01
夏休みは三人で、ユキの自宅がある大磯に出かけることに。
「夏休みはどうすんだ、チカ」
カオルが訊いてくるから、俺は首を振った。
「特に考えてない」
休暇は三日だけだが、有休の一斉取得とか、他の週を勝手に週休一日にして振替され、結局、全社員が一週間くらい休みだ。とはいえ、別に予定もなければ、旅行するほどの余裕もない。
「一日くらい、母親の顔見てくるかな。後は、帰ってきてダラダラしてるよ。留守番がいると思って、そっちはゆっくりしてくるといい」
「寝言ぶっこいてんじゃねーよ。おふくろさんとか、父方の親戚の方で何かあんのかと思って、ちっと遠慮したらこれだ。じゃあさ、大磯行こうぜ」
「大磯?」
会社の保養施設でも、あっただろうか?
「僕の家だよ。まあ、海は近いね」
ユキに言われて、俺はぽかんとした顔を、そちらに向けた。
「自宅って、都内じゃなかったっけ」
こいつら二人は、別に、寮に住まなきゃいけないような身分じゃない。ユキは父親の後妻さんや、腹違いの弟の美佐緒と暮らしたくないだけで……第一、学生のとき……高校を一年飛ばして海外の大学を二年で出て、戻ってきて三年次から学士入学した後はまた一年で出て、大学院を卒業したというすごい経歴の持ち主だが……、とにかくその間は普通に部屋を借りて一人で住んでたらしいのに、軽い気持ちで入寮の希望を出したらしい。カオルなんかは、それこそ親兄弟とも上手くやってるってのに、一人暮らしをしてみたいから、ってことで希望を出したという。……で、ちょっと問題のある俺を預けるのにちょうどいいからって、人事が二人に依頼して、俺と三人で暮らしてる。初めは俺にその事情を隠してたから普通に街中の3LDKだったが、色々あって、結構高級なマンションに移った……けど、相変わらず三人だ。俺なんかには似合わないから落ち着かないけど、トイレや風呂がでかくて、複数あるのは助かる。つか、各自をワンルームにでも入れてくれれば何の問題もないんだが、人事部長も、その上の社長も、俺たちは三人セット、と見なしてる。下手をすると俺の給料より高い家賃がかかりそうなんだけど、俺たちの負担は、ない。光熱費も会社持ちと言われたが、さすがに俺がごねて、実費を三人で分担してる。週に一度、ルームクリーニングの人が来るので、男所帯でもそうそう汚れてはいない。
「本宅は大磯。都内にも一応、手狭なのがあるけど」
手狭とは言うが、絶対、でかい家に違いない。
「カオルなんか、チカと一緒に海で遊びたいだけなんだよ」
「海外行くのも、時間が勿体ないからな。都内のホテルに泊まって、プールで遊んでてもいいけど。大磯なら、旅行気分も味わえるし」
その前に俺には、金もない。だが、それを口にするような二人じゃない。
「じゃ、決定な!」
カオルがすごい楽しそうに言うから、俺もつり込まれて頷いた。
夏季休暇の少し前、カオルと俺が平日休みの週に、ユキも勝手に有給休暇をとって、三人で俺の母親に会いに行った。休みは友達の家に泊まりに行くから、その前に平日休みのときに顔を出すとは言っておいたし、これから行くとも言ったけど、朝出ようとしたら二人ともついてくるって言い出して、ユキなんかその場で電話で有休申請するし、帰ってきても翌日叱られるんじゃないかと心配したが、本人は全く平気な顔だ。カオルは前の晩にココナッツクッキーを焼き出して、どえらく可愛いラッピングまでして……お土産に持たせてくれるらしいけどこっちは恥ずかしい、もしかして、いもしない彼女が作ったと思われたらどうしようと思ってはいたが、普通に本人がついてきた。そんで……、俺の母親を見た二人はまあ、想像通りと言うか……何しろ俺は母親似だし……なんかもうすごい気に入ったみたいで、やたら愛想がよくって母親も戸惑ってたけど、俺に仲のいい友達がいるんだって知って、安心したみたいだった。
「千佳をよろしくお願いします」
母親が頭を下げたら、あの二人が文字通り駆け寄るから……、いつも俺にするみたいに、抱きつくんじゃないかと冷や冷やした……。
父方の親戚、っていうか……、社長の自宅にも、一度呼ばれた。そっちは逆に、心細いからってカオルとユキに頼んだのに、一人で行ってこいと言われた。仕方なく、っていうか当然は当然だけど、緊張しながら行ったら、奥さんを紹介された。社長はこの家の、入り婿になる。奥さんが、先代の会長の娘さんだ。俺の母親より少し若いくらいに見えた。
「家内だ。ミユキという」
ゆきという音には、きっと千の字がつくのだろう。同じ字のついている自分がいて……、申し訳なく思った。
「美しいに千と書きます。いつも、ミチって読まれたわ。あなたも、そんな目にあったのでしょう?」
柔らかく微笑んで言うから、俺は黙って俯いた。一言でも何か言ったら、子供みたいに泣いてしまいそうだった。
「……ごめんなさい。わたし、あなたが生まれたころはまだ学生で……、父が、信じられませんでした。母はずっと前に亡くなっていたし、本当に、あなたのお母様を愛していたのだと思います。でも分からなくて、ひどく不潔だと思って……、おまけに、わたしの味方だと思っていた親戚たちも、生まれたのが男の子で、親子関係も認められた途端に、手のひらを返したようになったの。父が、後継ぎを欲しがったのだと考えたのでしょう。それなら、子供だけでも引き取らなくてはならないって言い出して。けれど、あなたたちはいなくなってしまった。わたしはほっとして、父の様子を見に行ったら……、とても、落胆していました。十も二十も年をとったみたいに見えて、わたしに……、弟を連れてこれなくて、ごめん、って謝ったの……」
