何を言っても聞かない婚約者は、私の沈黙を愛情だと思っていたらしい
私が何も言わなくなったのは、婚約者を信頼するようになったからではない。
何を言っても、最後まで聞いてもらえないと分かったからだ。
「セシリア、来月の王宮舞踏会だけど、青いドレスを用意しておいたよ」
王立学院の中庭でそう言われ、セシリア・アルノーは読んでいた本から顔を上げた。向かいに座る婚約者のヴィクトル・ハーグレイヴは、いつものように満足そうに微笑んでいる。
「来月の舞踏会には、私は――」
「分かってる。人が多い場所は疲れるんだろう? だから控え室に近い席も頼んでおいた。途中で休めるようにね」
「そうではなくて、私はその日――」
「大丈夫。君が無理をしないよう、僕がずっとそばにいるよ」
ヴィクトルは優しく言い、セシリアの手元にあった本へ目を落とした。
「また外国語の本? 本当に好きだね」
「これは北方連盟の法令集です。来月、王立文書院の採用試験があるので、その準備を――」
「ああ、その話か」
彼は朗らかに笑った。
「そんなに頑張らなくてもいいよ。結婚したら文書院で働く必要なんてないんだから」
セシリアは口を閉じた。
まただった。
ヴィクトルは悪い人ではない。
むしろ世間では、かなり評判のいい青年だった。公爵家の次男で、王立学院では常に上位の成績を保ち、剣術にも長けている。誰に対しても礼儀正しく、困っている人を見れば進んで手を貸す。
整った容姿もあって、彼との婚約を羨ましがる令嬢は少なくなかった。セシリアの両親も、娘は幸運だと何度も言った。
セシリア自身も、十二歳で婚約したころはそう思っていた。
ヴィクトルはよく話す少年だった。王都で見た珍しい店のこと、新しく習った剣技のこと、兄と喧嘩したことまで、何でも楽しそうに話した。
セシリアは聞くことが嫌いではなかった。
だから最初のうちは、二人はうまくいっていたのだと思う。
問題に気づいたのは、十五歳を過ぎたころだった。
ヴィクトルは、セシリアの話を聞いているようで、聞いていなかった。
◇
「今度の休日、湖へ行こう」
そう誘われたのは二年前の春だった。
「ごめんなさい。次の休日は祖母の――」
「分かってる。馬車で遠出するのが心配なんだろう? 今回は僕の家の馬車を使うから大丈夫だよ」
「違います。祖母の誕生日なので――」
「帰りは暗くなる前に戻る。伯爵にも僕から話しておくよ」
「だから、私は――」
「きっと楽しいよ」
ヴィクトルは笑った。
結局その日は、セシリアが父に直接頼んで湖行きを断ってもらった。
後日、ヴィクトルは少し寂しそうに言った。
「そこまでお祖母様の誕生日を大切にしているとは思わなかった。最初からそう言ってくれればよかったのに」
セシリアは、最初から言った。
でも彼の記憶では、セシリアは遠出を不安がっていたことになっていた。
別の日には、髪飾りを贈られた。
「君には真珠が似合うと思って」
「ありがとうございます。でも、私、髪飾りはあまり――」
「派手なものが苦手なのは知ってる。だから小さいものを選んだんだ」
「そうではなくて、頭が痛くなりやすいので、普段はつけないように――」
「軽いものだから大丈夫だよ」
それから一か月ほど、会うたびに「どうしてつけてくれないの?」と聞かれた。
頭が痛くなるから。
何度答えても、ヴィクトルは「遠慮しなくていいのに」と笑った。
十六歳の冬には、もっとはっきり言った。
「ヴィクトル様。お願いがあります」
「何?」
「私の話を、最後まで聞いていただけませんか」
彼は目を丸くした。
「聞いてるよ?」
「途中で、私が何を言いたいのか決めないでほしいのです」
「決めてなんかいないよ」
「先ほども、私は王立文書院で働きたいと申し上げようとしました。でもヴィクトル様は、結婚後に働く必要はないと――」
「だって君は不安なんだろう?」
「何がですか?」
「採用試験が難しいと聞いてるから」
セシリアはしばらく彼を見た。
「不安ではありません」
「無理しなくていい。君は昔から、心配なことがあっても大丈夫なふりをするから」
