまう。隣で美佐緒が、可愛らしく笑った。
「ありがとう、チカお兄ちゃん。それから……、昨日のことも、ありがとう。優希お兄ちゃんの前だと、ボク、緊張しちゃって上手く話ができなくて……、今まで、変な子だって思われてたかも……」
避けられてたのは、気付いてたんだろう。どんなに嫌われても、こいつはユキが大好きだったんだな。
「俺は何もしてねーよ。カオルみたいに、泳ぎも教えてやれねーし」
「後で、お部屋に行くよ。ちゃんと、お礼をします」
「何言ってんだよ、」
水くさい。それこそ、カオルやユキにいつも言われてる台詞が口から出かけたが、そこで止まった。礼なら、今ここで言ってるじゃないか。
「美佐緒……。部屋で、って……何をしようと……」
「チカお兄ちゃんが決めて。ボクは言うとおりにするから。一緒にお風呂に入ったり、ボクの身体を触ったりとか……、痛いのは嫌だけど、チカお兄ちゃんなら、我慢する」
美佐緒の言葉に、ぞっとした。こいつはもう、小さな子供じゃないのに。どこの誰が、そんなことが礼になると……教え込んだんだ……? っていうか、非常に可能性の高い人物が、つい脳裏に浮かんでしまう。俺は思い切り頭を振って、その妄想を追い出した。仮にも、弟だ。あいつがいくら変態でも、そこまではしないはず。自分で……それこそ仕込んでおいて……、嫌うというのも考えにくい。それとも、俺たちの知らないところで、『可愛がって』いるのか……? 苛めれば歓ぶのだと、言っていたし……。
「俺は別に、そんなことされても嬉しくないよ。美佐緒がさっき、ありがとう、って言ってくれたので十分だ。……、誰か、そんな風にして喜ぶような奴、いるのかな」
途中で止めれば良かったのに、つい、訊いてしまった。もしかしたら、恐ろしい返事が返ってくるかもしれないのに。
「うん。パパのお弟子さんの男のひととか……、ボクと二人きりになりたがったりして。服を脱いでくれとか、触らせて、とか言うの。ボク、もっと小さいときに、優希お兄ちゃんが、」
ユキの名前が出た。これ以上、聞いたら駄目だ。そう思ってるのに、制止できない。
「裸のお兄ちゃんに、お弟子さんが……何か謝ってたのかな、って思ったんだけど……、跪いて、脚に縋ってたのを見たの。お兄ちゃんは普通だったけど、お弟子さんのひとは嬉しそうだったし、普段から、そのひとたちはお兄ちゃんの言いなりだった。だからきっと、お礼かご褒美だったんだなって思った。それで、ボクが大きくなって、別のお弟子さんたちがお願いしてきたから……、触らせてあげたりしたら、みんな、喜ぶから」
……いや、あいつがそんなことをさせていたのは、素だと思う。言えないけど。そして、間接的にはユキの影響だったとしても、あいつが直接、美佐緒に手をかけていなかったことに俺は安心し、それから、疑ったことを申し訳なく思った。
「そうでもないよ。美佐緒だって、大人の男に触られるばかりじゃ、気持ち悪いだろ? もう少し大きくなったら、」
普通に女の子を好きになって、手を繋いで街を歩くかもしれない。そういえば社長の娘あたりと、年も釣り合う。『叔父』としては、どうせならこんな優しい少年と付き合ってくれると有難いんだが。
「そうだね。優希お兄ちゃんみたいになりたいな」
おい。それはやめろ。……言えないけど。
「おはよう」
頭の上から静かな声がして、俺の髪を細い指が梳いていく。
「ああ、ユキ。おはよ」
拙い。非常に拙い。こいつがこんな落ち着いた態度をとるときは、内心、めちゃくちゃ怒ってるんだ。……それを知ってる俺も情けないが。
「散歩が済んだのなら、繋ぎ直してくれば?」
「はい、優希お兄ちゃん。じゃあまた、朝ご飯のときに」
美佐緒は何も気づかず、犬を連れてその場を離れる。俺は緊張しつつ、ユキの言葉を待った。俺の頭を触っている手にかなり力が入っていて、実は痛い……。
「部屋に戻ろうか」
「あ、うん」
腕を掴まれ、ほとんど引っ張られるみたいにして、離れに戻る。俺が使ってた部屋に入ったとたん、ドアもろくに閉めずに、ベッドに押し倒された。
