第2章 第4話:監査侯爵の批判と、背水の増員指令
愛梨が心の壁を築いた翌朝、館の空気はさらに冷え込んでいた。愛梨の魔力の異常な回復は外見上は安定したが、その引き換えに彼女の顔からは人間的な感情の光が失せていた。
謁見の間。ベリトは執事頭として玉座の前に立ち、愛梨は彼の背後、わずかに距離を取って控えていた。その立ち姿は昨日までとは比べ物にならないほど完璧に訓練されており、もはや誰から見ても、冷徹な主人に服従する優秀な供物のそれだった。
軍務侯爵エリオンは、その様子を観察し、穏やかな微笑みを深くした。
「ベリト様。供物の魔力経路の乱れが収束し、安定していることを確認いたしました。さすがは執事頭。迅速な対処に感服いたします」
エリオンは一見、ベリトを褒め称えた。しかし、その声は謁見の間に響き渡り、他の執事たちの注目を集めた後、すぐに批判へと転じた。
「しかしながら、ベリト様。館の守護戦力の不足について、再三警告しております」
エリオンは、館の守護戦力の現状を示した精密な魔力図を差し出した。それは、彼の**【魔力監査】**の能力によるものだった。
「ご承知の通り、当館の守護を担う悪魔執事の数は、近隣の伯爵領に比べ、極めて危険な水準にあります。最近、館の結界付近で異質な力場の痕跡が確認されています。これは、館が外部の脅威、具体的には天使の介入に対し、極めて無防備である証拠です」
エリオンは恭しく頭を下げた。
「執事頭は、館の安全確保を最優先すべき責務をお持ちです。この守護戦力の不足は、職務怠慢に他なりません。監査侯爵として、直ちに悪魔執事の増員を強く進言いたします」
エリオンの批判は、すべて論理的かつデータに基づいており、ベリトの正当性を揺るがすには十分だった。他の執事たちも、不安な眼差しでベリトを見つめる。
ベリトは、その黄金の瞳を動かすことなく、静かにエリオンを見据えた。彼の声は低く、感情を感じさせない。
「エリオン侯爵。貴様の指摘、正当であると認めよう」
その言葉に、エリオンの瞳が勝利の光を帯びた。彼の策略通り、ベリトは批判を受け入れた。これで、ベリトは増員計画のすべてをエリオンの監査下に置かざるを得なくなる。
「この緊急事態を鑑み、私は背水の増員指令を発令する」
ベリトは一歩前に踏み出し、謁見の間全体を見渡した。
「愛梨の魔力を安定させ、館の守護戦力を確保するため、私は愛梨と共に、悪魔執事の候補者を直接探す旅に出る。館の留守は、副執事ヴァサゴに任せる」
その言葉は、エリオンの予想を裏切るものだった。エリオンは、ベリトが自分を館から出すことで、増員計画を自分に任せ、間接的な権力を与えると読んでいた。しかし、ベリトは最も重要な**「愛梨」と「増員計画の実行」**を握ったまま、館を離れるという、最も危険だが最も効果的な策を選んだのだ。
「旅、でございますか」エリオンの微笑みがわずかに引き攣った。
「そうだ。侯爵。貴様は監査侯爵として、館の結界と治安維持の監査を続けよ。増員への具体的な助言は、帰還後に改めて聞く」ベリトは冷たく言い放った。「貴様には、私の留守中、館の平和を保つ義務がある。無用な争いなど起こすなよ」
ベリトは、エリオンが動く隙を与えず、愛梨に冷たい命令を下した。
「供物。旅の準備を整えろ。出発は明朝。手荷物は最小限にせよ。私の館に不要なものは、一つもない」
愛梨は、心に壁を築いているため、感情の揺らぎを見せることなく、ただ静かに一礼した。
「承知いたしました。ご主人様」
ベリトと愛梨は、エリオンの冷徹な視線を背中に受けながら、謁見の間を後にした。旅は、愛の秘密を守るための、背水の逃避行となった。館に残されたエリオンの瞳は、ベリトへの敵意と、愛梨への異常な執着で、冷たく燃え上がっていた。