「私は働きたいのです」
「分かってる。外国語を使いたいんだよね? 結婚したあとも、僕の仕事を手伝えばいいじゃないか。うちは国外との取引もあるし、君の得意なことはきっと役に立つ」
「私は、文書院で――」
「それに家でできるなら、子どもが生まれてからも続けられる」
そこまで聞いたところで、セシリアは何も言わなくなった。
ヴィクトルは安心したように笑った。
「ね? その方がいいだろう」
セシリアは返事をしなかった。
彼はそれを、賛成だと思ったらしい。
◇
「ヴィクトル様は、あなたのことを本当によく分かっていらっしゃるわね」
母からそう言われたとき、セシリアはどう答えればいいのか分からなかった。
夕食後の居間で、母は届いたばかりの布地を広げている。春の結婚式に向けて、少しずつ準備を始めているのだという。
「お母様。結婚式は来年の秋ではなかったのですか」
「春に早まったのよ」
母は驚いたように顔を上げた。
「聞いていないの?」
「初めて聞きました」
「あら。ヴィクトル様が、春の方があなたも喜ぶだろうと。セシリアは春の花が好きでしょう?」
「春の花は好きですけれど、それと結婚式は別です」
「でも、卒業してすぐの方が区切りもいいわ」
「私は卒業後、王立文書院で働きたいと何度も――」
「その話、まだ考えていたの?」
母の声に悪意はなかった。
むしろ、困った娘を見るような顔だった。
「ヴィクトル様ほどの方に嫁ぐのに、どうして役所勤めをする必要があるの。外国語なら公爵家でも使えるでしょう?」
「必要があるから働きたいのではありません。私は――」
「分かっているわ。勉強してきたものを無駄にしたくないのよね。でも無駄にはならないわよ。あなたならきっと、ヴィクトル様のお仕事を立派に支えられるもの」
セシリアは口を閉じた。
母も同じだった。
自分が話し終える前に、答えが決まっている。
「ヴィクトル様も言っていたわ。あなたは自分から希望を言うのが苦手だから、僕が先に考えてあげなくてはいけないって。本当に大切にされているのね」
セシリアは膝の上で手を組んだ。
「私、自分から希望を言っていませんか?」
「え?」
「私は、何も言っていないように見えますか?」
母は少し考え、それから笑った。
「昔からおとなしい子だったものね。でも、それでいいのよ。ヴィクトル様があなたの気持ちをよく分かってくださるのだから」
違う。
そう言おうとして、やめた。
言っても、同じだと思った。
それからセシリアは、本当に話さなくなった。
ヴィクトルに何を食べたいか聞かれれば、「お任せします」と答えた。
舞踏会の予定を告げられれば、「承知しました」。
新居の家具について聞かれれば、「お好きなように」。
以前なら、自分の意見を言おうとしていた。
今はやめた。
どうせ途中で意味を変えられる。
黙っていた方が疲れなかった。
すると、ヴィクトルは以前より機嫌がよくなった。
「最近、僕たちすごくうまくいってると思わない?」
学院からの帰り道、彼が言った。
「そうですか」
「前は君もいろいろ不安だったんだろうけど、最近は僕に任せてくれるようになった。ようやく僕を信頼してくれた気がするよ」
「……」
「君は口数が少ないけど、僕には分かる。昔からずっと見てきたから」
セシリアは窓の外を見た。
馬車が大通りを進んでいる。
「何も言わなくても通じるって、こういうことなんだろうね」
ヴィクトルは嬉しそうだった。
セシリアは、その日初めて思った。
この人とは、結婚できない。
◇
王立文書院の採用試験は、予定通り受けた。
家族にもヴィクトルにも言わなかった。
筆記試験では、王国語から北方語への翻訳と、北方語で書かれた条約文の要約が出た。面接では三人の試験官から、なぜ文書院で働きたいのかを聞かれた。
「外国とのやり取りに関わる仕事がしたいからです」
答えたあと、セシリアは少し身構えた。
理由はそれだけか。
公爵家へ嫁ぐのに必要なのか。
女性が長く続けられると思っているのか。
そんな言葉が返ってくる気がした。