「あいつに、何をされた? くそっ……、僕としたことが、油断していた。昨日はずっと目を配っていたから、大丈夫だと思っていたのに……」
「大げさだなー。何もされてないよ。犬に引っ張られてるから、代わりに散歩させてやっただけだ」
「……もういい。僕が全部、忘れさせてあげる。どうせ、チカを誑かしにかかったんだろう。あの可愛い顔で、何て言って誘ってきたんだい?」
「ユキの考えすぎだって」
俺は何とか言い返したが、ユキは聞く耳持たない。
「カオルも危ないから、一晩かけて、やっとこっち側に引き戻したのに。ただの子供じゃないか、なんて言い張るから……、音を上げるまで苛めちゃったよ。おかげで睡眠不足だ。その隙にあの性悪が、朝早くからチカを狙ってきたとはね」
「カオルの言ってることが正論だし、結果的にお前らが仲良く一晩過ごせたならそれでいいけど……、美佐緒は本当に、ただの子供だろ。お前のことが大好きな」
「僕は関係ないし、チカまで誑かされたと思えば、いっそう憎い」
もう、どっちが子供だか分からないくらいだ。それでも、俺にも少し、負い目がある。
「分かったよ。ちゃんと話すから……」
そう言ったら、やっと腕が緩んだ。こいつはカオルみたいに見かけはごつくないけど、細いくせに筋肉がついてて、かなり力はある。おまけに合気道だか何だか知らんが、俺を押さえ込むのなんか簡単なんだ。
「犬の散歩させてやったことと、」
「どうせ、チカが起きるのを待ち伏せしてたんだ」
ユキが憎々しげに口を挟むから、俺はちょっときつめに制した。
「俺の話を聞けよ」
「……ごめん」
結構、素直に退く。自分でも大人げないって、分かってるんだろう。
「昨日、ユキにちゃんと好きだって言えたことを、俺のおかげだからありがとうって言われた」
「ふん」
「そんで……、怒らないで最後まで聞いてくれよ? お礼がしたいから、部屋に行っていいかって言い出して……、来てどうするつもりなんだって聞いたら、一緒に風呂に入ってもいいし、身体を触ってもいいとか言うからさ、」
「何だって!」
ユキが飛び起きる。俺はその腕を、慌てて掴んだ。
「だから最後まで聞けって。そんで俺はびっくりして、そんなの別に嬉しくないし、ありがとうって言われただけで十分だよって答えた」
「どうせ、あの性悪には分からないだろう。また誘ってくるに違いない」
「そんな風に言うなよ。弟だろ? それに、どこの誰だか知らんけど、あいつを玩具にして歓んでる大人がいるらしいんだから、兄貴のお前が護ってやれよ。一緒に風呂に入ったり、身体を触られることが、お礼になるって思い込んでるから……、俺、可哀想になって……」
「……きっとそれも、新しい手管だ。チカみたいな優しい大人の同情を惹いて、それから……」
ユキの憎まれ口も、少し調子が弱くなってきた。そしていったん言葉を切り、俺を見つめてくる。
「でも、僕のせいだとは言わないんだね」
「うん。だってユキは、子供に興味はないんだろ。それに、是非も分からない子供を、言わば騙して引き込むなんて、ユキはそんな人間じゃない。力ずくでねじ伏せるのも、人の弱みに付け込むのも嫌いだって言ってたし」
「……。ありがとう」
今度は嬉しそうに俺に抱きついて、また、ベッドに倒れ込む。もしかして『お礼』をされそうで、俺は焦った。
「でもごめん。本当は一瞬、疑った。美佐緒と話してるうちに分かって、ユキに申し訳なく思ったくらい」
だから、身体でお礼はしてくれなくていい。そう言いたかったんだが……。
「ふうん。じゃ、チカにお詫びをしてもらわなきゃ。ちょうどベッドの上だし、身体で払ってくれていいよ」
「俺、そこまで悪いことはしてな……」
「どうしたんだ?」
ドアも開けっ放しだったし、物音に気付いたカオルが覗き込んできた。もちろんカオルは騒ぎ立てるようなやつじゃないし、どっちかっていうと参加したがるだろうが、声をかけられてユキの力が緩んだところで、俺は何とか、ベッドから落っこちて逃げた。
「おはよう。チカが僕に失礼なことを言ったからさ、身体でお詫びをしてもらおうとしてたところ」
「えー、いいなあー。おいチカ、おれにも何か、失礼な発言しろよ」
「んな恐ろしいこと、できるかよ」