1.塔の主と契約の花嫁
塔の主と契約の花嫁
アメリア・クリフォードが、王都から遥か離れた『銀灰の塔』に送られたのは、暑さがまだ残る初秋のことだった。
「くれぐれも、ノックス侯のご迷惑にならぬようになさい。そして、契約期間、1年以内に、捨てられるような恥さらしなことは、しないこと。お前のような者に残された道は、それしかないのだから」
馬車を降りる際、義母の吐き捨てた言葉が、アメリアの耳の奥でまだ響いている。
伯爵家を継ぐことのできない娘のアメリアは、社交界でも地味で目立たず、このまま厄介払いされるのは時間の問題だった。
そして、この『契約結婚』は、義母にとって願ってもない手離し方だったのである。
契約の相手は、王都で「銀灰塔の主」として知られる、稀代の魔術師、アークライト・ノックス。
彼の魔術の才能は群を抜くが、あまりに強大な魔力のせいで、その生活は常に破綻しているという。使用人が次々と逃げ出す、悪名高い奇人。その『館』は、周囲に常に魔力の霧が立ち込め、灰色のモヤの中に佇んでいた。
「迎えが、少なくて申し訳ありません」
出迎えたの老執事が申し訳なさそうにアメリアに謝ったが、アメリアはただ静かに微笑んだ。
「いいえ。私にとっては、静かで、誰にも邪魔されない場所があるだけで、十分幸せでございます」
誰にも期待されず、誰にも求められない。そんな場所で、静かにひっそりと暮らせるなら、それこそが望みだった。
老執事に促され、アメリアは館の重い扉をくぐった。
瞬間、カビの臭いと、焦げ付いた薬品の臭いが鼻腔を衝く。室内は暗く、家具には分厚い埃が積もり、床には謎の実験具や古文書が散乱している。まるで、何十年も時間が止まったままの廃墟のようだった。
「……驚かれたでしょう。使用人が、定着せずこの有様です。私、一人では、とても手がまわらないのです。」
老執事が謝罪する中、アメリアは心の底で小さく息を吐いた。
(ああ、これなら……)
これなら、自分の力が存分に発揮できる。
アメリアが得意とする魔術は、攻撃でも、回復でも、ましてや予知でもない。この世界では取るに足らないとされ、魔術師として評価されない、あまりに地味な魔術だった。
それは――「生活魔術」。
「私が、お役に立てると思います」
アメリアは小さく呟くと、まず廊下に散らばった古文書を踏まないよう、端に寄せた。そして、手のひらに魔力を集中させる。
シュウ……
魔力の光は控えめで、一瞬で消える。だが、その光が触れた床や壁の埃、カビ、そして凝り固まった汚れは、一瞬で清浄され、輝きを取り戻した。
「これは……!?」
老騎士が目を丸くする。
アメリアは躊躇せず、館の奥へ進む。広大な館を隅々まで清めなければならない。
掃除、洗濯、料理、整頓。全てにおいて規格外の威力を発揮する彼女の魔術は、この『銀灰の塔の主』の館を、静かで心地よい『棲家』に変えるために起動した。
その頃、館の最上階。
最強の魔術師、アークライト・ノックスは、実験の失敗で顔に煤をつけながら、苛立ちを覚えていた。
「ちっ。まただ。魔力制御が乱れる。この不快感では、新たな術式に集中できん」
彼の館が荒れるのは、単なる彼のズボラさではない。彼の強大すぎる魔力が、常に周囲の空間を干渉し、塵を呼び、物を腐らせ、秩序を破壊する。使用人も、彼の魔力により、魔力酔いを起こし、長く塔にはいられなかった。そして、魔力酔いを起こさなかったのは、老執事のシロイだけだったのだ。
彼にとって、この世界は常に「雑音」に満ちていた。
だが、その日。魔術師が新たな術式を紙に書き付けていると、不意に、鼻の奥に、心地よい『静寂』の匂いがした。
「……静かだ」
数年ぶりに、自身の強大な魔力による不快な雑音が消えたような、澄んだ感覚。
アークライトは、研究室のドアを開け放った。外の廊下が、魔力の霧が晴れ、夕陽に照らされて光を放っている。
そして、その廊下の隅で、一人の地味で小さな令嬢が、まるで水浴びをするかのように、シーツを空中に浮かせて、静かに洗浄魔術を使っている姿を発見した。
彼女こそが、彼の『契約の花嫁』、アメリア・クリフォード。
アークライトの、『研究者』の目が、初めて、彼女という「異常現象」に釘付けになったのだった。
アークライトは、研究室の扉にもたれかかったまま、動かなかった。
彼はその澄んだ瞳を、まるで珍しい鉱物でも見つけたかのように、アメリアに集中させていた。
「おい、そこの女」
冷たく、しかし、底知れない興味を秘めた声が、静かな廊下に響く。