けれど中央に座る年配の女性試験官は、紙に何かを書いてから顔を上げただけだった。
「具体的には、どの分野に興味がありますか?」
セシリアは瞬きをした。
「……通商条約です」
「理由は?」
「同じ言葉でも、国によって商習慣が違います。訳として正しくても、実際の運用では意味が変わってしまうことがあって……」
途中まで話したところで、一度口を閉じた。
試験官たちは黙っている。
続きを待っている。
セシリアは少し戸惑った。
「続けていいのですか?」
若い男性試験官が、不思議そうに眉を上げた。
「もちろん。そのための面接です」
「……失礼しました」
セシリアは話を続けた。
誰にも遮られなかった。
自分の言葉を最後まで口にするだけで、こんなに楽だったのかと思った。
二週間後、合格通知が届いた。
採用は学院卒業後。
最初の一年は研修官として働く。
通知書の最後には、採用を受けるなら一か月以内に署名して返送するよう書かれていた。
セシリアは自室の机に座り、その紙を長いあいだ見ていた。
春には結婚する。
その予定になっているらしい。
けれど、セシリアは一度も春に結婚したいと言っていない。
王立文書院で働きたいとは、何度も言った。
それなのに、自分以外の全員が前者を本当の未来だと思っている。
セシリアはペンを取った。
採用承諾書へ自分の名前を書く。
それから、新しい紙を一枚出した。
今度はヴィクトルへの手紙だった。
『お話ししたいことがあります。
今週末、アルノー伯爵家へお越しください。
私が話し終わるまで、一度も言葉を挟まずに聞いていただきたいです。
それができない場合、この話はそこで終わりにします。
セシリア・アルノー』
短い手紙だった。
これなら途中で意味を変えられることもないだろうと思った。
◇
「ずいぶん大げさだなあ」
週末、アルノー伯爵家の応接室で手紙を見せながら、ヴィクトルは笑った。
セシリアの父と母も同席している。
「二人の話なら、私たちは外した方がいいか?」
父が尋ねた。
「いえ。お父様とお母様にも聞いていただきたいです」
「分かった」
セシリアは一度息を吸った。
「では、話します」
「うん。文書院のことだろう? それなら――」
「ヴィクトル様」
セシリアは彼を見た。
「まだ、私は何も話していません」
「あ……」
「手紙に書いたとおりです。私が話し終わるまで、一度も言葉を挟まないでください」
「分かったよ。ごめん」
ヴィクトルは苦笑した。
セシリアはもう一度、最初から始めた。
「私は王立文書院の採用試験を受けました」
ヴィクトルの表情が変わる。
口を開きかけたが、セシリアが見ていることに気づいて閉じた。
「合格しました。学院卒業後は、文書院で働きます」
母が息を呑む。
父も驚いている。
「それから、春の結婚式には出ません」
「セシリア」
ヴィクトルが声を上げた。
セシリアは黙った。
「……あ」
「一度目ですね」
「いや、今のは驚いただけで」
「一度も言葉を挟まないでくださいと申し上げました」
「分かった。もう言わない」
セシリアは続けた。
「私は、ヴィクトル様との婚約を解消したいです」
今度は誰も声を出さなかった。
「突然のことだと思っていらっしゃるかもしれません。でも、私にとっては突然ではありません。私は何度も自分の希望を申し上げました。湖へ行けない理由も、髪飾りを使えない理由も、文書院で働きたいことも、春に結婚すると聞かされていなかったことも話しました」
ヴィクトルは顔をこわばらせている。
「でも、ヴィクトル様はいつも、私が最後まで話す前に、私が何を思っているのかを決めました。私が違うと言っても、それは遠慮だ、不安だ、照れているだけだと受け取りました」
「それは――」
ヴィクトルが言いかけ、口を押さえた。
二度目だった。
「私は、話すことを諦めました」
その言葉を口にすると、思っていたより胸が痛んだ。
怒りだけではなかった。
最初から嫌いだったわけではない。
昔は、一緒にいて楽しかった。
だからこそ何度も話そうとした。
