第2章第3話『愛が育む心の壁』
夜。ベリトの私室は、結界によって完全に外界から隔離されていた。ベリトは、昼間の冷徹な執事頭の顔を捨て、愛梨を強く抱きしめていた。その抱擁だけが、二人にとって唯一の真実であり、偽りの鎖から解放される瞬間だった。
「エリオンは、私たちの秘密に辿り着いた」
ベリトは、愛梨の髪に顔を埋め、苦しげに囁いた。
「お前の魔力の回復速度、清浄すぎる流れ……全てを奴は『愛』によるものだと断定している。悪魔の理屈ではありえないことだ。この館の誰にも、特に奴に、それを認めるわけにはいかない」
愛梨は、ベリトの胸元で顔を上げた。彼女の瞳は、昼間の憎しみの演技とは異なり、深い悲しみを湛えていた。
「わかっています。ベリト様。私の愛が、あなたの地位を、そして命を危険に晒している……」
「違う!」ベリトは愛梨の言葉を遮った。彼の黄金の瞳が、切実な光を放つ。
「お前の愛は、私を生かす唯一の源だ。私が恐れているのは、奴がお前の力を**『館を支配するための道具』**として利用しようとすることだ。奴はお前を、私から奪い、私を追い詰めるための武器とするだろう」
彼は愛梨を膝の上に抱き上げ、互いの額を合わせた。
「愛梨。今日から、私たちの**『契約』だけでは足りない。奴の【深層看破】や【魔力監査】は、お前の魂の真実を読み取ろうとする。お前の心の奥底にある私への献身的な愛が、奴らの目には魔力の源泉**として映ってしまう」
「では、どうすれば……」愛梨の声は震えていた。
ベリトは、愛する者に最も残酷な命令を下す覚悟を決めた。
「お前は、心の壁を築かなければならない。私に対する愛、執事たちへの親愛、人間としての優しさ――そのすべてを、お前の魂の奥底、決して触れられない場所に隠すのだ」
愛梨は息を飲んだ。それは、ベリトが最も恐れていることだった。愛梨が心の壁を築けば、ベリトでさえ、彼女の心の真実を読み取るのが難しくなる。それは、二人の間の深い信頼と愛を、自ら断ち切ることを意味していた。
「私が、心の壁を……私自身を、あなたから遠ざけるのですか?」
「そうだ。そうしなければ、奴はお前の心に入り込み、愛の力を利用する。そして、愛梨。壁は、私自身のためでもある」ベリトは苦痛に顔を歪ませた。「お前が憎しみを演じるたびに、私もその演技に引きずられ、本当に冷酷な支配者にならざるを得ない。その苦痛を耐えるためにも、お前は心を閉ざせ」
愛梨は、愛する人の苦悩と、自分への献身的な愛を感じ取った。彼を守るためなら、自分を偽り、心を凍らせることも厭わない。
「わか、りました。ベリト様」
愛梨は、ベリトの首に腕を回し、最後の抵抗のように、深く口付けた。それは、心の壁を築く前の、純粋な愛の行為だった。
「私は、あなたを守るために、心を偽ります。あなたが私を冷酷に支配するふりをしても、私の魂は決して揺るぎません」
愛梨は、ベリトの腕からゆっくりと離れ、部屋の隅へ静かに跪いた。そして、ベリトの黄金の瞳を見つめたまま、彼女の心は、ゆっくりと、しかし確かな音を立てて、閉じていった。瞳の奥にあった温かさが、淡い光に変わる。
その時、ベリトの頭の中に、冷たい情報が流れ込んだ。
「マスターの魔力源、一時的に不安定化。心の保護機構が作動中」
ベリトは、愛する者の心が自分から遠ざかるのを感じながら、その魔力の流れが外部から見て「正常」に戻りつつあることを確認した。
彼は、自らの手で愛の源を遠ざけた苦痛を飲み込み、執事頭としての冷静な声で、愛梨に告げた。
「愛梨。この館で生き残るため、そして天使の脅威に対抗するためには、新たな力が必要だ」
愛梨は無表情で、静かに答えた。「新たな力、ですか。それは、悪魔執事の増員を指しますか?」
「そうだ」ベリトは続けた。「エリオンの監視が厳しくなる前に、私はお前と共に、世界へ出なければならない。悪魔執事の候補を見つけ、お前の力を安定させなければ、館は崩壊する」
愛梨の心は壁に守られているはずだが、彼女の瞳が一瞬、わずかに揺れた。それは、**「冒険」**という言葉に反応した、人間としての本能だった。
「承知いたしました。それが、この館の、そしてあなた様の望みならば」
二人の心は遠ざかりながらも、愛する者を守るため、彼らは**「旅」**という名の背水の陣へと進む決意を固めた。