アメリアは驚いて振り向いた。
その顔は、掃除で少し汗ばんでいるが、目の前の男の圧倒的な存在感に、微かに顔を強張らせた。
目の前の魔術師は、噂に違わず、整った顔立ちをしていた。
銀色の髪は放っておかれているためか少し跳ねているが、それすら孤高の美しさを際立たせている。
だが、その瞳は常人には理解できない知識への渇望に満ち、まるで人間性を欠いた彫刻のようだった。
「ノックス様……アメリア・クリフォードでございます。本日より、契約に基づきまして、身の回りのお世話をさせていただきます」
アメリアは淑やかに膝を折った。
契約書には、彼の生活空間を整えることが明記されている。
「その力はなんだ」
アークライトは問うた。
「何の術式だ」
「これは……生活魔術でございます。主に清掃や家事の手助けに使う、ごく初歩的な魔術です」
「初歩的?」
アークライトはフン、と鼻で笑った。
「その『初歩的な魔術』で、この館の魔力の乱れが鎮まった。私の研究室の術式まで安定した。お前は、自覚がないのか?それとも、私を欺いているのか?」
アメリアは戸惑った。
彼女の生活魔術に、アークライトの強大な魔力を鎮める効果があるなど、全く知らなかったからだ。
「わ、わたくしには、ただ掃除をしていただけで……」
「気づいていないようだな。これほどに空間の『秩序』を回復させる魔術を、私は見たことがない」
アークライトはゆっくりとアメリアに近づいた。
その歩みは遅いが、まるで巨大な影が覆いかぶさってくるようだ。
彼はアメリアの顔の側で立ち止まり、その灰色の瞳をじっと見つめる。
「いいか、アメリア・クリフォード。お前の存在は、私の研究にとって最高の『被検体』となる可能性がある」
「被検体……」
「その契約内容を変更する。お前は今後、私の『研究対象』だ」
アメリアは息を飲んだ。研究対象とは、まるで実験動物のような響きではないか。
「ただし、対価は払う。私の身の回りの世話をするという契約は変わらない。加えて、お前の望む限りの『静寂』と『快適な生活』を保障しよう」
アークライトはそう言うと、彼女の小さな手に、館の全ての鍵を握らせた。
「この館は、今日からお前の好きにしていい。快適に過ごせるようにしろ。条件は、特に細かくは言わないが、私から逃げることは許さない。もし逃げるようなことがあれば……」
言葉はそこで途切れたが、彼の瞳の奥に見えた冷たい光は、「容赦しない」と物語っていた。
翌日から、アメリアの快適な「研究対象」としての生活が始まった。
アークライトは本当に、彼女の生活に一切の干渉をしなかった。
研究に没頭し、食事の受け渡しで、時折顔を合わせることはあるが、何日も部屋に籠りきりになる。
アメリアは彼の言う通り、館をさらに快適にしていった。
清潔になった館には、日が差し込み、空気は澄んでいる。
アメリアは古い書庫で静かに本を読み、館の隅の小さな庭でハーブを育て、丁寧に紅茶を淹れた。
三日目。
アメリアは、塔の最上階にある研究室の前で戸惑っていた。彼は三日間、何も口にしていない。
扉を叩くと、中から怒鳴り声がした。
「邪魔をするな!今、重要な術式が……」
「あの、ノックス様。お食事を。冷たいままでも召し上がれるように、スープと焼きたてのパンをご用意いたしました」
「いらん!」
しかし、アメリアは扉の隙間から、彼のために心を込めて作った「癒やしのスープ」を差し込んだ。
そのスープには、書庫の知識と生活魔術で抽出した、疲労回復に特化したハーブの香りが含まれていた。
しばらくして。
扉がギギッと音を立てて開いた。アークライトは疲労困憊の表情で、手にスープのボウルを持っている。
「これは、なんだ」
「恐れ入ります。ただのスープでございます」
「ただのスープで、これほどまでに魔力の乱れが鎮まるなどありえない。何を入れた?」
アークライトは尋問するように問うたが、彼の喉が、ごくりと音を立てる。その目には、不快感ではなく、「興味」が浮かんでいた。
アメリアはそっとお盆を引き取った。
「お気に召しませんでしたか?」
アークライトは答えない。
ただ、ボウルを握りしめたまま、数日間ろくに寝ていないその体で、アメリアの顔をじっと見つめていた。
(アメリアの影響は、大きい。研究が捗り、心身の不快感が消えた。手放すわけにはいかない)
最強の魔術師の心に芽生えたのは、研究者としての異常な独占欲と――まだ彼自身が気づいていない、静かで温かい、初めての愛着だった。