「最近の私は、ヴィクトル様が決めたことに何も言わなくなりました。するとヴィクトル様は、私があなたを信頼するようになったと喜びました」
「……」
「違います。信頼したのではありません。何を言っても聞いてもらえないので、諦めただけです」
ヴィクトルの顔から、ゆっくり色が消えていった。
「私は、何も言わなくても分かってほしいと思ったことはありません。むしろ、分からないなら聞いてほしかった。私が話しているときは、最後まで聞いてほしかった。それだけです」
部屋は静かだった。
セシリアは父と母にも目を向ける。
「お父様、お母様にも同じです。私は文書院で働きたいと何度も言いました。でも、お二人はヴィクトル様の仕事を手伝えばいい、結婚後にも役立つと言いました」
母が目を伏せた。
「私は、誰かのために外国語を学んだのではありません。自分がやりたかったから勉強しました。そして、自分で選んだ場所で使いたいのです」
全部言った。
今度こそ、最後まで。
セシリアは息を吐いた。
「以上です」
ヴィクトルが顔を上げた。
「……もう、話していい?」
「はい」
「君は、本当に僕と結婚したくないの?」
「はい」
「少し時間を置いても?」
「気持ちは変わりません」
「文書院で働くことを認めると言っても?」
セシリアは首を振った。
「その言い方が、もう違うのです」
「え?」
「私が働くことに、ヴィクトル様の許可が必要だと思っているでしょう?」
彼が黙った。
「私は、あなたに働かせてもらいたいのではありません」
「でも結婚したら、家のこともある。夫婦なら、お互い相談して――」
「はい。相談は必要だと思います」
「だったら」
「相談とは、一人が相手の答えを決めることではありません」
ヴィクトルは何も言わなくなった。
父が長く息を吐いた。
「セシリア。お前がそこまで考えていたとは知らなかった」
「何度か、お話ししました」
「……そうだな」
父は苦い顔をした。
母も膝の上で手を握っている。
「私、あなたがおとなしいから、てっきり……」
「以前は、もっと話していました」
母の顔がこわばった。
それ以上、責めるつもりはなかった。
セシリアが欲しいのは謝罪ではなく、婚約を終わらせることだった。
その日の話し合いだけで、正式に婚約が解消されたわけではない。
両家の間で話し合いが必要だった。
けれどヴィクトルの父であるハーグレイヴ公爵は、事情を聞くと意外なほどあっさり承諾した。
「本人が望まない婚姻を結ばせても、長続きはしない」
そう言ったらしい。
セシリアの父も、最終的には反対しなかった。
春の結婚式はなくなった。
注文していた布地の一部は別の用途へ回され、招待客へ送る前だった案内状は処分された。
大きな騒ぎになりそうで、実際にはそれほどでもなかった。
セシリアは学院へ通い、卒業試験の準備をし、文書院へ提出する書類を揃えた。
自分の人生が、思っていたより普通に続いていくことが少し不思議だった。
◇
婚約解消から一か月後、ヴィクトルは姉のクラリッサに呼び出された。
「あなた、セシリアに『何も言わなくても分かる』なんて言っていたそうね」
公爵家の居間で紅茶を飲みながら、姉は呆れた顔をした。
「……言った」
「何が分かっていたの?」
「それは」
答えられなかった。
クラリッサはため息をつく。
「私、昔からあなたのそれが嫌いだったのよ」
「姉上まで?」
「私が『今日は一人で買い物へ行きたい』と言ったとき、『荷物を持つ人が必要なんだね』と言ってついてきたでしょう」
「そんな昔のこと」
「三年前よ」
「……」
「母上が『今日は頭が痛いから静かにして』と言った日に、元気が出ると思って音楽家を呼んだこともあったわね」
「あれは喜ぶと思って」
「だから、それよ」
クラリッサはカップを置いた。
「あなたは相手が言ったことより、自分が考えた『本当はこうしてほしいはず』を信じるの」
「でも、悪気はなかった」
「悪気がないことと、嫌がられていないことは別でしょう」
セシリアにも同じことを言われた。
ヴィクトルは黙った。