声が震えて、言葉が途切れた。ここは、意地でも俺が何か言わなくちゃならないと思った。
「そのころ、知らない子供が家に来たら……、きっと嫌で嫌で、苛めまくったかもしれませんよ。だから、良かったんです」
ユキのことをちょっと思い出して、笑い話にしてしまった。そして、保育園の運動会のときに話しかけてきたおじいさんは、本当はそんなに年寄りじゃなかったんだ、なんて思う。
社長の家には、十二歳だという女の子がいて……、案の定、懐かれた。何でか知らないが、俺は年寄りと小動物には好かれる。おまけに、名前は『知香』だそうだ。俺の名前を聞いたら、チカちゃんでお揃いだ、と喜んでいる。
「君がただ、あいつの息子ってだけなら……、嫁に押し付けるのだが……」
社長と、ついでに人事の宮部さんと、俺の母親は同期で仲も良かったらしい。その同期の息子ってだけなら、娘をくれるというのもすごい話だが、残念ながら……、社長の娘さんの祖父に当たる人物、つまり先代の会長は、俺の生物学上の父親だ。これが俺の『ちょっとした問題』で、最初は人事の宮部さんだけが知ってて、処遇に困ったあげく、同期の中でも最優秀の二人を拝み倒して、俺につけたって訳。その後社長にばれて、やたら広い部屋に引っ越しさせてくれたり、こんな風に自宅に呼んだりしてくれてる。
「君と一緒にいる、あの二人のどちらかは……、男兄弟はいるのかね。もしかして、うちに来て貰えるだろうか」
カオルには兄の環さんが、ユキには弟の美佐緒がいる。でもその前に、カオルとユキ自体が恋人関係にあって、おかげで俺が同じ部屋に居辛く思うときがあるとか、隙あらば俺もそっちの世界に引きずり込もうとしてる、なんて……、言えない。
「どっちも兄弟はいたと思いますけど……」
たぶん、二人とも拒否すると思う……。詳しくは言えないけど……。
とりあえず。そんなこんながあって、夏休みも始まる。俺たちはちょっと奮発してグリーン車に乗って、大磯まで電車で出かけた。夏だし、着替えと言っても大したこともなくて、荷物は少ない。迎えの車が来ているはずだったから、そのまま駅舎を出たんだが……。
俺たちの姿を見つけたらしく、黒い大型車が向かってきたと思ったら、ドアが開いて、セーラーカラーの上着に白いズボンの少年が出てくる。多分、少年だと思う……少女と言っても通りそうだが……、ユキの弟の美佐緒だ。
「よう。美佐緒」
カオルが声をかけたら、にっこり笑った。相変わらず、性別不明の可愛らしさだ。
「出かけるところ?」
ユキが愛想の欠片もない声で、弟に向かって訊く。
「えっ……あの、お迎えに……」
「誰の」
「優希お兄ちゃんたちが遊びに来るからって……」
気の毒なくらいに動揺しているが、ユキは大人げなく言い放った。
「帰ろう。カオル、チカも」
ぽつんと立っている美佐緒を置いて、本当に駅に向かって戻り出す。
「おいユキ、いくら何でも……」
カオルがユキを追って歩き出し、俺は逆に、美佐緒に歩み寄った。それに気づいたカオルが、今度は俺を呼ぶ。
「チカ?」
さすがのユキもこっちを向いたらしいが、俺は気づいてなかった。ただ、美佐緒が可哀想に思えたんだ。
「美佐緒」
「チカお兄ちゃん……」
涙が溢れそうな瞳を上げて、俺を見る。きらきら光って、艶っぽくも見えるが……。
「そいつから離れろ! チカ!」
鋭いユキの声に怯えて身体を固くする美佐緒を、俺は両腕で包んでやった。
「お前、優希お兄ちゃんが大好きなんだろ?」
「うっ……、うあああぁん」
美佐緒が声を上げて泣き出す。それでも引き剥がそうとしたユキを、俺が止めた。
「前にも言っただろ。美佐緒はユキが好きなだけなんだって。ユキに気に入られたいから……、えっと、俺にはよくわかんねえけど、可愛がられる側、っぽく振る舞って……」
もしかしたら、実際の行為なり何かが伴ったのかもしれない。そしてそれが習い性となり、他の人間をも引き込んだのかもしれない。しかし、俺が邪推することではない。それよりも、ユキと美佐緒の関係が、前会長の娘さんと、俺の関係に重なる。もしも自分が、その家に引き取られていたなら。きっと、嫌われても嫌われても、おねえちゃん、と呼んで近寄って行っただろうと思う。
「そいつは、チカみたいないい子じゃない。性悪で、ドMで、大人を振り回して歓んでいるようなやつだ」
「美佐緒。優希お兄ちゃんは口が悪いなあ。顔はとっても綺麗だし、頭もすっごくいいのにな」
「うん……、ぐしゅっ……」
泣きすぎて一度咳き込み、それから、美佐緒は顔を上げた。自分でこすった鼻が、赤い。
「ちゃんと、自分で言え」
俺に促されて、美佐緒は口を開く。
「ボク、優希お兄ちゃんが大好きなんだ」
「そっか。えらいぞ」
「ああ、そう。僕はあんまり子供には興味ないけど、じゃ、後で寝室においで。泣いても叫んでも、歓んでると受け取るから覚悟してね。それから、おねだりは通用しないから、」
「ユキ。誰も聞いてないし、そんなに露悪的なことは言わなくても……」
カオルに言われて、ユキは口をつぐむ。確かに俺も美佐緒も、へらへら笑ってるだけで、ユキの話は聞いてなかった。