「彼女は昔から何も言わなかったわけではないでしょう?」
「……最近は、僕に任せてくれていた」
「諦めていたんですってね」
「聞いたのか」
「母上から」
クラリッサは弟をしばらく見たあと、少し声を弱めた。
「つらいでしょうけど、そこはちゃんと覚えておいた方がいいわ。次に誰かを大切にしたいと思ったとき、同じことをしないために」
「次なんて考えられない」
「今はそれでいいんじゃない」
姉はそれ以上慰めなかった。
ヴィクトルはその日の夜、自室で一通の手紙を書いた。
何度も書き直した。
『君を傷つけるつもりはなかった』
と書いて、消した。
それは結局、自分の事情だと思った。
『君のためを思っていた』
とも書いた。
それも消した。
最後に残ったのは、短い文章だった。
『セシリアへ。
君が何度も話してくれていたのに、聞いていなかったことを今になって分かりました。
申し訳ありませんでした。
返事は必要ありません。
王立文書院での仕事が、君の望んだものになることを願っています。
ヴィクトル』
返事は来なかった。
ヴィクトルは、今度はそれを自分に都合よく解釈しなかった。
◇
学院を卒業した春、セシリアは王立文書院で働き始めた。
文書院は王宮の東側にある、三階建ての古い建物だった。
華やかな場所ではない。一日中、紙とインクの匂いがする。届いた文書を分類し、必要なものを訳し、過去の条約と照らし合わせる。研修官の仕事には写しを作るような地味な作業も多かった。
それでもセシリアは楽しかった。
最初に任されたのは、北方連盟から送られてきた羊毛の輸入規則の翻訳だった。
たった六枚。
大きな外交問題でも何でもない。
それでも自分の机で、仕事として外国語を読んでいる。
それだけで十分だった。
「アルノーさん。ここの訳、どう思います?」
三か月ほど経ったころ、隣の席の青年から声をかけられた。
エリオット・レイン。
セシリアより二歳上の文書官で、北方語を担当している。
「どこですか?」
「この『共同管理地』。そのまま訳すと意味がずれる気がして」
セシリアは差し出された紙を見る。
「これは共同管理というより、放牧権を複数の村が持っている土地だと思います。以前の協定書では――」
「ああ、ちょっと待って」
エリオットが口を挟んだ。
セシリアの肩が反射的に固くなる。
彼は棚から古い文書を一冊持って戻ってきた。
「ごめん。途中だったね。続けて」
「……え?」
「以前の協定書では?」
セシリアは彼を見た。
「私が何を言おうとしていたか、分からないのですか?」
「分からないよ。まだ聞いてないから」
あまりにも普通に言われた。
セシリアは一瞬、返す言葉を失った。
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
「そう?」
エリオットは急かさずに待っている。
セシリアは文書へ視線を戻した。
「以前の協定書では、『共同牧草地』と訳されていました。ただ今回の文書では村ではなく商会にも権利があるので、同じ訳では誤解が出ると思います」
「なるほど」
彼は最後まで聞いた。
そして少し考えてから、
「じゃあ『共同利用地』ならどう?」
と聞いた。
「それなら近いと思います」
「よし。それで上に相談してみる」
話はそれだけだった。
なのに、その日セシリアは帰宅するまで何度もその会話を思い出した。
分からないから、聞く。
最後まで聞いてから、自分の意見を言う。
それは本来、ごく普通のことだった。
◇
エリオットとは、仕事を通して少しずつ話すようになった。
彼はよく質問をした。
「昼、何食べたい?」
「市場の方へ行きたいです」
「何か買うの?」
「焼きたての薄焼きパンが食べたいので」
「分かった。じゃあ市場」
それで終わる。
ある日、雨が降った。
「馬車で送ろうか?」
「今日は歩いて帰りたいです」
「雨なのに?」
「新しい靴が雨の日でも滑らないか試したいので」
「変な理由だな」
「そうですか?」
「でも分かった。転ばないようにね」
ついてこなかった。
セシリアは少し笑った。
そのうち自分でも気づいた。
以前より、よく話すようになっていた。
文書院では仕事の意見を言う。
昼食では食べたいものを言う。
行きたくない集まりには行かないと言う。
誰かが反対することもある。
でも、反対されることと、最初から聞いてもらえないことは違った。
意見が違っても、自分の言葉がそこに存在している。
セシリアが欲しかったのは、それだった。
一年目の終わり、正式な文書官への昇任が決まった。
父と母に報告すると、父は素直に喜んだ。
「よく頑張ったな」
「ありがとうございます」
母は少し複雑そうな顔をしたあと、
「仕事は楽しい?」
と聞いた。
「はい」
「そう」
それだけだった。
以前なら、「でも結婚したら」と続いただろう。
母は何も言わなかった。
それが嬉しかった。
◇
ヴィクトルと再会したのは、婚約を解消してから二年後だった。
北方連盟との交易会議が王宮で開かれ、セシリアは文書官として通訳補助を担当していた。
会議室の外へ出たところで、向こうからヴィクトルが歩いてきた。
彼も公爵家の仕事で来ていたらしい。
二人とも足を止めた。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
以前なら気まずかったかもしれない。
けれど今は、思ったより何も感じなかった。
「文書院で働いているって聞いてた」
「はい」
「今日も通訳?」
「補助です。主担当は別の方です」
「そうなんだ」
ヴィクトルはそこで黙った。
セシリアは少し驚いた。
昔なら、「君なら主担当でもできるよ」と勝手に話を進めたかもしれない。
「仕事、楽しい?」
「楽しいです」
「そっか」
また黙る。
やがて彼は小さく笑った。
「前なら、ここで僕が勝手に続きを言ってたんだろうな」
「そうかもしれません」
「姉上に今でも言われるよ。『最後まで聞け』って」
セシリアも少し笑った。
「良いお姉様ですね」
「厳しいけどね」
廊下の向こうから、ヴィクトルを呼ぶ声がした。
「じゃあ、行くよ」
「はい」
「セシリア」
「何でしょう」
彼は何かを言おうとして、少し迷った。
「……いや。元気そうでよかった」
「ヴィクトル様も」
二人は別々の方向へ歩いた。
それでよかった。
昔のことが消えたわけではない。
婚約をやり直したいとも思わない。
でも、もう彼の声を聞くだけで疲れることもなかった。
◇
その日の仕事が終わると、王宮の門の近くでエリオットが待っていた。
「遅かったね」
「会議後の書類整理がありました」
「腹減ってる?」
「少し」
「食べて帰る?」
セシリアは頷きかけて、やめた。
このところ、エリオットと二人で食事をすることが増えている。一緒にいるのは楽しい。でも最近、少しだけ気になっていることがあった。
「エリオットさん」
「うん?」
「私たちは、どういう関係なのでしょうか」
彼が固まった。
「……急だな」
「すみません」
「いや、聞いたのはこっちだから。最後までどうぞ」
セシリアは笑いそうになった。
「私は、あなたと一緒にいることが好きです。でも、このまま友人として過ごしたいのか、その先を考えているのか、自分でもまだよく分かりません」
「うん」
「エリオットさんは?」
「僕は、その先を考えてる」
思ったよりはっきりした答えだった。
「そうなのですか」
「うん。でも今すぐ答えをくれとは思ってないよ」
「どうして?」
「君がまだ分からないって言ったから」
それだけのことだった。
セシリアは少し考えた。
「では、考えてもいいですか」
「もちろん」
「どのくらい?」
「それを僕に聞くの?」
「……確かに」
二人で笑った。
結局その日は、いつもの食堂で夕食を食べた。
関係は昨日までと何も変わらない。
それでもセシリアには、何かが少し変わったように感じられた。
三週間後。
仕事を終えたセシリアは、エリオットの机の前で立ち止まった。
「少しいいですか」
「いいよ」
「この前の返事です」
彼は持っていたペンを置いた。
そして何も言わずに待つ。
「私も、あなたとその先を考えてみたいです」
エリオットは目を瞬いた。
「それは……」
一度口を開き、閉じる。
「何ですか?」
「いや。勝手に意味を足さない方がいいかなと思って」
セシリアは吹き出した。
「では、聞いてください」
「うん」
「恋人として、お付き合いしてください」
今度は、最後まで言えた。
「はい」
エリオットは笑った。
「喜んで」
◇
さらに二年が過ぎた。
セシリアは二十三歳になり、文書院では北方語の正式担当者の一人になっていた。
エリオットとは今も一緒にいる。
喧嘩もする。
翻訳の考え方が合わず、昼休みまで議論したこともある。旅行先について意見が割れ、結局どちらにも行かなかった年もあった。
でも不思議と苦しくはなかった。
言いたいことを言えるからだ。
相手が自分と違う答えを持っていても、それで自分の答えが消えるわけではない。
そのことを、セシリアはようやく知った。
春の休日。
二人は王都の外れにある小さな庭園を歩いていた。
白い花が咲き始めている。
「セシリア」
「はい」
「聞きたいことがある」
エリオットが立ち止まった。
少し緊張しているように見える。
「何でしょう」
「僕と結婚してほしい」
予想していた。
それでも胸が高鳴った。
エリオットは続けない。
「文書院を辞めなくていい」とも、「家のことは僕がする」とも、「きっと幸せにする」とも言わない。
ただ、セシリアを見る。
返事を待っている。
「……それだけですか?」
「何が?」
「条件とか」
「結婚について決めないといけないことは山ほどあるだろうけど、それは二人で話せばいい。今聞いてるのは、僕と結婚したいかどうかだけ」
セシリアは白い花を見た。
春の花は昔から好きだった。
だからといって春に結婚したいとは限らない。
外国語が好きだからといって、夫の仕事を手伝いたいわけでもない。
黙っているからといって、賛成しているわけでもない。
そんな当たり前のことを理解してもらうために、ずいぶん遠回りをした。
「はい」
セシリアはエリオットを見る。
「あなたと結婚したいです」
「本当に?」
「今、私がそう言ったでしょう?」
「言った」
「では、信じてください」
「分かった」
エリオットが笑う。
セシリアも笑った。
結婚式はいつにするか。
どこに住むか。
仕事はどうするか。
家事をどう分けるか。
これから決めることはいくらでもある。
きっと意見が合わないこともあるだろう。
でも、それでいい。
何も言わなくても分かってくれる人が欲しかったわけではない。
分からないときに、勝手に決めず、聞いてくれる人がよかった。
そして自分も、相手の話を最後まで聞ける人でありたいと思う。
昔の婚約者は、セシリアが何も言わなくなったのを、自分への信頼だと思っていたらしい。
もっと前には、自分のことが好きだから任せてくれているのだとも思っていたのかもしれない。
違った。
セシリアはただ、話すことを諦めていただけだった。
今はもう違う。
言いたいことがあれば言う。
嫌なら嫌だと言う。
分からなければ聞く。
そして相手の答えも、最後まで聞く。
それだけのことだった。
けれどセシリアにとっては、その当たり前を手に入れるまでに、ずいぶん時間がかかった。
「ところで」
庭園を歩き出したあと、エリオットが言った。
「結婚式、春がいい?」
セシリアは少し考えた。
「秋がいいです」
「理由は?」
「料理がおいしいので」
「そこ?」
「大事です」
「分かった。じゃあ秋で考えよう」
「エリオットさんは春がよかったのですか?」
「僕は冬以外ならいつでも」
「では、秋ですね」
「うん」
あっさり決まった。
セシリアは彼の隣を歩きながら、少しだけ笑った。
自分の言葉が、ちゃんと自分のものとして届く。
それはきっと、特別なことではない。
でも今のセシリアには、それで十分だった。
お読みいただきありがとうございました!
セシリアの物語を楽しんでいただけましたら、ページ下の★★★★★評価や感想、リアクションで応援していただけると嬉しいです。




